2023年6月18日日曜日

20230618 中央公論新社刊 今井むつみ・秋田喜美著「言語の本質」 -ことばはどう生まれ、進化したかー pp.164‐165より抜粋

中央公論新社刊 今井むつみ・秋田喜美著「言語の本質」
-ことばはどう生まれ、進化したかー

pp.164‐165より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121027566
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121027566

実は、オノマトペの持つアイコン性には、二つの種類がある。一つは、ことばを覚える前の赤ちゃんでも感じることのできる、脳が自然と感じる音と対象の間の類似性である。もう一つは、解釈によって生まれる類似性である。前者が「似ているから似ている」なら、後者は「似ていると思うから似ている」と言ってもよい。

 「似ていると思ってしまう」原因は多数あるが、その中でも注目すべきは言語と文化の習慣で、とりわけ強力なのは、「同じことば」が適応されることである。ある言語で○と△が同じことば(単語)で表現される場合に、別の言語では異なることばで区別されることは頻繁にある。

 たとえば、日本語では「水」と「湯」は別のことばで区別される。英語ではどちらもwaterである。逆に、英語ではwatchとclockは区別されるが、日本語ではどちらも「時計」である。このように、ほぼ同じ意味を持つが、日本語では別のことばで言い分け、英語では区別しない概念のペアをたくさん用意して、それぞれのペアの類似度を日本語話者、英語話者に評価してもらった研究がある。予想どおり、日本語話者も英語話者も、自分の言語で区別しないペアのほうを、区別するペアより類似性が高いと評価した。つまり、日本語話者なら〈腕時計〉ー〈壁時計〉のペアを〈水〉ー〈湯〉よりも「似ている」と判断したのである。

 私たち人間は多様な基準で類似性を感じる。とくに二つのモノ(あるいはことば)が同じ概念領域に属していたり、あるシステムの中で同じ要素を持っていたり、接辞を共有していたりすると、それだけで「似ている」感覚は強くなることが実験的にも示されている。たとえば、〈イヌ〉と〈首輪〉、〈イヌ〉と〈犬小屋〉、〈懐中電灯〉と〈寝袋〉、はては〈サル〉と〈バナナ〉などは、非常に類似性が高いと評価される。

 つまり人が感じる類似性は、見た目が似ている、内部構造や関係が似ているなどのいわゆる規範的な類似性だけではないのである。いつもいっしょに現れる(使われる)もの同士にも類似性を感じるし、同じ接辞がつく、同じ重複の形で現れるなど、同じ形の言語パターンを見つけると、それだけで類似性を感じる。このような文化や言語によって作られた「類似性」は、音と意味の間の類似性(アイコン性)の感じ方にも影響を与える。

2023年6月14日水曜日

20230614 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」 pp.202-205より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」
pp.202-205より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025531

本来、ナチスの防衛団であるSAを、その母体から生まれたSSが、どうして襲撃したのか?それについてはSAの成り立ち、以後の発展、指導者をたどらなくてはわからない。1919年のワイマール共和国誕生とともに、さまざまな政党が誕生した。共産党、社会民主党、国家人民党、中央党、国権党・・・。ひところは30にあまる政党が林立していた。絶えず離合集散し、多数派をつくって政権についても、たがいに足を引っぱり合って何ごとも決まらない。短命の政府があわただしく入れ替わる間に、天文学的インフレが進行し、一時はドイツ通貨が用をなさなくなった。

 当時の主要な政治的メディアはホールや広場での演説である。ラジオは始まっていたが、受信機が高価で、一般の人には手が出ない。党首が演台、あるいはベランダに立ち、長々と演説をする。それを支持者が取り巻いて、要所ごとに熱烈な拍手を送った。

 当然、反対党が妨害にくる。支持者が撃退に打って出る。政治集会がしばしば乱闘の場になった。そのころの写真は、広場を埋めた大群衆の一方で、つかみ合い、殴り合う山高帽や鳥打帽のむれを伝えている。

 おのずとどの政党も防衛団をそなえていた。極右団体にかぎらず、リベラルな党も屈強な若者をよりすぐって演説防衛隊をつくり、演台の周りに配置した。ワイマール憲法は、世界でもっとも民主的な憲法といわれたが、各政党はいずれも、前近代的な暴力組織に頼っていた。

