2021年8月31日火曜日

株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻 pp.128-131より抜粋

pp.128-131より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4087607380
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4087607383

アフガン戦争は、衛星国の体制を維持しようとしたソ連の介入で始まった。アメリカが強く反発し、ソ連軍に抵抗するアフガニスタンの反乱軍を組織し、資金援助をし、兵器を提供したときから冷戦の枠内の戦いになった。アメリカ人にとって、ソ連が敗北すれば、共産政権にたいする武力による抵抗を推進するレーガン・ドクトリンが正当化されるし、ヴェトナムでアメリカが受けたのと同じような屈辱を、ソ連が確実に受けることになる。この戦争におけるソ連の敗北はまた、ソ連の社会や政治権力全体に波及し、ひいてはソ連帝国が分裂する大きな要因ともなった。アメリカ人や西欧人にとって、アフガニスタンは最後の決定的な勝利で、言わば冷戦のワーテルローだったとも考えられる。

 だが、ソ連軍と戦った人びとにとっては、アフガン戦争には別の意味があった。西欧のある研究者が述べているが、それは「民族主義や社会主義の基準ではなく」、イスラムの行動基準にのっとっての、外国勢力にたいして成功した初めての抵抗だった。それはジハード(聖戦)として戦われ、イスラムの自信と勢力が飛躍的に高まることになった。この戦争がイスラム世界に与えた衝撃は、1905年に日本がロシアに勝ったときに東洋世界に与えた衝撃にも劣らぬものだった。西欧は自由世界の勝利と思ったのだが、イスラム教徒はイスラムの勝利だと考えたのである。

 たしかに、ソ連に勝つためにはアメリカのドルとミサイルが不可欠だった。だが、もう一つ欠かせなかったのは、イスラムが力をあわせて戦うことだった。さまざまな政府や集団が、率先してソ連と戦い、自分たちの利益にそった勝利を勝ちとろうと努力した。この戦争にたいするイスラム教徒からの経済的援助は、主にサウジアラビアが提供した。1984年から86年のあいだに、サウジアラビアは抵抗勢力に5億2500万ドルの援助をした。1989年には合計で必要な7億1500万ドルの61%、つまり4億3600万ドルを負担するのに同意し、残りはアメリカが提供することになった。1993年には、サウジアラビアは1億9300万ドルをアフガニスタン政府に援助した。この戦争を通じて、サウジアラビアが提供した資金援助の総額は少なくとも30億ドルに達したが、実際の金額はたぶんもっと多かっただろう。それにたいして、アメリカが支出したのは33億ドルだった。この戦闘中に、約2万5000人の志願兵が、他のイスラム諸国、とくにアラブ諸国からやってきて戦闘に参加した。これらの志願兵は主としてヨルダンで志願し、パキスタンの陸海空の諜報機関で訓練を受けた。パキスタンはさらに、抵抗勢力に不可欠な国外の基地と、兵站機能やその他のサービスを提供した。さらにパキスタンはアメリカの資金の分配にたずさわり、意図的にこの資金の75パーセントを原理主義的なイスラム集団に与え、総額の50パーセントがグルブッディン・ヘクマティアルが率いる最も過激なスンニ派原理主義の派閥に流れるよう手配した。ソ連軍と戦っていながらも、参戦したアラブ人は反西欧的な態度をつらぬき、西欧の人道主義的な援助機関を不道徳で、イスラムを破壊しようとするものだと非難した。ソ連はついに敗れたが、それには三つの要因があり、それにたいして効果的に対処できなかったのである。その三つの要因とは、アメリカの技術、サウジアラビアの資金、そしてイスラムの厖大な人口と宗教的な熱意である。

 この戦争のあとに残ったものは、イスラム教徒の不気味な連合で、すべての非イスラム教徒軍にたいしてイスラムの大義を主張しようとしていた。また、技術をもつ経験にとんだ戦士、駐屯地、訓練施設、兵站設備、全イスラムを結んで入念につくられた個人と組織のネットワークも残された。また大量の兵器が残され、300基から500基のスティンガー・ミサイルの所在が不明である。そして、とくに重要なのは、自分たちが成しとげたことから生まれる力と自信にみちた高揚感と、さらに勝利をおさめたいという突き上げるような願望だった。1994年にアメリカのある当局者が述べたように、アフガン戦争の志願兵が「ジハードに参戦する資格は、宗教的にも政治的にも非の打ちどころがない。彼らは世界の超大国の一つを破り、他の一つに抵抗しようとしている」のだ。

2021年8月30日月曜日

20210830 筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」 pp.36-37より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 小泉悠著「現代ロシアの軍事戦略」
pp.36-37より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480073957
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480073952

「15年前のNATOにとっては、アフガニスタンが全てでした」

2020年秋、筆者の所属する研究グループとのウェブ会議で、あるNATO加盟国の大使はこんな風に切り出した。

「我々はアフガニスタンのことを考えながら目覚め、アフガニスタンのことを考えながら眠りました。私がNATO本部で携わった仕事の8割が、アフガニスタンに派遣された国際治安支援部隊(ISAF)に関するものでした」

2001年に発生した米国同時多発テロは、安全保障という概念を大きく揺さぶった。冷戦期までの安全保障が国家間の戦争を抑止し、あるいはこれを勝利することを念頭に置いていたのに対し、アフガニスタンを拠点とする国際テロ組織アル・カイダは、少数のテロリストで旅客機をハイジャックし、体当たり攻撃を仕掛けるという全く新しい手段に訴えた。この戦術は見事に超大国・米国の虚を衝き、世界貿易センタービルの崩壊と、「ペンタゴン」の通称で知られる国防総省庁舎の損壊という事態に至った。いわゆる米国同時多発テロ事件である。

 こうして「対テロ戦争」の時代がやってきた。ロシアは衰退し、中国の台頭はまだこれからという時代。米国でもNATOでも、古典的な国家間戦争はひとまず脇へ追いやられ、予想もつかない手段を駆使して攻撃を仕掛けてくる非国家主体の脅威にいかにして対処するかに血道を上げるようになった。実際、米国同時多発テロ事件後に発動されたアフガニスタン戦争やイラクでの治安作戦、シリアへの軍事介入でも、敵は国家ではなくイスラム過激派勢力であった。詳しくは第2章で述べるが、「ハイブリッド戦争」という概念が米軍の中で生まれてきたのは、このような状況においてであった。

 このテロ組織は国家のように明確な実体や組織を持たない。指導者を殺害しても、ゲリラ部隊を殲滅しても、米国や西欧を中心とした国際秩序への反発がムスリムの中に燻り続ける限り「対テロ戦争」は続く。現に米国がアフガニスタンから兵力を完全に撤退させることができたのは介入の開始から実に20年を経た2021年のことであった。「アフガニスタンがNATOにとっての全て」だったという大使の言葉は、決して誇張ではなかったと言える。


2021年8月29日日曜日

20210829 中央公論新社刊 池内紀著「ひとり旅は楽し」 pp.166-168より抜粋

中央公論新社刊 池内紀著「ひとり旅は楽し」

pp.166-168より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4121017420
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121017420

「 国東から臼杵にかけては石仏が点在している。磨崖仏もあって、誰が彫ったのかわからない。優れた技量の持主がいたのだろう。むかしの工匠たちは、ものものしい署名などしなかった。仕事を終えると、ノミや金槌を袋に入れて風のように立ち去った。

 大分県中津市、旧名でいうと豊前国中津藩。福沢諭吉の故郷である。父が廻米方の小役人であった関係で、大阪・堂島の生まれ。数え年三つのときに一家は中津へもどった。福沢家は十三石二人扶持、典型的な下級武士の家柄。その旧宅があるー明日の予定が定まったので、いそいそとお酒のお代わりをした。

