2025年6月2日月曜日

20250601 公的キャラクターの立ち上げと言語感覚の変容について

 過日、かねてより読み進めていたユヴァル・ノア・ハラリによる新作「ネクサス」情報の社会史上下巻を読了して、次に間髪を置かずに、以前に購入して積読状態であった宮台真司著「制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years」を読み始めました。こちらの著者である宮台真司先生のことは、かれこれ10年以上前からいくつかの著作や動画などを通じて知っており、以前にも当ブログにて述べましたが、2012年に歯科理工学実習と歯科衛生士学科の歯科英語の講義が重なった時期に、何と云いますか、公的な場で自らが話すキャラクターといったものがないことに気が付き、こちらの宮台先生をはじめ何人かの方々の話し方を真似、それらを混淆させて、急ぎ、自らの公的な面でのキャラクターを立ち上げたわけですが、面白いもので、こうした公的なキャラクターとは、一度立ち上がり、それで自らの公的な側面が駆動しはじめますと、それに引き摺られるのか、それまで既存の話し方などにも変化が生じます。これは以前のホテル・フロント勤務の際とはまた異なり、何と云いますか、より話す際での能動性が求められるようになるのです。つまり、こちらからより多く話さなければならず、その反面、言葉遣いや言い回しなどは、分かり易いながらも、無難なものにせざるを得なくなります。つまり、ある程度の人数を相手として、90~180分程度、それなりに内容のあることを話し続けることは、おそらく、そこまで簡単なことではなく、そのためにも話し方は、より多くの方々が理解し得る無難なものへと落ち着いて行くのが自然であるということになります。とはいえ、では、そうした大勢に向けた無難な話し方の選択肢は、多くないと考えられそうですが、そうでもないところがまた悩ましいところであり、私の場合、先述のように、当時、よく動画を視聴していた宮台真司先生、新潮CDの小林秀雄の講演、そしてDJのピストン西沢氏の三氏の話し方を真似て、自分なりに昇華させようと試みました。また同時に当時はほぼ毎日、何らかの英語の科学論文を読んでいましたので、そのようにして既存のものとは異なる言語文化にしばらくの期間浸っていますと、自然、自らが用いる言語にも変化が生じ、そして、その先に、当時在住の鹿児島市内の洋書が置いてある比較的大規模な書店に行き、それまで興味を持つことがなかった英語小説の背表紙を見て、突然、その題名の和訳が自然と頭に浮び、さらに頁を開いてみると「あら不思議!」大体の文章は読めるようになっていることに気が付くのです…。そしてそこから、米国の空手映画の練習シーンを髣髴とさせますが、つまり重要なことは、こうした能力の進化や向上とは、すぐには実感されることは少なく、黙々と向上を目指して単調ながらも活動していくさなか、突如として気付く契機といったものが自然なカタチで齎されるのではないかと思われるのです。そしておそらく、そうしたことは、たとえ誰かが文章で精確に著しても、理系論文によくある実験メソッドのような種類の普遍性がないため、正しく伝播することが困難であるのではないかと考えます。そしてまた、そうした学問としての性質の根本的な相違が理系・文系双方の間にあるのではないかと思われた次第です。
 今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!


*加筆修正後
 過日、かねてより読み進めていたユヴァル・ノア・ハラリによる新作『ネクサス 情報の社会史』上下巻を読了し、その次に、以前に購入して積読状態となっていた宮台真司著『制服少女たちの選択 完全版 After 30 Years』を読み始めました。
 著者である宮台真司先生のことは、10年以上前からいくつかの著作や動画などを通じて知っていました。一方で、以前にも当ブログで述べたように、2012年、歯科理工学実習と歯科衛生士学科での歯科英語の講義を重なり引き受けた時に、自らの「公的な場で話す」キャラクターがないことに気づきました。
 その際、宮台先生をはじめとする何人かの方々の話し方を参考として、それらを統合や混淆させる形で急ぎ、自分なりの公的キャラクターを立ち上げたわけですが、興味深いのは、そうしたキャラクターが一度立ち上がり、その公的側面が駆動し始めると、それに引き摺られるように、それまでの話し方にも変化が生じていくことです。
 これは以前のホテル・フロント勤務時での状況とは異なり、より能動的に話す姿勢が求められるようになるという点で特に顕著でした。つまり、こちらから積極的に話す必要がある一方で、言葉遣いや言い回しについては、分かりやすく、かつ無難なものとして、落ち着いて対応する必要があると云うことです。
 一定の人数を前に90~180分程度、それなりに内容のある話を話し続けることは、おそらく容易なことではなく、そのためにも、話し方は、前述のように、より多くの人に伝わる無難な表現へと自然に収束していくのではないかと考えます。
 とはいえ、大勢を対象とした「無難な話し方」の選択肢もまた、決して少なくはないようにも見受けられます。そこにまた、ある種、選択肢の多さ故の悩ましさがあるわけですが、私の場合は当時よく動画を視聴していた宮台真司先生、新潮CDによる小林秀雄の講演、そしてDJピストン西沢氏の話し方の三者を真似し、自分なりに昇華させようと試みました。
 また同時期には、ほぼ毎日、英語の科学論文を読んでいたため、既存とは異なる言語文化に一定期間浸っているうちに、言語感覚にも徐々に自然な変化が生じたのだと云えます。
 そして、その延長として、当時在住していた鹿児島市内にある、洋書を扱う比較的大規模な書店に赴いた際、それまでほぼ関心を持たなかった英語小説の背表紙を眺めているうちに、突然その題名の和訳が自然と頭に浮かび、さらに頁を開いてみると「あら不思議!」、大体の内容を読めるようになっていたことに気が付くのです…。
 こうした状況は米国の空手映画に登場する修行シーンを彷彿とさせるような体験でしたが、要するに、こうした能力の進化や向上とは、即座に実感できるものではなく、むしろ地道に継続していくなかで、あるとき突然、自然な形で気づかされる契機が訪れるものなのだと思われます。
 そしておそらく、そのような過程とは、たとえ誰かが精確に文章として記述したとしても、理系論文にあるような普遍性を持つ「実験メソッド」とは異なり、他者に伝播させることが困難であると考えます。
 このような点において、理系と文系の学問のあいだには、根本的な性質の相違があるのではないかと思われます。 
 そして、今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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