 1921年7月、ナチスの臨時大会でヒトラーは党首に選ばれ、直ちに組織の改変に取りくんだ。これまで「整理隊」「秩序隊」「警備隊」などと呼んでいたのを「体育・スポーツ隊」に統一した。会場防衛が任務で、具体的には共産主義者の妨害を排除する狙いがった。「体育・スポーツ」の名称は無害化して目的をくらますためだったが、意味不明で意気が上がらないといった声が隊員から出てきたのだろう。二か月後の9月、「突撃隊(SA)」と改め、11月の党大会で正式に発表した。弱小政党ながら、それまでに何度か、集会場の乱闘で勝利を得ており、勇ましくて格好いい名称に昇格したわけだ。ヒトラーの古くからの盟友エルンスト・れーむが突撃隊指揮官についた。

 レームは1887年、ミュンヘンの生まれ。ヒトラーより2歳年長。第一次世界大戦では陸軍大尉であって、この点で伍長どまりのヒトラーのはるかな上官にあたる。軍事組織をつくる才能の持ち主だったのだろう。ミュンヘン一揆失敗のあと、党首ヒトラーが入獄中に「戦線団(フロントバン)」という3万人の組織をつくり、それをそっくり再建されたナチスの突撃隊として採用した。

 ヒトラーにとってはSAはナチスの下部団体だが、育ての親レームには、自立した軍事部門であり、いずれナチスが政権につくときには、国防軍を補助する予定だった。そんな両者が折り合うはずはなく、1925年4月、対立が激化してレームは突撃隊指揮官を辞任した。ヒトラーは党員ザロモンを後任に任命、レームはボリビアより軍事顧問に招かれ、ミュンヘンを去った。

 やがてナチスは国内の政情不安のなかで着々と勢力をのばし、1930年の国会選挙で第二党に躍進。この間、突撃隊は着実に増加したが、その一方で不満が高まってきた。薄給に据えおかれ、党員でありながら国会議員選挙の名簿にも加えられない。

 1930年8月には、ベルリンの東部SA副司令官が部下を率いて、ナチス・ベルリン大管区長ゲッペルスの選挙演説を妨害する事態になった。守るべき者が逆に妨害を引きおこした。ザロモンが辞任したが、責任をとったというより、いっこうに改善されない待遇を党本部に抗議するためだった。さしあたりヒトラー自身が指揮官を兼務しつつ、急遽ボリビアのレームに帰国を促し、あわせて突撃隊員の報酬増額を約束した。

 11月、レーム、帰国。ナチスの要請に答えたもので、SAの指揮官はSSに命令する権限を持たない。独立を強調するため、SS独自の黒い制服を定めた。

 以上が「長いナイフの夜」の前史にあたる。この間の三年間にレームの育成のもと、突撃隊は300万を数えるまでに増大した。国防軍をはるかに凌駕する勢力である。ヒトラーが権力を掌握し、全権委任を取りつけて二年目。1934年の初頭から、出所不明の不穏な風評がひろまっていた。SAが武装蜂起するというのだ。

2023年6月12日月曜日

20230612 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.10-12より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.10-12より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880


日本の18世紀において絶えず進んだ過程は、学校教育の普及である。幕府は教育を奨励し地方政府もその経営する学校(藩校)を新設した。この傾向は、ことに18世紀後半に著しい(創立年代のあきらかな278校のうち、18世紀中葉以前の創立は、40校にすぎず、18世紀後半の創立は80校に及ぶ。すなわち18世紀後半の50年間は、それ以前の150年間の2倍に相当する速さで、藩校を新設したということになる。笠井助治「近世藩校に於ける学統学派の研究」上、吉川弘文館、1969、72頁、参照)。藩校は武士の子弟の教育を目的とし、その教育の内容は次第に実用的なものになろうとしていた。

 ただし地方政府も有能な官僚の必要を自覚しはじめたからであろう。その結果、後述するように、武士知識層に専門分化の傾向を生じたのである。他方幕府は、武家ばかりでなく、一般町人にも官立学校の一部を開放し(昌平坂学問所の一般人向け講座開設、1718)、町人のための私塾を援助して、官立に準じるものとした(江戸の会輔堂、1723、大阪の懐徳堂、1725)。また京都の町人を対象として開かれたいわゆる「心学」の塾(1729)は、18世紀後半に至ると多数の人を集めて、全国的な支部をもつようになった。「寺子屋」の初等教育を除いて、武家・僧侶による教育の独占は、18世紀に破られたのである。もしこの世紀を町人の時代と称び得るとすれば、その背景は、上層・中層の町人(および)一部の農家)にとって、高等教育が手のとどくものになったということにほかならない。町家出身の学者は輩出したばかりでなく、その思想の独創性において、武家出身の知識人を圧倒するようになった。 