 中津市留守居町に旧宅が復元されていた。間口二間、奥行十五間で、ウナギの寝床のように細長い。諭吉少年は、もっぱら土蔵の二階で勉強したという。頭がつかえそうな天井に、明りとりの窓が一つ。手製の書見台がポツンと置かれていた。

 白状すると、この旅に出るまで、私は有名な「学問のすゝめ」すら、ろくすっぽ読んでいなかった。

「天は人の上に人を造らずと云えりー」そんな書き出しのところだけを、なんとなく知っていた。はじめて実物にあたって知ったのだが、高邁な出だしにくらべ終わりにちかいところは、おそろしく実際的だ。諭吉は三つのことをすすめている。自分のため、ひいては世の中のためにもなるという。

一つ、言葉を学んで、よくおしゃべりをしろ。

二つ、顔色容貌を快くして、人に嫌われないようにしろ。

三つ、仕事や専門のちがう人とまじわれ。

三代にわたり入口に膾炙してきた名著は、ごく日常的な「すゝめ」を力説している。あらためてこのようなことを説いたところに福沢諭吉の面目があるのかもしれない。この筋金入りのリアリストには、君子重かざれば威なしとばかり肩肘はった連中がおかしくてならなかったのだろう。そういえば、こんなふうに述べている。いつも苦虫を噛みつぶしたような顔をして重々しく構えているのは、「戸の口に骸骨をぶら下げて門の前に棺桶を安置するが如し」。仕事や専門のちがう人とまじわってこそ生涯の友ができる。人間、鬼でもなければ蛇でもない。「心事を丸出しにして颯々と応接すべし」。

 ついでに記念館で見つけた諭吉の言葉をあげておくと、記憶力中心の教育を批判して文部大臣に忠告したそうだ。それは「半死半生の青瓢箪」をつくるだけ。

 この小藩の下級武士の二男坊は、名うての神仏の里を隣にもつ郷里の因習に悩まされたのではあるまいか。前近代的なものが何重にもかさなりあった土地柄を醒めた目で見つめながら、たえずみずからを鍛えていった。ついでながら「学問のすゝめ」のしめくくりは、旅のすすめだ。ひろく世界を歩いて見聞をひろげるべし。さもないと「三・五匹の鮒が井中に日月を消する」の世界に終わってしまう。」

2021年8月27日金曜日

20210827 既投稿記事をいくつかまとめたもの①

野上彌生子著「迷路」上巻 P.584
「なんでも、いいたい放題いってのけるところの多津枝には、自分では意識しない故郷の血にひそむ、外観の精錬された「近代」とは、まるで反対な熊襲の蕃女めいた野生が、肉感的にまで迸しる。」

上掲引用文に登場する多津枝から、同年代と思われる鹿児島に出自を持つ随筆家の白洲正子を想起された方々もいらっしゃるのではないかとも思われます。ともあれ、現代においては死語になりつつある「熊襲」や「隼人」といった古代の語感を持つコトバから連想されるものは「野生的な強さを持つ辺境部族」と評して良いと思われます。そしてまた同時に、そこからは同部族の女性(蕃女)にまでは想像が至ることは少ないと思われます。むしろ、それとは反対に、熊襲・隼人の地、すなわち、九州の女性全般についての古来からのイメージとは、温和で、男性を立てる、芯の強い女性像といったものになるのではないかと思われます。

こうした読書の際に感じる疑問およびその視点は、その地域を知るための大切なヒントになることが多いと思われます。また、こうした経験から思うことは、地域の文化風土といったものは、実際、その土地にある程度の期間住んでみないと分からないのではないかということです。

そして、それを念頭に置いて頂き、以下の文章に続きます・・。

鹿児島市の郡元周辺に鴨池という地名があります。
文字通り、ここにはかつて、鴨がすむ大きな池があったとのことですが、現在、そうした池はありません。私の知る限り、鴨池には、かつては動物園(現在はさらに南に移転した)があり、現在のこの場所には、大規模商業施設、市民球場、医療保健施設などがあります。

この鴨池から県道20号線(市電通り)沿いに騎射場(きしゃば)を経て天文館方面にしばし北上しますと、鹿児島有数の古社の一つである荒田八幡宮に至ります。

かつて、この荒田八幡宮では、武の神である八幡神を祀る神社に相応しく、流鏑馬神事が行われていましたが、おそらく、その名残が、さきに出て来た(荒田八幡の)近隣にある「騎射場」という地名になっているのではないかと思われます。

しかしながら、他の八幡宮を含めた神社にて、流鏑馬神事が行われる場所のことを騎射場と表現する例は聞いたことがありませんので、これは当地域独特の文字文化(文字による事物表現の仕方の傾向?)によるものであるのかもしれません・・。

他方で「騎射場」(きしゃば)と同じ音を持つコトバを以前に聞いたことがありました。

それは琉球、沖縄での地名、苗字の「喜舎場」(きしゃば)です。

この「喜舎場」の「喜舎」について考えてみますと、それは仏教用語の「喜捨」に起源を持つのではないかと考えられます。この「喜捨」は「布施」とも似ているのですが、その意味合いとは「功徳を積むために喜んで自身の財物を施す」という現代でいうところの「寄付」にあたると云えます。そして、この「功徳」という意味合いにおいて「喜捨(舎)」には宇佐八幡宮をはじめとする全国の諸八幡宮にて流鏑馬神事と同様に行われる魚や鳥を野に放つ「放生会」神事と共通する要素があるものと考えます。

また、この八幡宮における「放生会」神事の起源は、南九州にて朝廷に対し反乱を起こし、戦で倒れた隼人の鎮魂の意味で、はじめられたとされています。

これらのことを考えてみますと、鴨池(放生会神事を行うための池)、騎射場≒喜舎(捨)場(功徳を施す場所)、荒田八幡
(放生会神事)が、ごく近隣に存在すること、そして、さらには現代においても、この鴨池に、かつて動物園が存在していたことは大変興味深く、この地域の文化の基層から現代に至るまで貫かれている何かしらの信仰的な観念の存在、あるいは、それらの持つコトバの多義性(我が国における原初的な詩心といっても良いかもしれません・・)といったものを示しているのではないかと考えさせられるのです。

そしてまた、この「騎射場」と「喜舎場」との関係に類似した事例として、かつて山口県山口市に存在した鋳銭司(すせんじ)村と、福岡県福岡市西区に存在する周船寺(すせんじ)が挙げられます。

鋳銭司とは、文字通りとも云えますが、7世紀末から10世紀末までの間、朝廷が貨幣製造を行っていた役所の名称であり、双方の「すせんじ」に、かつて、貨幣製造を行っていた役所が存在していたことから、これら地名の名称は同一起源であると思われます。

また、以前、周船寺の方の「すせんじ」付近に在住していた頃、この地名(周船寺)の由来を複数の方々に訊ねてみたところ、その中で多かったのは「周船寺の地名の由来は、当地が糸島半島の東側の付け根にあたり、そこを基点として船で糸島半島を周り、西側の唐津方面に抜けるか、あるいはその地峡に近いという立地から、運河あるいは陸路を用いて西側に抜けるかを選択する、いわば交通の要衝であったことによる。」というものであり、当地域、九州においては、島々の民俗文化にて類似した事例を読んだ記憶があり、また、それは世界的に見ても、バイキングが船を陸路でコロを用いて近くの海あるいは河川へ移動している情景を描いた絵を以前、見た記憶があることから納得できます。

