2024年11月28日木曜日

20241127 読書とブログ記事作成の効果について

 昨日投稿のブログ記事にて「関東南部は既にして初冬終盤の気配がある」と述べましたが、翌11月27日(水)は、どうしたわけか日中は比較的温暖で過ごし易かったです。また、さきほどまでの読書も進み、先日より読み進めているダロン・アセモグルおよびジェームズ・ロビンソンによる早川書房刊「国家はなぜ衰退するのか」の上巻を読了しました。こうした文庫本は持ち運びには上着などのポケットにも入ることから大変便利ではあるのですが、その反面、文字サイズが小さく、最近では、文字にピントが合い安定して読み進めるに至るまでに、数分程度掛かることもありますが、自分が面白いと感じ、能動的に読んでいる著作については、こうしたピントを合わせる時間が大きく短縮されることがあることを知りました。そして、その著作がさきの「国家はなぜ衰退するのか」上巻でした。続いて、下巻も読み進めていますが、こちらも感覚としては、さきに読了した上巻と同程度の興味を持ちつつ読み進めることが出来ると感じられました。さらに、その後、さきの活字にピントを合わせる時間の検証も兼ねて、書店にて興味深いと思われた著作を手に取り、立ち読みをしてみますと、これもまたすぐにピントが合ったことから、SNSで知り得た情報から入手した著作と、こうした偶然に任せて書店を徘徊して面白い著作を探すことの間には、思いのほかに大きな溝があるのではないかと思われた次第です。しかし、SNSにて知り得た著作も少なからず、自分にとっては興味深いものであり、それ故、大抵は読了まで至っているのですが、しかし、そうしたいわば受動的とも云える書籍選択の仕方一辺倒になってしまいますと、徐々に読書全般に対する能動性も減衰するおそれもあることから、書籍を選ぶ際には、自分にとってある種「課題」的なものと、純粋に自分の読みたいものといった、二つの基準を用いるのが良いのではないかと思われました。そしてまた、ここまで作成した内容もまた、さきに挙げた「国家はなぜ衰退するのか」の主題と関連があるように思われたことから、その時に読んでいる書籍の内容といったものは、同時期に作成する自分の文章にも、浸透して影響を及ぼすこともあるのだと実感しました。とはいえ(どうにか)9年以上当ブログを継続していますが、その背景や基層にある自分の習慣について考えてみますと、それは以前にも何度か当ブログにて述べたことがあると思われますが、やはり読書の習慣であると云えます。しかし、これまでに述べたその見解は、引用記事を別にすれば、あくまでも状況証拠的なものであり、記事作成の時点と同時期に読み進めている書籍の内容が、作成しているブログ記事に影響を与えるといったことは、これまでに意識したことがないことから、何やら新鮮に感じられた次第です。そして、そのように考えてみますと、こうした自分にとって新しい感覚が生じた背景には、これまで比較的長期間にわたり作成してきた当ブログでの引用記事による効果があるのではないかと思われました。引用記事を作成していた期間の最後の方では、さきと似て「自分の文章作成に対する能動性が減衰してしまったのではないか」といったおそれから、引用記事の作成を止めて、現在のような独白形式の文章での作成を始めましたが、しかし、この形式での記事作成を継続していますと、今度は「あの著作のあの部分で引用記事を作成したいな…」などと、また思いつくようになり、現在になりますと、読んで頂いている諸兄姉におかれましては、どうであるか分かりかねますが、自分としては「あれはあれでよいもので、今後も興味深いと感じる記述に出会ったり、あるいは何らかの機会に想起したのであれば、それで引用記事を作成するのは、よいことであるのではないか。」と考えるようになり、そこから、また今後、特に興味深いと思われた記述については、引用記事を作成することにしました。そして最後に、さきに述べた自分にとっての課題図書と自由図書のような感覚について、現在読み進めている自由図書の方は中公新書であり、それなりに読み応えはあるはずなのですが、こちらについては、自分にとって比較的馴染みのある分野(近現代史)でもあることからか、読み進める速度がさきの「国家はなぜ衰退するのか」と比較して、かなり異なることが大変印象的でした。また、そうした感覚を憶えますと、何と云いますか、自らの目や体力などの衰えについての感覚が、そこまで全体的に及んでいるものではないことが実感されて、何と云いますか、諦めや諦念の対極にある「やる気」が湧いてくるのだと思われます…。そこから、複数の分野で、ある程度専門的な書籍を読めるようにしておくことは、そこまで悪いことではないと思われた次第です。
最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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2024年11月27日水曜日

