2025年6月29日日曜日

20250629 かつて在籍した研究室での雰囲気について

 さて、以前にも何度か当ブログにて述べたことがありましたが、私がかつて在籍していた研究室の長であった教授(師匠)は、歯学と工学の両分野で博士号を取得された、所謂ダブル・ドクターでした。そして、それ以外に特徴的であることは、英語が非常に堪能である点です。

 もっとも、事情に通じておられる方々であれば、大学の医歯薬理工系分野の教授が英語に堪能であることは、当然とまでは云わないにしても、自然なことだと受け取られるかもしれません。そして、そうした見解も踏まえた上で申し上げれば、師匠の英語で特筆すべきことは、口語においても非常に堪能であるという点です。

 このことは、おそらく師匠ご自身も自任されており、その反映として、当研究室では、毎週水曜日の朝8時から9時まで英論文の輪読会が行われていました。そして、おそらく、これが私にとって、鹿児島在住期の最初の試練であったと云えます。

 とはいえ、私は、それ以前のホテルのフロント勤務の頃や大学院修士課程の頃にも、英語に触れ、学ぶ機会・経験はある程度はありましたので、歯科系の英論文といえど、まったく「歯が立たない」ということはありませんでした。また、師匠や研究室の諸先輩方も「まあ、大丈夫じゃないか…?」程度には評価してくださっていたのではないかと思われます。

 そうしたこともあり、大学院入学から約半年後には、ポスター発表ではありましたが、人生初、海外(韓国)での学会発表の機会を頂くことが出来ました。

 とはいえ、当研究室では、海外での学会発表などは、さほど珍しいことではなく、師匠をはじめ研究室構成員の多くが、度々、海外での学術会議等の出席のために出張されていました。その様子から、「彼等は正式な所用として海外に行くために研究しているのではないか…?」と当時、少し邪推したこともありました…。無論、それは全般的には的外れな考えと云えますが、同時に、ごくわずかではあれ、そうした心情もなかったわけではないとも思われます。

 そして、そうした環境にて師匠が教授として在任されていた当時の研究室は、非常に活発で活気がありました。アカデミアや企業の方々、さらには研究熱心な開業歯科医師・歯科技工士の方々など、さまざまな来訪者が頻繁に研究室にいらっしゃっていました。

 さらに、先述の水曜朝の英語論文輪読会もあり、当時の研究室は端的に「賑わっていた」のだと云えます。

 また、偶然であるのか、当研究室の構成員は、教授をはじめ私に至るまで、血液型B型の男性が際立って多く、その主張の強い性格から、日常的に議論が絶えませんでした。ただ、それらは陰に籠るようなものではなく、双方が納得に至れば収束するといった性質のものでした。

 私はそうした様子を見て、以前に読んだ福澤諭吉による『福翁自伝』に描かれた適塾の活気ある雰囲気が不図、思い出されました。そして、そこから「学究的な空間」とは、古今東西を超えた普遍的なある種の性質や特徴があるのではないかと思うに至りました。

 また他方で、師匠の決して隠そうとされない郷音の河内弁が、会話の途中にて突如、比較的聴き取りやすい英語へと切り替わる様子に、何かしら「常ならぬもの」を感じ取っていたのではないかと思われるところもあります…。

さて、今回なぜこうした題材をブログ記事として取り上げたのかと申しますと、本日(6月28日)、師匠がまた、何らかの公の舞台に立たれると聞き及んだためです。そして今頃は、無事に、そのお役目を果たされたものと考えます。

 そしてこの機に、かつて師匠が率いられていた頃の研究室の様子を文章として記述するとともに、現在、私が英語の口語・文語に対して、つたないながらも何とか対応できている原点を振り返ることは、ささやかながら師匠への称揚ともなり、時宜にかなっているのではないかと考えた次第です。

今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。

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2025年6月27日金曜日

20250626 言語の層と内面のチューニングについて

 去る6月22日、当ブログは開始からちょうど丸10年となり、また総投稿数も2350に到達しました。本来であれば、10年間を一区切りとして休息を入れても良いとも思われますが、今しばらくは継続して、キリの良い2400記事まで到達できたところで、すっきりとした気持ちで当ブログやSNSからしばらく離れてみようと考えています。それ故、またしばらくは文体や内容に特にこだわらず、できるだけ自然なかたちで、さらに当記事を含め49記事を更新していきたいと考えています。

 思い返せば、当ブログ開始当初の頃は、こうした文章の作成が習慣として定着しておらず、また自らの文体も定まっていなかったことから、一つのブログ記事を作成するのに、かなりの時間と労力を要していました。しかしその後、自分なりに試行錯誤を続けていくなかで、ふと気が付きました。それは、自分の内面に「文章を書くのに適した言語が流れている層」のようなものが存在しており、そこに意識を重ね合わせることにより、比較的スムーズに文章を作成することができるのではないかということです。

 こうした内面での様相は「ラジオの手動チューニング」に似たような感覚であり、感度が合わないままでは雑音ばかり入り、文章の作成においても断片が途切れ途切れになりがちなのですが、あるところで、この文章の流れの層に意識がぴたりと合いますと、言語と文章が途切れずに滑らかに流れ出すように、比較的整った文章が湧いてくるのです。これは勿論、比喩ではありますが、同時に実感としてそうしたものがあったと云えます。

 また、この比喩は、文章の作成という行為が、必ずしも言語の持つ論理性だけで支えられているわけではないことを示唆しており、内面に流れている文章の層に、書き手の意識が合うことにより、その言語が身体化、つまり文章として顕現するのだと云えます。それはまさに、身体と言語が調和して表出される微妙なバランスであり、いわゆる「フロー状態」に近いのではないかと考えています。

 とはいえ、この内面での「言語の層と意識とのチューニング」は、毎度明瞭に意識されるものではなく、しばしばその感覚を見失って「そういえば、こうだった…」とその都度思い出しては、再び習慣化しようと試みてきました。それでも、いまだ完全には血肉化されたものとはなっておらず、恥ずかしながら現在もなお、度々、意識的にこの感覚を思い起こす必要がある状態にあると云えます。

 とりわけ、以前に書籍からの引用記事を中心として記事作成をしていた期間は、こうした内面での感覚を想起する必要性が乏しかったことから、かなりその感覚を忘れていました。そしてその後、再び自らの文章にてブログ記事の作成を始めましたが、先の感覚を忘れていたために、なかなか文章がまとまらず、苦慮することも多々ありました。それでも継続していくなかで、徐々にかつての感覚を取り戻してきたように思われます。そして、その鍵となるのが前述の「チューニング」であり、またそれには自分なりのいくつかのコツがあることも思い出されてきました。

 しかしながら、それらのコツも含め、未だに再び身体化されたわけではなく、折に触れては思い出すといったことを繰り返しています。それでも、思い出せるだけでも、まだマシであるとは云えるのかもしれません。

