2022年11月30日水曜日

20221129 ブログ記事作成に集中するまでの過程について・・

昨日1900記事に到達したため、本日からしばらくはブログ記事の作成を休もうと考えていましたが、この次の目標は2000記事への到達と、当ブログの今後を検討するうえでもキリが良い区切りであるという事情もあり、そして、来年の出来るだけ早い時期に2000記事に到達するためにも、年内は出来るだけ記事作成を行っておこうと思い、さきほど記事作成をはじめました。とはいえ、本日は夕刻より比較的強い雨が断続的に降り、PC前に座っていてもあまり気分が乗ってきません。他方で毎回ではありませんが、ブログ記事作成のためにPC前に座り、何かしら文章を作成していますと、徐々に乗ってくることもありますので、とりあえずはPC前に座り、何かしら文章を作成してみることが大事であると、これまでの経験は語ります・・。

しかしながら、そこに至るまでがなかなか億劫であり、PCは開いたものの動画や音楽を視聴したり、あるいは読みかけか、目に付いた書籍を開いてしまったりと、何とか退避を試みようとしてしまうことが多々あります・・(苦笑)。それでも気を取り直して当ブログを開き、そして「新しい投稿」をクリックして記事作成をはじめます。当初は、それ以前の気分を引き摺っていることが多く、スムーズに記事作成が出来ませんが、これが5分、10分と経って、なおも作成していますと、特に集中するといったわけではありませんが、キーボード上の指は割合滑らかに動くようになります。あるいはこの状態を表現するならば、文章作成の基層にある頭脳や精神と、それを文章としてPC上に具現化していく指先との連動が為されている状態といえます。この状態は、まさに文章が溢れるようにとは行きませんが、自分なりには滑らかに動いていると云え、これと類似したペースでのPCの文章入力は、たとえばメールにて、あまり迷うことなく文面を作成している時であると云えます。とはいえ、メールの文面も毎回速やかに入力出来ているわけでもなく、もちろん、当ブログでの平均的な文章作成速度と比較しますと、有意に早いとは云えますが、それでも逡巡することは度々あります。ただ、メールの場合、作成したメール文面を読む対象が決まっていることから、ほとんどの場合、作成するメール文面の主旨は予め念頭にあると云えます。しかし、ブログでの文章作成はそうではありません。当初の頃は、秘かに具体的な読み手となる対象を念頭におきつつ、ブログ記事を作成していた時期もありましたが、徐々になれてきますと、あまり、その対象を念頭に置かなくとも、何かしらの文章を作成出来るようにはなっていました。しかし、そうであっても、やはりスランプはあり、たとえ技術が向上したとしても、なくなるものではないように思われます・・。このあたりを自分の意思で制御出来れば良いと思うのですが、しかし文章作成の本職である作家の方々の記述によると、数時間どころか数日でも、全く文章を作成することが出来ないこともしばしばあるとのことで、それまでに作成してきた話の筋(小説)のさきとしての文章作成には、制約される部分がかなりあるのだと思われます。そして、こうした情報により、さらに楽観的にさきゆきを見ることが出来なくなりますが、しかし、そちらの方が案外と、こうした継続的なブログ記事の作成には良いのかもしれません・・。

そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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2022年11月28日月曜日

20221128 総投稿記事1900への到達から思ったこと

おかげさまで、直近数日間投稿してきました引用記事はどれも、比較的多くの方々に読んで頂けました。これらを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そしてまた今回の記事投稿により、総投稿記事が1900に到達します。以前立てた目標では、年内に1900記事に到達出来れば、とりあえず自分としては及第としていましたが、今回の1900記事到達により、その目標を少し変更し、年内に、多少の誤差(±5程度)は許容して、1920記事まで到達出来ればよしとします。

さらにまた、先のことを述べますと、来年の出来るだけ早いうちに、かねてより目標としている2000記事に到達出来ればとも思うに至るのですが、これに関しては未だに現実感はありません。とはいえ、2018年に1000記事に到達してから(また)右往左往を繰り返して記事作成を継続して(どうにか)1900記事に到達したことにより、さきに述べたように現実感はないものの、相対的には以前よりも2000記事への到達は現実味を帯びてきたとはいえます・・。

そして、こうした現実感、実感はないものの、自分が作成する何らかの数が増加することによって生じる変化はたしかにあるようで、これをさらに続けてみますと、また以前とは異なった現実感・実感をも得ることが出来るのではないかとも思われるのです・・。

思い返してみますと、2015年の当ブログをはじめた当初は、こうした公表を前提とする文章の作成についてはまったく知らずに、そしてまた、そのやり方、進め方を指南してくださる存在もいませんでしたので、引用記事を含めて、自分が書くことの出来る類の文章を作成してきましたが、その内容については、今現在に至るまで上達しているのであるか、未だによく分かりません・・(苦笑)。

ともあれ、そうしますと、2000記事到達への現実感もなく、さらに、これまでの文章作成に上達があったのか分からないままで、1900記事まで(どうにか)ブログ記事の作成を続けてきたことになりますが、それを可能にしたものとは、やはり読んで頂いている方々の存在であったと云えます。

さらに、ここ3年ほど(2年11カ月)は、ツイッターなどSNSとの連携をしてきたことにより、ブロガーの統計情報での閲覧者数の変化だけでなく、生の反応もあり、私としては当ブログ作成への意欲も多少は励起されたように思われます。

また、この連携をしてから時折、お目に掛かった方々から「ブログ読んでいるよ」といったことを言って頂くこともあり、思い返してみますと、これまで10人以上はいらっしゃっいました・・。そして、これまで(どうにか)継続してきたからこそ、ここ最近になり、そうした反応を頂くことも出来るようになったのではないかとも思われます・・。

そのように考えてみますと、2015年の開始当初の頃は「とりあえず何かしら文章を作成しないと・・」という強迫観念のようなものに突き動かされており、また同時に、当ブログは私にとって、そこまで重要と云えるようなものではありませんでしたが、記事数と期間が進むにつれ、私にとって当ブログは大きなもの、あるいはネット上ではあれ、自分を代表するものになっていったように思われます・・。

こうしたことは、以前では考えたことがありませんでしたので、やはり何かしらの外向きと云える活動を継続していますと、そこまで大きなものではないのかもしれませんが、内面に何らかの変化といったものが生じているのかもしれません・・。とはいえ、現在においてもやはりスランプはありますし、毎回スムーズな記事作成とはなりません・・。しかし、それでも、こうした活動を続けることによってのみ、遅々としたものであるのかもしれませんが、文章作成が出来る自分へと(どうにか)変化することが出来、そして次の何かに繋げることが出来るのではないかと思われるのです・・。そのため、また今しばらく記事作成を続けたいと思います・・。

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20221127 中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」 pp.414-416より抜粋

中央公論新社刊 宮崎市定著「アジア史概説」
pp.414-416より抜粋
ISBN-10 : 4122014018
ISBN-13 : 978-4122014015

古代日本はその政治的勢力が一時、朝鮮半島に進出して、半島の勢力均衡にたいしてある重量的な影響を及ぼしたことは事実である。また日本の特殊な物産、おそらく砂金などの貴金属が交易のために、大陸に向かって輸出されたであろうことも推測されるが、そのほかには、ことに文化的にはもっぱら大陸の文化を輸入するだけで、日本の文化が大陸に逆流する場合はほとんどなかったものと考えられる。もっとも平安朝時代に日本製の紙が中国貴族に喜ばれ、中国になくなった古書が宋の朝廷へ逆輸入されたなどのことがあるが、これを中国文化が日本へ流入した量とくらべれば、物の数でもなかったであろう。

 しかしこのことは、日本の文化がまったく中国の文化に隷属したことを意味するのではない。中国から流入した大陸文化は日本へ落ちつくとそのまま土着して、日本的なものに変化させられたのである。日本文化が中国へ逆流しなかったということは、文化水準において中国がはるかに高度であったとともに、日本の文化の基底が早くから中国とは異質的に発達してきたためである。中国人は朝鮮では箕子の井田の跡しか問題にせず、日本にたいしては秦の始皇帝によって派遣された徐福の墓の外には興味をもたず、ごく近世に入ってから後でも、日本における中国を追求するが、日本における日本そのものを研究する意図をもたなかったのである。

 大陸における政変、民族移動のたびごとに、多数の人民が安住の地を求めて日本へ渡来した。その中には文字を解する知識人もまって、かれらは史部として、朝廷における書記の職を世襲した。日本に輸入された漢字は、最初のうちはその音・訓ともに、本来の漢字のままに用いられたのであろうが、ただ地名・人命などの固有名詞を写すさいには、いきおい中国でもしばしば行われるように、漢字をたんなる字音として用い、いい換えれば一種の音符としてのみ使用した。また逆にあまりにしばしば繰り返して使用する文字は、漢字音のほかに、やがて日本字訓が与えられてそれが固定するようになった。ここにおいて文章をつづるのに、漢字法によらずに、日本語そのものを漢字音とをあわせ用い写すことができるようになってきた。「祝詞」「万葉集」「古事記」のような日本古文字はこのようにして出現できたのである。

 いわゆる万葉仮名は、漢字を単なる音価として用いるが、そこに一定の法則がなかったために、一音を写すに手あたりしだいに無数の漢字を選びだして用いた結果、書くにも読むにも多大の不便を伴わなければならなかった。ここにおいて、つぎの段階に入って、まず日本語の発音を整理し、これに相当する漢字を特定なものに限り、さらにこの漢字の形を省略して仮名を発明することができた。この光栄ある発明者はふつう弘法大師の業績とされるが、実際は確かなことはわからない。ただ五十音図はじつはインドの声明という発音字の影響によって日本で組織されたものであるという、もちろんこの声明も、中国を経過し仏教とともに日本に流入したものであるが、発明は中国において反切の方法を発明させたに止まり、ついに普遍的な音符の製作を見ないでおわったのに反し、日本においては東アジア諸国にさきがけて、この便利な音符文字を発明したことは、まことに誇るにたる功績といってよい。生活程度の低い日本において、教育が比較的下層階級にまで普及することができたのは、仮名の功徳による点が多いのである。日本ではその後もついに中国のような士大夫階級を発生させないですんだのは、ここにその一原因を求められるであろう。