20241126 先日の投稿記事に続いて、読書について

 ここ数週間で急に冬めいて寒くなり、現在は既にして初冬の終盤といった趣すら、ここ関東南部ではあるように感じられます。また、当ブログについても、去る20日以来、新規での記事作成を行ってきませんでしたが、ここ最近の寒さとは関係はないと思われます。しかしながら、たしかに、いつもよりも記事作成に対する熱意は乏しくなってきたとは云えます。とはいえ、これはおそらく一過性のものであり、またしばらく経つと、記事作成をはじめるのだとは思いますが、そうではあっても、このあたりで自らを奮い立たせて作成しておいた方が良いとも、これまでの経験は語ることから、本日、こうして新たな記事作成を試みている次第です…。そして、こうした前口上のようなもので、このあたりまで作成することが出来れば、あとは、主題へと展開する流れになるのですが、この「主題」は、これまでに少なからず作成したブログ記事の骨子となるものであり、それは概ね日中での思いつきや小さな発見などですが、本日については、先日の投稿記事に続き、また現在読み進めているダロン・アセモグルおよびジェームズ・ロビンソンによる早川書房刊「国家はなぜ衰退するのか」についてを主題にしたいと考えています。さて、先日投稿の作成記事にて、さきの著作「国家はなぜ衰退するのか」を「歴史の推移の様相を複数示して、それらから抽出される見解を述べるスタイル」と述べ、そして、それに続き、類似した書きぶりがあると思われる研究者・著述家を数名挙げましたが、後になり、そこに重要な著作を入れ忘れたことが思い出されました。それは、これまでにも当ブログにて何度か取り挙げたことのあるJ・G・フレーザーによる「金枝篇」です。この著作は、以前、修士論文の作成の際にいくつかの版で読みましたが、当著作の書きぶりが、歴史の様相とまではいかないものの、古今東西のさまざまな風習の様子や、それらの起源などについての概説を述べると云った書きぶりであり、そして、そこから、ある種の見解を抽出しようとする、以前に述べた、モザイクのピースのように並べたさまざまな風習から、ある大きな意味を見出そうとする、そのスタイルは、前出の「国家はなぜ衰退するのか」および、その系譜にある諸著作とも通底するものがあると考えるのです。さらに言い換えますと、こうした複数の具体例を並べ、それらから共通する見解を見出そうとする手法を「帰納法」というのですが、この帰納法では、一般的に参照されたデータの数、情報量が多い方が精確さが高くなると云えますが、他方で効率よく情報の収集をする場合には、あまり適した方法とは云えません。つまり、帰納法による見解の抽出とは、その見解がある程度の水準にあると云えるようになるまでには、対象とする分野や課題にもよるのでしょうが、比較的長い時間を要するのではないかと思われます。そしてまた、我々が一般的に用いている「学び」や「学ぶ」とは、概ね、こうした情報の蓄積が身体化されたことを指すと考えますが、この段階において、技術・手技が付随するのが、医療系や多くの自然科学系系分野での「学び」であると云えますが、そうした事情から、これら分野においては、そこで使われるコトバと、それが指し示す実体との関係が比較的確固としたものであると云えますが、これがおそらく人文系であると、そうした確固とした、コトバとモノの関係を身体感覚として実感することが困難であることから、それが重なって、現在の混乱しつつある我が国のようになっているのではないかと思われるのです…。また、このことは過日の和歌山訪問の際においても話題になったことでもあることから、また少し書きぶりを変えて、このことについても少し述べたいと考えています。また、これは蛇足的な私見になりますが、さきの、さまざまなものごとの推移の様相を帰納法的な視座から認識されたものこそが柳田国男が述べた「予言力」に近いものであり、また同時に、橋川文三が述べる「歴史意識」にも同様に近いものであるのではないかと考えます。そして、こうしたものを徹底的に排除してきたさきに、インターネットによって情報化された社会に姿を現しつつあるのが「ポピュリズム」であるということは、やはり悲劇的なことであるのではないかと私には思われます…。
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2024年11月21日木曜日

20241120 最近読んでいる著作とその系譜および、ここ一週間について

 過日のノーベル経済学賞受賞で、さらに広く知られるようになったマサチューセッツ工科大学のダロン・アセモグル教授とシカゴ大学のジェームズ・ロビンソン教授による早川書房刊「国家はなぜ衰退するのか」を先日購入し、現在、上巻の四分の三程度まで読み進みましたが、こうした、さまざまな歴史の推移の具体的なケースを示す書きぶりは大変興味深いものがあり、また、その系譜にはユヴァル・ノア・ハラリによる「サピエンス全史」をはじめとする複数の著書、あるいは現在となっては往年の名著とも云い得るジャレド・ダイアモンドによる「銃・病原菌・鉄」をはじめとする同様の複数の著作があると考えますが、これらの著作については、これまで当ブログをお読み頂いた方々はお分かりと思いますが、少なからず、それらから引用記事を作成しており、またそれらの元著は大抵読了まで至っていますので、私は少なくとも数年前より、こうしたモザイク式に歴史の推移の具体例を並べ、それらから何らかの見解を抽出するような書きぶりに興味を持っていたことが分かります。しかし、そのように考えてみますと、こうした書きぶりは、専門である西洋ルネサンス史を基軸として、我が国のさまざまな時代の出来事や様相との対比を書いた会田雄次や、東洋史の視点から我が国の歴史や特徴などについて述べた宮崎市定や、主に小説以外での司馬遼太郎の諸著作などとも通底する要素があるようにも思われ、また同時に、それら著作は、さきの「数年前」から、さらに以前より好んで読んできたと云えますので、そうした人文学におけるスタイルがノーベル経済学賞を受賞したこともまた、個人的には興味深いと考えています。

