2018年5月29日火曜日

20180529 能動性の方向、興味の強さについて自身の経験から・・

1000記事への到達後、昨日1日記事作成を休んだところ、どうも落ち着かない感覚に襲われました。一応、当初からの目標は達していることから、昨日の休息は特に疚しい要素はないはずですが、こうした感覚が生じるのは一種の惰性によるのでしょうが、なかなか面白いものです・・(笑)。

また、今後、6月22日までは、この感覚との均衡を保持するためにも毎日の記事投稿ではありませんが、2~3日に1回は記事の更新を継続していこうと思います。しかし現在、まだ何もこれから作成する記事題材について考えていませんが、このようにPCの前に座り、文章を作成しつつ、次の流れをどのように展開させていこうかと、半ば無意識ながらに考えている、この状態がなかなか面白く、自身は好きであるようにも感じられるのです・・(笑)。

この状態を面白いと感じることがなければ、おそらく、これまでの記事作成の継続は出来なかったと思われますし、あるいはまた、記事作成の継続により、そうした感覚を楽しむことが出来るようになってきたのかもしれませんが・・。

何れがニワトリかタマゴか分かりませんが、何れにせよ、そこに『興味』があったからこそ、どうにか続けることが出来たと云えます。また、この興味とは、本質的には損得勘定を抜きにして自身の内側から湧き起こる能動性・力のようなものの方向性であるように思われます。

私は幼い頃より歴史に関しての書籍が好きであり、くわえて、途中からは、ある種の文学なども好むようになり、それが現在に至っていると云えますので、分類してみますと、根っからの人文社会科学系の人間であると云えます。

しかしながら、この性質は小中高を通して、あまり満たされることはなく、学校の授業での歴史・文学(現代文)などは特に面白いと感じたことはありませんでした。また、そうしたこと(歴史・文学)を友人らとの話題としても、あまりハナシは展開することは少なく、どちらかといえば、つまらなく感じていたと云えます・・。(しかし、これに関しては、中学校時代は日本全国相対的に見れば、かなり恵まれていた方ではないかとも思われますが・・。)。

ともあれ、そうした次第にて、この方面での楽しみが充足されることは半ばあきらめつつ、体育会の運動部に属し、主にダミー・チームにてブロックされたり、タックルされたりといった日々を数年間すごしてきましたが、引退1年前の春に文系の師匠に会い『世の中には私が興味を持っている分野に関して、これほど知っている人がいるのか・・!』といった驚愕とも云える感覚を持つに至り、以降、当時の体育会にて培った体力にものを言わせ、自身としては出来る限りの書籍を読んできたように記憶しています・・。

また、あの時期がなければ、おそらく読書好きの運動部員のままであり続けたのではないかと思われます。そして、何が原因となり、そうした能動性の方向への起動が生じたのかと考えてみますと、それは、さきにも述べたことですが『興味』そして、その強さではないかと思われます。つまり、自分の中にあるホンモノの『興味』の対象を見つけることが自然科学系・人文社会科学系であれ、とても大事なことではないかと思われるのです・・。受動的態度が望ましいとされる我が国では、あまり重視されないのかもしれませんが、個人としての持続可能性を考慮した場合、これが重要であると考えます。また、このテーマはスタンリー・キューブリック監督の『時計仕掛けのオレンジ』の主題とも被るのではないかと思われました・・。

そして、そこから多少迷信じみた意見にはなりますが、自分では未だ確信がなくとも、そうした『興味』の対象の近くにいますと、おそらく自然とその師匠が現れるといった摂理のようなものが世の中にはあるのではないかと私には思われるのです・・(笑)。【小林秀雄もそのようなことを何処かで述べていたと記憶しています・・。】

これまでにも何度か述べてきたことであり、また自画自賛とも聞こえるかもしれませんが、私は師匠運に関しては、かなり良いのではないかと考えています。あるいはまた、この師匠運によって、これまでの継続的な記事作成もどうにか出来たのではないかと思われるのです(皆さまに読んで頂けるような記事を作成出来ることは、師匠等のおかげでもあるのですから・・。)。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

数年前より現在までに日本列島各地において発生した大規模自然災害によって被害を被った地域のインフラの回復および、その後の復興を祈念します。


~書籍のご案内~
昨年暮に師匠による著作が医歯薬出版より刊行されましたのでご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
著書名:『CAD/CAMマテリアル完全ガイドブック
ISBN978-4-263-46420-5






2018年5月27日日曜日

20180527 ルール違反から偽史・設定・コスプレそして思想・哲学・文学そして戦後社会

昨日の記事投稿により総投稿記事数が1000記事となりました。しかし、以前からの予想通り、その実感などは皆無であり感動・感興などが惹起されることはありませんでした・・(笑)。

こうした内心の状態は一般的であるのか分かりませんが、おそらく、ある程度の期間継続していますと、毎日記事を作成することが通常の状態となり、そこから、ある区切りにおける感動・感興の惹起などはむしろ生じ難くなるのではないかと思われました。

そしてまた、本日は休日ということもあってか、あまり意識しないうちに記事作成を開始している次第です・・(笑)。とはいえ、以前より来月22日までは継続するつもりであると述べてきましたので、今回の記事投稿は特にルール違反にはあたらないものと考えます。

さて、ルール違反というコトバが出てきましたが、現在多く取り上げられている大学運動部試合に関する事案ですが、以前も当ブログにて述べたことがあるかもしれませんが、自身は学生時代、このスポーツを部活動として行っていました。当時は映像記録技術が現在ほど普及していなかったことから、総じて記録映像は限られたものであり、自身の記憶から思い返してみますと、ああしたタックル自体はそこまで珍しいものでもなく、また、それにより、簡単に重篤な怪我を負うということも多くはなかったと思います。

それ故、今回の事案にて問題の焦点となるところは、プレーが終わり、明らかに事後でタックルに行っていることです。これが問題の核心です。

私見となりますが、これは強烈な個人的怨恨か、誰か上級者の(強い)指示がなければ行い得ない行為であると云えます。(意識して、敢えてルールを破っていますので。)

また、この件の発生以来、多くの方々がこのスポーツに関心を持って頂くのは大変に有難いことではあるのですが、おそらくこの関心は、ほぼ全てがネガティブなものであり、今後このスポーツが再び学生をはじめ社会一般からこれまでと同様の支持を得るようになるまでは、かなり長い期間を要すると思われます。

そのように考えてみますと、我々日本人は太平洋戦争の敗戦以後、アメリカ合衆国の文化を盛んに取り入れ、吸収し、社会全体において広汎に定着させてきたと云えますが、このスポーツに関しては、本場、元祖のアメリカ合衆国ほど定着しなかったことが、今更ながらに興味深く思われました・・(国の文化風土自体がこうしたコンタクト・スポーツに向いていないのかもしれない・・このスポーツが我が国の社会に定着していたら、このようなカタチで問題が大きくならなかったと考えます・・)。

おそらく我々は、コスプレに象徴されるような、外見のマネのみで比較的簡便に済むようなことに関しては、案外簡単にこれを受け入れ、また他方では、生活において切実に必要とされる医学・科学技術などに関しても熱心に学び、吸収しようとする国民性らしきものがあるように思われます。

加えて、料理などに関しても、上記と同様の傾向があり、これらのことを抽象してみますと身体にとって直接感覚的な要素に関しては熱心に真似て、これと同一化する努力をする傾向があると云えるように思われます。(観念的要素が少なく、ある意味即物的であり動物に近いとも云えるのかもしれません・・。)

他方、その文化の抽象性が比較的高い要素とも云える形而上的な思想・哲学・文学などに関してはあまり注意・関心を払わない、持たない(持てない?)といった傾向があり、これはおそらくアメリカ合衆国のみならず、他の欧米文化全般のそうした要素に対しても同様の傾向を持つと云えます。

但し、一つのコトバや簡単なフレーズに過剰な意味を持たせるように感じられることはしばしば見受けられますが・・(これも一種のコトバのフェティシズムかもしれませ
ん・・)。

また、こうしたことが、我が国において独特とも云えるアニメストーリーなどの設定に代表されるような、多くの偽史を跋扈させる一つの要因となったのではないかと考えます。

こうした流れはかねてより存在していたと考えますが、それらが社会のメインストリームに出てきて量産・享受されるようになってきたのが戦後以来の現在まで続く社会の特質ではないかと思われます・・。

そうしますと『現在の保守あるいはまた改革側の方々も、さきに述べた設定以上のものであるのだろうか?』と、今回の大学運動部試合に関する事案に対する反応を含めていささか疑問に思われてくるのですが、さて、如何でしょうか?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