2022年11月26日土曜日

20221126 中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」pp.249-253より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」
pp.249-253より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121025539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121025531

 プックリ肥った中年男で、鼻の下にヒトラーに似たチョビひげをはやしていた。おかま帽のような帽子をかぶり、胸当てのついた作業ズボン姿で、三脚の梯子を肩にかけてあらわれた。やおら梯子を立てかけて仕事にかかる。インテリアといえば聞こえはいいが、まあ、ペンキ屋といったところか。若い助手がいて、下から刷毛を手渡したりする。

 つまり、こんな風に「カール氏」は舞台にあらわれた。1960年代初めのこと。ウィーンの小さな劇場である。「カパレット」と呼ばれる地下の芝居小屋の一つ。50人も入れば満員で、客席と同様に舞台も小さい。中央にライトが一つあるだけ。ほとんど一人芝居と言っていい。中年男のモノローグだ。若い助手に問われるままに昔ばなしをする。そんなに遠い昔ではない。1960年代からすると、つい昨日のこと。ナチスが肩をいからして闊歩していた時代、そのころ自分はどんなふうに生きていたか。

 タイトルの「カール氏」は、「カールさん」「カールおやじ」としてもいい。ごくふつうの男である。おりおりナチ時代の流行歌を口ずさむ。何がおかしいのか、クックッと含み笑いをもらしたりするが、どちらかというと腹の立つことが多かったのだろう。

「ひでぇー時代よ」

ウィーン訛りのセリフがリフレーンのようにくり返される。ときたま仕事の手を休め一時間あまりしゃべりつづけた。

 たしかにひどい時代だった。始まりは1920年代の終わりちかく、世界恐慌まっただ中、記録的なインフレがあり、ついでデフレが見舞った。街には失業者があふれていた。隣国ドイツでヒトラーの率いるナチ党が、ぐんぐん勢力を拡大していく。ウィーン市中にも鉤十字の旗がひるがえり始めた。通りでは毎日のように労働者と右翼の衝突があり、血が流れた。ついで国会議事堂放火事件、親ナチ政権の誕生。1938年、オーストリアはナチス・ドイツに併合された。一夜にして町中の国旗が鉤十字にかわった。つづいて雪崩を打つようにしてドイツ軍の侵攻が始まった。

 その間、ウィーンの一市民、カール氏はどうしていたか?彼はさまざまな人や事件を見たり聞いたりした。ナチスに抵抗した首相が殺された。犯人は警察発表とちがってナチの一党だという噂だった。ある日、突然、ユダヤ人が追い立てを食い、胸にダビデの星のマークをつけて連行されていった。オーストリア国内にも、いくつかの強制収容所がつくられたという。何百万ものユダヤ人が送りこまれて大量に殺されているーとの噂が流れた。

 いろんな噂がとびかうなかで、小市民カール氏は終始多数派の一人だった。オーストリア社会党がのびたとき、彼はいそいそと労働者のデモに加わった。ナチスが強くなると、さっそくそちらにくらがえした。通りの群集にまじり、連行されるユダヤ人を見物していた。オープンカーでヒトラーがやってきたとき、鉤十字の小旗を打ち振りながら歓呼の声を上げた。

 ヘルムート・クヴァイルディンガー(1928~86)は戦後ウィーンが生んだ天才的な俳優兼作者だった。自作自演の風刺劇を数多く発表した。そのなかでも、「カール氏」はとびきりの名作だった。舞台では何年もロングランをつづけ、レコード、つづいてCDになり、テレビで放映され、映画になった。今ではすでに20世紀の古典作品と言っていい。単なる芝居にとどまらず、「カール氏」は一つの代名詞になった。時と場に応じて時流に乗る小市民。風見鶏、日和見主義者とも言われるだろう。

 といってべつだん、特別のタイプでも主義者でもない。どの国にも、いつの時代にもワンサといる。大多数の「国民の皆さま」の一人である。インフレの気配があると、すぐさま買い占めの列にもぐりこむ。デフレの傾向が言われだすと、小金をかきあつめて闇金融に投資したりする。といってどの場合にも、利のいい買い物をしたとは聞かない。よけいな代物をつかまされたり、ペテン師まがいの金融業者にいいようにされるのがオチなのだ。

 カール氏の考えによると、世の中の何ごともコネによるのが一番の早道である。仕事をまわしてもらうにも、出世するにも、わが子をいい学校に押しこむにも、娘の結婚にもコネをきかせる。ナチ体制にかわったとき、ひそかに地区の有力者のもとへご機嫌伺いに出向いたところ、間の悪いことに反ナチを高言していた仕事仲間とバッタリ出くわしたー。

 カール氏のひとり語りには、小市民のズルさ、小心ぶり、無責任さが巧みに戯画化されていた。観客はクスクス笑いながら、いつしか顔がこわばってくる。時代を醒めた目で見ているおどけ者が、同時代の百面相をしてみせた。人は腹をかかえて笑いつつ、ふと気がつくと、それは自分の似顔絵でもあるのだった。

 ヒトラーが呼びかけたのは、つねにこの「国民の皆さま」だった。お得意の演説、ただ一つの標的を狙うように多数派小市民に向けられていた。何かあれば、みんなといっしょでいたがる「よき市民たち」である。多数派にいないと不安でならない。ほかの誰かに利をさらわれそうで落ち着かない。もしそれまで主張してきたことと行動との不一致を問われると、モゴモゴと弁解する。あるいはあれこれ言いつくろう。ときには額に青筋を立てて怒りだす。またあるいは居直る。

 だからといって悪人であるためにはなんらかの強烈な個性を必要とするが、そのたぐいは、きれいさっぱり持ち合わせていないのだ。

 風見鶏、日和見主義者、時流便乗派ー心理学者はこの種の人間心理を診断して、特定の性格に分類するだろう。社会学者なら、人間における行動の類型にてらして一つの定まった型にあてはめ、このタイプに顕著に見られる性格を論じるだろう。

 ヒトラーはウィーン、ミュンヘンの下積み時代の体験からよく知っていた。学者のあげる性格など机上の空論にすぎない。多数派は性格をもたないからこそ、どのような人間にもなれるし、いかなる信念に足をとられることもない。どのような個性的な性格にも縁がないからこそ、世の中の風向きに応じて方向をかえることができる。無個性であるからこそ、何はなくとも時流を泳いで生きのびるための生活力は、旺盛にそなえている。

2022年11月25日金曜日

20221124 コロナ後の体調変化と引用記事の作成をしばらく続けていて思ったこと

本日は帰宅が若干遅くなり、時刻も23:30をまわってはいますが、何かしら作成しておこうと思い、さきほど来より記事作成をしています。また、おかげさまで、直近4日間は書籍からの引用記事を投稿してきましたが、こちらも思いのほかに閲覧者数が伸びました。そして本日もまた引用記事を作成しようと、その候補となる書籍を数冊、PC脇に置いていますが、それらはまた後日の投稿としようと思います。

さて、先月初旬に新型コロナウィルス感染症に罹患し臥せった後から、現在に至るまで、いくつか体調に違和感を感じていますが、そのなかでも体力の低下は、荷物を持っての移動時に痛感させられます。またそれは、今なお続くコロナ禍のなかで、以前よりも外出が少なくなったことにも因るのかもしれません。ともあれ、これは加齢に伴う不可逆的な変化であるとは考えずに、今後は何かしら体力をつけて挽回する方策を検討して行っていきたいと思います。

またこれは、端的には「健康的に痩せる」ということであり、これまでも、そうした取組みは行ってきましたので、今度もまた、その時に行ったことを繰り返すことになると思われますが、まずは徐々に食事を減らして、そして出来るだけ体を動かすことを意識しようと思います。

しかし、そのように考えてみますと、たしかに、このコロナ禍となってから、外出の機会が減り、歩く距離も減り、他方で屋内にいることが多いために食事量も増大したと云えます。そして、そうした状況がしばらく継続しますと、やはり体重は自然と増加するものと云えます・・(苦笑)。

そこで不図「コロナ太り」というコトバを思い出し、これをネット検索をしますと、やはり、たくさん出てきました・・。当然と言えば当然ではありますが、私もまた時代の子であったのです。

時代の子といえば、ツイッターをはじめたこの2年は、以前にもブログ記事にて述べましたが、書籍購入のきっかけがツイッターとなることが有意に増加しました。そして現在に至っては、ダイレクトな書籍のネット広告や告示から、ツイート内で見つけた書籍名に至るまで、おそらく書籍購入のきっかけの大半はツイッター上で拾っていると云えます・・。

しかし、ここで大事であると思われることは、その書籍名を見つけるにまで至った経緯、文脈です。この経緯、文脈によって、その書籍が自分の本質的な関心に、どの程度関与しているかが分かりますので、そこまで明晰に深く考える必要はないのかもしれませんが、しかし、忘れない方が良いことであるように思われます。

そして「そのようにして購入した本であると、何が良いのか?」と考えてみますと、端的にそこまで労することなく読了に至り、そしてまた次の興味関心にも無理なく繋がるということです。その意味においては、去る4日間の書籍からの引用記事の投稿は、どのような繋がりであるかは未だ言語化出来ませんが、ともかくも自分の中で繋がっており、それ故に、これらの記事は比較的集中してスムーズに作成出来たのだと思われます。以前の記憶を振り返りますと、引用記事がしばらく続く時であっても毎回このようなわけではありません。