しかしながら最後の「寺」となりますと、豪徳寺祐天寺などの地名(駅名)の様に同名の寺がそれらの地に存在しなかったことから、やはり、さきに述べましたように、鋳銭司・周船寺(すせんじ)は「かつての貨幣製造所」という解釈にて問題はないと思われます。

さらにまた、もう一つの類似例として、大分県の臼杵(うすき)市、宮崎県北部にかつて存在した臼杵(うすき)郡、鹿児島県鹿児島市の宇宿(うすき)、鹿児島県奄美市(奄美大島)の宇宿(うしゅく)が挙げられます。かつて、鹿児島県鹿児島市の宇宿周辺に在住時、親戚が仕事のため愛媛県松山市に在住しており、所用にて北部九州、山陽方面に行く機会がありますと、立ち寄らせて頂きました。そして、松山からの帰路は、JR予讃線にて松山から八幡浜に行き、そこからフェリーに乗り、右手に発電用の大きな風車の立ち並ぶ佐田岬半島を眺め豊後水道、豊予海峡を渡り、臼杵(うすき)港に着き、そこからJR臼杵(うすき)駅まで歩き、日豊本線に乗り南下し、そして指宿枕崎線宇宿駅に帰着下車して帰宅するといった具合でした。

フェリーを下りて着いたJR日豊本線の臼杵駅にて切符を購入する際、はじめ「宇宿(うすき)まで一枚ください」と駅員さんに伝えたところ、怪訝な顔をされてしまったことから「・・すいません、指宿枕崎線の宇宿まで一枚ください」と云い直したことが、ここで思い出されます・・。

ここ大分県の臼杵は、かつて大友氏のもとで繁栄し、戦国末期には宣教師のフランシスコ・ザビエルも訪れ、布教活動を行っていたと伝えられています。そのまた一方で、臼杵は仏教遺跡である磨崖仏にて全国的に知られています。ちなみに磨崖仏は、鹿児島においても南九州市の川辺や鹿児島市の慈眼寺などでその存在が知られています。鹿児島での磨崖仏の起源を考えてみますと、古来より薩摩・大隅地域では豊の国(現在の大分)からの移民が多かったことから、これら磨崖仏も、その多くは豊の国(現在の大分県)から移民してきた方々、あるいは、その子孫の方々によって製作されたものではないかと思われます。

そして、鹿児島(薩摩・大隅)に移住前の大分(豊後国)よりもさらに以前の、これら磨崖仏の起源を考えてみますと、我が国にて磨崖仏を含む、比較的初期の仏像彫刻などが製作された地域の多くは、古くは渡来人が移住してきた場所であり、そうした事情を加味して鹿児島(薩摩・大隅)そして、それ以前の大分(豊後国)での磨崖仏に限定して考えてみますと、それらの作風などから、朝鮮半島南東部の旧「新羅」地域に起源があるように思われますが、これは実際に見聞したわけではなく仮説です。

ともあれ、そうした「きしゃば」にはじまり「すせんじ」そして「うすき」にまで話題が飛び、そこから更にもう少し話題を展開させるため「うすき」の地名の最後につく「き」の意味について考えてみたところ、以下の書籍記述が思い出されました・・。

谷川健一編「地名の話」平凡社刊pp.195‐198より抜粋
「谷川 中野さんは「八幡信仰史の研究」のなかで、宇佐氏とか大神氏とか辛島氏など宇佐八幡の神職の家のことを書いておられますね。その中の大神という名前は大和三輪山の祭祀氏族である大神氏から出たといわれていますが、宇佐八幡の「託宣集」を見ますと、まず辛国の宇豆高島に降臨した八幡神が、次に大和国の膽吹嶺に移ったと書かれています。この膽吹嶺は大和にみつからないのですが、「和名抄」にある大和宇陀郡の伊福郷のことだろうと先生はお考えのようですね。

中野 私は宇陀郡をつぶさに歩いてまいりました。

谷川 私は前から伊福という地名に関心をもっているのですが、「和名抄」にのっている六ケ所の伊福という地名のうち、四カ所が銅鐸出土地なんです。そこで、古代の伊福部という氏族はおそらく鋳銅に関係をもったのじゃないか、と推測をたてましてね。伊福の福は真金吹くとか銅を吹くとかの吹くに相当して、金属を精錬する時に使用するふいごに関係のある語だと思うのです。
それで大和国の膽吹嶺を宇陀郡の伊福郷(現在の大宇陀町)に比定され、またそのとなりの菟田野町の大神という部落を、宇佐に関係のある大神氏の出身地と考えられる中野先生の御説にたいそう関心をもったわけです。じつは大神部落と目と鼻のところにある大沢とか松井という部落には水銀鉱山があり、戦後も採掘していたのですね。現在は採集をやめているようですが、そこで宇佐の八幡神がいったん大和の膽吹嶺に飛んで、また最後は宇佐に帰っていったという伝承も意味深長で、銅とか水銀とかに関係のある技術集団を、大神氏が伴って宇佐にやってきたのか、あるいは大神氏自身がそうした技術をもっていたのか、いろいろと想像してみたくなるのですね。
ところで「託宣集」にもどりますが、いったん大和の膽吹嶺に移った神は、こんどは紀伊国の名草浜に移る、とあります。紀の川下流一体が名草ですね。日前宮のある付近。

中野 そうです。紀伊国と国東・宇佐との往復は極めてはげしかったようです。

谷川 ところで私は昨年国東半島を一周してふしぎに思ったのは、キという言葉のつく地名の多いことです。ざっと見ても堅来・櫛木・岐部・富来・来浦・安岐・杵築など。

中野 ここは古い豪族の育った所で、その姓は紀伊国の紀氏が非常に多いのです。

谷川 それはどういうわけでしょう。

中野 まだはっきりわかりませんが、石清水八幡宮別当紀氏の関係かと考えましたが、もっと前からだと思われる点もあります。とにかく紀氏は紀伊国がもっとも多く、大和・和泉・河内を主とし、山城・美濃などに広がり、紀部になると中国・四国に広がっている。こういうようにみると、海上交通の関係から宇佐・国東にも入ったと思われます。

谷川 「神功紀」に紀直の祖豊耳というのも出てまいりますね。紀氏とトヨが出てくるものでへんな感じがしたことがあります。

中野 国東の古い豪族はほとんど紀氏で、後の八幡宮に所属しているのが多いのです。

谷川 その紀氏は紀州に起源をもっている?

中野 分布からみてもそうだと思います。

谷川 数年前に徳島県南部の海岸を高知県境までたどってみたことがありますが、あそこもキのつく部落が多い。牟岐・木岐・志和岐・由岐というふうに点在しています。今の阿南市の富岡もまえは牛岐といったそうです。この岐の字のつく地名は、海士のばあいも海女のばあいもありますが、例外なく海人部落なんですね。高知県に入りましても、佐喜浜という海女部落だったところがあります。ところで阿波徳島の吉野川の南は昔は長の国と呼ばれて、瀬戸内海における安曇の海人の根拠地だったところですので、この岐の字のつく海人部落も安曇氏と関係があるかな、と考えたことがあるのです。そこで最初おっしゃった豊前・豊後の安曇氏と海部の関係のことが気になるのですが・・・。」

そしてもう一つ、地名の最後につく「き」についての書籍記述が思い出されました。記述の対象となる時代は、さきの「地名の話」内記述の方が新しく、以下記述の方は、おそらくは朝廷以前の時代も含み、そしてまた、我が国の歴史の起源についても触れるものであり、その冷静な書きぶりからはうって変わって躍動する知性が感じられます。