 とはいえ、冒頭で挙げた現在読み進めている「国家はなぜ衰退するのか」の内容は、決して楽観的なものではなく、逆に、現代を生きる我々に迫ってくる、過去の愚かでいたましい歴史の推移が羅列されているようで、読んでいますと徐々に気が滅入ってくるような感覚もあります。そして、この「気が滅入ってくる」とも関連があると云えますが、当著作を読みつつ、さらに現在の先が見通せない世界情勢について考えてみますと、去る9月12日の和歌山での勉強会においても、そうしたことがことが話題になっていたことが思い出され、そこから、この勉強会を主催され、長年お世話になっている人文系研究者の先生に、この「現在の我が国を含む世界の不安定な状況」についての、さらなる見解をお聞きしたいと考え、問い合わせたところ、ご多忙のなか面談時間を頂くことが出来たことから、早速訪問し、対談させて頂きました。そこから、以前より少し観念的な視界がクリアになった感がありましたが同時にまた、その視界とは、未だ精確にピントは合っていないながらも、概観としては、必ずしも楽観視出来るようなものではないことから、昨今の不安定化する世界情勢に対する懸念や不安は少しも減ずることはありません。そして、こうした状況においては何故か、私にブログ記事作成を促すことはなく、数日間なかば呆然としていましたが、その後、いくつかの先日の対談に基づいた対談形式の文章を作ってみたものの、いずれも完成に至っていないのが、ここ直近の一週間であったと云えます。しかしやはり、このあたりでひとつブログ記事を作成した方が良いと思い、考えたのが今回の記事と云えますが、こうして作成してみますと、その時に思い、考えていることを多少は考慮して、出来るだけ正直に述べることが、こうしたブログをオリジナルの文章によって継続する方法であったことが、今さらながらに思い出され、少し恥ずかしく思いました…。

 そして、今後も先述した未完成の対談形式の文章に手を加えて、出来るだけ速やかに投稿の予定です。最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年11月17日日曜日

20241117 過剰な砂糖の摂取について

 過剰な砂糖の摂取が健康に悪影響を与えることは広く知られていますが、特に問題視されるのは食品や飲料に人工的に加えられた「添加糖」です。添加糖は、肥満や2型糖尿病・高血圧など多くの慢性疾患のリスクを高めることが数々の研究で示されています。さらに、妊娠期から子どもが2歳になるまでの「最初の1000日間」における砂糖の摂取が、子どもの将来的な健康に影響を及ぼすことが近年の研究で明らかになっています。

 学術誌「サイエンス」に掲載された研究によると、妊娠期から幼少期にかけての1000日間に砂糖の摂取量を減らすと、子どもの成人後に2型糖尿病のリスクが約35%、高血圧のリスクが約20%減少する可能性があると報告されています。また、2型糖尿病の発症を平均で4年、高血圧は2年遅らせる効果もあるとされています。この研究は、英国で第2次世界大戦中に導入された砂糖やお菓子の配給制度が1953年9月に終了した時期のデータを用いており、配給制度の影響を受けた妊婦や幼児の後の健康状態を追跡調査しました。

 戦時中の配給制により、当時の英国では成人の1日あたりの砂糖摂取量が40グラム程度に制限されていましたが、配給制が終了するとほぼ倍の80グラムに倍増しました。研究者たちは配給制終了前後に生まれた6万人以上のデータを分析した結果、配給中に妊娠や出産を迎えた乳児は肥満のリスクが約30%低下し、配給制終了後に生まれた乳児は2型糖尿病や高血圧のリスクが増加する傾向があることを確認しました。さらに、妊娠期や幼少期の砂糖制限は、子どもが生涯にわたって甘いものを好む傾向を抑える効果があることも示されています。

 テネシー大学のマーク・コーキンス教授によれば、人間は生まれつき、甘味に対する好みを持っているが、過剰な砂糖摂取は代謝に悪影響を与え、体が糖を脂肪として蓄えやすくなると指摘しています。人類は古来より果物など自然の糖を摂取していましたが、精製された砂糖は非常に濃縮されており、現代ではチョコレートケーキなどの甘味が簡単に手に入るため、ほとんどの人が無意識のうちに過剰摂取しているのです。このような環境により、体は飢餓に備えて糖を脂肪として蓄えようとする一方で、実際には摂取過剰が原因で肥満や生活習慣病のリスクが高まっています。

 現代の食生活においては、加工食品や清涼飲料の消費が増えており、これが過剰な砂糖摂取の主な要因です。例えば500mlのソフトドリンクには20~40グラムの砂糖が含まれており、これだけで1日の摂取目安量を超える場合があります。WHO(世界保健機関)は1日のカロリー摂取のうち砂糖を10%未満、できれば5%未満に抑えることを推奨していますが、実際には多くの人がこれを超えています。また、米国の食事ガイドラインでは、2歳以上の人々が1日あたりの砂糖摂取量を総カロリーの10%未満にすることが求められていますが、特に妊娠中や授乳中の女性は1日80グラムを超える添加糖を摂取しており、推奨量の3倍以上に達しています。

 こうした砂糖の過剰摂取を防ぐため、さまざまな対策が求められています。まず、食品パッケージの栄養成分表示を改善し、消費者が糖分の含有量を一目で確認できるようにすることが重要です。糖分表示が明確になることで、消費者が自分で適量を意識して選ぶ手助けとなるでしょう。また、学校や家庭での栄養教育も重要です。砂糖が過剰に体に入るとどのような影響があるかを広く理解してもらうことで、子どもが早い段階から健康的な食習慣を身につけ、将来の健康リスクを軽減できるようになります。