また、これまで(どうにか)ブログ記事を1800以上作成し、そして、それらを(自分なりの)機に応じてツイッターなどのSNS上に連携投稿をしていますと、それらの中の目ぼしい記事の概要などは記憶に残るようになります。つまり、これを端的に述べますと、ツイッターと当ブログとの連携により、より多くのブログ記事の内容が理解・記憶されるようになり、そして、それらを何と云いますか、自分なりのログとして扱うことが出来るようになったということになります。

まさにこれは「ブログ」の「ログ」であるのかもしれませんが、ともあれ今後、もう少し続けていきますと、自分に何か有意な変化でも生じるのでしょうか?ともあれ、こうした自分なりの思考のログとなるものを持つことは、あながち悪いことでもないように思われます・・。

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2022年11月23日水曜日

20221123 中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「幻想さそう壁画古墳」pp.32-36より抜粋

中央公論社刊 司馬遼太郎著「歴史の中の日本」内「幻想さそう壁画古墳」pp.32-36より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122021030
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122021037

 以下、私は単に想像であるとことわって、あるいは幻想であるかもしれないそのことにふれたい。

 まず、高句麗について触れる。

 この民族は本来、満州の草原に住んでいた連中であった。漢民族とは人種も言語を異にし、その社会の仕組みは中国の辺境の騎馬民族と共通したものをもっているが、しかし早くから漢民族文化に接触していたため、ゴビ砂漠の周辺にいる連中よりはるかに農耕的で、すぐれた移入文化をもっていた。

 かれらはたえず満州から朝鮮半島に南下していた。かれらの満州の故地に、「扶餘」という土地がある。この地名をとって、古くから朝鮮半島(とくに南朝鮮)にいて農耕民族になっていた韓民族は、北朝鮮にいるこのひとびとのことを「扶餘族」とよんでいた。簡単にいえば高句麗人・扶餘族は、北朝鮮人である。いまでも体格は北朝鮮人は南朝鮮人より平均的に背が高く、固有満州人にちかいといわれているが、朝鮮の上代の歴史からみても、高句麗人は南朝鮮の百済を新羅のひとびとよりも騎射がたくみで軍事的には優勢であった印象がある。満州草原できたえた牧畜民族的野趣を、農民になりきっていた南方の新羅人や百済人よりも濃厚にもっていたからであろう。

 朝鮮史でいう三国時代つまり北方の高句麗と南方の新羅・百済が鼎立していた時代、もし中国大陸に統一帝国が出現するという大変動さえおこらなければ、なお無事泰平にこの鼎立状態をつづけたかもしれない。

 が、589年、隋帝国が出現するとともにその兵力の大半をあげて高句麗へ攻めてきた。当時高句麗はいまの平壌を首都としつつ、その故郷である南満州のほとんどを領有し、いまの地名でいえば旅大や遼陽をふくむ遼東半島も撫順も瀋陽もみな高句麗の国土であった。隋にとっては辺境のわずらいを未然に防いでおくための武力行使であったのだが、逆に高句麗に敗けてしまい、この敗北が隋という短期帝国の衰亡原因のひとつになり、かわって大唐帝国の出現をうながす結果をもたらした。

 つづいてその唐が大規模な軍をおこし攻めてきたのである。戦争状態は20年つづき、ついに668年平壌が陥落して高句麗は滅ぶ。 

 この間、半島の情勢は混乱し、唐は高句麗攻撃中に新羅と同盟をむすんで百済は日本に救援をもとめた。当時、日本も隋帝国の出現の大津波(多分に心理的な)をうけ、大いそぎで中央集権の国家形態をととのえて万一の侵略にそなえるbwくいわゆる「大化改新」を進行させつつあった。当時の日本の政策決定者は、国際情勢に過敏すぎる傾向をもった中大兄皇子(天智帝)であった。かれは百済救援のために出兵し、その水軍が白村江で唐の水軍と戦って全滅した。この敗戦で百済が滅び(663)、その貴族や人民が多数日本に逃げてきた。ついで5年後に、百済と同盟していた高句麗が滅亡した。以上が私の「想像」の背景である。

 「日本書紀」では、高句麗を高麗と書きコマと訓む習慣になっているが、この鴨緑江流域の大国と日本との関係は南朝鮮の百済や新羅にくらべてもわりあい薄い。 

 急に関係が濃密にあるのはやはり隋帝国の勃興で高句麗が圧迫をうけてからであり、高句麗が隋の大軍を敗走させたあと、推古帝26年(618)に国使をよこして捕虜や鼓や笛、弩、投石器などの戦利品を日本にもたらしてきている。

 それから半世紀経ち、高句麗が唐に攻められるという情勢が濃厚になったとき、その国使がやってきている。さきにふれた天智帝5年のことである。その正月、「高麗、前部能婁等を遣して」調をたてまつる。とある。この前部能婁は夏6月に帰ったという記事があとで出てくるから。彼は日本に帰化していない。

 問題はそのあと4カ月しかたたない10月にやってくる高麗の国使である、きびすを接してやってきているあわただしさに、高句麗情勢の緊迫化を感じさせる。おそらく救援を乞うための使者であろう。しかし天智帝としてはそれより3年前に百済を救援して白村江で大敗し、この高句麗の国使がきた時期は百済の亡臣亡民を収容するのに混雑している最中であった。高句麗を救援する軍事力などは残っておらず、おそらく事情を話してことわったにちがいない。

 この10月の使者は、正使が乙相奄鄒(おっそうあむす)という人である。このひとはほどなく亡くなったのか、その後の消息が出て来ない。

 副使が、二人いる。達相遁(だちそうどん)と玄武若光(ぐぇんむにゃっこう)である。達相遁のその後もわからない。

 問題は、玄武若光のことである。以下単に若光という。かれは二位の位をもっていたというから、正使および副使ともども王族だったのであろう。

 この三人が帰途についた記事がのこっていないのである。

 この翌年、天智帝の皇女大田皇女がなくなって葬儀があった。そのとき、

「高麗、百済、新羅、皆御路に哀奉る」という記事がでている。この三国のひとびとが出てきて哀悼の意を表した。というのである。天智帝のころの騒然たる国際情勢がこの一事でもわかる。葬列を送ったのは、この三国のひとびとでも当然貴人だったであろう。ところでここに「高麗」が出ているのが、やや気になる。当時の情勢から考えて亡国の百済からのひとびとの人数がもったも多く居住していたであろう。新羅がこれに次ぐ。高句麗貴族がいるのは多少珍奇な感じがする。この「高麗」は去年きた若光らの残留している姿と考えるのが自然ではあるまいか。

「この情勢ではとても貴国に帰るわけにはゆきますまい。ずっと日本に住みついたらどうですか」と、日本側からもちかけられたようにおもえる。かれらは帰国できる状況ではなかった。百済の新戦場を通過するわけにはゆかず、海路、すでに戦場になっている故国に帰ったところで、かんじんの高句麗国が存在しているかどうかわからない。げんにかれらが来日してから2年後に高句麗国は唐のためにほろぼされているのである。若光らは残留したであろう。

2022年11月22日火曜日

20221122 株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」pp.76-77より抜粋

株式会社ランダムハウス講談社刊 アリス・W・フラハティ著 吉田 利子訳 茂木 健一郎解説「書きたがる脳 言語と創造性の科学」pp.76-77より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4270001178
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4270001172

創造性は誰もがー少なくとも原則的にはー評価するが、創造性を研究するとか育てるという試みには懐疑的な人が多い。

芸術家のほうにも、創造性については、ほうっておくべきだという意見が多い。正面から見つめては危険だというわけだ。

基礎科学の研究者にも創造性はほうっておくべきだという見解が多い。そもその定義からして、きちんと統制した研究の対象にはなじまない異常な現象だからである。

そこで創造性を育てる研究はニューエイジの実践家やビジネスのひらめきに関するセミナーの指導者、それに少数の勇敢な社会科学者などに委ねられてしまう。社会科学者にさえ、ためらいはある。フロイトはドストエフスキーに関するエッセイのなかで、「創造的な芸術家の問題を前にしては、残念ながら分析家は手をこまねくしかない」と書いている(念のために記せば、心理分析家はほかの臨床家よりも雄々しく、この問題に取り組んできた。

対照的に精神薬理学者は、きちんと薬を服用しない患者がでっちあげた口実だとして創造性を切り捨てる傾向がある)。

一部の社会科学者は「科学的発見や文学、舞踊、ビジネスを成功させる決断などという多様な営みを創造性という単一の概念でくくってしまうべきではない。」と考えている。

たとえばハワード・ガードナーは、言語と数学というような異なる領域には、別の知性が必要で、一つの領域の創造性が、ほかの領域に及ぶとは限らないと主張する。

 しかし創造性を研究する人たちは、多くの違った分野からの情報を関連づけ始めている。創造性の様な重要な現象を研究せずにほうっておくべきではない。というこれらの研究者の主張には説得力がある。

創造的な活動は、新奇性と価値との組みあわせを含むという定義が有効だということにはあまり異論がないだろう。創造性に新奇性が必要なのは、立証済みのソリューションはたとえ巧妙で有用であっても創造的とは言えないからだ。それに創造的な作品に(有用であるか、少なくとも社会の一部の人たちに光を与える)価値がなければならないのは、単に奇抜なだけでは創造的ではないからである。

この二つの要素からなる創造性の定義からすれば、なぜ創造性が狂気と隣りあわせなのかも説明できる(狂気とは異常で価値のないふるまいだ)。

 創造的な作品とは新奇性と価値があるものだという定義は、創造的な作品と呼ばれるものの社会的な側面を捉えている。創造的という特質は孤立した活動にはあてはまらない。新奇性や価値は社会的な文脈との関係で判断されるからだ。わたしが庭で石を動かすのに梃子の原理を利用したとしても創造的という評価は得られないが、わたしがクロマニヨン人ならべつだ。社会的な文脈がはっきりしない場合もある。わたしはなぜ「フィネガンズ・ウェイク」のような作品を創造的と判断するのだろう?一般大衆には充分な判断能力も関心もないが、その分野の専門家には現状維持が得策なので、画期的な仕事が抵抗にあう、という場合がある。価値判断における社会的な文脈の役割からは、ある年代の天才が次の世代には陳腐とされ、ただの変人と否定されていた人々が天才として復権するというプロセスも生じる。

2022年11月21日月曜日

20221121 岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著 『コンラッド短編集』「武人の魂」 PP.346-349より抜粋引用

岩波書店刊 コンラッド著 中島堅二編著
コンラッド短編集』「武人の魂」
PP.346-349より抜粋引用
ISBN-10: 4003224868
ISBN-13: 978-4003224861

トマソフの心も頭も、そのときの記憶で一杯だった。彼はその思い出に、一種の畏敬の念さえ感じていた。そして根が純朴な男だったから、自分の思いを言葉にするのを躊躇わなかった。彼は自分自身を特別の恩恵を与えられた者と見なしていたらしい。どう言ったら貴公たちに説明できるだろう?それはなにも、一人の女が目をかけてくれたというような話ではなく、一人の女への畏敬の念が、あたかも天啓のように輝いて彼の心の内に宿った、とでも言うべきだろうか?