 この時代を通じて絶えず繰り返された現象は、農民大衆の蜂起である。18世紀を通じて、「一揆」・「とりこわし」の有名なものだけでも35件以上、「強訴」・「越訴」の類を加えると、70件に及ぶ。動員された農民は、しばしば数千人、稀には数カ国にわたって数十万人の参加したことさえある(たとえば「伝馬騒動」、1764年12月~65年1月、には、武蔵・上野・下野・信濃の中山道沿いの村民、20万人以上が加ったといわれる)。原因は多くの場合に、飢餓と絡んで年貢米や米の買溜めに係っていた。その背景には、商品経済の発達と全国市場における米価の著しい動揺があり(幕府は米価が下落すると、商家に米を買支えさせ、価格が上がると、買溜めの商家を罰し、数年毎にそれを繰り返していた)、また年貢米に依存する武家の財政難とそれに伴う取立ての強化があったろうと察せられる(徳川時代に幕府が繰返した「改革」は、いずれも「倹約」を主要な「プログラム」の一つとしていた。また徂徠の「政談」以来、儒者の献策として今なお残るもののなかに、中央または地方政府の財政難の対策を説かぬものは少ない)。一揆の結果は、支配者側が農民の要求(年貢米の軽減、代官の交替など)を容れた場合にも、容れなかった場合にも、武力弾圧と農民指導者の処刑であった。徳川時代の全体を通じて知られている百姓一揆は、3000件に近いというが(2967件、年平均10.6件、青木虹二「百姓一揆の年次的研究」)、そのいずれも武家独裁の体制の変革をもとめたのではなく、その体制を前提として局地的な政策をもとめていたということは、この国の事情の中国や欧州とのちがいを示している。太平天国の乱や農民戦争はおこらなかった。しかし一揆とは性質のちがう大衆運動に、18世紀以後数度繰返された「おかげ参り」(または「抜け参り」)もある。町家および農家の妻女子弟や下男下女などが、夫や親にも告げず、領主の「往来手形」も持たず、しばしば旅費さえも調えずに、集団的に伊勢神宮の旅へ出かけた現象である。その数およそ数百万(1705年と1771年の「おかげ参り」では、2・300万とされ、1830年には、500万人ほどが参加したといわれる)。ここにも抑圧された大衆感情の発作的な表現があった。

2023年6月11日日曜日

20230611 株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」 pp.242-244より抜粋

株式会社河出書房新社刊 中島岳志 杉田俊介 責任編集「橋川文三-社会の矛盾を撃つ思想 いま日本を考える -」
pp.242-244より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309231144
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309231143

対馬の島影は、古代からこの海を渡った人々にとって、きわめて印象的だったにちがいない。「万葉集」巻一に入唐使節団を送る春日蔵首老の歌が一首のっている。

 ありねよし対馬の渡りわた中に幣とり向けて早かへり来ね

「ありねよし」は対馬の枕言葉とされているが、これは海上から対馬に近づく人々の実感をきわめてよくあらわした言葉である。海上十里くらいのところから見た全島の姿(もっとも、上島の方は霞んで見えないのが普通だろう)の中心をなしているのが「有嶺よし」と歌われた有明嶽(558メートル)である。その左手にやや遠く対馬第一の高峰矢立山(649メートル)がそびえているが、これは島の左手に偏っており、稜線が有明ほどに流麗ではないので、船人の眼にひきつけるポイントになりにくい。対馬の国府厳原は、ちょうどこの有明の真下にいだかれている。

 船は、壱岐の勝本に20分ばかり寄港したのち、針路をやや北に向けて、いよいよ厳原に向かって直行する。かつて、バルチック艦隊が二列縦陣を作って北上した東水道である。壱岐海峡では明るいブルーに輝いていた海流が、ここではほとんど黒く見えるほどの紺色にかわる。