 さらに、砂糖を多く含む食品に対する課税や規制を導入することも、効果的な対策とされています。こうした政策によって、消費者が無意識のうちに低糖食品を選びやすくなるだけでなく、食品メーカーも砂糖控えめの製品開発に取り組むようになります。飲食業界もまた、健康的なメニューや砂糖控えめのオプションを提供することで、消費者が自然にバランスの取れた食生活を選択できる環境づくりに貢献できるでしょう。

 個人レベルでも、甘い飲み物やお菓子を控え、糖分の少ない食品を選ぶ意識が重要です。また、購入する食品のラベルを確認し、添加糖の摂取量を把握することで、将来的な健康リスクを管理することが可能です。こうした食生活の工夫は、個人の健康を守るだけでなく、家族や次世代の健康を守るためにも大きな意味を持ちます。

 砂糖は体に必要なエネルギー源ですが、過剰摂取は慢性疾患のリスクを高める原因となります。特に妊娠期から子どもが2歳になるまでの1000日間は、子どもの将来の健康に影響を与える重要な時期であり、この期間の砂糖摂取量を適切に管理することが推奨されます。政府や食品業界、そして私たち消費者が一体となり、適切な砂糖摂取を実現するための環境を整えることは、より健康的な社会の実現に向けた第一歩です。

2024年11月12日火曜日

20241112 次亜塩素酸水について

 次亜塩素酸水は、次亜塩素酸(HClO)を主成分とする水溶液であり、医療や介護、食品加工、家庭など、さまざまな場面での消毒に用いられています。次亜塩素酸は、人体の免疫システムにおいても生成されるものであり、それが細菌やウイルスを除去する働きがあることから、人体に対して安全であり、安心して消毒に用いることができます。

 次亜塩素酸水は、塩化ナトリウム(食塩)や塩酸を電気分解することで生成されます。また、次亜塩素酸ナトリウムを希釈する方法もありますが、この方法で生成されたものは消毒効果が不十分であり、さらに有害な残留物が残る危険性があるため、正しく生成されたものを選択することが重要です。

 さて、次亜塩素酸水は、pH値と有効塩素濃度によって「強酸性」「弱酸性」「微酸性」の3種類に分けられ、それぞれ用途に応じた使用方法が求められます。

①強酸性次亜塩素酸水(pH 2.7以下)は、短時間で多くの病原体を殺菌する力があり、医療機器や施設の消毒に使われます。ただし、酸性度が高いため取り扱いには注意が必要です。

②弱酸性次亜塩素酸水(pH 2.7〜5.0)は、食品加工や厨房の消毒に適しており、安全性が高く扱いやすい点が特長です。

③微酸性次亜塩素酸水(pH 5.0〜6.5)は、ほぼ中性に近く、食品や農産物の洗浄に適しており、日常的な消毒にも安心して使用できます。また、人体や環境に優しいことから、家庭での使用にも適しています。

 次亜塩素酸水の高い消毒力は、細菌やウイルスの細胞膜に直接作用して、酸化反応により、タンパク質や脂質を破壊するためです。その効果は、短時間でほとんどの病原体を死滅させることが可能であり、さらに耐性が強いとされる芽胞菌やカビに対しても効果的であることから、先述のように医療現場をはじめ、各分野にて消毒・感染症対策として多く用いられています。また、次亜塩素酸水は使用後には塩、酸素、水に分解されて、食品や器具に残留物が残らず、安全性も極めて高く、実際、微酸性次亜塩素酸水を使って処理した野菜や果物は、栄養価や風味にほとんど影響がないことが確認されていることから、食品の安全管理の場面においても多く用いられています。

 次亜塩素酸水は、さまざまな場面で使用されており、たとえば、嘔吐物の処理やトイレ掃除などには、500〜400ppmの原液をそのままスプレーすることで、菌やカビ、嫌な臭いを防ぐことができます。ただし、金属に用いる場合は、金属の腐食を防ぐため、スプレー後に水道水ですすぐことを忘れないようにしましょう。また、キッチンでは100〜200ppmに希釈した次亜塩素酸水を、まな板やスポンジ、ボウルなどの除菌に活用することができます。三角コーナーにスプレーしておけば、生ゴミの嫌な臭いを抑える効果もあります。テーブルやドアノブの除菌にも役立ちますが、色落ちのリスクがあるため、最初に目立たない場所で試しに用いてから使用するのが安全です。

 さらに、50ppm程度に薄めた次亜塩素酸水は、加湿器に入れて噴霧することで、室内の空間除菌と消臭を手軽に行うことができます。携帯用スプレーボトルに入れて持ち歩けば、外出先でも手軽に除菌・消臭が可能です。また、口腔ケアとしてもうがいや鼻うがいに使用することができ、虫歯や歯周病、口臭予防にもとても効果的です。

 次亜塩素酸水は、感染症対策にも非常に効果的です。ノロウイルスは感染力が強く、家族内で感染が広がるリスクがありますが、次亜塩素酸水は同じ濃度の次亜塩素酸ナトリウムと比べて数十倍の効果があることが確認されています。また、次亜塩素酸ナトリウムのように漂白作用が強くないため、衣類やカーペットにも安心して使用できます。ただし、次亜塩素酸水は有機物と接触するとすぐに反応して効果が落ちるため、ノロウイルス感染者の嘔吐物や排泄物には、まず汚物を取り除き水拭きをした後に、次亜塩素酸水で仕上げの除菌をするのが効果的です。この際、手袋とマスクを着用し、使用後の雑巾は廃棄するか、再度次亜塩素酸水で除菌することが推奨されます。