 そう、そのとおり、彼はきわめて純な男だった。素敵な若者だった。だが、けっして馬鹿ではなかった。そのうえ、まだまったく世慣れておらず、疑うことも、ものを深く考えることも知らなかった。田舎へ行けば、そんな男によく出会うものだ。また、詩情も解する男だった。それは天性備わったもので、あとから獲得した資質ではなかったはずだ。人類の祖アダムもかくや、と思わせるようなところがトマソフにはあったのだ。だがそれ以外の点では、フランス人の言い草を借りれば、この男は野蛮なロシア人(アン・リュス・ソヴァージュ)そのものだった。しかしフランス人がよく言うような、蝋燭の獣脂を美味いもののように食ってしまう類の野蛮人ではない。そんなことは断じてなかった。さて、その女はというと、もちろんフランス女だった。しかし、十万のロシア人とともにパリに入ったわしも、この女には一度も会うことなく終わってしまった。たぶんその当時、彼女はパリにいなかったのだろう。いずれにせよ、彼女の屋敷のドアが、わしのような武骨者に対して開けられる見込みはなかったろうがな。金ぴかのサロンなどというものは、わしにはおよそ縁がなかったわけだ。だから、彼女がどんな感じの女だったか、それを貴公たちに話すことはできないのだ。だが、トマソフとわしが、あれほど肝胆相照らす仲だったことを思えば、これは妙だと言わざるをえまいな。

 まもなく、トマソフは他人の前で話をしなくなった。野営の焚火を囲みながら交わすいつもの雑談が、彼の繊細な感情には鬱陶しくなったのだろう。そのうちにわしだけが、彼の話の聞き手にされてしまった。それはやむをえぬことでもあった。トマソフのような若い男に、永久に黙っていることなど、できぬ相談だったろう。そしてわしは、貴公らには信じがたいだろうが、これでも生まれつき無口な男なのだ。

 わしが無口なことが、おそらく、トマソフには好ましく思えたのだろう。我々の連隊は九月のまるひと月を、あちこちの村で野営して過ごしていたが、その頃はいたって平穏無事だった。わしが、彼のする話のあらかたを聞いたのは、そのときだった。いや、あれは話と呼べるようなものではないかもしれぬ。わしが話と呼ぶのは、ああいったものではない。あれは、溢れ出ずる心情、とでも言うべきものだろうからな。

 トマソフが息を弾ませて話している間、わしはじっと黙ったまま、まるまる一時間でも座って耳を傾けていたものだ。そして、彼が話し終えてしまっても、そのまま黙っていた。すると、一種の沈黙の効果みたいなものが生れるわけだ。それがある意味で、トマソフには嬉しかったのだろう。

2022年11月20日日曜日

20221120 株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」 pp.133-136より抜粋

株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」
pp.133-136より抜粋
ISBN-10: 4006032056
ISBN-13: 978-4006032050

以上に指摘した日本の高等教育の弱点を考慮して、次のような改善策を提案したい。まず一〇歳代後半の人々の能力を高めるために、高校での教え過ぎの課目数を大幅に削減することを提案したい。

 専門化され過ぎていたと言われる私たちの時代の旧制高校の文科コースでも、次のような多用な課目が関連なしにばらばらに教えられていた。まず歴史では、国史、東洋史、西洋史の三科目がある上に国語、国文学史、漢文がある。これらすべてを一科目か二科目に統合する。この大科目の主題は日本はアジアの中でどういうふうに近代化(西洋化)されたかに絞られる。生徒は自分で自分のテーマを設定し、各先生と相談しながら、関連する書物を図書館で読んで、レポートを書き上げるのである。

 哲学・社会科学関係の授業も多すぎた。哲学、論理学、法制・修身と称する倫理学など、多くの科目が無責任、無連絡に教えられていた。生徒はどの科目にも専念することはないから、先生の言ったことをノートにとって暗記するだけであった。私自身は心理学と論理学の講義には興味を持ったが、それ以外の講義を馬鹿にしていた。

 体育の科目ですら多過ぎた。体操、武道、軍事教練の他に、殆ど全員はそれぞれ何らかのスポーツ・クラブに所属していた。これらも統合して好きなスポーツ一つだけに専門化すべきだ。

 要するに日本の高等学校は、新制でも旧制でも教え過ぎで、出来るだけ多くの科目を広く浅く学ばせようとする。だから日本人は、学問とは知識を数多く集めることだと考え、集めて保存するために記憶能力を磨く。その結果日本人は考えることを甘く見る。「なぜか」と尋ねることは、学校でも、家庭でも決して歓迎されない。それだけ日本の学校には無駄があるので、それらを改善して前節末に述べた理想案に近づけることは可能である。 

 高校の科目はできるだけ統合して、ごく少数の科目に合格すれば、大学への入学が許可されるようにすればよい。イギリスではAレベルの試験に三科目合格することが大学入学の条件とされているから、イギリスの高校生はAレベル三科目の学習に全力を注ぐ、したがって彼らは、日本の生徒と比べるならば深いが狭い。広大な無知の領域が彼らには残されている。しかしそのことはどうでもよいのだ。Aレベル水準の三つの科目をマスターした能力の者には、独力で四つ目や五つ目の科目を習得することは困難なことではない。

 要約して言うならば、高校の科目を、幾つかの大講座にまとめ上げ、同一の大講座に属する先生(例えば日本史、東洋史、西洋史、地理の先生)は共同して生徒の質問に答え、生徒の自主的勉強を指導する。どの大講座の科目を勉強するかは生徒の選択にまかされる。

 その他に別枠として外国語(英語)がある。これは大学進学の必修科目だが、私たちが教えられるような英文学の真似事としての英語ではなく、もっと実用的な(日常生活に役に立つと同時に大学で研究するのに役に立つ)英語を教える。英文学の真似事の英語は、英文学の真似事以外にあまり役に立たないことを英語の先生は自覚すべきである。

 以上の案では、私の理想案の内容がほぼ満たされている。不足しているのは、それが生徒の選別を充分していないということである。選別は重要である。出来る人を集めてこういう人も自分の同年代の人にいることを知るのは大切なことである。平等の名において選別をなくすのは、子供に対する愚民化政策である。スポーツで選別をなくすれば、優秀なスポーツ選手は生まれない。同様に、思考力の異なる者を一つの教室に入れておけば、思考力のあるものが、怠けて考えなくなるだけである。

20221120 株式会社 光人社刊 光人社NF文庫 比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」 pp.42-44より抜粋

株式会社 光人社刊 光人社NF文庫
比留間弘著「地獄の戦場泣きむし士官物語」
pp.42-44より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769820631
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769820635

ビルマ派遣軍司令部は、もと大学ででもあったのか、広い構内にあり、建物はコンクリート建てで、白黒のダンダラ模様に迷彩をほどこしてあり、大きな偽装網がぶら下がっている建物もあった。

 こんなところへ、こんな細工をしても効果があるのかと思ったが、口には出さなかった。

 軍司令官は、マラリアでねており、参謀長が申告をうけた。彼は、開口一番、「大変なところへ来てもらって、お気の毒である」といった内容のことをいった。

 「この戦争で、すくなくとも攻勢をとっているのは、ビルマだけだ」と、われわれは勢いをつけてこられたのに、

「お気の毒だ」といわれたのには、ガッカリした。

 それもそのはず、ちょうど申告をした部屋は作戦室であり、その壁に貼ってある作戦図には、今まで士官学校で習ってきた退却作戦の要図、そのままが描かれている。隊号を虫ピンでとめてある。

 青色で南の方へ下がっている何本かの大きな矢印は、日本軍の退却をあらわしている。赤色の矢印がそれを追いかけている。青の矢印の中間には、赤い落下傘の印が点々ととめてある。敵の空挺部隊が、退却を妨害していることを示している。

 北東の方には、青い環が三つばかりあり、これを赤い環がかこんでいる。ラモウ、ミートキーナ方面で、日本軍は敵に包囲され、孤立して苦戦をしていると聞いていたが、現実に司令部には、正直に敗けいくさの状況が示されているのだ。

 そして、参謀長のいわれるには、「日本軍はインパールから退却し、ある地点で態勢をたてなおすために、移動中である。そこへ追及しても、とくにやる仕事はないし、若い連中が行って、貴重な米を食い荒らすことになるともったいない。しばらくラングーンにとどまって、ようすを見てから前線に追求せよ」ということであった。