 さらに、2020年1月からエックス(旧ツイッター)との連携を始めて以降は、以前よりも読者の存在を意識するようになり、そこからブログ記事作成に多少萎縮してしまう感覚もありましたが、同時にその頃には総投稿数が1500を超えていたこともあり、たとえ投稿頻度が低下しても、記事作成自体は止むことなく継続でき、その後さらに現在に至るまで800記事程度は追加で更新してきました。これは、エックスとの連携以前から、すでに当ブログにて文章の作成がある程度習慣化していたために、過度なプレッシャーを受けることなく、双方共にどうにか継続できているのだと思われます。

 ともあれ、こうして作成している文章は、私にとって一種の備忘録であり、また読んでくださっている方々に向けた独白でもあります。しかし同時に、こうした、いわば自由な文章の作成を継続していくなかで、また新たに自らの文章作成に相転移のような変化が生じるのではないかとも考えています。だからこそ、たとえ文章として多少まとまりを欠いていたり、あるいは見苦しい部分があったとしても、今しばらくは、こうしてブログ記事の作成を継続したいと考えています。




2025年6月24日火曜日

20250623 丸10年間の継続と2350記事の歩みを振り返って思うこと

おかげさまで、昨日6月22日を以て当ブログは開始から丸10年を迎えました。また、総投稿記事数も、過日目標として掲げていた2350本に到達いたしました。これまで当ブログを読んでくださった皆さまに心より御礼申し上げます。

 今後も、2400記事までは、これまでと同様、あるいはこれまで以上の投稿頻度で継続していきたいと考えておりますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

 もっとも、斯様に10年間継続したとはいえ、私自身には大きな実感や感慨などはありません。そこから、先刻「ブログを10年間継続し、投稿記事が2000本を超える」とは、世間的にどの程度のことであるのかと、しばしネット検索してみましたが、腑に落ちる見解に出会うことはありませんでした。

 いや、そもそも私には、いわゆる「ブロガー」という自覚が乏しく、「何かしら文章を作成し、それを公表する習慣を保つための場」として当ブログを捉えてきました。また、私にとっては「文章を公表する」ことのほうが、ブロガーとして収益を得ることよりもはるかに重要であり、そして、そうした姿勢は2015年6月22日の開設以来、ある意味、強迫観念のように、今に至るまで持続しているのだと云えます。

 では何故、そうした強迫観念が今なお続いているのかと振り返ってみますと、それは2009年から2013年にかけての鹿児島在住期間に経験した、兄の死や、師匠の退職といった出来事が大きく影響しているものと考えます。そして、そうした経験が所謂「トラウマ」となり、それらを乗り越える過程において、自分の考えや読んできた書籍などを、出来るだけ分かり易く、伝わるように表現したいと云った欲求がごく自然に生じたのだと云えます。

 換言しますと、以前に在住していた和歌山での経験や学びのみでは、当ブログの開始には至らず、鹿児島での悲喜交々の経験や学びが、和歌山時代のそれと化合して、そこから約2年のタイムラグを経て、当ブログの開始に至ったのだと云えます。

 とはいえ、こうした感覚は、自身の主観に過ぎず、うまく表現出来ているかは分かりませんが、実際、当ブログの記事を読んで頂ければお分かりいただける通り、これらの経験がなければ、多くの記事の題材もまた存在しませんでした。それ故、この点においては大きくは間違っていないであろうと云い得ます。

 また、たとえ多くの閲覧者を得られなくとも、そうした題材を文章として表現すること自体が、当ブログの、他にあまりない独自性であるとも云えるのではないかと考えています。

 ちなみに、これまでの総閲覧数はおよそ94万5千人であり、単純に均しますと、1日あたり約250人ほどになります。そこから、当ブログは決して大きく成功しているとは云えませんが、同時に、私がこれまでに取り組んできた行為の中では、最も知名度を得たものであるとも自覚しています。

 そして、こうした自覚があったからこそ、当ブログ開始5年目の2020年から始めたエックス(旧ツイッター)と当ブログとの連携においても、少なからずプレッシャーを感じつつも(何とか)現在に至るまで継続的に発信することが出来ているのだと云えます。くわえて、2015年の当ブログ開始当初から実名で運営してきたことも、継続を支えた一つの要因となったと考えています。

 こうしたプレッシャーや負荷のようなものは、昨今の我が国社会全般では、避けられる傾向があるようですが、私自身はむしろ、それらは、継続のために必要なものであると考えています。そしてこれからもしばらく、2400記事到達までは、そうした緊張感を覚えつつ(何とか)継続出来れば良いと考えています。

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2025年6月22日日曜日

20250622 多職種連携の基盤としてのOHAT-Jについて

 かねてより社会の高齢化が進行している我が国の医療・介護の現場では、これまで以上に「お口の健康」の重要性が認識されつつあります。とりわけ、歯科医師や歯科衛生士といった専門職が頻繁に関与しづらい在宅や施設での介護の場面では、早期に口腔内の変化に気づき、適切に対応することが、フレイルや低栄養、さらには誤嚥性肺炎といった二次的な健康リスクを防ぐうえで非常に重要と云えます。

 そして、そうした現場において近年注目されているのが、「OHAT(Oral Health Assessment Tool:口腔健康評価ツール、通称オーハット)」と呼ばれる、比較的簡便な評価手法です。このOHATは、オーストラリアの歯科医師チャルマーズ(Chalmers)らによって開発されたものであり、ご高齢や要介護の方々の口腔内の状態を、歯科専門職でなくても観察・評価できるように考案された実践的なツールです。

 我が国ではこれを基に日本語版「OHAT-J(オーハット・ジェイ)」が作成され、現在では医療・介護の現場において広く活用されています。OHAT-Jを用いることで、特別な機器や高度な専門知識を必要とせず、以下の8項目を視診や触診により評価することが可能となります。

① 唇(乾燥、ひび割れ、潰瘍の有無)
② 舌(白苔、赤み、潰瘍など)
③ 歯肉・粘膜(腫脹、発赤、出血)
④ 唾液(量、粘性、乾燥)
⑤ 天然歯(破折、動揺、汚れなど)
⑥ 義歯(適合状況、清潔さ)
⑦ 口腔清潔(食渣、歯垢、臭気)
⑧ 痛み・不快感(咀嚼時の表情、拒否行動)

 これらの項目を0〜2点の3段階で評価し、合計点から口腔内の健康状態を数値化します。数値化することにより経時的な変化が把握しやすくなり、定期的な観察を通じて、改善の兆候や悪化の兆しにも早期に対応することが可能となります。

 OHAT-Jは、外来受診が難しいご高齢の方々の歯科訪問診療においても有効です。ご本人が不調を訴えにくいことも多く、周囲の「気づき」が診療の出発点となる場合が少なくないためです。