金関丈夫著 大林太良編 岩波書店刊「木馬と石牛」pp.59‐61より抜粋
「日本のいわゆる金石併用時代の青銅器文化に、中国地方の中央を境界にして、東西二つの文化圏があった。東は銅鐸の文化であり、西は銅剣、銅矛の文化であるということは、今ではあまねく知られている。また出雲地方が、この西の文化圏にあったということについても、明らかな証拠がある。現に出雲大社の宝殿には、この地方から出土した銅矛の実物が蔵されている。この二つの異なる青銅器文化圏の意義をどう考えるかということは別として、弥生式の時代に、出雲地方が北九州を中心とする一つの優勢な文化圏にあったということは、またたいへん面白いことではないかと思う。「古事記」によると「ムナカタ」氏が祭祀したという筑前の宗像神社の祭神の一人「イチキシマヒメ」というのは、宗像三女神のうちで、後世に創らせたものであったが、この「イチキシマヒメ」の「イ」は単なる接頭音であり、「チキ」とか「ツク」とかに語源がある。私の考えでは、この「チキ」「ツク」などという語と、筑紫の「ツク」また九州の地名に多い「ツキ」例えば秋月、古月、香月、杵築、「シキ」例えば伊敷、一色、「スキ」例えば臼杵、指宿、「チキ」例えば市来、加治木、「チカ、シキ」例えば値賀島、志賀島などとは関係があり、これらの音で表されている名を冠した一つの強力な海洋部族があったかと思う。出雲地方へ北九州の青銅文化をもたらし、出雲の海辺の一角に定着して「杵築」の地名をのこしたのも、恐らくこの一族ではなかったか。こんなことをいうと、大社関係の方々にしかられるかもしれないが、大社の祭神はいまはオオナムチノミコトということになっているかもしれないが、これは近世以後のことであって、古来スサノオノミコトと信ぜられていたのである。ところがさきの宗像の三神は、天安河原でうけひをしたときに、スサノオノミコトのものざねから生まれたので「乃ち汝の子なり」とアマテラスからスサノオにおしつけられたという。すなわち宗像の三神はスサノオノミコトの子だということになっている。この説話のおこりは、おそらく「イチキシマヒメ」の祭祀者がスサノオノミコトを祭祀する部族と接したときに生まれた、よくある妥協の思想から成立した話であろう。大社にはスサノオと共にイチキシマヒメが祭られたことがなかったとはいえないと思う。出雲の部族が、古代においては日本海をまたにかけたたいそう発展的な海洋族を含んでいたことは、「古事記」の記事や、「風土記」の国引きの伝説からもうかがわれる。若狭路から琵琶湖に入ったと思われる「イツクシマヒメ」も、両部思想のお陰で安芸の厳島と同様弁天様になったが、島の名の竹生には「チク」の語源をとどめている。これらも日本海から近畿に入ったのであり、出雲族の越の国々との交通の遺物であろう。京都の出雲路というのも同方面から侵入したこの部族の故地であろう。竹生島の「チク」は滋賀の「シカ」にも関連があろうかと思う。出雲神話に南方説話の影響の多いことなども、私の以上の考えを支持するもののようである。近年鰐淵村の猪目洞穴で発見された弥生式時代の貝輪などにも、南海産のテング貝で作られたものがあった。土俗の方からいっても、中海のソリコブネのような船が南方につながることは、早くから人々に云われており、その他にも色々と面白い事実があるようだ。佐陀神社の神事の海蛇が南海から暖流に乗ってきたものであることも、この際見逃し難い。以上はただ旅中、不備な資料を基にした私の思いつき出会って、詳細はもっと深く考えなければならないが、請われるままに仮に発表したのである。」

上掲記述の最後に、詳細な再検討は必要としながらも「それら地名と、その背後にある文化の起源は南方にあるのではないか」と結んでいましたが、ここで民俗学者・言語学者として知られている琉球に出自を持つ伊波普猷による以下の地名、およびその意味についての記述が思い出されました。

岩波書店刊 伊波普猷外間守善校訂 『古琉球』pp.58-59より抜粋引用
「琉球語では城のことをグスクというが、八重山では石垣で囲うた所をグスクといっている。金沢(庄三郎)博士がかつて沖縄教育会で述べられた演説の一節に、このグスクということばは、沖縄人が大和民族であることを証する好材料となるのであります。朝鮮の古語では村のことをスキ村主のことをスクリ(宿禰と同意義)と申します。この言葉は日本語にも這入って日本の位の名にもなっていたのでありますが、それと同意義の言葉が日本語では城と書いてシキと読んでおります。大和の地名にシキという所がありますが、またシキシマ(敷島)という日本国の名にもなっています。シキは城ということになります。シキという言葉を研究して見ると先ず二つに分けることが出来ます。シは住むという意味で、キは囲の中という意味であります。即ち囲の中に住むという意になります。(中略)然らば日本語でシキ朝鮮語でスキという事は一体どういう所を指してそういうたのであるかというと、高い所にあって石の壁で取囲まれている所という意味であります。(中略)それで日本語のシキも朝鮮語のスキも琉球語のスクも皆城壁という意味であります。是らの名詞で、正鵠を得た判断が出来るので、沖縄は敷島即ち日本の一部分であるという事は争うべからざる事実であります。歴史がなくとも、伝説がなくとも、記録がなくとも、神話がなくとも、沖縄人の祖先は日本人のそれと同じくシキの中に住んでいた事が証明されます。という事であったが、アマミキヨ種族は沖縄島に上陸して後もグスクを築いてその中にいたのである。(グスクのグは敬語である。)佐敷はもと「狭いスキ」または「小さいスキ」ということで、これはその地勢から考えてもなるほどと思われる。(佐敷という地名は熊本辺にもあるのである。)これらは皆沖縄人の祖先が北方の同胞と共同なる根源地に住していた事を証明する好材料である。」

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部

順天堂大学医療科学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


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ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

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どうぞよろしくお願い申し上げます。







2021年8月23日月曜日

20210823 またしばらく記事作成を休んで思ったこと・・継続的な記事作成の効果?

 その後また、記事作成を行わない日がしばらく続きますと、何故であるのか、また作成してみたくなります。とはいえ、これまで6年以上にわたり、10日のうち7日は記事作成・投稿を行い、どうにか1600記事に到達出来たことから「少し休もう・・」と考えているなかで「作成してみたくなります。」とは、それぞれの反応しているところがおそらく異なり「休もう」と望んでいるのは「これまでのブログ継続期間で蓄積した慢性的な疲労を開放したい。」という、これまでの経験等を総合した「理性」から発せられるものであり、対して「作成してみたい。」の方は、さきに比べて、いわば瞬時の「反応」に近いものと云えます。

これまで数年間、継続的に記事作成を行ってきたのであるから、ここで1カ月、あるいは1年程度、記事作成を止めても特に問題はないと思われ、また実際に休みたいとも考えていますが、他方で、ここで、それを題材として記事を作成し、しかも、この程度まで文章を作成していることには、やはり矛盾するものがあると云え、ここですぐに作成を止めるべきではないかとも思われましたが、しかし、それでも、そこから数日経ってみますと、冒頭に述べたように「何やら文章を作成したい」といった心情がまた惹起されるのは、理性的なものとは云えず、より本能に近いところからの願望であるように思われるのです。

そうしますと、私はこれまで「本能に近いところの願望で文章を作成したい」と自覚したことはなかったため、あるいは、こうしたところに、どうにか記事作成を継続してきた軌跡のようなものがあるのではないかとも思われました。