 二、三日は兵站旅館にとめてもらったが、すぐに追いだされて、むかしゴルカ(グルカともいう)兵の兵舎であったという粗末な兵舎に寝起きすることになった。

2022年11月19日土曜日

20221118 しばらく引用記事を作成していて思ったこと(思い出したこと)

おかげさまで昨日投稿分の引用記事は、投稿翌日としては、かなり伸びました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、ここ最近数日間は、波に乗ったのか、自らの文章による記事作成を試みることもなく、そのまま引用記事を作成していました。先日、司馬遼太郎について書かれた著作を読み、またその文脈を確かめるために、司馬遼太郎自身による文章、あるいは、その著作への評価などが書かれた他の文章を読んでいますと、面白いことに、何やら思考が動き出し「あるいは、この記述とも関連があるのではないか?」などと思い出すようになり、そしてまた、他の著作へと手を伸ばしていくのです・・。

そのため、現在、当ブログを作成しているPCが置いてあるデスクの上には、かねてよりのものを合わせて、15~20㎝ほどの高さに積まれた書籍が5つほどある状態となっています・・(苦笑)。ともあれ、そうしますと、やはり私は司馬遼太郎の著作には何か特別な思い入れがあるのかもしれません・・。また、それと併せて今回の件で面白いと感じたことは、先日、加藤周一による「日本文学史序説」下巻内にある、三島由紀夫と司馬遼太郎について書かれた記述を思い出し、その箇所を開き、引用記事の作成を試みましたが、その際に、引用部のみならず、ほかの記述も知らず知らずのうちに読んでしまっていたことです・・。

思い返してみますと、この加藤周一著「日本文学史序説」上下巻は、私にとって印象深い著作の一つであり、当著作を購入したのは2012年の鹿児島在住の頃でした。とはいえ、その当時はなかなか、こうした比較的硬質ともいえる他分野(人文系)の著作を読む活力や元気はなく「どうにか学位取得にまで至ったら、その後じっくりと読んでみよう。」と積読状態にて放置していました・・。

そして、その翌年、どうにか学位取得にまで至り、帰郷の後は就職活動をしながらアルバイトをしつつ生活をしていましたが、この時期に至り、比較的熱心に読んでいた著作が、さきに述べた在鹿児島時代に積読状態であった「日本文学史序説」上下巻でした。やがて、当著作は英訳版が刊行されていることを知り、こちらはたしか全三巻でしたが古本にて購入して、これらもまた自分なりに熱心に読んでいた記憶があります・・。

ほかにも加藤周一の著作は、以前から読み続けており、納得出来ない見解の記述などもしばしばありましたが、全体としては、その記述の明晰さに惹かれていたと云えます・・。

そしてまた「このような文章は私でも作成出来るのだろうか・・?」と思うことも度々あり、そうした経緯もあってか、当ブログ開始当初の頃は特に当著作(「日本文学史序説」上下巻)からの引用記事が多かったのだとも思われます。

そのように考えてみますと、去る2012年に当著作を購入し、そして翌2013年9月に学位取得に至り、帰郷してから当ブログをはじめる2015年6月までの2年に満たないほどの期間、この「日本文学史序説」上下巻)を日本語・英語版にて読んでいたことが思い返され、そして、さきに述べた同著作内の三島由紀夫と司馬遼太郎について書かれた記述も、どうにか機に応じて思い出されたのです・・。

書籍からの引用記事であっても、ある程度継続していますと、時には引用した記述が、丁度同時代での世間の出来事と何やら興味深い関連性を示すことが時折ありますが、あるいはそうしたことの背景には、現時点の私には理解出来ないものの、何らかの摂理といったものがあるのでしょうか?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
順天堂大学保健医療学部


一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


















2022年11月17日木曜日

20221117 株式会社講談社刊 加藤周一著「日本人とは何か」 pp.161-163より抜粋

株式会社講談社刊 加藤周一著「日本人とは何か」
pp.161-163より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061580515
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061580510

明治の天皇制権力は、文明開化の必要を痛感していた。急速に官吏を養成する必要があり、大規模に技術を輸入する必要があった。すなわち明治政府は官立の高等学校を作り、それぞれの目的に従って文科と理科とを分け、官立大学をつくって能率的な教育を実行した。その改革が驚くべきものであったことをわれわれは知っている。有能な役人と技術者が養成され、組織された。知識人の動員は、何も戦時に限られたことではなく、明治維新以来、敗戦まで大筋としては一貫していたといえるだろう。理想が富国強兵にあるとき、どうして役人に音楽を聴く必要があろうか。また技術者に社会問題を考える時間があろうか。世界最大の戦艦を造った日本の技術者は、小説を読んで自ら楽しむどころか、一台の乗用車さえ国民のために作る余裕がなかったのである。専門領域以外の人事一般に対して知識人の関心がうすいのは、富国強兵をめざして行われた知識人の動員が徹底していたということであろう。

 大部分は動員されていた。しかし、勿論全部ではなかった。そして、敗戦とともに当然、戦前の少数者は、その数を増したのである。しかし天皇の名のもとに富国強兵の理想を無条件に受け入れないとすれば、意識的にそれを批判しなければならない。日本の知識人の関心が専門領域の技術問題以外に出る時には、主として社会問題へ向うのがまったく当然だろうと思われる。東京の知識人は、宗教を語らない。個人の生と死、また救いの問題は、今ではほとんど例外的な少数者の注意しか引かなくなっている。芸術は娯楽にすぎない。しかし娯楽としては、むろん活動写真の迅速簡便には及ばないだろう。

 教養の内容について言えば、明治以来の大学の伝統は、一切をよく象徴している。医学部や工学部の教授は、その講義の途中に英語や独逸語の単語を用いることで学問的雰囲気を作り上げることに巧みであった。事はもとより枝葉末節にすぎない。大学の教授の能力は、総じて非常に秀れたものであって、さればこそ日本の技術も今日まで発展して来たのである。学問にとって教授が外国語を好もうと好まないと大きな問題ではなかった。しかし、その枝葉末節に現れている心理的傾きそれ自身は、必ずしも枝葉末節ではない。その心理的傾きのある限り、日本の学問がどれほど西洋の水準に近づいてもも、おそらく全体としてそれを抜くことはないだろう。それは学者の責任ではない。広く知識人全体の問題である。

 自国の文化に対する関心は、たびたび反動を経験しながら、自然確実にうすれていった。しかし、輸入された外国文化の特徴は、そこに歴史的厚みがないということである。新しい技術の輸入を主眼とする以上、当然だろうが、とにかく輸入された限りでの西洋文化にはなかった。したがって、もし日本の知識人に文化を歴史的なものとしてうけとる機会があったとすれば、それは日本の文化との接触を通じてでしかなかったであろう。ところがそういう機会は少なかった。自国の伝統文化に対する無関心は、そのまま歴史的感覚の鈍さに通ぜざるをえない。ところが、その名に価するあらゆる文化は、深く歴史的なものである。明治以来の日本の思想的、文学的、芸術的貧困の根本的な理由は、おそらくそこにあると思われる。


2022年11月16日水曜日

20221116 株式会社文藝春秋刊 大岡昇平著「対談 戦争と文学と」 pp.283-284より抜粋

pp.283-284より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4168130509
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4168130502

司馬 歩兵は肉体一つですから敗勢の場合でも、斬り込みをやって死ぬとか、ある意味では変化の可能性がたくさんあるわけですかれど、戦車隊ですと機械力が劣弱の場合、それが絶対的なもので、運命についての可能性などは少しもありません。暗いものでした。ただ鋼板の厚みで、国家の力がからだで否応なしにわかってしまうという、そういうわかり方はあの戦車に入っていますとありました。敵の鋼板は、とても厚くて、自分の小さな大砲ではタドンを投げたようでカスリ傷もあたえることができない。日本のほうは、体裁はととのっているけれど、いざ戦場に出ると豆腐みたいに砲弾で貫かれてしまう。あの97式中戦車は、できあがったときには国際的水準に近い戦車だったようですが、しかしすぐ時代遅れになっています。昭和12年のことでしたか、戦闘機が7万円、爆撃機が20万円のとき、戦車は35万円だったそうですから、日本の国力ではモデルチェンジができないわけです。ノモンハンが終わったころに量産のコースにのったシロモノで、独ソ戦を経た欧米のレベルからみればとても・・。太平洋戦争の初期のマレー作成のときは、駐留英軍が装甲車程度しか持っていませんでしたから、相対的に威力はありませんでしたけれど・・、あとはずっと、役立たずでした。

大岡 ノモンハンのときに、だめだということは証明されているわけだからねえ。あれより大型は作らなかったのですか。

司馬 日本の国内鉄道が狭軌でしょう。ですから日本の貨車の幅で戦車の幅が決まるわけですから大型はだめだったんですね。

大岡 レイテにも戦車はきましたが、もっぱら、大砲を引っぱたり、連絡に使うつもりでもってきたらしい。馬はすぐ死んじゃうのでね。ところが、戦車ってのは、すぐ飛行機に見つかっちゃうんで、昼間は広いところには出られない。夜だけ動き回っていたらしい。

司馬 沖縄でもそうです。沖縄にも、戦車隊が一個連隊おりましたが、実際には使いものにならない。飛行機や相手の戦車にどんどんやられちゃいますから。そうすると、温存されてきて、他がみんなやられたのに戦車だけが残っては申しわけないというので、夜襲をかけた。戦車で夜襲はできないというのは、常識ですけれど、大きな音がしましてね、それに、夜襲には、無線が使えない。無線による指揮ができないとなると、バラバラになるおそれがある。であるのに夜陰いっせいに動きだして、敵の方角へ進んだんです。全滅しなければ申しわけないという非戦術的理由だけで。むろん相手の大砲にドカドカと迎え撃たれて、20分ほどで全滅したしたという。ここらへんがなにか、日本の旧国家のすがたですね。