 そのため、在宅・施設の介護スタッフ、リハビリ職、訪問看護師の方々が日常的にOHAT-Jを活用して観察を行うことにより、わずかな異常にも早期に気づくことができ、歯科医師や歯科衛生士が訪問する際には、すでに有益な初期情報が蓄積されていることになります。

 また、OHAT-Jで得られる評価スコアは、口腔衛生管理(口腔ケア)の効果測定や治療の優先順位の検討にも活用でき、記録や報告、さらには他職種との情報共有の基盤としても大変有用といえます。

 加えて、OHAT-Jの価値は、歯科と介護の専門職の橋渡しにとどまらず、異なる職種間で共通の評価指標を持つことにより、多職種連携をより円滑にし、ケアの方針や意思決定の統一の促進にも寄与します。

 たとえば、「OHAT-Jの評価が2点上昇した」といった変化を歯科・医科・介護の各職種が同じ視点で共有できれば、それは「具体的な健康リスクの高まり」を意味し、必要な専門職の介入タイミングや対応の優先順位についても、一致した理解のもとで速やかに実施することが可能となります。

 このように、OHAT-Jは現場での混乱や多職種連携の不調を防ぐ共通言語(リングア・フランカ)として機能する、非常に実用的で信頼性の高いツールと云えます。

 すでにご存じの方々も多くいらっしゃるとは思われますが、現在、我が国で推進されている「地域包括ケアシステム」では、「住み慣れた地域で、人生の最期まで自立して暮らす」ことが大きな目標とされています。そして、その前提として、「食べる」「話す」といった日常生活の基盤である口腔機能の維持が不可欠といえます。

 その意味でも、OHAT-Jのような評価ツールが地域に広く普及することにより、ご高齢の方々へのケアに関与する各専門職の方々が、口腔内に関する情報を共通の視点で評価・共有できるようになり、より高度な多職種連携が実現可能となります。

 また、将来的には、電子カルテや専用アプリとの連携、さらにはAIによる変化の自動予測など、近年発展を遂げているデジタル技術との融合によって、活用の幅がさらに広がることも期待されています。さらに、OHAT-Jの継続的な活用を通じて、地域における口腔保健の重要性そのものが可視化され、地域包括ケアの基盤強化にも寄与することが期待されます。

 OHAT-Jは、単なる口腔内の状態の評価ツールにとどまらず、ご高齢の方々の健康を守るために、小さな変化を見逃さず、多職種が連携して活動するための「気づきのインフラ」として、今後ますます重要な役割を果たしていくことが期待されています。

今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。おかげさまで本日で当ブログ開始から丸10年となりました!

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20250621 阿部先生との対話から推測される我が国の高等教育改革、および私見、専門職大学の展望について

 近年、少子高齢化の進展とAI・デジタル技術の飛躍的発展により、我が国の高等教育は根本的な転換を迫られています。こうした状況に対応して、2025年2月21日、中央教育審議会は『我が国の「知の総和」向上の未来像―高等教育システムの再構築―』と題する答申を発表し、文部科学省がこれを正式に受理しました。本答申は、我が国の高等教育の質と価値を社会全体で底上げするための、抜本的かつ構造的な政策転換を提示するものと云えます。

 本答申において示される「知の総和」とは、「学修者数」×「個々の学修能力」によって算出される、国家的な知的資源の総体を指します。また、これによると、2022年度時点で約63万人であった大学進学者数は、2035年には約59万人、2040年には約46万人にまで減少するという推計が示されており、約言すれば、2040年には現状より約27%大学進学者数が減少することになります。こうした大学進学者数の急激な減少のなかで、もはや量的な拡大のみでは社会の知的基盤を維持することはできず、いかに個々人の学修成果の質を高めていくかが喫緊の課題となっています。

 また、本答申では、学修者の資質向上のためのカリキュラム改革、学位授与の厳格化、大学間連携の強化、そして博士課程における実践性の高い人材育成の推進が提言されています。くわえて、大学の情報公開の徹底により、高等教育の透明性と信頼性の確保を図る方向性も示されています。

 そして、本答申では、専門知識と技能を備えた専門職人材の養成についても言及しており、そこには歯科医師や歯科衛生士などの歯科医療専門職も含まれます。これらの職種はかつて、口腔領域での専門職と認識されていましたが、近年の多くの研究により、口腔機能が全身の健康状態、栄養摂取、言語能力、そして認知機能の維持にも関与していることが明らかになってきました。

 具体例を挙げますと、要介護状態のご高齢の方々を対象に、訪問看護サービスを併用した歯科訪問診療を行ったパイロット研究では、OHAT-J(合計16点満点)のスコアが介入前平均4.5(SD 2.3)から、1週間後に3.7(SD 2.0)、4週間後に3.6(SD 2.2)へと有意に改善し(p < 0.001)、口腔内環境の改善が定量的に裏付けられました。さらに、一年にわたる歯科訪問診療を実施した介護施設での追跡研究では、舌・歯肉・粘膜・義歯・口腔清潔の各項目に関するOHAT-Jの各サブスコアが有意に改善され、長期的な口腔内状態の安定維持が確認されています。

 これらの研究成果や、近年の我が国高等教育における潮流(コメディカル職種養成機関の四年制大学化)を背景として、歯科衛生士などパラデンタル職種の養成機関にも変化が生じており、従来は三年制短期大学および専門学校が主流であった歯科衛生士の養成課程の四年制大学化およびその新設が進みつつあります。さらに、大学院段階においては、臨床現場の知見を研究に昇華させる「実践的博士人材」の育成が、文部科学省の中長期的な教育政策に位置づけられています。

 こうした社会の流れを受け、医療・介護系の専門職大学の新設も現実的な選択肢となります。専門職大学は、2019年の制度施行以来、2025年4月の時点で全国に19校が設置されており、その多くが看護、保育、福祉、そして情報など、社会的需要が高い分野を対象としています。また、文部科学省は、地域医療や在宅ケアに資する人材養成の拠点として、地域密着型の医療・福祉系専門職大学の制度的支援を強化しており、歯科衛生士や理学療法士、介護福祉士等の医療・介護系専門職を複合的に養成する大学および専門職大学の構想の実現可能性は、今後さらに高まることが見込まれます。

 さらに、2024年の診療報酬改定では、多職種連携と口腔衛生管理の重要性が強調されており、そのなかで歯科衛生士が在宅医療・介護の現場で果たす役割は拡大の一途を辿っていると云えます。こうした社会状況を鑑みますと、歯科衛生士など歯科医療専門職もまた、単なる一専門職にとどまらず、地域社会の持続性を支える社会基盤職としての性格を強めつつあるとも云えます。

