A「最近思ったのですが、論文とか説明形式の本より、対話形式のものの方が読み易いんじゃないですかね。あと、小説でも対話部分が多いものの方が楽しめて早く読み終わると思うのですけれども・・。」
B「そうだね、説明ばかりの文章は気分が乗っていたり、本当に興味がある内容でないと読むのが苦痛に思う時があるからね。でも、説明を目的とした対話形式のものもあるよ、例えば中江兆民の「三酔人経綸問答」とか空海の「三教指帰」とかが多分そうだよ。」
A「ああ、そこらへんはもう古典の部類に入りますけれども確かに対話形式の古典は同時代の他の作品、著作に比べたら多分読み易いと思います。・・感覚的な話ですけれど。」
B「まあ、何れにしても対話形式の場合、その世界に入り込み易いのだと思うよ・・。ああいうものはとりあえず、その世界に入り込まないと分からないのが多いからね・・小説なんてその最たるものでしょう。」
A「それは確かにそうですね。あと、それを言ったらボケとツッコミで笑わせる漫才とかの面白さにも共通するかもしれませんね。」
B「ああいうのも会話のやり取りの中に面白さがあるからね、だから確かに根っこは一緒、共通かもしれないね。」
A「お笑いでも何でもそういう対話、やり取りの世界の面白さ・・まあ色々な種類の面白さがあると思うのですが、そういうのを観衆なり読者が、感知、判断して、それぞれの良し悪しが決まってゆくんでしょうね。」
B「それを言ったら会社とか学校の面接とかも結局は一緒じゃないかな。だとしたら、ああいうのは一体、何を基準にして判断しているのだろうね・・。」
A「ええ、多分面接も根っこは一緒だと思いますけれども、ああいう面接の場合、会社なり学校などの組織の求める人間像っていうのが予めあって、それにどの程度適合、合致しているか判断するという明確な目的があるますからね。
一方、漫才とか小説の面白さに対して、予め求める世界観とかが出てきたら、段々と形式化して、つくり手側の創造力、想像力が衰えていってしまうのではないでしょうかね?
だから会社の面接とかは予めある程度の求めるものがあっても良いと思いますけれども、一方、創造を伴う世界のものは、予め求めるものがあると、つくり手がそれに縛られていってしまうのではないでしょうかね・・。
ただ、創造を伴う世界のものでもそれが商品化してしまうと、その間にある違いは無くなってゆくのかもしれませんね・・。」
B「うん、商品化すると否が応でも最大公約数的にウケて多くの集客、収益が望めるようなものにしようとするからね、あと、別に悪くいうつもりではないけれども、それはここ最近よく作られている漫画の実写版映画とかにもそういう意図があるんじゃないかなって思うよ。」
A「ああ、そうですね。確かにそんな傾向はあると思いますけれど、でもそれは古今東西どこでも似たようなことをやってきているのではないでしょうか。
ただ、そういう認識を個人がより強く出来る様になった背景には、インターネットの普及やら定着があると思いますよ。つまりそういうのは、人一人が瞬時に集めることが出来る情報量が以前に比べ格段に増えたことによるのではないかなと思います。」
B「それは確かにあるね、タブレットPCなりスマホとかを持っていると、とても便利で憶えることが最小限で済むし、カーナビなんかあると地図とか場所を憶えなくても大丈夫だからね。」
A「ええ、そこで養老孟司が何かの本で書いていましたけれど、そういう外界と人間の脳のインターフェイスの技術が発達してくると、今度は人間の脳の方が退化してくるらしいです。まあ、筋肉を使わないと筋力が低下してくるのと同じ理屈だと思いますけれど、それは合っていると思います。」
B「じゃあネットが普及する前後で小説などの世界観、思想なんかも変わったのかな?」
A「最近の小説はあまり読まないからよく分かりませんが、多分傾向として細部の描写など純粋に技術に近い部分は進歩、発達したのかもしれません。
ただ、たまに出て来る筆者の世界観とか作品全体を包括する思想とかの質が変わってきたのではないかなと思います。
まあ時代が変わればこういうのも当然なのでしょうが・・。
あと、ポーランド出身でイギリスの小説家のコンラッドが多分どこかで書いていたと思うのですが「小説とは筆者の持つ哲学、思想を咀嚼し易くしたものである。」
この伝でゆくと、現在の日本の小説は、描写の方により力点を置いて、世界観、思想の表明、あるいはその内容の特異性の度合いが小さくなっているんじゃないかな・・なんて思えます。
まあ小説も俳句みたいな写実的なものに近くなっているのかもしれません。」
B「うん、まあよくいえば、角が取れて読み易い風流な小説が増えているだろうね、より均質、同質的な社会になっていけば、自然とそういう風になってゆくのかもしれないね。」
A「ええ、しかし気になるのは、後世からこれを見た時に進化、退化の何れと見做されるのかよくわからないということです。
司馬遼太郎は日本の近現代史のことを書く際に大体、明治期は良かったが、太平洋戦争に至るあたりまでの昭和初期の日本はどうにもならなかったと述べていて、これは同時代人の山本七平、会田雄次なども似たようなことを述べていますし、丸山真男、竹山道雄などももう少し複雑でしたけれど似たようなことを述べています。
そして、この伝でいくと現在の日本はこの先戦争までには至らないにしても、色々なものが何か大きなものに収斂されているような感じを受けます。
そして芥川龍之介が言った「ぼんやりとした不安」とは、そういったものではないかななんて思います。」
B「うーん、それは考えすぎだと思うけれども、確かに今の日本社会はなんかおかしいなと思うことがあるよね・・でもそれも時代の流れだから仕方ないんじゃないかな・・。」
A「はあ、そんなものですかね・・。」
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