大岡 レイテ島でも、ペリリュー島でも、敵があがった晩、やはり夜襲をかけて全滅してしまう。戦車隊はおいといても、すぐ見つかっちゃうし、邪魔になるばかりなんです。ほかにやることがないから、潰してしまう。終末的思想とでもいうほかないですねえ。

2022年11月15日火曜日

20221114 株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」 pp.11-15より抜粋

株式会社岩波書店刊 森嶋通夫著「日本はなぜ没落するか」
pp.11-15より抜粋
ISBN-10: 4006032056
ISBN-13: 978-4006032050

 動物の場合は、死んで往くものと生まれてくるものに殆ど差はないから、集団の質はほぼ一定である。しかし文化を身につけている人間は、死んで往くものが身につけていた文化と異なった文化を身につける子供が生まれてくるから、集団の質は変わってくる。

 しかし欧米諸国では文化の変化はそれほど大きくない。自国内での自発的な変化が大部分であり、よそから文化を移入するとしても、その「よそ」もまた欧米文化の伝統の中にあるから、移入による文化の変化は大きくない。(ただし旧植民地帝国では大きい変化があった。)

 だが日本の場合、死んで往く老人が、伝統的な日本文化を身につけており、生まれてきたものは欧米文化をより多く身につけるとするならば、出生と死亡がもたらす文化交替は集団の質を激変させることになる。特に敗戦後、戦前、戦中の国粋的な文化が、戦後のアメリカ文化によって置き換えられることによって、日本の人口の質は急変してきた。

 特別な考察をすべきは、戦後の教育改革である。それは日本の人口の質に画期的な変化を引き起こす筈だと考えられていた。戦前は忠君愛国、挙国一致を促進させるような教育が行われた。国民道徳の規範は政府によって、一方的に定められ、学校は産業側の労働需要に応じるように、多様化されており、高等教育も高給職に将来就く人を供給するだけに制限されていた。だから大学はエリートを育成するためのものだった。

 こういう教育体制は、占領軍によって破壊された。中等教育は複線路線でなく、特殊な職業に適した専門家された学校を最小限にしか許さない単線路線のものにさせられた。その上高等教育期間はエリート養成のための専門教育ではなく、市民のため国民のための高い水準の教育をつける所と考えられるようになった。国家が必要とする高い知識を生徒や学生に教え込むという姿勢は教育の場から一掃され、自由主義、個人主義が教育の根幹となった。

 こうして国家主義的教育を受けた年長者と自由主義教育を受けた若年者が、戦後日本に共存するようになったが、彼らの中間には戦前教育を幼い時に受け、後に戦後教育に切り替えられた過渡期の人が介在した。これらの人の中には、殆どが戦前教育で、その後僅かに戦後教育を受けたというような、種々の年齢層の人が混在した。戦後教育は1946年に始まり(完全な戦後教育を受けたのは1939年に生まれた人からである)戦前教育(旧制大学教育)は1953年に終了した。(1930年生まれの学生が最後の卒業生である)から、過渡期は8年ということになる。

 切り替えは円滑でなかった。戦後の思想教育ー自由主義と個人主義ーは、それまでの全体主義、国家主義の教育をしていた教師によって教えられたからである。自由主義や個人主義が履き違えられることが多く、誤解されたこれらの主義は、好ましくない影響を被教育者に及ぼす。だから欧米の学校では自由主義、個人主義とは何であって、何でないかについて徹底的な議論が教室で生徒相互間、生徒と教師の間で行われるのに、日本ではそういうことは殆ど行われなかったと言える。教師自身がそれらについて無知に近かったからである。小学一年から大学を卒業するまで16年の間、戦後教育のみを受けた純粋戦後教育派の場合でも、しっかりとした思想的核心を持ちえなかったと言ってよい。

 戦後の第一年は純粋戦後期に属する一年分の人がいた他は、全員それまでの戦前教育に一年分の戦後教育を付加した過渡期の人であった。戦後17年目に純粋戦後教育に完全に受けた人が初めて現れた。(大学に進学せず高等学校限りで就職する人は13年目に純粋戦後派が出現した。)いま64歳までを労働人口とすると、純粋戦前派が労働人口から消滅してしまうのは、戦後49年経った時ーいまから4年前ーである。そのうえ過渡期の人々が労働人口から消え去るのは、今から更に4年経った後である。教育改革は日本国民を洗脳したのである。それは極めて徐々の洗脳であっただけに、完了するのに非常に長い時間を要したのである。

 日本のいわゆる高度成長期(1950~70年)の労働人口(ただし全員が大学を卒業したと仮定して22歳から64歳までの人)のうち、戦前派、過渡期、戦後派の階層への割り振りは次のようになっている。1950年には全員が戦前の教育を受けた人である。1960年には35年分の高年者層が戦前派、7年分の若年者層が過渡期、純粋戦後派はゼロである。高度成長最後の年には、25年分の高年者層が戦前派、8年分の中間層が過渡期の教育を受けた人達で、9年分の若年者層が戦後派の教育を受けた人達である。このように見れば高度成長に貢献した労働人口の大部分は戦前教育を受けた人だといえる。

 これに反してバブルの絶頂期の1990年は、60歳から64歳までの人は戦前に教育を受けている。続いて8年分が過渡期の人で占められ、29年分の若年者は戦後に教育を受けている。このように日本の労働人口が受けている教育の内容は、時間と共に変化してきた。教育改革は占領軍司令部(GHQ)の命令で一挙に行われたから、教育内容は即座に変えられたが、戦前のイデオロギーは教育を受けた人の頭脳の中に体化された形で、長い期間にわたって効力を保った。このような形で、旧体制は新体制の世界の中で抵抗しつづけたのである。革新は急進的であっても、体制には、効果を弱め保守化してしまう緩衝装置が備わっていたのである。

2022年11月13日日曜日

20221113 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.525-527より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」下巻pp.525-527より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480084886
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480084880

三島はまた、大衆社会の商業主義を利用することでも、またそれに利用されることでも、おそらくもっとも徹底していた作家である。彼は、美的密室に閉じこもっているどころか、居合い抜きや、裸の写真展覧会や、仲間をひきつれての自衛隊の訓練への参加や、大衆伝達機関の注意を引く行動をつぎつぎに思いつき、実行した。1912年の乃木将軍の切腹は、偶然に発見されるまでは、誰にも知られないようなし方で行われた。1970年に三島が自衛隊に乗り込んで切腹したときには、放送局も新聞社も、本人からあらかじめその時と場所を予告されていたのである。戦後の大衆社会のなかで、何人かの小説家は「有名人」になり、俳優や歌手や運動選手と同じように、TVの画面で商品の広告をするようになった。しかし三島ほど絶えず「センセイショナル」な「ニューズ」の中心であり続けた作家は他にない。それが彼の第二の面である。

 しかし小説家としての三島は、「仮面の告白」(1949)から「金閣寺」(1956)まで、売るためにのみ書いたのではない。彼の価値観は、その美学も政治的信条も、高度成長社会の大衆のそれではなかった。何十万の読者に訴えるためには、小説の根底にある価値観が、大衆のそれと一致するか、少なくとも一致しているかのような印象を大衆に与えなければならない。中里介山や大仏次郎や吉川英治は、それぞれの時代に、その条件をみたしていた。経済的膨張の時代に、その条件をみたしたのは、司馬遼太郎(1923~96)である。司馬の主人公は、もはや「剣豪」ではなくて、知的英雄であり、もはや架空の役者ではなくて、実在の人物に近く、幕末や維新や日露戦争の、綿密に考証された歴史的状況のなかで動いている。その小説の英雄=主人公は、私生活においては型破りで、仕事においては正確な状況判断と強い意志により優れた指導性を発揮する実際家である。管理社会のなかで型にはめられた「モーレツ社員」の分裂した夢―型からの脱出と型のなかでの成功の願望は、鮮やかにもここに反映していた。しかも読者はその小説を通じて「歴史」を知る、あるいは少なくとも波瀾万丈の小説を愉しみながら「歴史」を学ぶと信じることができるのである。

20221112【架空の話】・其の102 【モザイクのピースとなるもの】【東京訪問篇⑰】

E先生は早々に一杯目のビールを飲み干していたためジョッキを下げようと取りつつ「E先生、次は何を注文しますか?」と訊ねた。すると「ああ、ちょっと焼酎があるか聞いてみて、あれば芋焼酎をロックでください。」とのことであった。すると、このやり取りを聞いていたTO先生が「E先生、ここには熊本に多い米焼酎も鹿児島に多い芋焼酎も置いてありますが、銘柄はあまり多くはありません。」とアドバイスを頂いたが、これにより彼が北隣の熊本県の御出身であることが思い出された。

お酒が入り、しばし時間が経つと、皆よく話すようになった。さきに到着した理工学のMA先生と院生は、CH先生をはじめとするクリニックとの共同研究を進めているとのことであったが、その内容の詳細は秘密保持契約(NDA)を締結しているとのことで、あまり教えて頂けなかったが、画像など医療情報についての研究開発とのことであった。

理工学研究者のMA先生の外見は、前述のように強面な感じであったが、宴席ということもあり、熊本ご出身のTO先生と、もう一人の同席者である副院長のHR先生とで、何やら話が盛り上がっていた。

内容は、こちらに聞こえたところによると、MA先生は酒に弱く普段は飲酒の習慣はないが、こちらの料理が美味しいため、普段よりもお酒が進んでいるといった内容であった。

すると傍らのCH院長が「MA先生はお酒はあまり強くはないのですね・・。分かりました。でしたら、このコース料理の〆でデザートが出るのですが、これにお酒を使ったものを出してみたいと思うのですが如何でしょうか?」と訊ねられた。

対してMA先生は「・・そうですか、お酒を使ったデザートですか。それは具体的にどのようなものですか?」と返事をされた。すると、これまでMA先生との一連の会話に入っていたHR副院長が「院長、それは私も気になりますね。どういったデザートですか?」とかぶせてきた。