つまり「ある程度の期間、継続的に文章を作成していると、いつの間にか、それが本能に近いところからの願望へと変化していくのではないか?」ということになりますが、他方においては、先日、1600記事に到達してから、特に内面での特段の変化はなく、また同様に、それに相応しい自信なども身に着いた自覚は皆無であると云えますが、しかし、より本能に近いところから、文章の作成を望むことが出来るようになったのであれば、たとえそれが毎日でなくとも、十二分な、あるいは望外の大きな成果であったと云え、また、40歳を過ぎても、まだ伸びしろは(どうにか)あることが認められ、さらに、そうした自己の発見から、現在読み進めているいくつかの著作への興味もまた更新されるように思われるのです・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部

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連絡先につきましては以下の通りとなっています。

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電話番号:047-334-0030 

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2021年8月21日土曜日

20210820 記事作成休息期間に思ったこと・・

 1600記事への到達後は、書籍からの引用や既投稿記事に加筆修正したものを何度か投稿してきましが、気が付くと、早くも1606記事にまで至り、思いのほかに、次の目標となる1610記事も近いと感じられました。またそこから、新たな記事を作成してみようと思い立ち、さきほどより始めました。

とはいえ、以前にも述べましたが、現時点においては、継続的な記事作成を行うほどの意欲は未だ湧いておらず、また、これまでの区切り到達時と比べ、記事作成のための気力も枯渇気味であると云えます。しかし、おそらくそうしたことは、一カ月ほどの休息により回復が見込まれますので、ここは敢えて無理をしない方が良いのではないかと思われますが、同時に「記事を作成したい」と思い立った時は、それに乗じて作成することも悪いことではないと思われます。

ともあれ、こうした言訳や説得を自分自身に対して行いつつ、この程度まで書き進めることが出来たのであれば、それは既に上出来の部類と云え、あるいはまた、今後も生じるかもしれない、こうした状況(意欲と気力の枯渇)を改善する一手段にもなり得るのではないかとすら思われました。

さて、さきに「意欲と気力の枯渇」と述べましたが、それはあくまでも記事作成に対してであり、それら期間も書籍は何冊か読み続けていました。そして、先日どうにか読了に至った一冊は、現代ロシアの軍事について扱った新書でしたが、これは記述に出て来るタームの意味や背景となる歴史・文化的事情もよく分からないことが多かったために、苦労しながら読み進めましたが、記述自体は、深い知見に基づくものと思われ、大変興味深いものが多く、読み継がれる一冊になるのではないかとも思われました。

そしてまた、新たに購入を検討している著作が、これまた軍事を扱ったものとなりますが、こちらは太平洋戦争開戦に至るまでの経緯を多面的に分析した一冊とのことですが、こちらに関しては、その歴史的背景の概要をある程度は理解していると云えることから、さきの新書と比べ、いくらかは読み進め易いのではないかと思われます。

そして、上記のような状況を述べたところで文量も、丁度この程度にまで至りました。現在の記事作成休息期間においても、作成したいという意欲がある時は、今回のように作成しておいた方が、来る記事作成の再開においても、またスムーズにはじめることが出来るのではないかとも思われました。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

順天堂大学保健医療学部

順天堂大学医療科学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


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2021年8月17日火曜日

20210817 「20170419 具象よりも抽象の方が時としてより写実的・・観念的?【600記事到達】」の加筆修正

以前、当ブログに述べました通り、本格的に暖かくなる前に600記事に到達することができました。本日からしばらくの間、記事作成を休もうと考えていましたが、PCの前に座り、閲覧者数や読まれた記事などを眺めますと、不思議なことに、また何か書いてみたいと思い始めるのです・・(苦笑)。

さて、以前に何度かブログ記事の題材とした「銅鐸」に関してですが、和歌山県を主とする紀伊半島での銅鐸の出土傾向は、比較的大きな河川があり、水稲耕作の可耕面積が広く、人口が多かったと考えられる半島北部(紀北地域)に数が少なく、また、その様式は比較的古い、小・中型(~50㎝程度)のものが多いと云えます。それが半島を南下するに伴い、紀伊半島の地形からも想像出来るように、河川流域の可耕面積は狭小化し、人口も紀北地域ほどに多いとは考えにくい中・南紀地域においては、新様式の大型(100㎝前後)のものが数多く出土しています。

銅鐸をはじめ青銅器が我が国に齎された紀元前2~3世紀の弥生時代中期頃は、鋳造技術も発展途上にあり、初期に作成された銅鐸の鋳型は石を彫り、削ったものであり、そのため、大型のものは作成が困難でしたが、その後、鋳型材に砂を用いて作成するようになってからは随意に大型のものも鋳造することが可能になり、また、その作成数も多くなっていきました。

こうした技術発展の様相と、さきに述べた紀伊半島における地域毎の銅鐸出土傾向とを勘案してみますと、当地における銅鐸を祀る文化を持つ水稲耕作民集団の伝播(開拓・入植)様相の概要を理解出来るのではないかと思われます。また、さきにも述べましたが、初期の銅鐸は石製の鋳型を用いていたことから、同一の鋳型にて複数の銅鐸が作成されることが多々あり、そうした同一鋳型にて作成された銅鐸が出土した紀伊半島とは異なった地域にて出土していることなども加味して検討してみますと、その当時、いわば統一に向かう過程にある我が国様相の一面をも理解することが出来るのではないかとも思われます。

そして、これまでに述べたことを博物館や書籍掲載での写真がある、出土銅鐸全てについて、ある程度行って見慣れてきますと、大体は、あるいは間違っていても、その理由を説明できる程度には、個々銅鐸の出土地域および作成年代などに見当を付けることが出来るようにはなると思われます。

さらに、こうしたことは銅鐸のみならず石器、土器、墳墓、他の青銅製祭器(銅鏡、銅矛、銅剣、銅戈など)、古墳造営様式、あるいはその他の生活道具などにも同様に応用することが可能であると思われます。

そうした見方にある程度慣れてきますと、更なる興味対象へと意識の変化が生じ、具体的に存在する遺物から、その地域、国などの性質、特徴などといった観念的な要素への興味に至ることが少なからずあるのではないかと思われます。

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2021年8月16日月曜日

20210816 「20150722 対話形式の文章について・・」の加筆修正:後篇

 A「ああ、確かにそうした傾向はあるとは思いますが、しかしそれは、多分、近代以降であれば、どこでも同じようなことを行っているのではないでしょうか?それと、そうした認識が出来るようになった背景にはネット・インフラの発展があると思います。つまり、それにより一人が瞬時に集めることが可能な情報量が以前と比べて格段に増えたといった事情もあるのではないかと思いますね。」

B「・・ええ、それは確かにあると思います。実際にタブレットPCやスマホなどを持っていますと、とても便利で憶えることが最小限で済みますし、カーナビとしても使うことが出来ますからね。」

A「そうですね。我々の身体と外界に介在させる、そうした道具の進化は、いつのまにか、我々の考えをも変えてしまうのかもしれませんね。・・・そこで思い出したのが養老孟司氏が著作にて述べていたことですが「外界と人間の脳のインターフェイスの技術が発達してくると、今度は、人間の脳の方が退化してくる」ということです。まあ、筋肉を使わないと筋力が低下してくるのと同様の理屈であると思いますが、間違いではないように思われますね。」

B「そうしますと、インターネットが普及する前後にて創作された物語・小説などの背景にある世界観なども変わってしまったのでしょうか?」

A「うーん、最近の小説はあまりよく分かりませんが、おそらく傾向としては細部の描写などの視覚的な部分に関しては、発達しているのかもしれませんが、他方で、時折垣間見える作品全体を包括する作者の世界観のようなものなどは、変わってきているようにも思われますが、こうしたことは時代が変われば当然であるのかもしれませんが・・
それと、ポーランドに出自を持つイギリスの小説家のコンラッドの何れかの著作にある「小説とは筆者の持つ哲学、思想を咀嚼し易くしたものである。」というコトバについて、現在の我が国の小説は、そうした視覚的とも云える描写の方により重点を置き、他方の世界観などの表現については、その度合いが小さくなっているようにも思われます。つまり、小説なども観念的というよりも写実的な方向に進化していると云えるのかもしれません。」