 また、インフルエンザ対策としても次亜塩素酸水は有効です。消毒用エタノールは手荒れの原因になることがあり、次亜塩素酸ナトリウムは皮膚に使用できませんが、次亜塩素酸水は皮膚に優しく、手やドアノブの消毒に安心して使えます。さらに、超音波式の噴霧器を用いて室内に散布すれば、空間全体の除菌が可能です。

 次亜塩素酸水は光や温度の影響を受けやすく、劣化しやすい性質があります。そのため、冷暗所にて密閉容器で保存することが推奨されます。特に日光にさらされると、効果が低減するため、遮光性のある容器で保管するのが理想的です。また、使用する際は、用途によって適切な濃度を確認して製品を選ぶことで効果を最大限に発揮できます。

 このように、次亜塩素酸水は、その高い除菌力と安全性から、さまざまな場面において有益です。環境に優しく、残留物が少ないため、持続可能な消毒方法として、今後、さらに多くの分野での活用が期待されています。正しい知識を持ち使うことで我々の生活を清潔に保ち、感染症の予防にも効果を発揮するでしょう。

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2024年11月11日月曜日

20241110 内部衝迫や葛藤の昇華・善用がブログ記事の作成?

 これまでの総投稿記事数は2,287記事に達しており、年内もこのペースに記事作成をすれば2,300記事への到達はそれほど困難ではないと云えます。そのため、年内の目標総投稿記事数は20記事を足して、2,320記事にしたいと考えます。

 さて、ここ1週間は引用記事ではなく、自分の文章でブログ記事を作成してきましたが、始めてみますと、それほど難しくはないように感じられました。しかし、これを毎日続けるとなると、やはり状況は変わってくるかもしれません…。そういえば、当ブログをはじめた2015年から2018年にかけての約3年間は、ほぼ毎日記事を作成していたことが思い出されます。また、当時は常に眠気と戦っていた記憶もあり、おそらく平均睡眠時間は現在よりも短かったと思われます。さらに、平日は営業活動で日中は動き回っており、身体の疲労もそれなりにありました。

 そうした状況で、ほぼ毎日ブログ記事を作成していたという事実を現在振り返ると、それは、純粋な能動性からの行動というよりも、何か強い内部衝迫に突き動かされていたように感じられます。言い換えれば、「ブログ記事を書かなければ自分が消えてしまうのではないか」という一種の恐怖感が私を駆り立てていたのでしょう。しかし、その感覚も記事作成を継続するうちに徐々に薄れていき、現在では、あまり意識されることもなくなりました。ただ、数日間記事作成をしていないと、不図、その感覚が甦ります。おそらく、内心では「もう2,000記事以上も書いたのだから...」といった思いが強まっているのかもしれません。しかし、それでもなお、この
内部衝迫や葛藤は完全に消え去ることはなく、今なお私をブログ記事の作成に駆り立てています…。

 こうした内面での葛藤が私の中に根付いたのは、鹿児島に在住していた期間であったと思われます。それ以前の実家や北海道、和歌山での生活では、同様の葛藤はあったものの、それが表面化して能動的な行動に結びつくことはありませんでした。つまり、鹿児島での生活が私に何らかの変化をもたらし、約2年かけて内面での衝動が強化され、2015年に当ブログを始めるに至ったのだと云えます。また、その直接的なきっかけは、以前にも当ブログにて述べたとおり、同時期に複数の周囲の方々から「何か文章を書いてみてはどうか」と勧められたことではありますが、その背景・基層には、先述の鹿児島在住時に埋め込まれた葛藤があります。

 その葛藤とは、具体的には2009年に兄が亡くなり、2010年に指導教員が退職したことが大きく、主たるものであり、もし、これらの出来事がなければ、私の博士課程院生時代はもっと平穏であり、あるいは、もしかすると、その後の人生も同様であったのではないかとも思われます。しかし、現実にはさきのような出来事があり、そして学位取得までの過程では、これらの嫌な出来事に押し潰されないように、自分の生命の燃焼程度を強くして、何とか乗り切ることが出来ました。しかし、その後は、いわゆる「燃え尽き症候群」のような状態に陥り、そして、そこから逃れるために周囲の勧めもあり、当ブログを始めたのだと云えます。

 そこから、これまでの当ブログでの一連の記事作成は、内面の葛藤と向き合うための手段であり、また同時に自分自身を救う道であったとも云えます。そして今後、
開始の2015年から10年に達する程度まで当ブログを継続することにより、新たな内面での良い変化や発見があるのではないかとも思われます。そしてまた同時に、程度はどうであれ、これまでとは異なった種類の自己実現に至ることが出来れば、それはそれで僥倖と云えると考えています…。

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2024年11月8日金曜日

20241107 内心の文章化と自己同一性について

 直近二回の投稿記事は人工知能(ChatGPT)も用いずに久々に作成したものですが、その後両記事共に、思いのほかに多くの方々に読んで頂き、その数は、引用記事の平均よりも多く、また、先日の宣言もあり、今しばらく自らの文章による記事作成を続ける意欲が湧きました。これらの記事を読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。

