2015年10月5日月曜日

20150918

A「ブログの投稿数もだいぶ増えてきましたね。」


B「ええ、あともう少しで3桁に達します。
それで最近思い出すのは、以前ミクシイやフェイスブックでも結構な数を投稿してきたことです。
フェイスブックの投稿はそのまま放置してありますが、ミクシイに関しては完全にアカウントごと削除してしまっているので、これは今考えてみると多少惜しいことをしたかもしれません・・。」


A「そうだったのですか・・ちなみにミクシイでの投稿はどんな内容だったのですか?」


B「ミクシイでの投稿は大体自身の書いた文章でした。
しかし同時にその内容は今考えてみると、かなり恥ずかしいものが多かったのではないかと思います(笑)。
いや、それでも現在と比べると間違いなく勢いみたいなものはありましたが・・。」


A「はあ、複雑ですね。まあ、何れにしましても、そういったものは最悪でも笑いのタネにはなると思いますので、やはりとっておいた方が良かったのではないかと思います。」


B「笑いのタネですか・・・そう考えると、現在のブログでの投稿は書籍からの抜粋が大半なのですが、これは以前ミクシイなどで投稿していた時期に比べ勢いが衰えたことと、ネット社会で自己を守りつつ、何かしら発信するためにそうしている、あるいはそうなったのかもしれません。
さらに自身の文章の場合、対話形式を用いているのも直接的な発信を避けた結果であるのかもしれません・・。
しかしそれと同時に対話形式の文章とは、意見、思考の成立過程の一面を提示することができるのではないかとも考えます。
加えて、これまでに書いた対話内容は、感覚的ではありますが、七・八割は過去の実体験に基づいていますから、まあ、そこまで非常識なことは書いていないのではないかとも思います。
ただ実際の会話はもう少しくだけた調子ですけれども・・()。」


A「はあ、何だか現実と対話内容の世界の境界がややこしくなってきましたね()
れでしたら、この会話もブログのネタになる可能性があるのですか?」


B「ええ、この会話内容は結構面白いと思いましたので、全部ではありませんが、多少内容をボカし、個人特定につながる要素を除いて書いてみようと思います()。」


A「それでしたら、この会話内容に関係あるのではないかと思ったものを丁度先日読みましたので、その部分のコピーかPDFファイルを今度お送りしますよ。
しかし、それはそうと誰がAさんのブログを読んでいるのでしょうか?
Aさんのブログは多分、全部が全部面白くて読み易いということはないと思うのですが・・?」


B「なかなか手厳しい御意見ですが同時にその通りであるとも思います・・(苦笑)
それでもつい先日***時代の同級生からクラス会の連絡をかなり久しぶりで頂きましたよ。
しかし現在私は求職活動中の身であり、且つ多くの人と陽気に話せる状態でもありませんので、残念ではありますが、欠席にさせて頂きました・・。
あとは、ブログを書いた後に、知人から批評めいたメールが届いたり、SNSにて殆ど投稿しない人が投稿しているのを見つけますと「あれ、読んでくれているのかな?」と思ったりしますが、これは先日書いたブログでも記しましたが、まあ自意識過剰でしょうね・・()。」


A「うーん、どうでしょうか・・まあ、Bさんが感じたもののうち半分くらいは自意識過剰であると思います。しかし同時に不思議なことも起きたりしますからね・・。」


B「ええ、それは確かにあると思います。
偶然であるとは思いますが、先月久しぶりにCさんから電話があった直後にDさんから電話がかかってきましたよ。
二人がしめし合わせているということはないと思いますので、ああいうのは不思議ですね・・。
どういった偶然が働いているのでしょうかね?」


A「ああ、そういうことがあったのですか・・それでCさんとDさんはお元気でしたか?」


B「お元気そうでしたよ。どちらかと云えば私が話を聞いていた様な感じでしたが・・。」


A「それじゃあ、相変わらずですね()。」


B「それでちょっと思い出したのですが、前に読んだ北杜夫の小説の中で「不思議な事に躁気味の時に躁気味の人から連絡がくる。」っていうのがありましたけれど、これは先程の現象と何か関係あるのかもしれません・・。
こういうのは科学的には多分解明できないと思いますが、何かあるのかもしれません。
ただ、前の電話の件については、私が躁気味ということはないと思いますよ。
しかし、お陰さまでか電話で話した後に少し元気になったかもしれませんね・・()。」


A「それじゃあ結果的には良かったということですね?」


B「ええ、そうです。それでまあ、さらにこのトピックの追加なのですが、小林秀雄がどこかで「会話を通じて生きた知恵ってものが火花の様に生じるんだ。」と云っていたのですが、先ほどのCさん、Dさんとの会話であれ、現在のAさんとの会話であれ、その際に生じた火花から発生した要素の蓄積により、その後、不思議な出来事が生じるのかもしれません。
ですから人との会話であれ、読書による著者との対話であれ、そういったことの繰り返しにより徐々に知恵、知識が蓄積していくのではないかと思います。
ただ、こういった考え方はどちらかというと文系的であり、理系に関しては少し違うのかもしれません。
あるいは以前ブログでも書きましたが、帰納、演繹の考え方の違いについても云えるのかもしれません。
そして、これを言い換えますと一般的に文系とは、多くの書籍の熟読玩味を通じ、内部からその本質に迫る方法であるのに対し、理系は、はじめにその本質を把握し、そこから個別的事例への応用に至るという学問的方法が採られるのではないかと思います。
それに多くの理系の場合、規模の大小はあれ、実験が付きものですから書籍に対する価値観が文系とは異なるのではないかもしれません。」


A「はあ、そんなものですか・・そういえば確かに私の理系の友人もそんなところがありました。
自分の研究に必要な論文の部分だけをジャーナルから抜き取りファイルしているのを見たことがありますが、あれは特に古い文献、古典を扱う文系分野から見ると「スゴイことしているな!」って思いますね()。」


B「ええ、確かにAさんは書籍を大事にしていますよね。
その点今の私は現在本棚も置けない様な住環境ですので、書籍は畳の上に直積みしています。
ですから、何か不図思った時に即座に本棚から所望の書籍を取り出せる様な住環境は心底希望していますね・・。」


A「ええ、それはよくわかります。Bさんは色々な所から話を引っ張ってくるところが面白いのですから。」


B「どうもありがとうございます。
ともあれ、書籍の置かれた物理的な環境とは、ある意味自分の脳の延長上であり、それがある程度整理されていることが大事であることは最近痛感しました・・。
とはいえ、あくまでも私は有機的混沌の方が好きですけれども・・そういった環境、状況こそが面白い、新奇なことを呼び起こすのではないかと思います。」

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