数年前より現在に至るまでに日本列島各地において発生した、そして現在も継続している大規模自然災害により被災された地域のインフラの回復および、その後の復興を祈念します。


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2018年5月26日土曜日

20180526 1000記事の到達、多く読んで頂いた記事について

おかげさまで今回の記事投稿により総投稿記事数が1000に到達します。しかし、それに対しての感慨・感興はほぼ皆無であり、そして、そうであるからこそ、あまり気負わずに現在この記事を作成出来ているのではないかと思われます・・(笑)。

また、これまでの経験から、気負った状態にて記事を作成し  
ていますと、かえって着想も湧かず、ただ気負いのみが先走りして悶々とした状態になることが多いと云えます(苦笑)。

この悶々とした状態は、その真っただ中にいますと、様々な考えが心中を巡ってはいるのですが、それらを上手く文章化することが出来ないといった状態であり、おそらく文章を書く人が陥るスランプとは、こうしたものではないかと推察します。

そして3年前この時期の私は、まさにそうした状態であり、それはそれで大変に苦しいものでした。また、そうした私の状態を悟ってくださったのか、偶然にも周囲の数人の方々から同時期に『何かしら書き続けたらどうですか?』『ブログをはじめてはどうですか?』といったご意見を頂戴し、当ブログを開設した次第ですが、その後概ね10日のうち9日は記事を作成・投稿し、そして今回、どうにか1000記事に到達することが出来ましたので、自身としては悪くない途中経過であるように思われます・・。

とはいえ、もとよりこれもあくまでも途中経過であり、今後、どこまで継続するか分かりませんが、少なくとも3年前の初めての投稿記録がある6月22日までは継続し、丸3年の継続と云えるところまでは続けてみようと思います。くわえて『石の上にも三年』ともいいますので・・(笑)。

また、これまで面白い記事ばかりとは云えない当ブログを読んで頂いた方々には心から感謝いたします。皆さまに読んで頂けていなければ、当ブログを継続することは出来ませんでした。また、さきに述べました通り、今後もしばらく記事作成を継続しますので、どうぞよろしくお願いいたします。

さて、1000記事目の投稿にしては、どうも凡庸・ありきたりな記事となってしまいましたが、しかし、これまでの記事作成の経験から思うことは、継続とは往々にしてそうしたものであり、時々作成される多くの方々に読んで頂ける記事は、そうした背景の中から半ば偶然に生じるのであり、それはおそらく意図して出来るようなものではなく、あるいは単発的には可能であるのかもしれませんが、しかし、そうした(先鋭化された?)意図に基づくものは、継続することにより、我々の精神にある活性・創造性を速やかに磨滅させていく何かがあるのではないかと思われるのです・・。
おそらくここに『有用性の限界』といったものがあるのではないでしょうか?

それ故、あまり意識しすぎない、気負わない継続が重要であるのではないかと思われるのです・・。

さて、こうしたことを書いていて不図思ったことは『これまでの1000記事の中で最も読まれた記事は何であるか?』であり、投稿された日時も全て異なることから、一概には評価出来ませんが、とりあえず調べてみますと3年前の12月14日投稿分の『大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 光文社刊pp.221-223より抜粋』であり、その次が2016年9月29日投稿分の『 昨日投稿のブログ記事に関連して・・主に書籍からの抜粋引用』となっており、残念ながら双方共に書籍からの抜粋引用となっておりました・・(苦笑)。そこで自身作成の文章にて最も多く読んで頂いていた記事を調べてみますと2016年2月21日投稿分の『 歴史認識と国民性について』となっており、そこから自身のブログでは歴史・教養などを扱った記事が多く読んで頂いていることが改めて理解できました・・。

そして、さらに他の多く読んで頂いている記事を調べてみますと、やはり歴史・教養系次いで民俗学関連の記事がチラホラ見受けられるといった感じとなっていました。今後はもう少し多彩な分野の記事が多く読んで頂けるような記事作成を心がけていこうと思います。ともあれ、重ね重ね、皆さまのおかげでここまでブログを継続することが出来ました。どうもありがとうございます。ゲーテの『ファウスト』に『心をよみがえらす泉は自分の胸中からわいてこねば、心身をよみがえらすことはできない。』というセリフがありましたが、自身は自身の胸中にこの水脈・泉を見出すことは出来たのでしょうか?どうもイマイチよくわかりません(笑)。しかしまた、今後もしばらく継続することにより、現在よりかは多少分かってくるのかもしれません・・。

そして、今回もここまで読んで頂きまして、どうもありがとうございます。

数年前から現在までに日本列島各地において発生した、あるいは現在も継続している大規模自然災害によって被災された地域のインフラの回復および、その後の復興を祈念します。


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20180525 インターネット検索とcultivateの深さについて・・999記事

今回の記事投稿により総投稿記事数が999となります。しかし、さらに次の投稿により1000となりますので、今回のゾロ目もまた特に感興を惹き起すことなく、普段と変わらずに記事作成を行っているのが現状と云えます・・(笑)。

さらに、この調子で行きますと、明日作成するであろう1000記事目の投稿もまた、現在と同様の感じにて行うことになるのではないかと思われます・・(苦笑)。

しかしブログ開設当初100~300記事あたりの時期においては、1000記事到達直前に現在の平静とも云える心境を予測することは出来なかったと云えますので、やはりその間に内面、精神において、何らかの変化が生じていたのだと云えます・・。

そして、その変化は気分といった比較的表層にあるものではなく、もう少し精神の深いところから生じているのではないかと思われるのです・・。そして、このことは昨日投稿分記事とも関連し、インターネットの普及およびその各種端末機器の進化発展により特に注意した方が良いと思われることは、我々の知性・精神をまさしくインターネットによる蜘蛛巣状の情報網に絡めとられないように意識・努力することであり、これは現在、首都圏の電車内を見ていますと多少不安に思われてきます・・。

つまり、容易に情報・知識を得ることが出来る状況を所与・当然のものとせず、そうした環境の下にありながらも、能動的に何かの対象に対して興味・疑問を持ち、考えるか、あるいは新たな知識体系の獲得をインターネット検索に頼らず、書籍の読解や実際の手技を用いる実験を通じて行うといったスタンスを保持し続けることが、反時代的ではあるのかもしれませんが、今後より重要になって(人間を人間たらしめる?)くるのではないかと考えます・・。



そして、ここまで書いて不図、思い起こされたことは英語のcultivateは耕すという意味であると同時に、修める・洗練させるといった意味もあります。また、この「耕す」から、現在読み進めている我が国古代史についての著作にて、弥生時代後期~古墳時代初期にかけて、広く各種農具の先端を以前からの木製から金属製に替えたことにより、以前と比べ土を深く耕す(深耕)ことが可能になり、それに伴い作物の良質多収が為されたとのことでした。これは道具に用いる材料の変化による収穫量の増加であり、悪い要素はないとも思われるところですが、しかし同時に、この収穫の増加は個人あるいは組織の欲望をも増大させ、さらに即物的には金属(特に鉄)は、土壌に対してと同様、武器とした場合の刺突(殺傷)能力が既存武器材料と比べ著しく大きいことから、この原材料・精錬技術の獲得をも併せて結果的には戦乱を招き易くなるとのことでした・・。

さて、そこでハナシを現在に戻してcultivateについて考えてみますと、インターネット検索による情報・知識獲得の一般化・簡便化は、それが出現する以前と比べますと、より広汎な人々が一定の情報・知識を得ることが可能になったと云えます。しかしながら、この一般化・簡便化により、個々の人々のcultivateされる深さは、以前に比べ浅くなるものと考えます(容易に獲得された情報・知識はあまり価値を見出されないから。)。そしてまた他方でインターネット検索により入手した情報・知識を武器として匿名にて、たしかに正義ではあるのかもしれませんが不寛容な言説をインターネット上にて主張するのには、どうも違和感を感じてしまうのですが、さて、これを読んで頂いた方々はどのようにお考えになるでしょうか?