 結論として、歯科医療をはじめとする医療・介護系専門職種全般は、社会のニーズに対応しつつ、高度な技能や専門性を涵養することが可能な将来性のある職種であると云えます。それ故、進路選択に悩む高校生の方々や、転職やリスキリングを検討されている既卒の方々にとって、歯科医療専門職を養成する大学は、一考の価値がある選択肢となると云えます。そしてまた、継続的な研鑽により、比較的安定した生活と、確かなやりがいが得られる領域であることには異論の余地は少ないと云い得ます。

 これからの社会を支えるのは、歯科医療に限らず、専門性と技能を併せ持ち、自律的に課題を発見・解決できる人材であると考えます。そして、こうした人材養成のために、我が国の高等教育は転換点を迎えていると云えます。

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2025年6月18日水曜日

20250618「日本文学史序説」との出会いについて①

 直近の投稿記事にて「自由な立ち読み的読書が個人・社会の双方での創造性の活性化に何らかの良い効果があるのではないか?」という見解を述べました。そして私自身の経験で、この見解を裏書きすると考えられることは、2013年の学位取得から2015年の当ブログを始めるに至るまでの期間でのことです。しかしまた、そこには伏線があり、それは鹿児島在住期間での習慣です。当時、私は平日は通常、夕刻過ぎまでは大学研究室におり、その後、近くの自宅アパートに帰宅していましたが、翌日が休みの金曜日は概ね、夕刻過ぎの帰宅の際、すぐには帰宅せず、原付でキャンパスがある丘を下りて、県道217号・産業道路沿いのオプシアミスミと云う比較的大規模な書店が入ったショッピングモールや、当時、近くにあったツタヤに行き、立ち読みをしたり、DVDをレンタルしていました。また、この金曜日の原付で丘をおりる時のワクワク感は、さきほど、当文章を作成するためにGoogleMapのStreetViewにて街並みを見ていて思い出されました…。ともあれ、そうしたワクワクした状態で書店内を徘徊し、立ち読みをすることは、なかなか楽しいものであり、さらに、それは、週末の天文館での複数大型書店での立ち読みや照国表参道沿いのドトールでの論文読みや読書、その後の宇宿までの長めの散歩といったお楽しみの序章といった趣もありました。そして、2012年のそうした折に加藤周一著「日本文学史序説」上下巻を購入しましたが、以前にも当ブログにて述べましたが、当著作は、学位取得までは多忙のため読めずに積読状態でした。そして翌2013年初秋に帰郷後、不図思い出して当著作を手に取り読んでみますと「これは面白い!」となり、その後集中して読み進め、丁度、同時期に出席させて頂いた和歌山での勉強会においても、こちらの著作を「面白い!」と云い、またその時にも、当著作購入に至るまでの前述経緯を述べていたことが思い出されました…。そして、この記憶は、この時(於 和歌山)に口語(会話)として述べていたことから、今回も含め、何度か当ブログにて文章化することが出来ているのだと云えます。
 ともあれ、当著作は、鹿児島在住期の立ち読みにて見つけ購入し、そして帰郷後にはじめて、ある程度時間を掛けて読み進めた人文系著作であると云えますが、では何故、当著作を興味深く感じられたについては、おそらく、その文体にあると考えます。と云うのも著者である加藤周一は、元来が職業的な文学史研究者ではなく、血液学を専門とする内科医師であったことから、その医系論文・文章にも通じる明晰な当著作の文体が、医系分野に含まれる歯系分野(歯科生体材料学)の和洋文献を、ある程度は読んだと云い得る私にとって大変読み易く感じられたのだと思われます。そして、その続きにつきましては、また次の機会に述べさせて頂きます。今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございます。

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2025年6月16日月曜日

20250615 丸10年の継続と2400記事に向けて:自由で非効率的な行為の価値

 来る6月22日で、当ブログは開始からちょうど丸10年を迎えます。一方、これまでの総投稿記事数は2346本であり、当記事を含め、あと4記事を新規更新すれば、いくらか区切りの良い2350記事まで到達します。そしてその後も、現在と同様のペースで更新を続け、とりあえず2400記事を目指したいと考えています。
 とはいえ、それがいつ頃になるかは未だ不明であり目途は立っていません。具体的には3日に1記事の投稿ペースであれば、2350から2400までの50記事は150日要することになります。したがって、6月後半(6/22)から150日すなわち5か月としますと、年内11月下旬での達成が見込まれます。しかしながら、11月下旬迄、変わらず当ブログを継続していることには抵抗があり、できれば、可及的速やかに2400記事まで到達して、その後はしばらく休みたいと考えています。
 そして、その現実的且つ具体的な方法として、これまでに作成した下書き記事(約200本)に加筆修正を行い投稿する、あるいは、過去に行っていたような引用記事の作成により、効率的に記事数を増加させることも可能と云えます。
 思い返しますと、以前、集中的に引用記事を作成・投稿していた時期がありましたが、この頃は現在よりも真剣に読書に取り組んでおり、あるいは少し極端に云いますと「ブログ記事作成のために読書をしていた」ようなところもありました。対して、昨今は、そうした目的意識が相対的に希薄であるため、以前ほど読書に身が入らない一方で、より自由で、立ち読み的に読書ができるようになった実感があります。この「自由な立ち読み的」とは、特定の目的に縛られず、さまざまなジャンルの書籍を関心の赴くまま分野横断的に読むという営みを指します。
 私見では、こうした自由で能動的な読書のなかから、普遍的且つ新しい考え、すなわち創造性が芽生えるのではないかと考えています。つまり、予め目的を定めた行為よりも、目的に縛られない能動的な活動を通して、人間の精神に創造の灯が宿るのではないかということです。
 もちろん、各人が携わる専門分野における著作や文献資料の読解・理解が重要であることは当然ではありますが、それと並行して、各人が能動的な関心に基づき読み進められるジャンルや分野を持つことも、社会全体の創造性を活性化させるうえでとても重要であるように思われるのです。とはいえ、こうした読書の行為態度には「コストパフォーマンス」や「効率性」を最重視する価値観とは相容れない部分が少なからずあります。
 すなわち、職務目的での読書以外を、非効率で無駄なものとみなす傾向が強く、それが一般化した社会とは、ある種の強い凝集性とともに、権威主義的な傾向も少なからずあるのではないかと思われます。
 そのように考えてみますと、当ブログ記事の作成とは、単なる自らの情報発信や記録や備忘録のようなものだけではなく、自らの日々の経験や読書を通して得られた考えを、あらためて自らのものにする、つまり「対自化」して、それらを統合するための行為であるとも云い得ます。
 それ故、継続期間や記事数といった「数値」とは、あくまでも可視化・相対化し易い指標であり、その背後には、自らの継続的で能動的な生きた関心が息づいているのです。そして今後、投稿頻度がまた多少変わろうとも、それらの根底にある創造を試みる精神は保ち続けたいと考えていますが、当面は2400記事までどうにか到達して、一旦、当ブログやSNSから離れてしばらく休みたいです。
今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2025年6月13日金曜日