 後方には壱岐の島影がしだいに霞みはじめたのに、行手の対馬の島影はなお模糊として遠いというあたりでは、「夫木和歌抄」にあるという古歌の心がそのままに現代人にも了解されるであろう。

 漕出る対馬の渡り程遠み跡こそかすめゆき(壱岐)の島松

 たしかにこの海上では、古代の人々の心がまざまざと想像される。先史時代から日本と大陸とを結ぶ海上交通の要路に当たっていたために、「百船の泊つる」津の島と万葉にも歌われたこの島への道を、古来、幾千幾万の人々が渡って行ったかもしれない。三世紀に書かれた「魏志倭人伝」に、この島に夷守とよばれる国防官庁の支所がおかれていたことが記されているが、その後の遣外使節団の人々も、兵団の将兵たちも、多くはこの海を渡って対馬に着き、浅茅湾の船待ちして、やがて外洋へと船出して行ったのである。

 こうした海上の往来の途上、おそらくは幾つもの大事件がもち上がったはずである。そしてそれらの事件の記憶は、幾つもの神話や伝説にその姿を変え、それらはさらに複雑に習合しあって、今もこの「神々の島」とよばれる対馬各地の津々浦々にあるおびただしい神社の縁起として伝えられている。また、そのあるものは、歌に詠まれ、たまたま歌集に収められることによって、今もなお私たちの想像力に強い刺激を与えることになった。「万葉集」巻十六に収められた「筑前国志賀白水郎歌十首」なども、海上に起こった無数の人間の冒険や悲劇のほんの一端を示すものにほかなるまい。

 大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る

 荒雄らは妻子のなりをば潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも

万葉の註記によれば、神亀年間(724-728、聖武天皇の代)大和朝廷が朝鮮半島に対する国防前線として、また兵站基地として重視していた対馬に、糧食を送る官吏の役目を自らすすんで代行した志賀島の海人荒雄の遭難を悼んで作られた歌である。作者は筑前国守山上憶良とも伝えられているが、こうした海上の悲劇の実感は、現実にこの海を渡るとき、いっそう生々しくよみがえってくる。最後の歌など、この海の澄みきった海中をのぞくとき、むしろ悲痛な凄味をさえ感じさせるであろう。

 ともかく、現在考古学的に確認されているところでは、対馬にはおよそ四千年前から人々が住んでいたといわれる。そして、それら先史時代の人々の遺品は、対馬が縄文式文化圏の西の辺境をなしていたこと、つまり、対馬原住民が、早くから日本列島の文化圏に生きていたことを示している。この島に「高御魂神社を始めとして、別天神、神代七代、橘水門、三貴子、綿津見宮、出雲国作り、大八島最初の県直以下の神々が揃いも揃って鎮座せられている。この事実は、実に古事記から見た日本建国の縮図である」(「新対馬島誌」)といわれるのも、いかにもありうべきことと思われる。

2023年6月10日土曜日

20230610 株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』 pp.24-27より抜粋引用

株式会社岩波書店刊 吉見俊哉著『大学とは何か』
pp.24-27より抜粋引用
ISBN-10: 400431318X
ISBN-13: 978-4004313182