*これは以前のブログ記事にて述べたニーチェ著『ツァラトゥストラかく語りき』に出てくる『ツァラトゥストラの猿』あるいは少し自省的に考えてみますとカミュ著『転落』の告白者であるクラマンスとも相通じる何かがあるように思われます。くわえて、特にここ最近の我が国であれば、後者であるカミュ著『転落』を読んでみますと、自身も含めて何やら思い当たるのかもしれません・・。

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

数年前から現在まで日本列島各地にて発生した、現在も継続している大規模自然災害により被災された地域のインフラの回復および、その後の復興を祈念します。


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2018年5月24日木曜日

20180524 人文社会科学系学問の価値について (インターネットおよび端末機器の普及から)

本質的には自然科学系であろうと人文社会科学系であろうと各学問領域間には上下関係、ヒエラルキーはないと云えます。しかし一方、世間一般においては、こうしたものは厳然と存在し、現在であれば医学部医学科がこのヒエラルキーの頂点にあると云えます。

また、そうした状況から波及してか、近年においては特に医療領域学部・学科の人気も高まり、これが以前に述べた今世紀以降顕著になった四年制看護学部・学科の新設・増設の背景にある潮流と云えます。

その一方で、もう一つ顕著なことは、人文社会科学系領域の衰退であり、無論、その背景には現在進行中の少子化もありますが、それと同時に特に実学的要素が少ないとされる思想・哲学、文学、歴史などといった原理的な人文社会科学系領域の衰退とは、おそらく今後数年の後、何らかのカタチでツケが来ることが予測されます。

とはいえ、近年のインターネットの普及、端末機器の進化発展により、以前と比べ、我々は膨大な知識・情報量を即座に検索し知ることが出来るようになりました。この一連の出来事は15世紀欧州における活版印刷技術の発明にひけを取らないものであると云え、おそらく、こうした環境の形成が為されていなければ、現今我々が関心を寄せている、さまざまな社会での出来事に対しあまり関心を持つこともなく、またそれだけに、社会はある意味において平穏であり続けたのではないかと思われます・・。

このように即座に運用可能な知識・情報量が膨大なものとなれば、精神もしくは頭脳に知識・情報をインプット(内在化)する作業としての学習に価値を見出すことが困難になるのかもしれませんが、人文社会科学系学問の価値の神髄は、おそらく運用可能な内在化された知識・情報量を増やし、社会的有用性の高い人間を育成することだけではなく、知識・情報のインプット・アウトプットを能動的に継続して行うことが出来る人間を育成することが主であると考え、本来動物でもある我々人間は、この過程によってのみ、より不可逆性の強い進化(変化)をすることが出来るのではないかと考えるのです・・。

あるいはこのことを言い換えますと、インターネット検索により簡便に知り得た知識・情報は、おそらくその後の定着率が低く、もしくは精神に埋入される深さが浅いことから、その後の活動に寄与・関与することは乏しく、他方、能動的に知識・情報のインプット・アウトプットを継続していますと、そこで知り得た知識・情報はより精神の深いところに埋入され、そして同時にその後の持続可能性もまた担保され得るのではないかと思われるのですが、さて如何でしょう・・? 

そのように考えてみますと、将来安定して貨幣を得やすい学問領域に人が集中するのは仕方がないことであるのかもしれませんが、一方で社会全体がそうした考え方を肯定するようになってしまいますと、その後の社会全体の劣化が著しくなり、持続可能性や創造性もまた損なわれていくように思われるのです・・(あるいは現在がまさしく、そうした時代であるのかもしれません・・。)。

そしてまた、こうしたことを考える際に有効と思われるものは頭脳・精神に定着、深く埋入され、さらに血肉化し、自在に用いて考えることが出来るにまで至った思想・哲学、文学、歴史などの知識・情報であると考えます(これはおそらく付け焼刃は出来ません、自然科学系のそれと同様に・・)。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前から現在に至るまで日本列島において発生した、現在も継続している大規模自然災害によって被害を被った、諸地域のインフラの回復、その後の復興を祈念します。


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20180523 1000記事までの道程および『プロヌンシアミエント』について

中にはいくつか短い記事もありますが、これまでに投稿した記事の文字数は大体1000~2000字程度となっています。そうしますと、総投稿記事分を文字数にしてみますと、およそ100万字~200万字程度となります。しかし、そこまで(数百万~)いきますと、実感は持ちにくいことから、やはり単純にこうしたブログ記事を考える場合、記事数および継続期間などの指標が妥当であると思われます。

ともあれ、そうこうするうちに今回の記事投稿にて、残り3記事の投稿により1000記事に到達します。つまり目標が本格的に視野に入ってきたといったところですが、それでも以前からではありますが、全くといって良いほど、それに対しての感慨などの情動らしきものが湧いてこないのです・・(笑)。

そこから、何かしら目標としていることが現実に達成可能であると感じられるようになると、そうした情動は生じにくくなるのではないかと思われました・・。また、おそらく、我々の心には、そうした普遍的とも云える性質・傾向があるのかもしれません。

とはいえ、未だ数記事の作成・投稿がありますので、現時点でそうした考察は時期尚早であるのかもしれませんが・・(苦笑)。そして今後、記事作成を数日続け、順調に行けば今週末に1000記事に到達する予定となりますが、おそらくその時の自身を想像してみても、現在記事作成を行っている自身と違いはないようにしか想像できなく、さらにまた、そうした変化の兆しも皆無ですので、むしろ、この現状から1000記事に到達した際に何らかの内的な有意とも云える変化が生じましたら、それはそれで大きな違い、もしくはブログ1000記事を書き続ける意味があったとも云えて面白く、さらに新たな記事の題材ともなり得るのです・・。しかし、そうした変化は生じないと思われますが(笑)。

また、変化と云えば、先日から読み進めているスペイン内戦の概説書は、相変わらずあまり意味が分からないままですが、当初と比べますと何と云いますか、その文脈的な流れについては理解出来てきたようにも思われます。これが最近感じ得た変化であり、その中でも具体的に面白く思われたのは当著作に頻出する『プロヌンシアミエント』というなかなか発音が厄介そうなコトバであり、これは『クーデター』と類似した意味合いであり、スペインでは19世紀後半から現在までに50回以上この『プロヌンシアミエント』が起きているとのことで、ここから一つの民族性とも云える何らかの特徴が示されるのではないかと考えます。

また他方で、欧州スペインの前身ともいえるローマ帝国においては共和制末期の紀元前49年にカエサルが禁止されていたにも関わらず配下のガリア戦役以来の軍団兵を率いルビコン川を渡河しローマへ進軍したこと、あるいは3世紀に入り帝政となっていたローマ帝国領内各地にて軍事力を背景とした統治者が乱立した軍人皇帝時代などのことを考えてみますと、さきの『プロヌンシアミエント』も、その淵源は深く、広く捉えてみますと南欧人・ラテン民族の『trait』とも評し得るのではないかとも思われました。そしてさらにその文化の大西洋を挟んだ延長線上にあるとも云えるラテンアメリカ諸国においても同様の傾向を見出せることから、やはり何らかの民族的な特徴といったものがあるのではないかと考えさせられます。

ちなみにあとになり、考えてみますと、このスペイン語である『プロヌンシアミエント』は、その音から察して英語にしてみますと『pronouncement』であり宣言・宣告・表明といった意味であり、そこからさらに我が国の近現代史的な文脈に基づいて訳しますと『蹶起趣意書』といった感じになるのではないかと思われましたが、さて如何でしょう・・?

ともあれ、おそらくこうした視点による観察・考察は海外の方々が我が国や近隣の東アジア諸国に対しても行っていることであり、また、おそらくあまりそうした観察・考察による考えを我々に対して述べることは少ないように思われますので、そうしたことから、実用的でないとして人文社会科学系学問全般をワケの分からないものとして毛嫌いすることは避けた方が良いのではないかと思われるのです。また、このことは特に自然科学系分野にて優秀な方々こそ特にそうあって欲しいと願うところです・・。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2018年5月22日火曜日

20180522 変化の実感と自己同一性の葛藤?について・・

当記事を含め、あと5記事の投稿により総投稿記事数が1000に達します。そうしますと、おそらく今月中での1000記事の達成はどうにか叶いそうですが、しかし、このメリハリのない状態のままにて1000記事まで到達しますと、その後も同じ調子で記事作成を継続してしまいそうですので、1000記事に到達しましたら、様子を見つつではありますが、出来るだけまとまった期間、記事作成を休止してみようと思います・・。また、そうした期間を経ることにより、これまでの間、自身に生じた変化といったものを実感することが出来るようにも思われますので・・。

とはいえ、実際問題として当ブログを開設した3年前と比較して、自身はどのように、あるいは有意に変化したのでしょうか・・?このことは以前にも書きましたが、なかなか自身では実感することが難しいようです・・。また一方で、あくまでも自身は日常性とも云える日々の出来事を起点として毎回の記事を作成していると認識しています。それ故、自身の日常性には留意しているつもりとはいえます。それでも、さきに述べたように、その間に生じた変化を実感し得ないということは、あるいは実際のところ、有意な変化などは生じていないとも考えられます・・(苦笑)。