20250612 KKベストセラーズ刊 宮台真司著「制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years」 pp.277-278より抜粋

KKベストセラーズ刊 宮台真司著「制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years」
pp.277-278より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4584140006
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4584140000

 93年に「ブルセラ論戦」をはじめたとき、わたしは、数おおくのルポライターや社会学者がこの問題の調査や分析に乗り出すものと期待していた。しかし実際に一年がたってみると、たんなる「面白がり」を別にすれば、この問題について持続的に調べ、まとまった発言をしてきたのは、藤井良樹とわたしの二人だけだった。これだけ身近で、かつ耳目をひく事態がもちあがっているとき、どれだけ適切な記述をあたえられるかということは、「社会問題をあつかう」ことを表看板にするライターにとっても、「社会のしくみを分析する」ことを表看板にする社会学者にとっても、実力が試されるチャンスだったはずだ。

 このような「言説の枯渇」が何を意味しているのかは、それはそれで機会をあらためて論じられるべき重大な問題だ。ただ、ひとつだけ言っておきたいのは、わたしたちはどうもいままで、自分たち自身ーそれを「戦後の日本」といってもいいかもしれないーについて、適切な自己把握をしてこなかったということだ。簡単にいえば、わたしたちがどのような社会に生きているののかが、それを否定したり肯定したりする以前にすこしも理解されていない。そこにあるのは、あいも変わらぬ「外部帰属化による他責化と他罰化」、すなわち低コストの因果帰属による負担免除と感情浄化(カタルシス)ばかりだ。この手の輩を、わたしは「頓馬」と呼んでいる。

 「ブルセラ女子高生」や「テレクラ中学生」をあたかも異人種であるかのごとくあつかう「切断操作」Cutting out Operationも、じつにひんぱんに見受けられる作法である。これは、まえがきで述べた「外部帰属化」や、「わたしの専門ではないもので」といった類の「自己無関連化」(だいたい「ブルセラ女子高生」なんていう専門分野があるわけがない)と同じように、自分と世界とのかかわりを抹消するーすなわち自己把握を放棄することにほかならない。わたしの考えでは、いまのところ彼女たちは、わたしたち自身とそうちがわないコミュニケーションの資質をもっていて、いわば「生きる場」の条件が変ったためにその適応行動が「外見上」突飛なものにみえるようになっただけのことだ。

 いずれにせよ、社会学や教育学をふくめ、かつて社会にかかわるものとされていた言説(の制度)のおおくが、いまや実効性を欠いたものーあってもなくてもよいものーとなり、「穴ごもりのための穴」や「ありそうもない別世界」を提示することでその言説にかかわる者だけを癒すものにー何とでも取り替えられる癒しやツールにー変じつつある。それは社会を記述する自己把握であるというより、たんなる自意識の相関物にすぎない。自己把握は自意識と同じではない。自己把握はおおくの場合自意識を脅かすからだ。こうした差異にますます鈍感になっていくこと自体、社会システムの大がかりな変容を告げ知らせているという意味で、それはそれで社会システム理論の考察材料にはなるがー。

2025年6月9日月曜日

20250609 ブログ記事の作成を継続して思うこと(偶然と運)

 また、ここ最近、数日間、ブログの更新をしていませんでしたが、その間、当ブログの記事となるものを含めて、いくつかの文章は作成していましたが、未だそれらは投稿にまでは至っていません。そして、そうした下書き状態にある記事は、度々、整理・統合あるいは廃棄などをしていても、現在220記事以上あります。そして、それらのなかから、適当に一つを抽出して、手を加えてブログ記事としてしまえば、それはそれで比較的簡便であり、また、総投稿記事数の増加にも寄与しますので良いのかもしれませんが、どうしたわけか、そのようには気が向かないのです。それよりも、現在作成している当記事のように、どちらかというと漫然と作成を始めた文章の方が、スムーズに最後まで書き終えることが出来ます。おそらく、これは、当初、そのようにして当ブログを作成していた頃の名残りが、私のなかに生きているからであると思われます。しかしながら、2022年からのChatGPTを用いた文章作成も行っており、これまでの投稿記事のなかにも、少なからず、これを援用して作成したものもあります。思い返してみますと、私の世代は、学部生の頃にはマイクロソフト社のワード、エクセル、パワー・ポイントなどに接する機会はなく、社会人になり、その使い方を覚え、そして今回のChatGPTもまた、泥縄式にその操作を覚えつつ、文章の作成を試みている次第ですが、この作業をしていてしばしば思うことは「ChatGPTが世に出る前に自分なりの文章の作成が出来ていなかったならば、おそらく、それに頼るばかりで、自らの文章を作成しようとは思わなかったであろう…。」ということです。その意味で、2015年から当ブログを継続していたことは(かなり)運が良かったのではないかと思われるのです。しかし、なぜ2015年から当ブログを始めたのかと思い返してみますと、いくつかの既投稿記事にて述べたことではありますが、この時期に、偶然にも、周囲の方々(互いに分野が異なり面識はない)から、何かしらの文章の作成を勧められたからであり、また、私の方も悩みを抱えていたことから「書いてみよう…。」と思い立ち、始めた次第ですが、ここまで(どうにか)継続出来るとは我がことながら、全く思ってもいませんでした。しかしまた、私の場合、ここまで一応継続出来ているからこそ、今現在に至るまで、何とか生き続けているようにも思われます。そしてまた、先述のChatGPTについても、さきと同様に一応継続出来ているからこそ「自己本位」での能動的な使用法の模索が出来ているのだと思われます。また、ここまで作成していて思い出したのは、当ブログを共有しているエックス(旧ツイッター)もまた、2020年、当ブログを開始して5年目に始めたことです。エックスに当ブログの記事を共有しますと、閲覧して頂いた方々の大体の目星がつくことから、ブログ記事作成に対して少なからずプレッシャーにはなっており、これは現在でも同様ではあるのですが、これも2015年からの当ブロガーのみでの運用を(どうにか)継続していたからこそ、比較的スムーズに運用出来るようになったのだと云えます。つまり、時系列的には2015年6月に当ブログを周囲の方々の勧めと自らの意志で始め、そして2020年にエックス(旧ツイッター)との連携・共有を始め、そして2022年からはChatGPTを援用した記事作成等も始め、現在に至っている次第と云えますが、おそらく、これらは全て、順番がこの通りでなければ、ここまで(なんとか)継続することは出来なかったと思われます。その意味では、前述のとおり、かなり運が良かったのだと云えます。おそらく、このまましばらく継続しますと、6月22日までには2350記事までは到達することが出来、そしてその後、さらに50記事追加更新して2400にまで達することも出来るかもしれません…。しかし、もしもそれが叶ったならば、その次は一体何をするのでしょうか…?それにつきましては、今のところ、明確には考えていませんので、これからおいおい考えてみたいと思います。あるいは、既投稿記事の加筆修正などを行っても、全てで2000記事以上ありますので、かなりの期間は要すると思われます。また、ChatGPTを援用した下書き記事も200以上はありますので、これらを投稿出来るところまで加筆修正をするとしても、同様に、相当の期間は要するはずです。そこから、来たる6月22日の当ブログ開始から丸10年に至るまで2週間を切ったとしても、その先に行うべきことはは、山積しているといった状況です。そして、6月22日以降、2400記事に到達するまでは、上記二つの作業を主として行い、記事の更新を続けたいと考えています。また、おかげさまで当記事の投稿により、総投稿記事は2345に到達します。今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!