B「ええ、それはよくいえば、角が取れて情景が想起されて読み易い小説が増えていると云えますが、より均質・同質的な社会になっていけば、自然、そのような感じになってゆくのかもしれませんね・・。」

A「ええ、しかし気になるのは、後世にそうした歴史の推移を見た時に、それを進化・退化の何れに判断するのかよくわからないということです・・。司馬遼太郎は我が国の近現代史を書くに際して明治期は概ね良かったが、その後、太平洋戦争に至るあたりまでの昭和初期の日本はどうにもならなかったと述べており、またこれは同時代人の山本七平会田雄次なども似たようなことを述べていますし、あるいは丸山真男竹山道雄などももう少し複雑ではありましたが、似たようなことを述べていました。そして、その伝で行きますと、現在の我が国はこの先、戦争にまでは至らないにしても、色々なものが「何か大きなもの」に回帰的に収斂されていくのではないかといった感じを受けます・・。そして芥川龍之介がその晩年に云った「ぼんやりとした不安」とは、そうしたものではないかとも思われるのです・・。」

B「うーん、それは考えすぎだと思いますけれども、確かに現在の日本社会はどうもおかしいと思うことがありますね・・。しかしそれも自然な時代の流れであり、仕方がないようにも思われます・・・。」

A「はあ、そのようなものでしょうか・・。」

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2021年8月15日日曜日

20210815 「20150722 対話形式の文章について・・」の加筆修正:前篇

A「何かの概要を知るためには論文や説明形式の記述よりも、対話形式で書かれたものの方が読み易いと思いますね。それに、小説などでも、対話形式の記述が多い方が楽しみつつ、比較的スムーズに読み進めることが出来るのではないかと思います・・。」

B「うん、そうかもしれないね・・。多くの説明形式の文章は、基本的に、その内容に本当の興味がある場合でないと、読み進めていくのが段々と苦痛になってくるからね・・。しかし一方で、何らかの思想や概念などの説明を目的とした対話形式の著作もあるよね。たとえば中江兆民の「三酔人経綸問答」や、さらに昔では空海による「三教指帰」などが多分そうではないかな・・。」(何故か二人共四国人(土佐・讃岐))

A「ええ、現代では、それら著作は古典に分類されますが、それでも、たしかに対話形式の古典的著作は、相対的に同時代の他の様式の著作に比べて、読み易いと云えるのかもしれません。まあ、私もそこまで古典などを多く読んでいるわけではなく、あくまでも感覚的なハナシではありますけれども・・。」

B「ええ、その感覚的なところについて私も理解出来ます。つまり、文章を読む体感的なところで、対話形式の記述は、その内容の世界観に入り込み易いのではないかと思いますね・・。そしてまた、内容を理解するためにはその世界観に入り込まないと分からないことが多いですからね・・。その意味で小説などは最たるものと云えるかもしれません。」

A「・・・確かに、対話形式の読み易さには「入り込み易い」といった要素が理由としてあるのかもしれませんね・・。また、そうしますと、ボケとツッコミで笑わせる漫才の面白さにも相通じるものがあるのかもしれませんね。」

B「ええ、漫才の面白さなどは、その対話のやり取りの中にあると思いますからね。ですから、対話形式の記述の入り込み易さと、漫才の対話の中にある面白さは、根っこは同じであるか、あるいは、共通した部分が少なからずあるのかもしれませんね・・。」

A「そして、そうしたものを観衆や読者が興味を惹き面白いかを判断し、それぞれの「価値」といったものが定まっていくのではないかと思いますね・・。」


B「そのように考えてみますと、会社や学校の面接なども、基本的には、それと同様のことをしているのではないかと思われてきますが、そうしますと、気になるのは「何を基準として判断しているのか?」になると思われます。」


A「仰る通り、会社や学校の面接も概ね同様であるとは思いますが、面接の場合、多くの場合、会社なり学校側の求める人間像というものが予めあり、それにどの程度適合、合致しているかを判断するといった明確な目的があるますよね。
他方で、漫才や小説の持つ面白さに対して、予め、求められる世界観といったものが出てきましたら、それらは徐々に形式化されてゆき、それに伴い、つくり手側の創造力や想像力が衰えていってしまうのではないかとも思いますね・・。
そのため、会社での面接などは予め、ある程度の求めるものがあっても良いと思いますが、一方で、創造を伴う分野においては「予め求めるもの」がありますと、作り手側の方が徐々にそれに縛られていってしまうといったこともあり得るのではないかと思われるのです・・。(男女間の関係においても似たような要素があるのでしょうか・・?)
しかし、創造を伴う分野のものであっても、それが一度、大量生産され商品化されてしまいますと、何であれ「予め求めるもの」に縛られていってしまうのではないかと思われますね・・。」

B「うん、商品化するなると、否が応でも多くの集客そして収益が望めるようなものにしなければならないからね。あと、特に悪くいうつもりではないけれども、それは近年よく作られているマンガを原作としたアニメ・実写映画などにも、何かしらそうしたメカニズムのようなものがあるように思われるね。」
(面倒且つ厄介な創造を最小限に抑えつつ、他方で利潤の最大化をはかること(コスパ)が常態化していると、長い視野においてはあまり良い事態には結びつかないのかもしれません)


ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年8月13日金曜日

20210813 1600記事到達後5日間ほど記事作成を休んで思ったこと

 直近最後の投稿が8月8日であり、そこから5日経った現在においても特に、新たな記事作成を行おうという気持ちにはなりません。しかしそれでも、当記事を作成しているということの基層には、やはり「何かしら作成しておいた方が・・」と思っているのだとも云えます・・。

先日の1600記事への到達は、特にキリが良い数値でないのにも関わらず、それまでの区切りでの到達時と比べ「多少余裕を持って」といった状態ではなく、以前にも述べました通り、昨年からはじめた当ブロガーとSNSとの連携により、時には、思いのほかに多くの閲覧者数を得ることを先日認識してからは、作成する記事に対しての注意をはじめ、緊張する機会も度々あり、そこから、いくらか余分に消耗し、さきに述べた状態での到達に至ったものと云えます。

さて、そこから、次の目標を1700記事に定め、進めるにしても、現時点では「今回はもう少し休もう・・」といったところが真情です・・。

また「そのような状態で記事作成をしても・・」と思われるところですが、これまで6年間、5日程継続して記事作成を休んだことは稀であったことからか、ここにきて投稿・公表するかは別として、冒頭での言と同様、やはり「何かしら作成しておいた方が・・」の心情が勝り、さきほどから記事作成を始めた次第ですが、ここまで書いてみますと、久しぶりということもあってか「文章を作成するのは、一つに自分の考えを整理するためであるのかもしれない・・」と割合新鮮に感じられました。それは、書く以前においては何やら混沌としていた自分の思い・考えが、キーボード操作を通じて、文字としてPC画面に可視化されて顕われてくるのを見て湧いた心情であると云えますが、また、その後すぐに「そこに書かれたものだけが全ての思い・考えというわけではない」といった心情も湧いてきましたが、こちらに関しては、不思議なことに、おそらくこれまで、あるいはここ最近思い出せる範囲の過去にて思ったことはありませんでした・・。

おそらくこれは、1600記事到達直前にて、しかも多くがスランプの時期であることから、端的に余裕がなかったのだと思われます。そうしますと、先日の1600記事への到達は、こうした意識・視座の変化を生じさせたとも思われるところですが、果たして実際のところはどうなのでしょうか。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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2021年8月8日日曜日