こうしたことも実験のように、何らかの処理前・処理後の間にて有意に強度やら接着強さが異なるというのであれば、それなりに筋道の通ったハナシには出来るのかもしれませんが、残念ながら、こうしたことは多くの場合、そのようにハナシは上手く行ってくれないことが多いようです・・(苦笑)。それでも、どうにかして物語ろうと試みるのが詩や歴史などに共通するある種の能動的な精神ではないかと思われるのです・・。【これは叙事抒情の違いともまた多少異なるように思われます・・。むしろ演繹と帰納であろうか?】

そして、これまでのブログ記事の継続的な作成とは、この能動的な精神を活性化させるという働きはあったと思われますが、しかしながら、その活性化された精神による効果(変化の内容)がなかなか自身では分かり難いところなのです・・(苦笑)。

そういえば、昨日投稿分の記事もまた、多くの方々に読んで頂きましたが、これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。また、それと関連してか、昨日から本日にかけて2016年4月10日投稿分の『20160410 時代精神の認識について』が比較的多くの方々に読んで頂いていることは、とても興味深く感じられました。記事作成者としては、当時の自身が応力ひずみ曲線による材料特性にたとえて国民性を述べようとしている部分がいくらか斬新に感じられました・・(笑)。それでも、この文章は明らかにかつての自身が能動性を発揮して作成したものであり、くわえて、このたとえを試みた精神は未だ自身の内奥に息づいていることが、明確にではありませんが、しかし同時に、たしかに感じ取られるのです・・。

ともあれ斯様に、かつての自身の作成した記事を読んでみることは、内容にもよりますが、時々不思議な感覚を惹起させます。しかしそれでも自身に生じた変化などは実感し得ないのです・・(笑)。

そして、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前より現在までに日本列島にて発生した、あるいは現在も継続している大規模自然災害により被害を被った、諸地域のインフラの回復、その後の復興を祈念します。


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20180521 革新的な技術に対しての感受性・反応について・・先日の事件から

おかげさまで昨日投稿分の記事もまた、比較的多くの方々に読んで頂けました。また、その中に出てきましたホセ・オルテガ・イ・ガセットの我が国にて最も有名な著作といえる『大衆の反逆』は、今現在の状況にて読んでみますと、なかなか身につまされるのではないかとも思われます・・。

また他方、先日より盛んに報道されている某大学体育会運動部については以前に取り上げた吉田裕著『日本軍兵士』中公新書の内容を彷彿とさせ、さらにまた、こうした構図は歴史的類縁性のみならず、あるいは官民双方の組織においても類似性らしきものを見出すことが出来るのではないかと思われました(さすがに、そこまでいくともはや民族性・国民性ではないだろうか?)。

ともあれ、おそらく、インターネットが普及した現今の社会においては、これら追及を時間をかけて逃れ、そして徐々にフェイド・アウトしていくといった従来からの手法は以前に比べ困難になってきたのではないでしょうか?

また、そうした従来一般的とも云える追及に対する行為態度から、インターネットを技術基盤とする社会への順応度の違い、あるいは端的に世代間の相違といったものを看取することが出来るのではないかとも思われます。

そのように考えてみますと、ある革新的な技術が我々の行動を直接変えるのではなく、我々がその技術に接し、習熟するに伴い、認知の仕方が徐々に変化し、そこからの行動もまた変化していくというのが、より実情に則した表現であると云えるのではないでしょうか?

そうしますと、革新的な技術が出現してから、ある程度の時間をかけ、それが社会に浸透し、次いで、そこから生じる変化が社会に広がっていくと云えるのですが、おそらくその反応の仕方が地域・世代などにより異なることから、さきに述べた世代によって異なる行為態度もまた見出すことが出来るのではないかと思われます(テレビ全般の衰退も根源ではそうしたところに原因があるように思われます。)。

くわえて、一般的にやはり年代が若い方が新たな革新的な技術に対する感受性は鋭く、またそれに対する反応も速やかであると云え、そのことから国全体の健康寿命が延びることは大変喜ばしいことであるとは云えるのですが、それと同時に大小組織における決断を行い、それを実行する方々もまた、(健康寿命の増進に伴い)年齢層が上がっても良いということは、必ずしも云えないように思われるところですが、さて、如何でしょうか?

おそらく、このことは今後、我が国の社会においてより重要な課題になってくるのではないかと思われますが、しかし、こうしたことはどうしたわけか、なかなか議論や話し合いのみによって状況が改善するといったことはなく、むしろ、まさしく動物的とも云える主導権争いの大きな舞台になるといった傾向があるのではないかと思われます・・。

そして、そのように考えてみますと、さきの某大学体育会運動部に関する事件は、もう少し根が深いようにも思われるところですが、さて如何でしょうか?

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前から現在に至るまでに日本列島にて生じた、あるいは現在も継続して生じている大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域のインフラの回復、その後の復興を祈念します。


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2018年5月20日日曜日

20180520 予備知識を持たない分野の著作を読んでいて思ったこと・・

おかげさまで昨日投稿分の記事は投稿翌日にしては、かなり多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、以前にも少し触れたことですが、ここしばらく我が国古代史についての概説書を読み進めていますが、つい先日からスペイン内戦を主題とした新書もまた新たに読み始めました。スペイン内戦についてはあまり予備知識がないことから、当著作を読み進めていますと、分からない単語・コトバが頻出します。時には調べ、また時には読み飛ばしつつ、当著作を読み進めていますと時折、その述べている内容が(ある程度)分かると感じられる箇所も出てきます。そして、こうした感覚は、既知とは云えない分野の著作を読んでいる際に特に感じる、新鮮な感覚であると云い得ます。また他方で、この感覚は、ある程度慣れ親しんだ分野での著作を読み進める際のような背景知識を持たないことから、頭脳の疲労を誘う傾向もあり、そこから特に就寝前の読書においては、適切と云えるのかもしれません・・(笑)。

しかしまた一方で、どうしたわけか、そうした著作を読んでいても(ある程度)分かると感じられる箇所が多く見出されるようになりますと、眠気よりもある種の好奇心が惹起されることもあり、こうなりますとそれはそれでなかなか厄介とも云えるのです・・(苦笑)。

ともあれ、現在読み進めているスペイン内戦を題材とした著作は、さきに述べた種類の好奇心が惹起されることはなく、むしろ比較的安定して、ここまで読み進めていることが出来ているのではないかと思われます。また同時に時々は(ある程度)分かると感じられる箇所があることにより、読み進める意欲も維持出来ると云えますので、これはこれで悪い選択ではなかったのではないかと思われました(案外とこのバランスが大事であるのかもしれません・・)。

そして、ここまで書いていて不図思い起こされたのはスペイン内戦の同時代人のスペイン人哲学者であるオルテガのことであり、おそらく彼は当時の西欧、特に自国スペイン社会を観察し、その論考を著したと考えられますので、あるいは言い換えますと、スペイン内戦周辺時代の西欧そして母国であるスペインの社会状況および時代精神を抽象化したものが、彼の思想・哲学の大筋の背景、バック・ボーンとなっているのではないかと思われました・・。

また、そうしたことを書いていますと、案外と我々日本の社会は、特に近代以降に関しては、スペインをはじめとする南欧、およびその文化的延長上にあるとも云える南米諸国とも近しい要素・類似性が少なからずあるのではないかとも思われました。そして、そうした視点にて、オルテガの思想を再認識するのもまた、意義深いのではないかと思われます。

そのように考えてみますと、思想・哲学などは直接的な利益が極めて見難いものではあるのですが、やはり重要であり、さらにそうした思想・哲学を自家嚢中の道具としている他国政府が、ある国際的な状況あるいは我が国の状況を如何なるモデルにて認識・観察しているのかを知る術にもなると云えますので、それなりに大事にした方が云いと思われるのですが、さて如何でしょうか? 

【人文社会科学系の中でも歴史・思想系の方々は、時々、何やらわけのわからんこと云っているように聞こえることがあるかもしれませんが、おそらくそれは、その述べている背景・論拠が現代の我が国社会だけではないことから、時折同時代の世間一般と異なることが生じるのであり、また、その世間一般とは、必ずしも時代的にも地域的にも普遍性を持つものではないことを、もう少し自身も含めて考えてみた方が良いのかもしれません・・(あるいは一つに『学問をするとバカになる』とはこうした事情を指しているのではないかとも思われました。)】

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前から現在までに日本列島において発生した、あるいは現在も継続している大規模自然災害によって被害を被った、諸地域のインフラの回復、その後の復興を祈念します。


~書籍のご案内~
昨年暮に師匠による著作が医歯薬出版より刊行されましたのでご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
著書名:『CAD/CAMマテリアル完全ガイドブック
ISBN978-4-263-46420-5




20180519 記事作成時のプレッシャーを意識しなくなったことについて・・継続?