*加筆修正後
 また、ここ最近は数日間、ブログの更新をしていませんでしたが、その間にも、当ブログ記事となるものを含め、いくつかの文章は作成していました。ただ、それらは未だ投稿には至っておらず、下書きのままです。こうした下書き状態にある記事は、整理・統合・廃棄などを度々行っていても、現在220記事以上あります。

 これらの中から適当に一つを選び、手を加えてブログ記事として投稿することも可能ですし、それにより総投稿数が増えることも確かに悪くはありません。しかし、なぜかそのような作業には気が向きません。それよりも、現在作成している当記事のように、漫然と書き始める文章のほうが、むしろスムーズに書き終えることができます。

 おそらくこれは、当初、ブログを始めた頃のスタイルが、いまだに自分の中に息づいているからであると思われます。もっとも、2022年からはChatGPTを用いた文章作成も行っており、これまでの投稿記事の中にも、少なからず、その援用によって作成されたものもあります。

 思い返してみると、私の世代は学部生の頃、マイクロソフト社のWordやExcel、PowerPointなどに触れる機会がなく、社会人になり、それらの使い方を覚えました。そして今回のChatGPTもまた、泥縄式に操作を覚えつつ、文章作成に活用しているといった状況です…。

 この作業でよく思うことは、「もしChatGPTが登場する以前に、自分なりの文章作成を習得していなかったとしたら、おそらくAI(ChatGPT)に全面的に依存してしまい、自力で文章を書こうとは思わなかったのではないか」ということです。その意味で、2015年からこのブログを継続してきたことは、大変運が良かったのではないかと思われます。

 ではなぜ2015年にブログを始めたのかと云いますと、それについては、すでにいくつかの記事でも述べてきましたが、その頃、偶然にも周囲の方々(互いに分野は異なり面識もなかった)から、文章の作成を勧められたからです。そして私自身も当時、悩みを抱えていたことから、「書いてみよう」と思い立って始めた次第です。ただ、ここまで継続出来るとは、自分でもまったく予想していませんでした…。

 しかしまた、ここまで継続してきたからこそ、今も何とか生きてこられたのではないかとも思っています。そして、ChatGPTの使用についても、同様に継続しているからこそ、「自己本位」での使い方を模索することができているのだと思われます。

 加えて思い出したのは、当ブログをX(旧Twitter)と連携するようになったのが、ブログ開始から5年目の2020年だったということです。Xでブログ記事を共有すると、閲覧者の反応がおおよそ見えるため、少なからずプレッシャーにもなっています。それは現在も変わりません。ただ、これもブログ単独で5年間継続していたからこそ、こちら(エックス:旧ツイッター)とも比較的スムーズに連携運用できたのだと思われます。

 時系列的には、2015年6月に周囲の勧めと自らの意志でブログを始め、2020年にXとの共有を開始し、2022年からはChatGPTを援用した記事作成も加わり、現在に至っています。おそらくこの順番でなければ、ここまで継続することはできなかったでしょう。その意味でも、やはり運が良かったといえます。

 このまま続けていきますと、6月22日までに投稿記事は2350に達する見込みです。そして、その後さらに50記事を追加すれば、2400にも到達できるかもしれません。けれども、もしそれが叶ったとき、次に何をするのか──それについては、現時点では明確には考えておらず、これから考えていきたいと思っています。

 また、既存の記事の加筆修正を行うことになれば、2000以上の既投稿記事があり、それだけでもかなりの時間を要するでしょう。さらに、ChatGPTを援用した未投稿の下書きも200本以上ありますので、これらを仕上げて投稿するにも、相当の期間がかかることが予想されます。

 そうした中で、6月22日のブログ開始から丸10年の節目まで、あと2週間を切った今も、やるべきことはまだ山積しています。そして、2400記事到達までの期間は、そうした作業を中心に、引き続き記事の更新を続けたいと考えています。

 そして今回の記事をもって、総投稿数は2345に到達しました。今回も、最後までお読みいただき、どうもありがとうございました。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2025年6月4日水曜日