20210808 株式会社光人社刊 村上兵衛著「桜と剣」 pp.599-601より抜粋

株式会社光人社刊 村上兵衛著「桜と剣」
pp.599-601より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4769820267
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4769820260

古びた近衛歩兵第一聯隊の、ピカピカに磨き込まれた大隊長室に、兄はいた。ドアをノックしてはいってきた私の姿を認めると、いくらかほっとしたように、

「おう、きみか。入れよ・・朝飯は食ったか」

「いや・・」

「じゃ、一緒に食うか」

もう一人前を当番に命じた。

二人だけで向かいあって、しばらくしてから、兄は少しおどけたような口調で、

「やれやれ、俺は命拾いしたらしいよ」と、言った。

私が、眼でその意味をたずねると、

「古賀さんたちが、師団長を殺ったとき・・そのことは知っているだろう?」

「うん、聞いた」

「俺は、司令部の前の植え込みのなかに潜んでいてな、銃声が聞こえたもんだから、こいつはいかん、とまた部隊に戻って来たんだ、もし憲兵が来て、引っぱられるなら、いっそのこと自分でやってしまおうと思ったりしてね」

そう言って、自分の額を指した。彼が抽出しを引くと、そこには剥き出しの拳銃が、ずっしりとよこたわっていた。

「しかし、もうどうやら、その必要もないらしい」

「兄はすべて遠く過ぎ去ったことのように、淡々と語った。

「同志」による師団長の説得がなかなかすすみそうに見えなかったとき、彼は古賀参謀から、「おまえ、殺ってくれんか」と頼まれた、という。

その剣道の腕を買われたらしい。しかし、兄は咄嗟に、

「直属上官ですから、それはやれません」とことわった。その返事は、軍隊ではきわめて筋が通った答えだったから、古賀参謀も、それ以上強いては押しつけるわけには行かなかったのだろう。

それが、兄の生死の訣れみちだった。

椎崎中佐、畑少佐ら、陸軍省の中堅将校たちの発する徹底抗戦の妖気は、近衛師団のわかい参謀たちを巻き込んでいた。

古賀参謀も、けっしてはじめから積極的だったわけではないが、「敗戦」への決定的なタイム・リミットがじりじりと迫ってくるにつれて、ついにクーデターにのめり込んだ。

近衛師団にあって、主動的な役割を果たしたのは、そのとき宮城守衛の上番にあたっていた近衛第二聯隊の大隊長たちであった。

兄も、加担すべきか、すべからざるか、かなり悩んだらしい。そのような雰囲気の中で断乎として反対するには、かなりの識見と勇気とを要することだった。

 そして、師団を挙げて終戦阻止に動くならば行動をともにするーというあたりで、計画を打ち明けられた士官学校の若手将校の大部分は、意思統一されていたらしい。

私は、兄から、この計画を暴走させた陸軍省の二人の将校が、宮城前で自決し、古賀参謀は、終戦の詔勅を聞いたのちに、師団長の柩の前で自決した。というニュースを聞いた。

前にも触れたように、古賀参謀は東条英機元首相の女婿で、柩は岳父の家から出たので、近所では東条自殺の噂が流れた、という。

 私は、古賀参謀とはかなり親しくしていたから、彼の自殺の報は、ちょっとショックであった。

 しかし、そのくらいの紛糾は、最後まで徹底抗戦を呼号していた陸軍の「面子」からいっても、あるいは必要だったのかも知れない、とも思った。


2021年8月6日金曜日

20210805 1600記事到達の頃にブログ開始当初の時期を思い出して・・

 さて、つい先日、総投稿記事数が(ようやく)1600に到達しましたが、今回の到達は、以前にも述べましたが、SNS、特にツイッターとの連携を重視するようになり、はじめての、ある程度の区切りと云え、それ以前にて最も近い1500記事到達の際には、あまり強く意識されることはありませんでしたので、今回の区切りにおいて特有の感覚であると云えます。

また、そうした事情とも関連があるのか、1600記事到達の頃に前後して、複数の方々からご連絡を頂き、またさらに、以前から動画を視聴し、著作も数冊拝読した比較的著名な研究者の先生からツイッター上にて「いいね」とリツイートをして頂きました。この先生の動画は、当ブログ開始当初の2015年の頃より視聴しており、また、自身の作成したいくつかの記事には、関連する動画として、記事の投稿時から掲示させて頂いております。

ともあれ、2015年当時の記事を作成していた私からしますと、上記のような展開になることは信じられなかったと云えますが、まさしく、こうした反応こそが当ブロガーをSNSと連携することによって生じ得た現象であるとも云えるのです。

他方で、こうした経緯により、さらに緊張度が増し、そして、新たな記事作成に対してのハードルも若干上がったようにも感じられてきます・・(苦笑)。それでも、こうしたことも、その背景と共に書き記しておけば、あるいはまた後日、役に立つこともあるかもしれないため、さきほど来より書き始めた次第ですが、今回の記事作成については、つい先日、目標に到達したばかりであることから「やる気」のようなものが、あまり充実しておらず、文章の進みはあまり良くなく、また、以前に書いた「集中」に至るまでに割合時間が掛かるように感じられます・・。つまり文章を書く状態としてはあまり良くないと・・。

とはいえ、さきの「書き記しておけば・・」と共に、投稿をするしないは別としても、記事作成自体はどこかで行っておいた方が良いと思われたことから、当記事の作成を行いましたが、次の目標を1700記事にするかどうかなどについては、未検討であり、もうしばらく、休みの期間で考えてみたいと思います。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


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2021年8月3日火曜日

20210802 1600記事への到達に際して・・

 今回の記事投稿により、総投稿記事数が1600に到達します。これは、去る3月下旬に1500記事に到達してから、ほぼ4か月後にあたり、その間、100の新規投稿を行ってきたことになります。また換言しますと、この期間、概ね6日のうち5日は新規の投稿を行ってきたことにもなりますので、あるいは多少は身を入れてきたとは云えるのかもしれません・・。

とはいえ、今回の1600記事への到達は、今現在の状態もそうではあるのですが、緊張により萎縮している自分がいる反面で「それなりにはやってきた」と云い得る「何か」もまた内心にあり、それはツイッターとの連携によって以前と比べ、外部からの視線を意識するようになり、生じたものと同一であると思われます。

つまりそれは、今回の1600記事への到達は、それまでと比べ、ツイッターとの連携により、より外部からの視線が多くなるということを意識した先にある、初めての、ある程度キリの良い区切りということになります。

さて、そこで当ブログ開始当初の時期を思い返してみますと、求職活動などで苦労をしており、そして、そこから何回かの変転を経て現在に至っているわけですが、その開始当初の頃は、毎日、題材を探してブログ記事として書くことは、それなりに難しく、書籍からの抜粋や、対話形式などで、少なからずの記事を作成していた記憶があります・・。

しかしその後、どういった内面での変化によるものか、記事の主体は独白形式のものが多くを占めるようになり、さらに、以前よりも、他者からの視線を気にしなくなったとも云えます。ともあれ、それでも記事作成は継続され、この時期、すなわち2017・2018年あたりの記事は、視線をあまり気にしなくなったことからか、それ以前の記事よりも伸び伸びとした何かがあるように思われます。

そこから、おそらく、こうしたものにも、バランスといったものがあり、良い緊張から萎縮に変化することも、また自由闊達さが、どこかを境目にして放埓さに変化することにもバランスが大きく関与し、そして、このバランスについての思想を述べたものが、それぞれ正典のある宗教といったものであると思われます。