 また、両記事ともに即興にて作成したものではあるのですが、同時にそれらは、以前から薄々と考えていたことでもあり、おそらく、以前にも当ブログにて類似したことを述べていたとは考えますが、こうした内心で考えていることの(できるだけ適切な)言語化とは、意識化して記憶に留めると云う意味において、何かしら良い効果があるのではないかと思われました。

 そして、その視座から、昨今の引用記事を主としたブログ記事作成は、それはそれで、良い効果があったと考えますが、書籍の記述といった抽象的なものでなく、自らの直接の経験に基づいた文章の作成は、その過程で記憶が励起されて、さらに、それに付随した記憶が想起されることも多く、これにつきましては、先日久々に経験して我がことながら驚かされました…(笑)。ヒトの記憶とは面白いものです。

 また、ここで興味深いことは、そこで当初の記憶の文章化に付随して新たに想起された記憶もまた、当初の記憶と同程度に、そこに疑念がないことです。そして、このことは思いのほかに重要であり、おそらく、こうした感覚(記憶への信頼)があるからこそ、我々は個人であれ、あるいはさらに大きく地域や国などの集団であれ「自己同一性」を保つことが出来るのだと考えます。そして、この自己同一性とは、ある一時の状況を指すものではなく、意識の時間的な連続によって担保される性質があると考えます。つまり、ある種「モノガタリ」のような性質を持ちつつも同時に、それを持つ個人・地域・社会が、そこに拠って立つ根拠となるものだと云えます。

 それ故、国同士の歴史認識をめぐる問題とは、その認識の仕方によっては、あるいは、それまでの自らが紡いできた歴史が変えられてしまい、国としての自己同一性が損なわれてしまうこともあることから、多くの場合、当事国同士合意に至ることが難しいのだと思われます。また、これは個人においても同様であると考えますが、個人であれば、自己同一性を巡る認識の問題とは、まだ柔軟に解決できることが多いと思われますので、それよりも自己内部における問題として葛藤が続くといったことの方が多いのではないかと思われます。

 そして、そのことは、まさしく私が当ブログを始めて、そして現在に至るまで(どうにか)継続している主な要因であると云えることから、さきに述べた内心の考えの(出来るだけ率直な)言語化とは、葛藤を燃料としつつ、さらにそれを昇華させるような作用があるのだと思われますが、その先については今のところよく分かりません。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

ChatGPTによる加筆修正を加筆修正したもの
 ここ最近、引用記事や人工知能(ChatGPT)を用いず、久しぶりに自らの文章にて数記事作成しました。結果、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。その閲覧者数は、これまで多く投稿してきた引用記事の平均よりも多く、くわえて、先日「自分の言葉で書き続ける」とブログにて宣言したこともあり、今しばらくオリジナル記事作成の意欲が湧いてきました。当記事を読んでくださった皆さまどうもありがとうございます。

 さて、昨日の投稿記事は、即興にて作成したものでしたが、それと同時に以前からぼんやりと考えていたテーマでもありました。あるいはまた、以前に作成した記事でも同様の内容を述べていたかもしれません。しかし、いずれにせよ、できるだけ精確に内心を言語化することは、言語化により記録されて記憶に刻まれると云う意味で精神に良い効果があると考えます。

 また、ここ最近は引用記事を主として作成・投稿してきましたが、それらは基本的に書籍内の記述です。一方、自分の経験をもとに記事を作成していますと、その過程で思いがけず過去の記憶が想起され、さらに、それに付随する他の記憶も想起されてくるのです。そして先日は、久しぶりにそれを実体験して、我がことながら少し驚かされました(笑)。ともあれ、人の記憶というものは、本当に不思議なものです。

 そして、それと同時に大変興味深いことは、こうした記憶を文章化する過程で新たに思い出された記憶が、最初の記憶と同様にそこに疑念がないことです。このことは大変重要であり、こうした記憶への信頼があるからこそ、私たちは個人として、あるいは集団として、自己同一性を保つことができるのだと思います。自己同一性とは、一瞬の状況だけでなく、時間を通じて意識が連続することで成り立つものです。いわば「物語」のようなものが、その人や地域、社会にとっての存在の拠り所になります。

 だからこそ、国同士の歴史認識をめぐる問題は、それが単に過去の事実の理解に留まらず、それぞれの国が紡いできた歴史に基づく自己同一性に大きく関与することから合意に達するのが難しいのだと思われます。これは個人の場合でも概ね同様であるのですが、個人である場合は、まだ柔軟に解決できる余地があるため、対外的な対立よりも内面的な葛藤として現れることが多いように思います。

 そして、このような内面の葛藤こそが、私がブログを始め、現在も続けている理由の一つです。先ほど述べたように、自分の内心をできるだけ率直に言葉にして表現することには、葛藤をエネルギー源として、それを昇華させる効果があると考えますが、その先に何があるのかについては、正直なところ、今の時点ではよくわかりません。ともあれ、今しばらくは当ブログを続けます。

そして今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年11月6日水曜日

20241105 読む書籍が変ると、意識もまた変わることについて(途中から対話形式)