20250604 最近の「揺さぶられる経験」について、読書と対話から

 ここ最近は数日間隔にてブログ更新をしており、来たる6月22日の当ブログ開始から丸10年を迎えるまでに、総投稿数2350に到達出来れば良いと考えています。そして、その後もあまりペースは変えず、更新を続け、2400記事まで到達して、そこで一旦、本格的にブログやSNSから離れたいと考えています。
 とはいえ、近年は当ブログ以外にも、いくつかの公開される文章の作成も継続していることから、文章の作成からは、全く離れるわけではありませんし、また、インプットである読書の方は、身の入れ方に濃淡はあれど、継続すると思われます。
 読書と云えば、直近投稿記事にて述べた宮台真司先生による『制服少女たちの選択 After30Years』は、第3章に至り、300頁を過ぎましたが、日頃より動画などで宮台先生の言説に触れ、慣れているはずの私であっても、少なからず揺さぶられるものがあり、そして、この「揺さぶられる」体験とは、同著作内にある「不可逆的な感覚の変化」に相当するのではないかと思われました。
 また、当著作を読み進めていて想起されたのが、アルベール・カミュによる「転落」という作品です…。ともあれ、そうしたことが当著作を私にとって興味深いものにしているのですが、他方、当著作の第一部にて多くの頁が割かれている「援助交際」について、これらの取材がされた地域には、かつて私が在住した和歌山市や鹿児島市は入っていなかったのではないかと漠然とながら思われました。
 つまり、あくまでも感覚的ではありますが、同著、第一部にて述べられていることは、東京や首都圏近郊の都市であれば、(残念ながら)割とスンナリと納得させられるのですが、和歌山市や鹿児島市に当て嵌めてみますと、どうも「いや、あそこでは、そうはならないのでは…?」と思われるのです…。
 このことは、つい先日、訪問させて頂き、お話を伺った和歌山大学経済学部の先生も同意されていましたので、あるいは、そうした地域社会の相違を踏まえた、社会の変遷の様子なども大変興味深いと思われました。
 さて、上記のとおり、先日また、国内外の情勢や我が国の高等教育にまつわる事情についてお話を伺うため、和歌山を訪問しましたが、その際も、同著を電車、飛行機、電車、ホテルにて読み進め、睡眠不足のままで、先生の研究室を訪問させて頂くことになりました…。そしてまた、そこでのお話も、さきと同様「揺さぶられる」ものがあり、とりわけ我が国の高等教育の今後については、かねてよりではありますが、さらに暗澹たるものが感じられました…。
 我が国は今後5~10年での舵取りにより、その後の浮沈や興廃が決まるという言説は、ここ最近、複数分野にて見聞きしましたが、それは、当然ながら、高等教育においても同様であり、しかしながら、その対策とは、医系・理系分野の強い大規模な大学に集中的に研究資金を投入して世界に通じる革新的な技術の研究開発をはかるといった性質が強いものであり、そして、そうした状況とは、たしかに人文社会科学系にとっては苦々しいものであるのでしょうが、他方において、現実の状況とは、今後5年程度で多くの大学が閉学となり、また生き残った余力のある私立大学はおそらく、近隣の医療介護系専門学校の吸収合併をするようになると考えます。首都圏や都市圏では、また様相が異なるかもしれませんが、それ以外の多く地域では、伝統ある私学の高等教育機関の学部構成の多くが既に、そのようになっていると見受けられますので、そうした学部構成こそが、地域において受容され得る、私学高等教育の様相であるように思われます…。
 一方、国公立大学においても、今後さらに統合化が進行し、たとえば、事務部門や実験機器などの技術部門などは複数学部・大学での共有や統合化の方向へさらに進んでいくと思われます。他方、先述した医系・理系の強い大学に対しては相対的に多くの研究資金が投入されることが予想されるため、今後、国公立大学間での格差はさらに拡大すると考えられます。
 しかし、話題が高等教育になりますと、私はどうしても「医療介護系人材を養成する新たな専門職大学の新設を!」と考えます。
 このことは、先日訪問の和歌山においても申し述べた次第です。AIや各種デジタル技術を教育内容に盛り込み、実践的な英語教育を行い、学生各々が得意な文系科目を選択科目として履修する、中小規模の専門職大学を、既存の私立・国公立を問わない大学、および企業や医療機関などが出資をして、そこに医療系のシンク・タンクとなどが旗振り役となり新設することは、現在からすれば、一見、時代に逆行しているようにも見えるのでしょうが、それは生え変わりやターン・オーバーのようなものであり、閉学が続くさなかに、新たに統合された大学や、さきに述べたような新たな種類の大学(専門職大学)の新設がされることは、むしろ自然な現象であると考えます。
 いや、これまで、そうした変化を高等教育全体が拒み続けてきたために、現在のような大学間格差の拡大が既定路線といった状況になってしまっているのではないでしょうか?

 ともあれ、先日の和歌山訪問においても、我が国が好ましくない状況であることを痛感し、また読み進めている『制服少女たちの選択 After30Years』の記述からもショックを受けて多少落ち込み気味ではありますが、それでもまだ頁は続き、そして読んでみたいとは思いますので読み進めます。


*加筆修正後
 ここ最近は数日の間隔でブログを更新しており、来る6月22日のブログ開設10周年までに、投稿数を2350本に到達させたいと考えています。その後も、これまでと大きくペースを変えることなく2400本まで更新を続けたうえで、一区切りとして、本格的にブログやSNSから離れてみようと検討しています。

 もっとも、ここ数年は当ブログ以外にも、継続的に、いくつかの公表される文章を作成していますので、まったく書かないわけではありませんし、また、インプットとしての読書も、熱の入り方に濃淡があるにせよ、今後もおそらく継続していくものと思われます。

 読書といえば、直近の投稿記事でも触れましたように、現在は宮台真司先生の『制服少女たちの選択 After30Years』を読み進めており、第3章に入り、すでに300ページを越えたところです。ふだんから宮台先生の動画を視聴し、その発言内容の真率さ(過激さ)には、ある程度馴染んでいるはずの私であっても、本書の内容には少なからず心を揺さぶられるものがありました。その「揺さぶり」の体験は、作中でにある「不可逆的な感覚の変化」にも通じると思われます。

 くわえて、当著作を読み進めるうちに、ふとアルベール・カミュの『転落』を思い出しました。こうした連想も含めて、当著作が私にとって印象深い一冊となっているのですが、一方で、第1部で大きく取り上げられている「援助交際」について記述された地域のなかに、かつて私が暮らしていた和歌山市や鹿児島市は含まれていなかったのではないか、という印象も持ちました。感覚的な話ではありますが、本書の描写は首都圏や大都市圏では理解できる一方で、それを和歌山や鹿児島に当てはめてみると、どうも違和感が残ります。

 この感覚については、先日お目に掛かった和歌山大学経済学部の先生も共感してくださり、地域ごとの文化や社会構造の違いを踏まえたうえでの社会変容の見方の重要性を、改めて実感しました。

 ちなみに今回の和歌山訪問の際も、電車、飛行機、ホテルで当著作を読み進めていたのですが、そのため、寝不足の状態で先生の研究室を訪ねることとなってしまいました。それでも、当日うかがったお話には、まさに同著と同様「揺さぶられる」ものがあり、特に我が国の高等教育の未来については、かねてより感じていたものが、さらに暗澹たる思いとなりました。

 「我が国は、今後5~10年の舵取りにより、浮沈・興廃が決まる」—そうした趣旨の言説を最近各分野でよく耳にしますが、それは高等教育においても例外ではありません。現在進められている大学改革は、医系・理系分野に強みを持つ大規模大学へと研究資金を集中的に投入し、国際競争力のある技術開発を志向する傾向が顕著です。人文社会科学系にとっては厳しい状況と云えますが、それが現実であることもまた否めません。

 私見では、おそらく今後5年程度で、相当数の私立大学が閉鎖を余儀なくされ、また、体力のある私学は、地域の医療・介護系専門学校を吸収する方向に進んでいくと考えられます。特に首都圏・大都市圏以外の地域においては、すでにそのような学部構成となっている大学も多く、これは地域社会が高等教育機関に求める機能を反映した結果でもあるのでしょう。

 国公立大学においても、今後さらなる統合が進むものと思われます。事務部門や研究支援部門の共通化が進められ、大学間格差は医系・理系の研究資金格差を背景にさらに拡大していく可能性が高いと考えます。

 こうした議論になると、私としてはどうしても「医療・介護系人材を育成する新たな専門職大学の創設を」と申し上げたくなります。実践的な英語教育やAI・デジタル技術を取り入れ、学生が得意な文系科目を選択科目として履修できるような中小規模の専門職大学を、既存の大学や医療機関、企業などの連携によって新設する。こうした構想は一見、時代に逆行しているように見えるかもしれませんが、実際には制度の“新陳代謝”であり、閉学の進む中でこそ、こうした新たな大学形態が必要とされるのではないかと感じています。