CH院長は「ああ、先日、このお店で出して頂いたもので、そこまで手の込んだものではないのですが、抹茶アイスにペドロヒメネスのシェリー酒を垂らしたもので、これであればお酒が苦手な方でも、おそらく美味しく頂けると思います。」とのことであった。

私やE先生などは当時、お酒と云えば焼酎とビールぐらいしか知らなかったことから、このやり取りを聞いていて興味が昂進したようであり、CH院長の隣席にいたE先生は「CH先生、そのシェリー酒というものを飲んだ経験がないのですが、出来ましたら私も、そのデザートを頂いてみたいのですが・・?」と若干控えめなトーンで申出ると「そうですか、分かりました・・。でしたら、皆さん、本日のデザートは、この卓上のコースメニューによると、高知柚子のシャーベットということになっていますが、これを抹茶アイスのペドロヒメネスのシェリー酒をかけたものに変更することは可能か、お店側に訊ねてみますか?」とCH先生はE先生を含めて皆に訊ねた。続けて「このデザートは、もうしばらくで到着されるKA顧問からも高評価を頂いて、最近は、ご自宅での食事のデザートに、市販のアイスクリームにペドロヒメネスのシェリー酒を垂らしたものを召し上がっているとのことです。」と付け加えると、少し間を置いてから、MA先生が代表した感じとなって「対応が可能であれば、皆さん、そちらに変更しましょうか・・。」との返事をされると、早速、CH院長はお店のスタッフに問い合わせた。

やがて、さきほど我々を案内した黒のギャルソン・エプロンを着けたスタッフがやって来て、しばしCH先生と話すと、すぐに「はい、デザートの変更は可能であると思いますので、早速調理スタッフにその旨を伝えてきます。」と云い、入口で一礼をして足早に去っていった。

あとで聞いた話によると、シェリー酒は、スペイン南部のアンダルシア地方で醸造されている当初は航海中での保存のためにアルコールを強化した白ワインの一種とのことで、その中でも特に、通常の葡萄よりも甘さが凝縮されている干葡萄からつくられるペドロヒメネスは、その飲み口は極甘であり、アルコール飲料といった感じが乏しく、たとえるならば、液状にしたプルーンといった感じであり、これをバニラや抹茶などのアイスクリームに少量かけて食べると、シェリー酒とアイスクリームとの味が止揚された感があり、たいへんに美味しいものであった。


今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5

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連絡先につきましては以下の通りとなっています。

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2022年11月12日土曜日

20221111 【架空の話】と独白形式での記事作成との間にある違いから思ったこと

おかげさまで、今回の記事投稿により、総投稿記事数が1885に到達します。そして、あと15記事の投稿により、当面の目標としている1900記事に到達します。おそらく、現在の調子にて記事作成を継続すれば、今月内での1900記事到達も夢ではありません。そして、次の目標は2000記事ということになりますが、これは早くて来年の本格的に春の陽気となる前、そして遅い場合であれば、当ブログ開始から丸8年となる来年の6月22日までにどうにか達成出来ればと考えています。これを換言しますと、およそ170日にて100記事の作成を要するということになりますが、そのように考えてみますと、この設定はそこまで辛いものではないとも思われますが、しかし、先日罹患した新型コロナウィルス感染症のようなことが、今後はないとも云えませんので、記事作成の頻度が遅くとも、どうにか目標に到達出来そうな状態であっても気を抜かずに、出来るだけ多くの記事を作成をしていきたいと思います。

さて、本日は【架空の話】の続きを作成しようと考えており、その話の展開も時折、考えてはいましたが、いざ作成の段に至ると、特にイヤでも、また着想がないわけでないのですが「本日も普通の独白形式にて作成しよう」と思い直し、こうして先ほどより記事作成を始めました。そして、このあたりまで作成してみますと「あるいは【架空の話】の続きを作成してみても、大体同じような感じであったのでは?」とも思い、少し後悔するのですが、それでも、たとえ、同程度の文字数の文章であっても、こうした独白形式の記事と【架空の話】では、作成時に入る心のギアのようなものが異なり、独白形式の場合は、現在もまた、そうですが、ひたすら逡巡しながら作成することが多いのに対し、【架空の話】では、話の筋となる記憶が励起されている状態であれば、それを言語化していくことは、あまり難しいものではなく、あるいは気が乗って集中しつつ【架空の話】を作成している自分に気が付くこともあります。そうした時は大体、文章の作成は早いものであり「知らぬ間にここまで作成していたのか・・」といった感を受けることがしばしばあります。

しかし、であるからといって、記憶が励起されてさえいれば【架空の話】は速やかに作成出来るといったものでもないようで【架空の話】では、概ね半分以上が自らの記憶に基づいていますが、そうした記憶とは、もとより時間的に一つながりの出来上がった物語のようなものではなく、時間軸の中に散在する記憶の断片を組合せ、そして新たな物語【架空の話】を作成していくのです・・。そして、ここまで書き連ねていて不図思い出しましたが、こうしたパッチ・ワーク的とも云える物語の作成方法は、以前に作成したブログ記事にてそれと知らずに言及していましたが、本邦神話の物語としての構造に類似しているように思われるのです。

本邦神話においては、大雑把な時間軸としては、古いところから新しいところへ流れていると云えますが、それに散りばめられた挿話や登場人物などに関しては、必ずしも新旧の順がさきと同様と云うわけでもなく、あるいは登場人物に関しては、複数の人物を一人格に統合したとされるような登場人物もいます。

こうしたことを【架空の話】の作成においても、特に意識せずに、半ば無意識にて行っていたことに対して、上述のように意識を向けてみますと、自分の精神にあるものと、我が国の神話によって示される物語の構造との共通性が見出されたようで、それはそれで興味深く思われてきます。

こうしたところには、何か説明出来るような要因といったものはあるのでしょうか?

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2022年11月11日金曜日

20221110 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.80-82より抜粋

ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」pp.80-82より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4478116393
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4478116395

最近、軍国主義の復活が話題になっている。「司法の危機」や四次防も軍国主義の復活と結びつけて論ずる人もあるようである。したがって、現在の危機といえば、だれしも軍国主義の復活に結びつけて考える。だが、軍国主義の復活とはなんだろう。あまり体系的には考えられてはいないようである。人びとの考え方を要約すると、スケープ・ゴート(scape goat)主義すなわち優越要因主義(dominant factor theory)の一種に帰着する。つまり、簡単にいうと、一群の腹黒い軍国主義者があって、彼らの陰謀によってデモクラシーは転覆させられ、軍国主義は復活するというのである。もとより、学者や評論家は、こんな簡単な議論はしない。平易なことでも難しく表現しないと彼らの商売は成り立たない。しかし多くの場合、彼らの論旨は、せんじつめればここに帰着する。すなわち、絢爛豪華な表現と持って回った言い回しをはぎとり、論理の骨格だけを抽出してみると次のようなタイプが析出されよう。まず、彼らの議論は友敵二分論から始まる。敵となるのは、特定の個人のこともあるし、集団、制度、イデオロギーにもなる。ここが、商売がら、ソフィスティケイト(sophisticate)されたところである。この「敵」が、デモクラシーの制度を掘り崩し、アンティ・デモクラシーの宣伝をなし、味方を陥れようとしているから断固として戦わなければならないというのである。そして、この努力が足りなければ、昔のような軍国主義が復活するとして、反軍国主義キャンペーンが義務づけられることになる。

 しかしこのような考え方は、それがどれほどソフィスティケイトされた修飾語でかざられようと、科学的にはあまり重要な議論であるとは思えない。科学的推論の特色は、全体的パースペクティヴのもとにおける諸要因間の複雑な相互作用を考慮に入れ、体系的分析によって常識では知られないような情報を提供するにある。「予期せざる結果」の説明、これこそ科学的推論のメリットでなければならない。

 スケープ・ゴート主義に対しては、まず、次のような疑問が浮かぶ。デモクラシーの没落は、腹黒い軍国主義者の陰謀によるものではなく、自らの内部に没落の萌芽を内包していることによるのではないのであろうか。もしそうだとすれば、自称デモクラートが努力すればするほどデモクラシーの没落は早まり、軍国主義の復活を助けることにならないのだろうか。戦後デモクラシーのチャンピオンと自任している人びとの思想と行動が、その本質においては、おそろしく反デモクラシー的であり、彼らが意識において誠実であろうと努めれば努めるほど欺瞞も再生産され、デモクラシーの墓穴を掘ることにはならないであろうか。

 社会現象を科学的に分析する場合に留意しなければならない重要なことは、社会で行動している人びとの意図が、そのままストレートに実現されるとは限らないということである。一般に社会現象は、無限に波及を繰り返し、フィードバックしてくるから、思いも及ばない結果を生じることが多い。したがって、行動者の意図よりも行動のパターンそのもの、波及過程の連関システムの分析が重要になってくる。したがって、軍国主義者復活の問題を論ずるに際しても、人びとがどのような意図を持っているかという問題だけでなしに、行動のパターン、社会構造などがまた、重要な分析対象となる。さて、このように分析の視点を設定してみると、注目すべき事実に導かれる。行動のパターン、社会構造に関する限り、戦前のいわゆる軍国主義者も、戦後の日本人もほとんど変わってはいない。この発見は、ある人びとにはショッキングかもしれないが、科学的分析の結果による、まぎれもない事実である。もし、この分析が誤りないとすれば、現代の危機も、戦前の破局と同型のものではなかろうか。それは一部の人びとの陰謀や心構えの結果生ずるのではなく、行動のパターンとその連関メカニズム作動の結果として、いわば思いもかけなかった結果として発生するのではなかろうか。