ほぼ毎日のように記事作成を行っていますが、毎回やる気に満ち、能動的に記事作成に取組んでいるわけではなく、むしろ、それらの半分以上は、どちらかと云えば仕方なく、惰性と義務感のようなものに促されて行っていると云えます。しかし、他方で能動的に勢い込んで記事作成を行っていることもあるのですが、大変面白いことに、そのようにして作成した記事であるから多くの方々に読んで頂けるということは全くなく、むしろ継続して多くの方々に読んで頂いている殆どの記事は、あまり気乗りしないで書き始めたものであり、そうしたことから何と言いますか『創造行為の妙』のようなものを感じさせられるのです・・(笑)。

つまり、つい先日も述べたことですが、こうしたことは『書き始めないことには分からない』ものであると云えます。また、他方で自身も少なからず身に覚えがあることですが、我々が創造性をあまり発揮できない分野における事物の評価は、傍観者的な視点から生じるある種の嗜虐性が発揮されることが多く、それにより辛辣とも云える評価をくだし易い傾向があるのではないかと思われます。こうした姿勢を持ちつつ記事作成を継続していますと、次第に何らかのプレッシャーを感じるようになり、それによりスムーズな記事作成の継続をあたかも自縄自縛のように妨げてしまうといったメカニズムがあるように思われます・・。

そして、こうしたプレッシャーを意識しなくなったのは、端的に記事作成の継続により、慣れて意識しなくなったからであると云えますが、またそれと同時に、記事作成の継続を為さしめるほどの方々に読んで頂いていたこともまた大きく作用していると云えます。

もちろん、当ブログはまだまだ弱小であると云えますが、それでも開設当初は、自身の作成したブログ記事が数十万人の方々に読んで頂くことになろうとは想像も出来ませんでしたので、この間に生じた内的な変化には、何かしら有意なものがあったのではないかと考えます。

しかし、残念であり、且つ面白いと思うことは、その内的な変化とは自身ではよく分からないということです・・(笑)。いずれそのことを言語を以て表現することが出来るようになるのでしょうか?そしてまた、出来たとしても、それはどの程度の普遍性を持つ現象であるのでしょうか?
おそらくこうしたことは、看取が困難であるのかもしれませんが、なかなか興味深く、また同時に大事なことであるようにも思われます・・。

さて、ハナシは変わりますが昨日投稿分記事もまた比較的多くの方々に読んで頂けました。読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。そして看護系の四年制大学はおそらく今後も自然に発展していくと思われます。また、それに加えて今後生じたら面白いことは、総合病院を擁する歯科系の単科大学が看護学部・学科(もしくは専門職大学)を新設することですが、また、同時に歯科領域に関しては歯科衛生・口腔保健系の四年制大学学部・学科は、もう少し新設・増設しても良いのではないかと思われます。

あるいは運営母体が大きいところで、何れかのあるいは複数の日本赤十字看護大学さまが四年制歯科衛生・口腔保健学科の新設・併設を検討されてみてはいかがでしょうか?これは近年慢性的に歯科衛生士不足に呻吟している多くの歯科医療機関にとって福音になると思われます。

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前より現在に至るまでに日本列島にて生じた、あるいは現在も継続して生じている大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域のインフラの回復、その後の復興を祈念します。


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2018年5月18日金曜日

20180518 先日に引き続き『専門職大学』新設の伏線および今後の進展について・・

以前に作成した一連の『専門職大学』に関する記事は、おかげさまでその後も継続的に読んで頂いています。そして、それら記事において触れたことですが、近年新設・増設が相次ぐ看護をはじめとする医療系の四年制大学学部・学科なども、本質的には『専門職大学』であり、さらに医学部、歯学部なども、これまではそうした定義を与えられることはありませんでしたが、語義的な意味においては『専門職大学』とも云えるのではないでしょうか?

さらにこの様相を俯瞰してみますと、何かしらの国家資格・公的資格の取得を目的とした大学・学部・学科などは概ね語義的には『専門職大学』と評しても良い側面があるのではないかとも思われます。

ともあれ、では何故、近年こうした医療系の『専門職大学』の新設・増設が相次ぐのかと考えてみますと、高齢化社会の到来による(更に高度な)医療人材増員の要請、半ば恒常化した経済的不況による安定志向からの資格取得願望などが考えられます。また、自身の実感によりますと、四年制の看護大学・学部・学科は今世紀に入り現在に至るまで、もの凄い勢いで増えてきたように感じられます。くわえて、スケールは異なりますが、これと同様の様相は四年制大学教育による歯科衛生士の養成においても当てはまるように思われます。

さて、こうした状況を認識した上で、冒頭に述べた『専門職大学』就中、医療系のものに関して考えてみますと、今世紀に入ってからという、ある程度長い期間の助走もしくは伏線のようなものがあり、現在の状況に至っているということが、ある程度理解できるのではないかと思われます。

また、今世紀に入り新設・増設された看護をはじめとする医療系大学・学部・学科は他の既存大学定員から流入したものであり、それに付随して既存の短期大学・大学学部・学科などの閉鎖・縮小などが多数あったのではないかとも推察されます。

こうした状況の推移から一つの高等教育におけるダイナミズム・動的様相が看取出来ると思われ、また『専門職大学』の相次ぐ新設も、この一連の動的様相の先鋭化した現れであると認識すれば、少なくとも大きな間違いではないように思われますが、さて如何でしょうか?

そしてまた、今後のこの動的様相の進展の方向として、先ず考えられることは、地方に立地する文系学部を主とする小規模大学が近隣の医療・介護系専門学校と合併すること、そして伝統、地名度があり複数キャンパスを擁する比較的規模の大きい医療系大学(具体的には日本赤十字看護・順天堂・東邦・北里・日本医科・東京医科など)が更なる看護・医療系学部・学科を地方に新設・増設をすることです。

はぼ当てずっぽうな予測ではありますが、中には実際に生じることもあるのではないかと思われます・・(笑)。

今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前より現在に至るまで日本列島にて生じた、あるいは現在も生じている大規模自然災害により被害を被った、被っている諸地域のインフラの回復、その後の復興を祈念します。


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2018年5月17日木曜日

20180517 文章を書き続ける能力?【新たな要素を追加更新しつつ・・】

昨日の記事投稿により総投稿記事数が990に至り、余すところ10記事の投稿にて1000記事に到達します。とはいえ、これまで通り感慨も何もあったものではなく、昨日も記事投稿後、そのことに気が付いたくらいです・・(笑)。

一方、記事作成に関しては以前に比べますと、あまり苦も無く書き続けることが出来るようになり、さらに面白いことに、投稿したいくらかの記事に関しては、ある程度継続して読んで頂いていることから、おそらくそうした記事は、作成した記事の中でも『良い出来』と評することが出来るのかもしれません。

しかし、それら『良い出来』の記事は全て、当初からそれを意図したものではなく、結果的にそうなったものであり、それはこれまでに作成した全記事の継続があり、はじめて世に現れ得たと云い得るのです・・。

こうした経緯を考えてみますと、半ば必然的に思い起こされるのは、魚釣りであり、そこでは一投一投それなりに考えて行ってはいますが、その中で具体的な釣果に結び付くのはごくわずかであると云えます。しかしそれでもなお、投げないことには如何なる釣果にも結び付き得ないのです・・。

おそらく、ブログ記事の作成とは、何かしらこれに類似したものがあるのではないかと私は考えています。また、そのように考えることにより、自然と投稿記事数といった数値的な指標もあまり感慨などを惹起させるには至らず、それよりも『とりあえず記事作成を継続しよう』といったどちらかと云えば穏やかな行為態度へと至るのだと思われます・・。

それは一種のマンネリ化であるとも考えられますが、しかしそこで留意して頂きたいことは、そのマンネリとも云える行為の中に創造性があるか、創造力の駆動が為されているかということであり、おそらく、この要素が行為の中にわずかでも存在することにより、その行為は新たなものとなり、少なくとも次に繋げることが出来るのだと思われるのです。

その意味で、ブログ記事ではあれ、こうした公表を前提とする文章は、あからさまなパクりは概ねバレてしまい、また明らかな虚偽、公序良俗に反する偏見に満ちた言説も非難を受け易いことから、作成する題材については、それなりに考えて書き連ねてはいるつもりですが、往々にして我々の能動性とは、何かしらの契機によって勢いづくことにより、上記の要素を半ば無意識ながら蔑ろにしてしまうこともあることから、そのバランス、均衡を保ちつつ、新たな要素を追加更新しながら記事作成を継続していくことは『簡単である』とは言い切れないのかもしれません・・。

しかし、そのように考えてみますと果たして自身はこれまでにバランス、均衡を保ちつつ文章を作成してきたのでしょうか・・(笑)。

(無用な非難を受けないために)ヒトに見せるためのゼスチャーとしての文体と、虚偽のない書き手側の意図・真意による文体を折衷した能動性の発動(文章の作成)を継続的に出来るようになれば、それは一つの能力と云えるのだろうか・・ともあれ、おそらくそこで『抽象性』といったものが大事になってくるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか?