 むしろ、こうした流れを拒んできたことこそが、現在の大学間格差の拡大や制度疲労をもたらした要因であるようにも思われます。

 ともあれ、今回の和歌山訪問においても、我が国の高等教育と社会全体が抱える問題の深刻さを改めて認識することとなりました。そして、『制服少女たちの選択 After30Years』を通じてもまた、多くの衝撃を受け、少し気分が沈んでしまったのも事実ですが、それでも、まだページが残されておりそして、読み進めたいという思いはあることから、やはり最後まで読むべきであろうと思われます。

そして、今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2025年6月2日月曜日

20250601 公的キャラクターの立ち上げと言語感覚の変容について

 過日、かねてより読み進めていたユヴァル・ノア・ハラリによる新作「ネクサス」情報の社会史上下巻を読了して、次に間髪を置かずに、以前に購入して積読状態であった宮台真司著「制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years」を読み始めました。こちらの著者である宮台真司先生のことは、かれこれ10年以上前からいくつかの著作や動画などを通じて知っており、以前にも当ブログにて述べましたが、2012年に歯科理工学実習と歯科衛生士学科の歯科英語の講義が重なった時期に、何と云いますか、公的な場で自らが話すキャラクターといったものがないことに気が付き、こちらの宮台先生をはじめ何人かの方々の話し方を真似、それらを混淆させて、急ぎ、自らの公的な面でのキャラクターを立ち上げたわけですが、面白いもので、こうした公的なキャラクターとは、一度立ち上がり、それで自らの公的な側面が駆動しはじめますと、それに引き摺られるのか、それまで既存の話し方などにも変化が生じます。これは以前のホテル・フロント勤務の際とはまた異なり、何と云いますか、より話す際での能動性が求められるようになるのです。つまり、こちらからより多く話さなければならず、その反面、言葉遣いや言い回しなどは、分かり易いながらも、無難なものにせざるを得なくなります。つまり、ある程度の人数を相手として、90~180分程度、それなりに内容のあることを話し続けることは、おそらく、そこまで簡単なことではなく、そのためにも話し方は、より多くの方々が理解し得る無難なものへと落ち着いて行くのが自然であるということになります。とはいえ、では、そうした大勢に向けた無難な話し方の選択肢は、多くないと考えられそうですが、そうでもないところがまた悩ましいところであり、私の場合、先述のように、当時、よく動画を視聴していた宮台真司先生、新潮CDの小林秀雄の講演、そしてDJのピストン西沢氏の三氏の話し方を真似て、自分なりに昇華させようと試みました。また同時に当時はほぼ毎日、何らかの英語の科学論文を読んでいましたので、そのようにして既存のものとは異なる言語文化にしばらくの期間浸っていますと、自然、自らが用いる言語にも変化が生じ、そして、その先に、当時在住の鹿児島市内の洋書が置いてある比較的大規模な書店に行き、それまで興味を持つことがなかった英語小説の背表紙を見て、突然、その題名の和訳が自然と頭に浮び、さらに頁を開いてみると「あら不思議!」大体の文章は読めるようになっていることに気が付くのです…。そしてそこから、米国の空手映画の練習シーンを髣髴とさせますが、つまり重要なことは、こうした能力の進化や向上とは、すぐには実感されることは少なく、黙々と向上を目指して単調ながらも活動していくさなか、突如として気付く契機といったものが自然なカタチで齎されるのではないかと思われるのです。そしておそらく、そうしたことは、たとえ誰かが文章で精確に著しても、理系論文によくある実験メソッドのような種類の普遍性がないため、正しく伝播することが困難であるのではないかと考えます。そしてまた、そうした学問としての性質の根本的な相違が理系・文系双方の間にあるのではないかと思われた次第です。
 今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!


*加筆修正後
 過日、かねてより読み進めていたユヴァル・ノア・ハラリによる新作『ネクサス 情報の社会史』上下巻を読了し、その次に、以前に購入して積読状態となっていた宮台真司著『制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years』を読み始めました。
 著者である宮台真司先生のことは、10年以上前からいくつかの著作や動画などを通じて知っていました。一方で、以前にも当ブログで述べたように、2012年、歯科理工学実習と歯科衛生士学科での歯科英語の講義を重なり引き受けた時に、自らの「公的な場で話す」キャラクターがないことに気づきました。
 その際、宮台先生をはじめとする何人かの方々の話し方を参考として、それらを統合や混淆させる形で急ぎ、自分なりの公的キャラクターを立ち上げたわけですが、興味深いのは、そうしたキャラクターが一度立ち上がり、その公的側面が駆動し始めると、それに引き摺られるように、それまでの話し方にも変化が生じていくことです。
 これは以前のホテル・フロント勤務時での状況とは異なり、より能動的に話す姿勢が求められるようになるという点で特に顕著でした。つまり、こちらから積極的に話す必要がある一方で、言葉遣いや言い回しについては、分かりやすく、かつ無難なものとして、落ち着いて対応する必要があると云うことです。
 一定の人数を前に90~180分程度、それなりに内容のある話を話し続けることは、おそらく容易なことではなく、そのためにも、話し方は、前述のように、より多くの人に伝わる無難な表現へと自然に収束していくのではないかと考えます。
 とはいえ、大勢を対象とした「無難な話し方」の選択肢もまた、決して少なくはないようにも見受けられます。そこにまた、ある種、選択肢の多さ故の悩ましさがあるわけですが、私の場合は当時よく動画を視聴していた宮台真司先生、新潮CDによる小林秀雄の講演、そしてDJピストン西沢氏の話し方の三者を真似し、自分なりに昇華させようと試みました。
 また同時期には、ほぼ毎日、英語の科学論文を読んでいたため、既存とは異なる言語文化に一定期間浸っているうちに、言語感覚にも徐々に自然な変化が生じたのだと云えます。
 そして、その延長として、当時在住していた鹿児島市内にある、洋書を扱う比較的大規模な書店に赴いた際、それまでほぼ関心を持たなかった英語小説の背表紙を眺めているうちに、突然その題名の和訳が自然と頭に浮かび、さらに頁を開いてみると「あら不思議!」、大体の内容を読めるようになっていたことに気が付くのです…。
 こうした状況は米国の空手映画に登場する修行シーンを彷彿とさせるような体験でしたが、要するに、こうした能力の進化や向上とは、即座に実感できるものではなく、むしろ地道に継続していくなかで、あるとき突然、自然な形で気づかされる契機が訪れるものなのだと思われます。
 そしておそらく、そのような過程とは、たとえ誰かが精確に文章として記述したとしても、理系論文にあるような普遍性を持つ「実験メソッド」とは異なり、他者に伝播させることが困難であると考えます。
 このような点において、理系と文系の学問のあいだには、根本的な性質の相違があるのではないかと思われます。 
 そして、今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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