 現在もいくつかの書籍を読み進めていますが、考えてみますと、2022年2月に勃発した第二次宇露戦争以降、購入する書籍をエックス(旧ツイッター)上にて見つけることが多くなりました。それ以前であれば、周囲のご意見から、あるいは、感覚的な立ち読みなどで見つけていましたが、4年前の新型コロナ禍に続く第二次宇露戦争、そして今なお戦闘・緊張状態が続いている中東、アフリカ、中南米の国々といった国際情勢は、大げさでなく、第二次世界大戦終結以降、最も混乱している状況と云えます。そして、そうした状況を出来るだけ精確に知るためには、海外報道機関による情報は、とても有益であり、それらの報道動画を視聴し、そこで述べられていた情報と関連する、我が国のアカデミアやシンクタンクなどの調査研究機関が運営するサイトの動画を視聴して、そこで納得出来る見解を示す研究者が著した著作が紹介されていますと、後日の書店訪問の際には、やはり、立ち読みして購入に至ることも多く、これが、冒頭で述べた「購入する書籍をエックス(旧ツイッター)上にて見つけることが多くなった」背景にある主たる事情と云えます。そして、そうしたことから、自然と読む書籍の分野は国際関係論や近現代史関連が多くなりましたが、先日、不図、気になったた谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡」を読んでみますと、さきの国際関係論や近現代史などの著作で述べられている文章とは異なった深度で文章について考えるようになり、また、おそらく、その深度での考えが、本来の我が国の言葉での「考える」を意味したのではないかとも思われるのです。そして、そこでの語彙からは、どうしたわけか、自然と和歌山や鹿児島での古くからの地名や、当地の郷音での話し言葉のイントネーションが想起されるのです。また、そうしたことを文章としていますと、今年の春に鹿児島へ訪問した際のことが想起されました。それは鹿児島での歯科理工学会が開催された日の晩の歯系院時代にお世話になった先輩の先生との会話です。そして、その会話を再現したものを以下に示します。

私「**先輩、それじゃあ今日は早めに医院を閉めて天文館までいらしたのですか?」

先輩「いや、早くには閉めれんよ…。閉めてから大急ぎで準備して来たのです。あとは照国の会館にちょっと用事があって、それも済ませてきました。そういえば、**さん(私のこと)は、あそこの歯科技工専門学校に**先生と一緒に歯科理工学の実習を教えに行ってましたね。あ、あそこの歯科衛生専門学校にも求人票を出さないと…。」

私「…開業医の先生ともなると色々と大変ですね…。あと**先生によると先輩の歯科医院は歯科衛生学校の臨床研修先になっているとお聞きしましたが...。」

先輩「そうなんよ、まったくかなわんよ…。でも、歯科衛生学校といっても、さっきの照国の方じゃなくて、もう一つの方の学校で、あそこは**さん(私のこと)が院生だった頃、**先生の代わりで1年間、歯科英語の講義したことがあったでしょう。」

私「ええ、そうです。あれは2012年でしたね。しかし、あれから12年も経つと、先輩の医院がそこの臨床研修機関になるのですね…(笑)。でも、私があそこで歯科英語の講義をさせて頂いた時、学生さんは皆、年頃らしく快活で元気でしたから、おそらく、あの子達はその後、良い歯科衛生士になったと思いますよ。」

先輩「うん、少し前までは照国の学校を出た衛生士さんの方が優秀だと云われていたけど、最近は、こっちの学校を出た衛生士さんも優れているってよく聞きますので、まあ両方の学校が共に良くなってくれれば、こちらとすれば云うことなしですよ(笑)。」

私「ああ、そうですね。そういえば、今のお話を聞いていて思い出したのですが、以前、私が歯科英語の講義をしていた頃、桜ケ丘から原付で朝に行っていましたが、講義室に入ると宿題か何かをされている学生さんが多数いて、そのなかで、近くにいた学生が何をやっているのかと、開いたノートを見たところ、そこに短歌らしきものが数首書かれていたため、驚いて「何、君は短歌を作るのですか?」と訊ねたところ、その学生さんは「いえ講義の課題で作りました。」と返答されました。どのような講義であるか分かりませんが、しかし、その学生さんはたしか徳之島か奄美大島かの御出身で、高校の同期が照国の技工専門学校におられました。お二人とものびのびとした立派な体格でしたが、そうした学生さんが短歌を作って、そしてまた歯科英語も、まあ普通に出来ましたね、ただ面白かったのは、私が講義の際によく行っていた、私が教科書の英文を音読して、続いて、その部分を学生さんが繰り返し音読してから和訳を述べて頂く流れのなかで、その課題の短歌を作っていた学生さんに当ててみますと、英文を音読した後に、しばらく間をおいてから、おもむろに音読した漢字を何文字か述べるのです。しかも、その漢字はたしかに、その英文の主な意味を示すものであったことから、少し驚いて「すごいな、英文を漢文に訳す講義であれば、それは正解かもしれないけれど、それを日本語で云うとどんな感じですか?」と問うたところ、それらしい和訳を述べられましたので、まあ、それで良かったのですが、しかし、そうした言葉の用い方について、沖縄や島も含めて、ここ九州の特に南の方では、何だか独特なものがあると思うのです。そして、実際、そうしたことを意見として述べていた谷川健一という熊本出身の民俗学者がいましたが、そのなかで、万葉集などの日本の古代の謡(うたい)の原型は九州南部や沖縄などの南島歌謡にあると述べているのです。そして、そうした見解を介して、私が経験したさきの歯科英語の講義でのことを考えてみますと、何だか深いものがあるようにも思えてくるのです…。」