また、その視点からしますと、現在の私は、2017・2018年頃と比べますと、他者からの視線を気にはしているものの、その反面で、それは必ずしも全面的に萎縮と云えるものではないことから、今回もまた、何とかここまで記事を書き進めることが出来ているのだとも云えます。あるいはもっと、文章作成を容易にするような自由闊達さの招来が望まれるのかもしれませんが、これに関しても、またやり過ぎますと、放埓気味になってしまいますので、とりあえずは現在の調子にて書き進めるくらいが丁度良いのではないかとも思われるのです・・。

さて、1600記事到達とはいってもあまり感慨などは湧かず、他方では「さて、次はどのくらい休もうかな・・」などと考えている自分もいますので、とりあえず1週間ほど、新規の記事投稿を休んでみようと考えています。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。おかげさまで1600記事に到達することが出来ました。また、当ブログを今後どこまで継続するのかについては、未だ検討していません。

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2021年8月2日月曜日

20210801 人の才能が分かることと、内面での葛藤について・・

去る7月24日投稿分の「【架空の話】・其の67 【モザイクのピースとなるもの】」のなかで、登場するS教授について「S教授には若手の後継研究者とされる存在はなく、むしろ、その研究室で学位を取得すると、その先は、それぞれ、より御自身の素に近いと思われる分野に進んでいくといった、何やら不思議な傾向があるように見受けられた。」といったことを述べましたが、これは、私の歯科理工学分野の師匠を思い出し、モデルとしたものであり、たしかにその弟子筋の先生方を思い返してみますと、今現在、同じ研究分野に残っているのは皆無ではないもののごく少数であり、他の多くの先生方は違う研究室に在籍されているか、開業医・勤務医になられているかの何れかであると云えます。

しかし、今現在、研究室にはいないからといって、活性が低くなっているかと云うと、そうでもなく、それぞれ、やはり御自身の得意とするところを活かし、ご活躍されておられると聞き及んでいます。そして、ここまで書いていて思い出されたことは、何らかの行動により、その人の才能が分かるといったことが時折ありますが、これを初めて感じたのは在鹿児島の頃でした。あるいは当時、ストレスにより少し過敏になっており、他者の行動の一つ一つが気になっていたのかもしれません。ともあれ、それと同じ頃に「何かこの人はスゴイな・・」と感じ始めるようになったということには何らかの関連があるように思われ、そして、それを生じさせているものは「内面での葛藤」であると思われます。

この「内面での葛藤」は、当時はもちろん、今現在も未だなくなっておらず、また以前にも書いた憶えがありますが「内面での葛藤」があるからこそ、当ブログもまた続けることが出来ているのだと云えます。そしてさらに、その先を少し想像してみますと、若年期から継続してきた「内面での葛藤」が青年期から壮年期に至り徐々に減衰してゆき、そしてそれが減衰しきるまでに、自分なりの創造の経路・手順を築き、自分のものにしておくことが、男性の場合は特に重要になっていくのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

そして、この「内面での葛藤」の異なる面での顕われとも云える「才能への感覚」の方は、特に芸術的なものというわけでなく、日常生活の延長にて感じ取れ、またそれらは少し考えてみるとスゴイことであると分かり、ここに、その具体的内容を書き記してみたいと思ったのですが、それは決してマズイ内容ではないものの、書いてしまうと個人特定がされてしまう恐れもあることから、ここでは書くことは控えることにしました・・

また、不思議なことに、そうした「才能への感覚」はそれまでになかったことから、あるいはこうした感覚は、その頃(30代半ば)の年齢に達すると自然に生じてくるようなものであるのでしょうか・・?

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2021年8月1日日曜日

20210731 記事作成時の集中に至るまでに大事なもの:コーヒー

 今回の記事投稿により、総投稿記事数が1598に達します。またおそらく、本日中での3記事の新規投稿は困難と思われるため、今月7月内での1600記事への到達には、至らないものと思われます。とはいえ、その後、8月初頭に到達出来るのであれば、去る3月の下旬に1500記事に到達し、そこから4カ月程度にて、新規投稿を100記事重ねたことになりますので、それはそれで自分としては、いくらかは身を入れたとは云えるのかもしれません。

ともあれ、当記事投稿後も、あまり怠けず、そしてまた慌てることなく、今しばらくの期間、記事作成を続け、出来るだけ速やかに1600記事まで到達し、そして、しばらく休息期間を設けたいと考えています。

また、昨日の投稿記事においても述べましたが、この1600記事の節目は、どうも常よりも緊張、萎縮しているようであり、その一つの要因は「これまでツイッターとブロガーにて連携してきた効果のようなものを、ここに来て実感したこと」であると云えます。こうした緊張感から生じる萎縮は、自分が願っても改善出来るものではないようで、ただ、その状況をどうにか乗り切るうちに、何となく自分全体がそれに合わせて進化なり発展といった変化を遂げていくのだと思われるのですが、そこから、さきに述べた昨今の状況も、後日、1600記事に到達することにより、自然と改善されるのではないかと考えていますが、あるいは到達後も、この感覚(緊張、萎縮)に変化がないようでしたら、それは少し考えものであると云えます・・。

しかしながら、今回を含めて、どのような状況であっても、継続的な記事(文章)作成を行っていますと、少なくとも、当初に書く意欲がなくとも、書き進めるにしたがい、徐々にそれが増幅され、そして、ある程度の量の文章は作成できるようになるとは云えるのかもしれません。また、その効果が顕現しているのは、まさに現在書き進めている当記事であると云え、ここでの文章は、冒頭の書き始めの頃と比べますと、緊張も萎縮も少なくなり、そして、書き進めたい意欲は、書き始め当初の頃と比べますと、幾分かは強くなっていると云えます。これは他面から見ますと「集中し始めた・・」ということになると思われるのですが、この「集中」もまた、記事作成に大きく関与するものであり、また、これは飲み物であるコーヒーによって助けられている部分が少なからずあると云えます・・。

子供の頃から私はコーヒーなどには弱く、時折、喫茶店などに入ってもコーヒーを注文することは殆どありませんでした。その後、社会人になってからは、缶コーヒーとタバコの組み合わせを知り、甘ったるい缶コーヒーを飲みつつ、タバコを喫うことが(現在考えると恐ろしいことではあるのですが)自然な習慣になっていましたが、和歌山の在住期間にて、何故だか缶コーヒーを飲む習慣が廃れ、その次の鹿児島在住期間では、殆ど飲まなくなっていました。その一方で、本物のコーヒーの方は、その味覚から始まり徐々に進歩してゆき、どうにか現在に至っていると云えますが、そこから、私のコーヒーに関しての感覚は、かなり遅い発達を遂げているようであり、あるいは、コーヒーのカフェインに対しても発達が遅かった分だけ、今現在に至るまで、新鮮とも云える効果を齎してくれているのであれば、それはそれで当ブログの記事作成に関しては大変ありがたいものであると云えます・・。

そういえば、ここ数カ月來、私はお店で豆を挽いて頂き、自宅にてコーヒーを淹れて飲んでいますが、これも私からしますと新たな試みであり、楽しんでいると云えます。またこれは、現今のコロナ禍の中であるからこそ見出した新たな行動パターンであるとも云えますので、あるいは、このコロナ禍も、自分の既定行動パターンを変えるための環境変化であると考え、各種規制への対応と同時に、何と云いますか、外に開かれた構えも保持することが、思いのほかに大事ではないかと思われました・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

順天堂大学保健医療学部
順天堂大学医療科学部

日本赤十字看護大学 さいたま看護学部 


一般社団法人大学支援機構



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ISBN978-4-263-46420-5

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