今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前から現在に至るまで日本列島にて生じた、あるいは現在も継続して生じている大規模自然災害により被害を被った、もしくは被っている諸地域のインフラの回復および、その後の復興を祈念します。


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2018年5月16日水曜日

20180516 不図した契機で調べることと知識全般の急激なインフレについて

時折、人と話し、後になって何かしら啓示を受けたかのように、その会話に出てきた『あること』について調べだすことがあります。おそらく、そうした行為態度は以前からあり、また以前の方がより頻繁であったように思われます。

とはいえ、それもインターネットそして、その携帯端末であるスマホが登場することにより、こうした知識に対する渇望は以前に比べかなり減衰してしまったのではないかと思うことがあります・・(苦笑)。【以前に比べ、経時的にある知識に対する渇望が増大することは顕著に少なくなってきたと云えます。これは年齢によるものもあるとは思われますが、それよりも、さきに述べた状況の変化の方がより大きく作用しているのではないかと思われるのです。】。

これら機器が存在しない時代は、手始めに百科事典で調べたり、あるいは、調べるためにわざわざ図書館や書店に出向くといったこともありました。そのように考えてみますと、インターネットの普及前後では、我々が即座に認識できる知識の量が数値的に計測、比較することが困難な程に大きく変わったと云えます。

その結果として知識全般の急激なインフレともいえる状況を我々は認識し、そこに端を発し学問・知識の府である大学そのものに対し、今後の在り方が問われているのが昨今の状況と云えるのではないでしょうか?

くわえて、奇しくも15世紀欧州における活版印刷の普及が当時の教会、大学に及ぼした影響もまた、さきに述べたことと類似する様相があったのではないかと考えます。

さて、そこでハナシは冒頭に戻り、先日頂いたメールから不図、これまであまり接することがなかったスペイン内戦(1936~1939)について少し調べてみようと思い立ちました。これまでに自身がスペイン内戦で知り得ていたことはパブロ・ピカソ作の絵画『ゲルニカ』、ジョージ・オーウェル著『カタロニア賛歌』程度であり、この著作は在鹿時代に読みましたが、その内容は概ね忘れてしまっているため、もう一度本箱から探して読み直してみようと思います。また、さらに古書にてスペイン内戦を扱った概説書を見つけようと、アマゾンのサイトにて関連書籍を物色していますと、今度は1973年のチリのクーデターに関しての書籍がいくつか出てきましたので、商品の説明を読んでみますと、これらもまた、大変興味深いと思われてきましたので、こちらも機会があれば是非読んでみようと思うに至りました。

おそらくこうした歴史についての勘(少なくとも論理的とは云えないことから)らしきものを働かせる行為とは、思いのほかに重要であり、また、ある程度そうした行為を継続していますと、非科学的であり、よく分からないのですが、ともあれ何らかのカタチで洗練、上達していくのではないかとも思われたのですが、さて如何でしょうか・・(笑)。

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

数年前から現在までに日本列島におて生じた、あるいは現在も継続している大規模自然災害によって被害を被った、被っている諸地域のインフラの回復、その後の復興を祈念します。


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2018年5月15日火曜日

20180515 能動性の発露と創造性の方向について:理系と文系

おかげさまで昨日投稿分記事も比較的多くの方々に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。また、この記事にて述べた各個人の能動性とは、今後の社会において、より重要になってくると思われます。

何故ならば、能動的に活動することなしに自身が持つさまざまな特性・性質を見出すことは困難であると思われるからです。また、かつての我々の社会においては、受動的である方がむしろ美徳とされていたのかもしれませんが、近年のコンピューター技術の進化発展により、我々人間が職務を行うよりも、コンピューターがその職務を行うことの方がより効率的になりますと、以前は美徳であった受動的な態度の多くをコンピューターに肩代わりされることにより、その微妙とも云える価値を多く失い、我々には能動性しか残されなくなるのではないでしょうか?

約言しますと、近現代を通じて大きく進展してきた産業の機械化は一次、二次産業の多くの部分を担うようになり、さらに近年のコンピューター技術の進化発展により、それは人間固有の頭脳による労働が多く含まれるとも云える第三次産業領域にも及び、それにより我々はかつての受動性よりも能動性をより洗練、進化させる時代に立ち至ったということになります。

そしてさらに、この能動性は、多くの場合、創造性と親和力がある、結節し易いと云えるのではないでしょうか?

とはいえ、創造性とは云っても、当初からのその行使であっては持続可能性・発展持続性が乏しいと云え、やはり、その基礎においては、さまざまな学習が必要であると云えます。

また、おそらく現在の我々の社会においては、若い頃に学習をして、その後は学習にて培ったものを実地に運用していくといった傾向があり、これは特に自然科学系学問分野において顕著であると云えます。

一方、人文社会科学系分野においては、自然科学系学問分野ほどにこの傾向は顕著ではなく、あるいは何かしら別種の世界観・価値観といったものがあるように思われます。

このことをもう少し考えてみますと、自然科学系の方々は法則、公式そして客観的事実とされることなどを絶対的に普遍のものと考えている方々が多いのではないかと思われます。それ故、古今のどの書籍にてそれらを知ったとしても、その法則、公式そして事実に変わりはないと考えるといった傾向があるように思われます。

それに対して人文社会科学系の方々は、どのような知識であれ、それを得るに至る文脈・系譜といったものを極めて大事にすると云えます。むしろ、その文脈の流れをを精確に把握すること、背景の歴史を知ることにこそ、その神髄があると考えているフシがあるように思われます。

そして、無論双方共に重要ではあるのでしょうが、我々日本人は、後者の考え方が苦手であるといった(割合顕著な)特徴があるように思われます。それ故、今後我々の能動性の発露がこちらの分野においても、より多く為されることが期待されますが、そのための具体的な施策は、先ずはじめに人文社会科学系分野の学生数を多少減らし、より緊密な講義形態を採ることであると思われますが、さて如何でしょうか?

今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

ここ数年前より現在までに日本列島において発生した、あるいは現在も継続して発生している大規模自然災害により被害を被った、現在も被っている地域の諸インフラの回復および、その後の復興を祈念します。


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2018年5月14日月曜日

20180514 昨日の続き さまざまな作業の外部化と個々人の能動性の方向について・・

昨日は休日ということもあってか、かなり久し振りに1日の閲覧者数が1000人にまで達しました。また、昨日投稿分記事も比較的多くの方々に読んで頂けました。これらを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、そこで昨日投稿分記事内容についてあらためて考えてみますと、現在の社会の傾向として、常時必要でないものに関しては出来るだけ外部化・外注して済まそうといった傾向があると思われます。また、たしかにそうしておけば、必要な時にのみ、手軽に所望の知識・サービスなどが入手出来ますので、スッキリしてスマートであるとも云えます。

こうしたスマートさを追求するのは、決して悪いことではないと考えますが、他方、我々の性質とは、常時何らかの情報の往来・処理などによって活性を保っており、そうしたいわば外部からの刺激(往来・処理)がなくなってしまうと、自然と活性が鈍り、機能が低下もしくは退化いくといった性質を持っているのではないかとも思われるのです。

とはいうものの、実際問題として、出来ることならば面倒なことには関わり合いたくない、やりたくないというのが、我々の偽らざる本音であるとも云えます・・。そうしますと、そこで極めて重要である思われることは、我々各個人が持つ性質・志向もしくは能動性の方向であると思われるのです。

この能動性を駆動させることが出来る業務・職務であれば、多少の面倒があっても我々はそれを成し遂げることが出来る蓋然性が高いと云えます。そして、そうした業務・職務とは当然、各自それぞれの性質により異なります。

私は学生時代に体育会の運動部に所属していましたが、残念ながら、その運動競技に対してのセンスがあると感じられたことはありませんでした・・(苦笑)。また、そうした時に自身に対して感じる不甲斐なさ、無力さはなかなかこたえるものでありましたが、それも現在思い返してみますとあながち悪いことばかりでもなかったようにも思われます・・。