今日につながる意味での「大学」が誕生したのは、12世紀後半から13世紀初頭にかけての中世ヨーロッパでのことであった。北イタリアのボローニャで、世界最初の大学に神聖ローマ帝国皇帝の特許状が下されたのが1158年、パリ大学が教皇の勅書によって設立されるのが1231年のことである。この二つの原型的な大学に続き、13世紀、英国ではオックスフォードとケンブリッジの二大学が設立され、イタリアでは、モデナ大学、レッジョ大学、アレッツォ大学、パドヴァ大学、ナポリ大学、シエナ大学、ペルージャ大学、フィレンツェ大学、ピサ大学、ヴェローナ大学、パヴィア大学、フェラーラ大学、トリノ大学など多数が設立されていった。同じ頃、中央ヨーロッパでも、プラハ大学、ウィーン大学、クラクフ大学、ハイデルベルク大学、ライプチヒ大学などの新大学の誕生が続き、15世紀までにヨーロッパ全土で大学数は70~80校に及んだ(図6)。中世的秩序のなかで、大学、その根幹をなす教師と学生の協同組合は、教皇権力と皇帝権力の対立を巧みに利用し、これら普遍的権力とそれぞれの都市の地元有力者のバランスを利用しながら、急速に増殖し、勢力を広げたのだ。
 重要なのは、このような中世西欧における大学の誕生はに、同時代の都市を拠点とした広域的な人の行き来や物流の活発化が先行していたことである。西欧諸地方では、10世紀頃から農業生産力の上昇が地域間商業の活発化をもたらし、広域的な経済の拠点として都市が発達し、それらはしばしば自治権を獲得した。急速に拡大する貿易と分業体制のなかで、中世都市は地中海沿岸からバルト海・北海沿岸まで広がる新しい全ヨーロッパ的ネットワークのハブとなり、新種の商人から放浪の托鉢修道士まで、多種多様な移動民を抱え込み始めていた。生まれ故郷から離れ、一生を移動しながら過ごす彼らは、各地で勃興しつつあった自治都市に集い、そこで知識を交換し、新たな協同組合的な組織を形成していった。当時、情報メディアといっても写本や手紙しかなかった時代、都市から都市へ移動するこれらの人々は、新しい知識を伝え、集積する最大のメディアであった。
 当時、「遍歴者、流浪者、旅人の中には、学者や朗読者の小さなグループもあって、そのまわりにはいつも教えを請う者たちが集まり、その影響圏に知識欲の旺盛な者たちがどっと押し寄せていた」(H=W・プラール「大学制度の社会史」)という。大学は、このような中世の移動民たちが結びついたネットワークの結節点として出発したのであり、その組織原理の根底に越境性、脱領域性を内包している。彼らは移動する能力によって都市を支配層や地主、より普遍的な皇帝や教皇の権力さえも相対化する自由を手にしたのであり、この移動性と一体をなす「都市の自由」こそが、後年に理念化される「大学の自由」の現実的な基盤であった。
 もちろん、「都市の自由」だけが大学誕生の唯一の要因だったわけではない。中世西欧で大学が誕生したのは、特権的知識層の増大を許容する生産力、行政組織の発達、知的活動への需要増大と専門家や学者の役割拡大、同業組合的組織の普及、アラビア経由での古代地中海世界の学問の受容など複合的な諸要因が作用していた。しかし、このような要因だけならば、そこに登場する知識・教育機関が、「大学」でなければならなかったとは必ずしも言えない。
 古代以来、文明が高度化してくると、社会は必ず専門知識層を生み、そうした専門家による知識継承機関が設置されてきた。古代ギリシャのアカデミーやバビロニアの図書館、イスラムの聖書学校などがその例で、日本の近世には藩校があった。知識機関の設置は、社会のアイデンティティ維持にとって常に根幹だったが、その頂点に立つものは必ずしも「大学」でなければならなかったわけではない。高度な知識を有しながら「大学」が存在しない社会がいくらでもあった。ところが12世紀のヨーロッパは、知の中核的な機関として「大学」を誕生させ、以来、「大学」は、人類の知的活動に最も影響力あるモデルとなっていくのである。

20230609 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.14‐15より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.14-15より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

「君らも知っているはずだ。その頃僕は、だいぶ印度洋や、太平洋、支那海などをうろつきまわったあげく、ロンドンへ帰って来たばかりだった―六年余りだったかな、―といえば、まず東洋も一通りは味わってしまったわけだが。ところで、僕は毎日ブラブラしながら、よく君らの仕事を邪魔したり、君らの家庭を襲ったりしたものだったっけ、まるで君らを啓蒙することが、僕の天職だと言わんばかりにね。それも一時は愉快だった。だが、暫くすると、じっとしているのにも倦いて来た。そこでまたしても船を探しはじめた、―ところが、こいつがおよそ難しい仕事でね。今度は船の方で見向いてもくれないのだ。船探しにも倦いちまった。

 「ところで、僕は子供の時分から、大変な地図気狂いだった。何時間も何時間も、よく我を忘れて南米や、アフリカや、豪州の地図に見入りながら、あの数々の探検隊の偉業を恍惚として空想したものだった。その頃はまだこの地球上に、空白がいくらでもあった。中でも特に僕の心を捉えるようなところがあると、(いや、一つとしてそうでないところはなかったが、)僕はじっとその上に指をおいては、大きくなったらここへ行くんだ、とそう呟いたもんだった。今考えると、北極などもその一つだったと思う。なに、もちろんまだ行ったこともないし、今ではもう行ってみる気もないがね。つまり、魅力が消えてしまったのだ。だが、まだそうした場所は、いくらでも赤道付近にころがっていたし、他にも両半球あらゆる緯度にわたって残されていた。中にはその後本当に行ってみたところも幾つかある。それに・・いや、こんな話はもうよそう。だが、一つ、いわばもっとも広大な、しかももっとも空白な奴が一つあったのだ。そして僕は、それに対して疼くような憧憬を感じていた。