2022年11月10日木曜日

20221109 先日「ブロガー」にて閲覧者数の急増があったことから・・

ごく稀に、当ブログを運営している「ブロガー」サイトでの1日の閲覧者数が1000人を超えることがあります。そしてつい先日、10月28日が1896人と、過去半年にて最も多い閲覧者数となっていましたが、こちらについては未だ、その理由は分かりません。また、読んで頂いていた記事は多岐に渡っていることから、単一の理由により、あまり早急に、この閲覧者数の急増は説明しなくても良いのではないかと思われました。

ともあれ、こうした「閲覧者数の急増」は、当ブログであれば概ね半年毎に生じています。これらも、さきに述べました通り、理由は分からないものの、7年程度ブログ記事の作成を(どうにか)継続しますと、こうした自分について新たに知った性質(この場合であれば「自分が毎日文章を作成すると、半年に一度ほどの頻度で小さくウケることがある」といったところか。)に気が付かされることが時々あります。

これらの性質は、当ブログをはじめていなければ気が付くことはなかったと思われますので、ブログは一例ですが、我々はこうした継続的な活動を通じて、自分について何事かを知って行くことが出来るのかもしれません・・。

また、その他に当ブログを継続していて思ったこととして、特に新規の知見ではないと思われますが「ある程度以上の期間、文章を作成し続けるためには、日常のどこかで(多くは仕事分野以外の)文章を読む習慣が必要ではないか」といったものがあります。

そうしますと、その継続的な文章作成のための、ある種マトリックスとなる文体があるように思われますが、それが所謂「小説」であると私は思います。また、一言で小説と云っても、その文体は多種多様であり、その中から自分に合うものを見つけるということも、それなりに知的な作業であり、また遊戯であるように思われるのです。

そして、読み進めることが出来た作家の数が徐々に増えていた中学生の頃は、その意味では充実していました・・。その当時、私が最も好んで読んでいたのが司馬遼太郎でした。この私の司馬遼太郎ブームは後日、兄弟にもうつり、特に当時は週刊ヤングサンデー誌に小山ゆう・武田鉄矢による「おーい!竜馬」という作品が連載されており、これと比較しながら司馬遼太郎による「竜馬がゆく」を読むといったこともしていました・・。

また、この両作品(「おーい!竜馬」・「竜馬がゆく」)にも端役として登場する田中顕助こと田中光顕は、維新の風雲をくぐり抜け、その後、新政府にて、いわば長州閥の傍系といった立ち位置を取り、明治、大正そして昭和14年まで生き永らえるのですが、この方による「維新風雲回顧録」は現在読んでみても大変興味深い内容であり、さきほど確認の為に書棚から手に取りパラパラと頁を繰ってみたところ、10分ほど経ってしまいました。

とはいえ、ブログ記事の作成に際しては度々そうした事態は生じますので、我に返った時に、作成している文章の展開をすぐに思い出し、さきを続けることが出来れば、特に問題はないかもしれません・・(笑)。

しかし、ここまで作成してきて思ったことは、当ブログにて、これまでに何度か取りあげた陸奥宗光ですが、この人物も、さきの「おーい!竜馬」・「竜馬がゆく」に比較的重要な役回りとして登場して来ますが、坂本龍馬と中岡慎太郎が京都の近江屋にて暗殺されると、二人が隊長を務めていた海援隊と陸援隊に隊長代理が必要となりますが、その際に海援隊の隊長代理を務めたのが陸奥陽之助(宗光)であり、同じく陸援隊のそれを務めたのが田中顕助(光顕)でした。

そのあたりのことについては、さきの田中顕助による「維新風雲回顧録」P.314あたりから書いてありましたが、ともあれ、この二人は共に、維新の志士としては、あまり恵まれた環境とは云えないところから出てきました。しかしその後、何らかの形で師匠となる存在を見出します。田中顕助は高杉晋作、陸奥陽之助であれば坂本龍馬といった具合ですが、これが、二人共同様に大きな影響を与えたのではないかと思われます。

そして、ここに来て思うことは「では、そうした影響とは、どのようなものなのであろうか?」ということであり、私がこれまでに当ブログ随所にて「文体の獲得」と述べてきましたが、あるいはそのようなこと(「文体の獲得」)も容易く出来るようになるような影響であれば、受けてみたいようにも思われてきます・・。

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2022年11月9日水曜日

20221108【架空の話】・其の101 【モザイクのピースとなるもの】【実習篇③】

では、スティッキー・ワックスで2枚の金属板の位置を固定しましたら、それをどこか安定した場所に置いて、次はロウ付け用埋没材の練和と型枠への填入を行います。これは、今までの基礎実習にて扱った石膏と同様の操作をしてください。こちらも箱に混水比などの記載がありますので、あとで見て参考にしてください。ええ、写メをしておくのも良いかもしれませんね。

それで、この規定の混水比で練和したロウ付け用埋没材は、泥状にて流動性がある状態のままで紙製の型枠に流し込み、そしてそこに、さきのスティッキー・ワックスにて固定した屈曲された2枚の金属板の両端を立てるのです。

やがて埋没材が硬化しますと、この試料、すなわち「埋没材に立てた2枚の金属板」の接合部、はじめにスティッキー・ワックスで固定した部位になりますが、この位置関係が精確なままで固定されているか確認するためにスティッキー・ワックスを除去して、位置関係固定の役割を硬化した埋没材に譲り、その位置関係の確認を行います。

では、とりあえず、この説明で大体の手順はお分かりになったと思いますので、金属板の位置固定が終わり、埋没材の練和の工程まで行った方は速やかにこちらのテーブルの方まで移動をお願いします。また、今回用いるこのロウ付け用埋没材ではバイブレーターを用いずに練和しても大丈夫です。しかし、それでもしっかりと手練和はしてくださいね・・。そして、その泥状のものをスパチュラにて一掬いしてガラス練板上の型枠内に振動を与えつつ流し込み、そこに、さきの位置固定をした2枚の金属板を植立させるのですが、この時は、植立場所が決まったら迷わず即座に立てることが大事です。

おお、もう埋没材の填入と植立まで行きましたか、早いですね・・。では、その出来た試料を、あちらのストーン・テーブルの上に、自分の試料であると分かる様にして置いてきてください。

その次の工程につきましては、また後程説明しますが・・あれ、こちらの班は皆さん女性ですか・・。ええと、以前にも鋳造実習などを担当しましたけれど、その時から、この班員構成でしたっけ・・。ああ、その当時から変わっていない。それでしたら私が気が付いていなかっただけですね・・。

お、また何人か金属板の固定の工程が終わったようですね。では、その固定した金属板は、何処か自分で分かる場所に置いてください。そして、次に埋没材の練和ですが、これは特に注意することは埋没材の混水比と、あとは大きな気泡をつくらないように、しっかりと手練和することです。

こちらにつきましても、作業を進めているなかで疑問などが出て来ましたら、随時尋ねて頂ければと思いますので、とりあえず、どうぞ進めてください。

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2022年11月7日月曜日

20221106 総投稿記事1880そして【架空の話】が100話まで至り思ったこと

昨日の【架空の話】東京訪問篇⑯の投稿により、総投稿記事数が1880そして【架空の話】は第100話の投稿となりました。そして次の現実的な目標である1900記事まで20記事となりました。これは毎日1記事の投稿により、今月中での達成も可能ということになりますが、私としては、そこまで急ぐ必要はなく、来月上旬にでも達成出来ればと考えています。とはいえ、また今後、体調を崩す可能性もあることから、作成出来る時は作成しておこうとも考えています。

さきに「体調を崩す」と述べましたが、これはコロナ罹患後からの感覚ではありますが、今に至っては概ね回復していると云えるものの、完全回復にまでは至っておらず、体のダルさや頭痛は未だに残っており、以前に述べた新型コロナ罹患後の味覚と嗅覚の変調と同様に、日を追うごとに良くはなっている感はあるものの、やはり何か違う感じがあります。そのため、さきの「体調を崩す」ことも、現実にあり得ることとして、おそれているのです。

以前にも述べましたが、過日罹った新型コロナウィルス感染症の際、発症二日目ほどまでは意識朦朧とした状態でしたが、その後、回復に向かう途中にて自分の感覚や意識が変化していることに気が付き、そしてその変化した意識に基づいて、これまでになかなか続きを作成することが出来なかった【架空の話】の続きも作成することが出来、そして昨日、どうにか第100話を投稿することが出来ました。

そのように考えてみますと、後遺症の程度は分かりませんが、他方において当ブログの作成に関しては、過日罹患した新型コロナウィルス感染症は、良い効果を齎してくれたようにも思われます。そして「人生万事塞翁が馬」「七転び八起き」「転んでもただでは起きない」などと、さまざまなコトバがありますが、何れにせよ、そうした「前向きな」気持ちで今後も引き続き、当ブログを進めて行きたいと考えています。

面白いもので、新型コロナウィルス感染症に罹患する以前の当ブログは、作成者側からしますと、煮詰まっていた感が少なからずあり、新たな着想がないスランプ状態の中で、色々と手を変え品を変えて作成してきたと記憶しています。あるいは異言しますと、現在作製している、こうした調子の文章を作成することは難しかったのではないかと思われます。

そこから新型コロナウィルス感染症により、頭のネジが少し緩み、こうした文章が作成出来るようになったとも思われます・・(笑)。あるいは頭のネジとは、意識による締め付けのようなものであり、そこから適度に解放されると、文章の作成といったこともスムーズに出来るようになるのかもしれません・・。

その意味で、多少の飲酒の習慣などは良いのかもしれませんが、私の場合、飲酒の習慣がなく、過日の新型コロナウィルス感染症が、まとめて、そうした効果を私に齎したのではないかとも思われます・・。すると、あの発症日からの2日間の意識朦朧とした状態には、飲酒による酔いにも似た、何らかの効果があったのかもしれません・・。

そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
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