また、その一方で私は、こうした文章を書き続けること、および、おそらく多くのヒトが面倒に思い、あまり積極的には読もうとはしない幾つかの分野の書籍などを読み進めることなどは割合出来るようであり、これもまたさきと同様に自身固有の性質・志向であると云えます。

しかしながら、こうした性質・志向に関しては、おそらく20年程前であれば、一般的にはあまり受け入れられず、逆に『好きなことを仕事にしてはいけない!』といった社会風潮が強かったのではないかと記憶しています・・。おそらく当時はまだ我が国の景気が良かった時代の名残で、むしろそちらの方が社会全体としてはまわっていたのかもしれませんが、現在の我々の社会の様相、あるいは景気が良かった時期から現在に至るまでの変化の経緯とは、一つには、社会全体がこうしたことを考慮することを面倒に思い、そしてそうした意見を述べる人間・勢力を排除・圧迫し続けることにより生じてきたのではないかとも思われるのです・・(それも一種スッキリしていてスマートなのでしょうが・・(苦笑))。

また、そのように考えてみますと、我々の社会とは、古くから否応なく改革に迫られた際は、かなり大規模・大胆な改革を行いはするのですが、その後どうにか社会が安定しますと、そうした改革自体を面倒に思うようになるのか、更新作業を徐々に行わなくなり形骸化し、そして何かしら起源が不明な儀式のようなものとして遺るといったところがあるように思われるのです(それは保守ではなくて、ただの因循姑息ではないでしょうか・・。)。

ともあれ、これからの時代において、より重要になると思われることは、我々各自が持つ性質・志向もしくは能動性の方向を認識し、出来るだけ多くの人々がそれを追求していくことにより生じる自然な社会の変化の蓄積であるように思われるのですが、さて如何でしょうか? 

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

ここ数年前から現在に至るまでに日本列島において発生した、現在も発生している大規模自然災害により被害を被り、あるいは現在も被っている諸地域のインフラの回復そしてその後の復興を祈念します。


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2018年5月13日日曜日

20180513 自身に組み込まれた知識・技能とそうでないもの・・変化・教育の意味

ここ数日続いた一連の専門職大学に関する記事は、それぞれ比較的多くの方々に読んで頂けました。
読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。また、このことから高等教育機関に関することが更なる興味・関心を集めることは、少なくとも無意味ではないように思われましたので、今後も機会を見つけ、こうした主題にて記事作成を行いますので、どうぞよろしくお願いします。

さて、これら一連の記事をも含め、自身は随時関心のある題材にて記事作成を行い、そしてどうにか現在まで継続することが出来ているのですが、これがある特定の題材のみにて記事作成を行うのであったならば、1年はおろか1ヶ月も継続することは出来なかったと思われます・・(苦笑)。

こうした事情から、概ね我々は、何らかの自由裁量・フリーハンドの権限らしきものを与えられ、その行う業務・作業を全うし、さらに新たな創造も生じ、進化発展にもつなげることが出来るのでしょうが、他方で、近年のコンピューターに関連する各種機器の進化、性能の発展により、我々は本質的には自身に組み込まれていない知識・技能などをあたかも自身のものであるかのように扱う、用いることが出来るようになったと云えます・・。

また、実際『そのように扱う、用いることが恒常的に出来るのであれば、それはもう『自身のもの』と認識しても良いのではないか?』といった考えが半ば無意識のうちから一般化されてくる風潮も生じるのではないかと思われます・・。

昨今の言説の劣化・表層化の主たる原因はそこではないでしょうか?:論理的な意味での真実はトートロジーであって、おそらく、そこには深い意味のようなものはない:理系と文系の違い?

そして再度ハナシは先日以来の教育に戻るのですが、本質的に教育とは、ヒトが何か新たな知識・技能を持つことにより、そのヒト自体が変化することを目的としています。また、その究極的な目的は、各個人により異なるのでしょうが、ともあれ多くの人々が教育により変化することが増大し、最終的には我々人類全体、あるいは地球全体が、より良い方向へ変化することではないかと考えます。とはいえ、こうした考えは、あまりも漠然としており個人レベルでは、ただ単に『面白いから』であると云えます・・(笑)。

また、実際のところ、そこに何らかの個人レベルにて実感し得る面白さ・快楽のようなものがなければ、時代を通じて継続することは困難であったと云えます。それは我々人類がこれまで存続することが出来たのと同じように・・(笑)。

そして、このことは当ブログにおいてもいくらかは云えることでもあり、さまざまな他の心情・思いはあるにせよ、本質的に自身は文章を書くことが好きであり、また書籍からの抜粋引用も時にはありますが、基本的には、自身のコトバ・文章にて表出し続けることにより、何かしらのそれ特有の面白さ・快楽を味わうことが出来ているのです。
おそらくそれは他者を借り物の理屈・論理にて遣り込めることなどよりもはるかに大きな面白さ・快楽であると考えます・・。

また、それ故に教育においては原始的・肉体的なレベルからの知識・技能の習得つまり血肉化・インカーネーションといったものが為される必要があるように思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もまたここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

ここ数年前から現在に至るまでに日本列島にて発生した、あるいは現在も継続して発生している大規模自然災害によって被害を被った、被っている地域の諸インフラの回復および、その後の復興を祈念します。


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20180512 一昨日・昨日からの続き、専門職大学に期待すること・・

昨日投稿分記事もまた投稿翌日にしては多くの方々に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。また、当記事の作成後に思ったことですが、来年度の専門職大学の開設が順調に為されることにより、これまで地方自治体あるいは地域医師会・歯科医師会などが運営母体であった各種医療系専門学校が単独あるいは複数合併し、新たな専門職大学が設立されることもあるのではないかと思われました。

そして、そうした流れが生じることにより、既存の人文社会科学系学問を志望する学生さんは今後さらに減少していくことが見込まれます。しかし、実際のところ、人文社会科学系を本気で志す方々は、減少した後の人数程度が適正であり、これまで我々が所与のものとしていた大学学部・学科における人数の配分とは、あくまでも、戦後社会に適応させるための便宜的なものであると云えます。

また、それによりマスプロ教育を行うようになった(余儀なくされた?)大学側に対して学生の不満が爆発したものが、1960年代末の学生運動であるとも云えます。

こうした背景・文脈から考えてみますと、新設される専門職大学は、実業各界との連携を強めた職業ベースの教育が為されるとのことであり、それは教育が本質的に人間対人間といった、ある種プリミティブな要素により為されることを加味しますと、少なくとも、さきに述べた1960年代における状況と比べれば、かなり改善されているのではないかと思われるのです(『数十年前と比較するな!』と思われるかもしれませんが、この時に定着してしまったマスプロ教育が現在に至っても大きく変わっていない大学・学部・学科は決して珍しくないと思われます。)。

さらに、その包括する学部・学科には医療・介護系といった技術を要するものが多いことから、実業各界との連携を強めた職業ベースの教育が為されることは、時宜に適っていると思われます。それに加え、今後は実業各界における組織に対するいわゆるIR活動が適正に為されることが職業ベースであれ『大学教育』を行う上で重要であると考えます。

ともあれ、こうした状況を鑑み、そして今後来るべき時代の潮流を読み、特に文系学部を主体とする比較的小規模な大学は、近隣の医療・介護系大学および専門学校との連携もしくは合併などを模索・検討されるのが良いのではないかと思われます・・。

また、専門職大学の一般化により人文社会科学系学問を志す学生が減少することは、さきにも述べたように、そこまで憂慮すべきことではなく、むしろ『それでも、その学問をやりたい!』といったコアな学生さんの率が増加することにより、そのアウトプットもより優れたものになることが期待されます。

これに関連して、自身のことは未だ断定は出来ませんが、おそらく文系ベースの人間であり、また、そうであることから、こうしたブログ記事作成の継続などが出来ているのではないかと思われるのですが、それも本質的には自分でもよく分かりません・・。しかし同時に書き続けていることにより、以前よりかは多少分かるようにはなっているようにも思われるのです・・(笑)。


ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

数年前より現在に至るまで日本列島各地にて発生し、現在も継続して発生している、さまざまな大規模自然災害によって被害を被った地域の諸インフラの復旧および復興を祈念します。
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2018年5月12日土曜日

20180511 新たな種類の高等教育機関の出現により・・昨日の続き

おかげさまで昨日投稿分記事もまた、多くの方々に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。専門職大学につきましては、今後、少なくとも、これまで以上には一般化すると思われますので、既存の諸大学と如何なるカタチにて併存していくのかが興味を持たれるところです。

