これは古代の貨幣製造を行う役所の名称であり、双方にかつてそれが存在したということから同一起源であると考えられる。
一方、後者(周船寺)付近に在住時、その地名(周船寺)の由来を聞いたところ、元々周船寺とは糸島半島の東側の付け根にあたり、そこを基点として船で糸島半島を周り西の唐津側に抜けるか、あるいはその地峡に近い立地により運河あるいは陸路を用いて西側に抜けるかを選択する交通の要衝であったことによるという。
これまでに九州の島々における類似の事例を聞いたことがあり、世界的に見てもバイキングが似たような事(船を陸路でコロを用いて近くの海、河川へ移動する。)をしている絵画を以前何処かで見た記憶があることから納得できる。
しかし最後の「寺」となると豪徳寺、祐天寺などの様に同名の寺がこの地に存在しないこと、またその痕跡がない事から、おそらく鋳銭司、周船寺(すせんじ)とは前述の「古代の貨幣製造を行う役所」が起源ではないかと考えられる。
さらに類似の別事例として大分県の臼杵(うすき)市、宮崎県北部にかつて存在した臼杵(うすき)郡、鹿児島県鹿児島市の宇宿(うすき)、鹿児島県奄美市(奄美大島)の宇宿(うしゅく)が挙げられる。
かつて鹿児島県鹿児島市の宇宿周辺に在住の折、親戚が愛媛県松山市に在住しており、所用にて北部九州、山陽方面に行くと、ここに立ち寄った。そこからの帰路はJR予讃線にて松山から八幡浜に行き、そこからフェリーに乗り、右手に発電用の大きな風車の立ち並ぶ佐田岬半島を眺め豊後水道、豊予海峡を渡り臼杵港に着き、そこから徒歩にてJR臼杵駅まで行き、日豊本線にて南下し、指宿枕崎線の宇宿駅に帰着下車するといった具合である。
JR臼杵駅で切符購入の際、「宇宿(うすき)まで一枚」と伝えたら当初怪訝な顔をされたので「指宿枕崎線の宇宿まで一枚」と云い直した。
ちなみに大分県の臼杵はかつて大友氏の下で繁栄し、戦国末期には宣教師のフランシスコ・ザビエルも訪れ布教したという。
その一方において臼杵は仏教遺跡の磨崖仏でも有名である。
ちなみに磨崖仏は鹿児島においても南九州市の川辺、鹿児島市の慈眼寺などでその存在が知られている。
鹿児島における磨崖仏の起源を考えると、古来、大隅、薩摩地域は豊の国(現在の大分)からの移民が多く、これら磨崖仏もその多くは彼等、豊の国(現在の大分)からの移民集団あるいはその末裔によって製作されたものではないかと考えられる。
さらに豊の国(現在の大分)の磨崖仏の起源を考えると、我が国における磨崖仏にて有名な地域の多くは古来渡来人が多く移住した場所であったことから、朝鮮半島、そしてその作風の特徴から大隅、薩摩、豊の国のものに限定すると、半島南東部の旧新羅の地域ではないかと考えるが、これは実際に調査を行ったわけではない。
一方、後者(周船寺)付近に在住時、その地名(周船寺)の由来を聞いたところ、元々周船寺とは糸島半島の東側の付け根にあたり、そこを基点として船で糸島半島を周り西の唐津側に抜けるか、あるいはその地峡に近い立地により運河あるいは陸路を用いて西側に抜けるかを選択する交通の要衝であったことによるという。
これまでに九州の島々における類似の事例を聞いたことがあり、世界的に見てもバイキングが似たような事(船を陸路でコロを用いて近くの海、河川へ移動する。)をしている絵画を以前何処かで見た記憶があることから納得できる。
しかし最後の「寺」となると豪徳寺、祐天寺などの様に同名の寺がこの地に存在しないこと、またその痕跡がない事から、おそらく鋳銭司、周船寺(すせんじ)とは前述の「古代の貨幣製造を行う役所」が起源ではないかと考えられる。
さらに類似の別事例として大分県の臼杵(うすき)市、宮崎県北部にかつて存在した臼杵(うすき)郡、鹿児島県鹿児島市の宇宿(うすき)、鹿児島県奄美市(奄美大島)の宇宿(うしゅく)が挙げられる。
かつて鹿児島県鹿児島市の宇宿周辺に在住の折、親戚が愛媛県松山市に在住しており、所用にて北部九州、山陽方面に行くと、ここに立ち寄った。そこからの帰路はJR予讃線にて松山から八幡浜に行き、そこからフェリーに乗り、右手に発電用の大きな風車の立ち並ぶ佐田岬半島を眺め豊後水道、豊予海峡を渡り臼杵港に着き、そこから徒歩にてJR臼杵駅まで行き、日豊本線にて南下し、指宿枕崎線の宇宿駅に帰着下車するといった具合である。
JR臼杵駅で切符購入の際、「宇宿(うすき)まで一枚」と伝えたら当初怪訝な顔をされたので「指宿枕崎線の宇宿まで一枚」と云い直した。
ちなみに大分県の臼杵はかつて大友氏の下で繁栄し、戦国末期には宣教師のフランシスコ・ザビエルも訪れ布教したという。
その一方において臼杵は仏教遺跡の磨崖仏でも有名である。
ちなみに磨崖仏は鹿児島においても南九州市の川辺、鹿児島市の慈眼寺などでその存在が知られている。
鹿児島における磨崖仏の起源を考えると、古来、大隅、薩摩地域は豊の国(現在の大分)からの移民が多く、これら磨崖仏もその多くは彼等、豊の国(現在の大分)からの移民集団あるいはその末裔によって製作されたものではないかと考えられる。
さらに豊の国(現在の大分)の磨崖仏の起源を考えると、我が国における磨崖仏にて有名な地域の多くは古来渡来人が多く移住した場所であったことから、朝鮮半島、そしてその作風の特徴から大隅、薩摩、豊の国のものに限定すると、半島南東部の旧新羅の地域ではないかと考えるが、これは実際に調査を行ったわけではない。
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