 「なるほど、その頃はもう空白ではなかった。僕の子供時分から見れば、すでに河や、湖や、さまざまな地名が書き込まれていた。もう楽しい神秘に充ちた空白ではなかったし、―恣に少年時代の輝かしい夢を追った真白い地球でもなかった。すでに闇黒地帯になってしまっていたのだ。だが、その中に一つ、地図にも著しく、一段と目立つ大きな河があった。たとえていえば、とぐろを解いた大蛇にも似て、頭は深く海に入り、胴体は遠く広大な大陸に曲線を描いて横たわっている。そして尻尾は遥かに奥地の底に姿を消しているのだ。とある商店の飾窓に、その地図を見た瞬間から、ちょうどあの蛇に魅入られた小鳥のように、―そうだ、愚かな小鳥だ、僕の心は完全に魅せられてしまった。で、僕はふと思い出した、そういえばこの河で商売をやっている、大きな貿易会社があったはず。畜生、そうだ!これだけの河といえば、船―それも蒸気船を使わなければ、商売のできるはずがない。それなら、そいつに一つ乗りこめばいいではないか!と、僕はひとり肯いた。そしてあのフリート街を歩きながら、どうしてもこの考えを振り捨てることができなかった。蛇の魅力だったのだな。

2023年6月4日日曜日

20230604 岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」 pp.273-275より抜粋

岩波書店刊 宮崎市定著 礪波護編「中国文明論集」
pp.273-275より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003313313
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003313312

およそ社会の進歩を認めないところに、すぐれた歴史が現れようはずはない。せいぜい史実を克明に描写した宋の司馬光の「資治通鑑」ぐらいが関の山である、「資治通鑑」は確かに有用な、すぐれた史書であるが、そこには社会が進歩したとも退歩したとも書いてない。史観のないのが彼の史観である。この書は元来は「通志」という名であったが、「資治通鑑」、即ち政治の参考になる歴史の鑑という名を時の天子、神宗から賜った。誠に鑑のように、史実だけを列べようとした年代記である。ただそこには、先の歴史事実と後にくる歴史事実との間の因果関係を理解させようという努力が認められる。そしてそれから以後、「資治通鑑」に匹敵するほどの歴史さえ書かれなくまってしまった。

 中国には司馬遷の「史記」、班固の「前漢書」以下、「後漢書」、「三国志」から「明史」に至るまで、各代の史実がすべてで二十四史あり、正史と称せられるが、この中で歴史的意識をもって書かれていたのは「史記」と「漢書」だけだといっていい。「史記」は太古に五帝三代の黄金時代を設定するが、これを除けば周が衰微してから以後、春秋・戦国・秦を経て、いかにして漢の統一王朝が出現したかを説明しようと努めている。

 「漢書」は古代史の頂点をなす漢王朝の繁栄とその一時的衰退期たる王莽時代までを区切って、いわゆる断代史の模範を垂れた。漢代の歴史はその前に更に長い歴史をもつことを示すために、前代に活躍した人物の名前を年代順に列べた「人物表」なるものを造って付け加えた。以上の両著はいずれも創意に基づく創作である。ところがそれは以後の各代の正史は、単に雛型に従って事件を記述するだけで、せいぜい一王朝の興隆と衰亡を記すのが関の山で、歴史上における位置付けを試みる意図をもたない。ただ歴史は繰り返すものという見方しか持ち合わせないので、前王朝の衰微が後王朝興隆の原因という簡単な因果関係が理解されるわけである。

 だから人によっては、中国には史料はあるが歴史は書かれていないという。たしかにその通りで、骨を折って中国の正史を読んでみても、ただそれだけでは中国社会の発達は分からない。そこで漢代から清朝までをひっくるめて封建時代とするような時代区分論が出てくるのも、已むを得ない結果だと言って言えぬことはない。