あるいは既存のある程度伝統・知名度を有する大学が、これまでの学部・学科編成に加えて専門職大学をも擁するといった事態が生じる可能性もまた、あるのではないかとも思われます。

くわえて、現在のところ来年度新設予定の専門職大学の運営母体は私立のみですが、今後、こうした流れに国公立大学も何らかのカタチにて参入してくるといった事態が生じるのではないかとも思われます。

思うに『少子化が進行しているこのご時勢において、何故、新たな種類の高等教育機関が設立されるのか?』と考えてみますと、それは産業・実業界側からの要請もあるとは思われますが、それと同時に、これまであまり競争に曝されてこなかった、ある程度の伝統・知名度を有する大学に対しての強力な競争相手として、この新たな高等教育機関の創設が企図されたようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

おそらく、この新たなタイプの大学の出現により、少なからずの大学は、その学部・学科編成から運営方針に至るまで、変革を余儀なくされることになると思われますが、それは旧弊墨守とも云える状態から抜け出し、新たな段階への発展のために有意義且つ不可欠な経験にもなるとも考えられます(これも既成事実への屈服ではありますが、否定ばかりもしていらません・・)。

しかし一方で、専門職大学の出現により、就職後に焦点を当てた教育を施す一方で、保持した方が良いと思うことは、各学生が能動的に興味を持ち学び続けることが出来るような教養系学問を大事にすることであると考えます。

このことは(本当に)一見無駄であるように思われますが、この時に掴むことが出来た能動的な駆動力は10年、20年後になって効いてくると思われるのです・・。おそらく我が国の徹底した此岸性への志向は、このことをどうしても軽んじてしまうのかもしれません・・。また、これまた以前に述べたことではありますが、それは、近代以降の我が国政体の耐用年数がおよそ70~80年程度であることとも何かしらの関連性があるようにも思われるのですが、さて如何でしょうか?

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

ここ数年間、現在までに日本列島において発生した、現在も継続して発生している、さまざまな大規模自然災害によって被害を被った、あるいは今現在も被害を被っている地域の諸インフラの回復そしてその後の復興を祈念します。


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ISBN978-4-263-46420-5









2018年5月11日金曜日

20180510 新たに創設される専門職大学について思ったこと

来年、平成31年度より国内各地にて専門職大学という新たな種類の高等教育機関が創設されるとのことです。
それら専門職大学のHPを見ますと、圧倒的に医療・福祉関連領域のものが多いことから、既存の同領域大学・学部・学科と比べて何処が異なるのかと思い、文科省のHPを見てみますと、以下のことが記されていました。

『従来の大学は、専門教育と教養教育や学術研究を併せて行うという機関の性格から、比較的、学問的色彩の強い教育が行われる傾向にあります。 専門職大学は、特定職種における業務遂行能力の育成に加え、特に、企業での長期実習や関連の職業分野に関する教育等を通じ、高度な「実践力」や豊かな「創造性」を培う教育に重点を置く点で特色があります。また、長期の企業内実習などを含め、教育課程の開発等を産業界と連携して行う、より実践的な教育を行う仕組みとなっています。』

つまり、専門職大学は、既存の大学におけるような、どちらかと云えば閉鎖的な学究ベースの教育とは異なり、より実業各界との連携を強めた実践的な職業ベースの教育を行う高等教育機関であると云えます。とはいえ、特に医療・福祉分野においては、これまでも概ね後者(
職業ベースの教育)に近い教育が行われていると思われ、それは多くの大学病院と医学部・歯学部・看護学部などの立地を見ても理解することが出来るのではないでしょうか?

また、こうしたことを考えてみますと、新たに創設される専門職大学が主に医療・福祉関連領域であることが自然に理解され、さらに今後、他分野の専門職大学が創設される場合、医療・福祉分野のそれがモデルとされることが予測されます(すべての分野で上手くいくとは思われませんが、いくつかの分野ではそれなりに成功するのではないかと思われます(特に自然科学系))。

さらに、ここまで書いて想起したのは、先日読了した吉見俊哉著『大学とは何か』pp.13‐14の以下の記述です。


『19世紀以降、大学は国民国家の、そして帝国の知的資源の主要な供給源に位置付けられ、人材育成と研究開発の両面で国家の支援を受けながら総合的な高等教育研究機関として華々しい再生を遂げるのである。その嚆矢がフンボルト理念に基づくプロイセンベルリン大学であったことは余りにも有名だが、ベルリン大学誕生は、フンボルト一人の天才によるのではなく、カントシラーフィヒテシェリングといった18世紀末から19世紀初頭にかけての疾風怒濤の時代のドイツ啓蒙主義者たちの知的潮流と不可分の関係をなしていた。
この近代の大学再生の原点に位置するカントは、大学を成り立たせる主要学部のうち、神学部、法学部、医学部の三つを『上級学部』、哲学部を『下級学部』と名付け、下級学部が理性と真理だけに従い、『みずからの教説に関して政府の命令から独立であり、命令を出す自由はもたないが、すべての命令を判定する自由を持つ』ことを擁護した。カントによれば、神学や法学、医学などは大学が国家にとって有用なものであるために必要であり、哲学は理性のために、つまり真理そのもののために必要である大学が大学であるためには、両者の間に緊張感ある対抗関係が存在しなくてはならず、どちらか一方があればいいというものではない。』


我が国は実質的に無宗教であり、欧米諸大学におけるほどの神学部の重要性は認められないと思われますが、他の上級二学部(法学部・医学部)に関しては、たしかに、その扱う領域が、半ば国家とは独立していると云えます。とりわけ医学は、それが実社会での実践・探求によって洗練され、より大きな重要性を持つに至った領域であると云えることから、(各種情報・知識の入手が容易になった)現在、この領域での実践的な職業ベースの教育を行う新たな高等教育機関が創設されることは、時宜に叶っていると思われます。

しかし一方で、抜粋引用文中にて述べられていた哲学部の役割(すべての命令を判定する自由を持つ)を我が国既存の人文社会科学系大学・学部・学科が今後も担い続けることが出来るのであろうかとは、いささか疑問に思われるところです・・。

そしてまた、そうしたことを書いていますと、これまた以前に抜粋引用した司馬遼太郎江崎玲於奈による以下の対談が想起されます。

『江崎 試験の話に戻りますと、日本の試験制度はたしかに創造的にものを考える人間には不向きだと思います。しかし、それは日本が創造性を必要としない社会だからでしょう。考えようによっては、これで日本人がクリエイティビティをもったらとんでもないことになるし、あんまり繁栄し過ぎるんじゃないですか。(笑)

司馬 国立がみな同じ入試形態でやっているのはおかしいですね。つまり東京大学はそうだけれども、京都大学は違う方法でやる。数学が出来るやつは全部入れちゃうとか、数学ができなくても、おまえはこういう方面の才能が伸ばせるような席だけは与えてやるとかいうことがないでしょう。全部画一です。どういう民族をつくるつもりでそうするのか、よくわからない。いま、一番の秀才の集まるのは医学部だそうですね。医学進学コースは平均七〇点ぐらいとらなきゃ入れない。医者が重んぜられる社会は無目的社会といえませんか。医者になるというのは、生活の安定を望むというだけが目的の場合が多いから、それだけエネルギッシュな秀才少年たちの志としたら、どうしようもない。ところがいま優秀な少年の志がまさにそれでしょう。

江崎 全国画一の試験が実施できる国だということは、逆にいえばメリットの一つでしょう。日本は創造性をあまり必要としない国であってよいのかもしれません。金をため込むことが目的だったら、金をため込むこと自体に快感を感じればいいわけです。だけど金色夜叉みたいになってしまう・・・(笑)。

司馬 知能の限り傾けて金をためる。一種の復讐かな。(笑)

江崎 戦争に負けた復讐かもしれませんよ(笑)。日本は戦争に負けて、もうだめになるかもしれないと思われたのに、経済を復興させたうえ、経済進出を三十年かけて成し遂げた。その実績から言えば、日本人は今後もかなりの難問題でも、実行能力にものを言わせて何とか切り抜けるでしょう。しかしそのような行き方には限界がありますね。戦争という形ではカタストロフィーは起こらないでしょうけれども、抽象的な意味で日本沈没が起こる可能性はなきにしもあらずではないでしょうか。それはどういうことかといいますと、カタストロフィーに向かったときにブレーキをかける社会的な力が弱いということです。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます。

ここ数年来より現在に至るまで日本列島各地において生じた、現在も継続し生じている、さまざまな大規模自然災害によって被害を被った地域の諸インフラの復旧および復興を祈念します。
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