しかしながら当地にて採掘される緑泥片岩を材料として用いることは古墳造営以前の時代においても為されており、一例として1970年に和歌山市の太田黒田(遺跡)にて出土した銅鐸は、後の1996年に島根県雲南市(加茂岩倉遺跡)にて39個の銅鐸が一挙に出土したうちの4個と同氾関係であることが判明し話題となったものであるが、この太田黒田にて出土した銅鐸は板状に加工した緑泥片岩を舌として用いていたことが挙げられる。
時代および加工目的が異なるとはいえ、同一材質の岩石を材料として選択していることは、緑泥片岩の時代を超えた普遍的有用性、もしくはそれを選択した地域住民の時代を超えた連続性、あるいはその双方を示すものであるのかは、地域の歴史を考える上で大変興味深い。
また、一方において前述の当地にて集中的に見られる古墳造営様式と共通、同一の様式を持つ古墳が当地域と離れた地域(奈良県、福岡県、熊本県他)において見られることもまた大変興味深く、これは古墳造営集団の移住、来歴、そして勢力、交易圏等、当時の社会構造の一側面を示すものであるといえる。
また、別件ではあるが、類似の事例として、古代南九州東部のいわゆる日向、大隅隼人の特徴的な墓制とされる地下式横穴墓と同一様式を持つものが、古代におけるその大規模な移住先であった現在の京都府京田辺市(旧大住村)一帯に点在していることが挙げられる。
記紀に散見される様に古代朝廷と長く緊張関係にあったとされる南九州地域ではあるが、より詳細に見ると、その地域内(南九州)において温度差があり、それが古代朝廷文化墓制の受容、中心地域への移住の痕跡となっているものと考える。
平城京跡にて出土した上下に鋸歯文、中央に上下二つの渦巻文を持つ盾は隼人特有のものであるとされる。
また万葉集に「隼人の名に負ふ夜声のいちしろく我が名は告りつ妻と頼ませ」とあるが、これらのことから当時南九州出自の隼人等の多くは宮廷の警護をはじめ軍事方面の職掌に従事していたことが理解できる。
緑泥片岩
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