といった意味のことを私が述べると、その先輩は肘を卓上に置き、もう片方の手でロックの芋焼酎が入ったグラスを口元に当て、舐めるように少しづつ飲みながら、真面目な様子で聞かれていました。

 こちらの先輩は、鹿児島の男性らしく、普段は至極陽気な方であるのですが、時折、私がこうした話をする時は、それが当地の気風であるのか、真面目に聞いてくださることが多く、また内容も分かって、あとで質問もされるのですが、それは自らの文化や風土などが部外者からどのように見られ、考えられているかを知る良い機会と捉えているのかもしれませんが、そのあたりについては今のところよく分かりません…。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

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2024年11月5日火曜日

20241104 2285記事の到着および今後の記事作成および人工知能(ChatGPT)について

 今回の記事投稿により、総投稿記事数が2285に到達します。昨年5月の2000記事到達以降からは意識しつつ引用記事を多めに作成してきましたが、次の区切りの良い目標である2300記事に到達することが出来ましたら、しばらく当ブログから離れて、そして今度は徐々に自らによる独白記事を多く作成したいと考えています。これまでしばらくの期間、有意に多く作成してきた引用記事は、どれも興味深いと思われた記述であり、そうして作成した記事が多くの方々に読んで頂けることは作成した私としても「良い記述を紹介できた。そして引用元の著作にも興味を持って頂けると良いな…。」と思い、また、それが新たな引用記事作成の意欲にも繋がるわけですが、しかしやはり、引用記事は、自らによる文章ではないため、ブログ記事作成後にある、ある種の達成感が希薄であり、そしてまた、この作成後の感覚の蓄積もまた自分にとって重要なものであったことを感覚として知ったのが、この1年程度であったと云えます。引用記事の作成を継続していますと、日常での書籍の選び方、読み方も徐々に変化していき、そして読書が自分にとって楽しいものではなくなるような感覚が度々ありました。しかし他方で、この書籍や記述を選ぶ際の感覚は、継続していますと向上したようにも思われました。おそらく、こうした感覚には「詩心」と通底するものがあると思われます。ともあれ、さきのように、読書の楽しみを維持するためにも、自らによる記事作成継続の重要性を知ったわけですが、そこから、来る2300記事到達以降は、また徐々に自らの文章による記事作成へシフトしたいと考えています。また、普段文章を作成していないと、機に応じて適切と思しき考えを想起して述べることも困難になってくると思われますので、次の100記事作成のタームでは、強めに「引用記事作成を(出来るだけ)禁止」したいと考えます。そのため、当初の方ではおそらく、また経験不足により稚拙化した独白形式の記事がしばらく続くと思われますが、こちらも継続していきますと、徐々に調子を取り戻し、自分なりにではあれ、何とかまた読めるものを作成することが出来るようになっていくのではないかと、これまでの経験は語ります。そして、ここで重要であるのは、それを自らで決断して、実行したという記憶であると考えます。そして、そうしたことから、さきに述べた2000記事以降の引用記事を主とした投稿が続いた期間で、それに慣れて慢性化しつつも、また、意識しつつも、そこまで労せずして、自らによる文章作成へと戻ることが出来るのだと考えます。しかしまた、大変興味深いことは、先述の2000記事到達の2023年5月以降、いや、より視野を大きくして2020年代初頭からは、我々人類が一般的に人工知能(ChatGPT)を用いて文章作成をするようになったことであり、実際、当ブログでの数十以上の投稿記事は、人工知能(ChatGPT)を用いて作成したものであり、また人工知能(ChatGPT)を援用したブログ記事作成についても、以前にブログ記事を作成しましたが、端的に、おそらく、毎回、人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成も出来ると思われますが、それは、さきに述べた引用記事の作成期間と同様、記事作成後の何らかの感覚の蓄積が困難になると察せられることから、その適切な用い方については、また自分なりに考えていきたいと考えています。しかし、人工知能(ChatGPT)の一般化による社会への影響は大きいと考えられ、今後数年かけて、その波及効果が社会に顕現してくるものと考えます。しかし、考えてみますと、もしこれが2015年6月以前の当ブログを始める前に社会で一般化していたならば、果たして私はここまで、ある種の執念や情熱をかけてブログ(文章作成)を続けていたのであろうかとも思われます。そして、その視座から、あるいは私は運が良かったのかもしれないとも思うのです。また、2020年代初頭の人工知能の普及が進む以前から、数年以上にわたり、自らで文章を作成してきたことは自分にとっては多少は意味があったように思われます。そして、そうした言語を用いる経験があったからこそ、人工知能(ChatGPT)の出現の驚きを体感として理解出来たのだと思われます。ともあれ、冒頭に戻って、今後2300記事までは、以降の独白文章によるブログ記事作成への移行期間として、拙く、多少短くではあれ、出来るだけ自らによる文章での記事作成を心掛けます。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!


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2024年11月3日日曜日

20241103 有限会社春風社刊 楠木敦著「シュンペーターの経済思想 ヴィジョンと理論の相剋」 pp.57-60より抜粋

有限会社春風社刊 楠木敦著「シュンペーターの経済思想 ヴィジョンと理論の相剋」
pp.57-60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861109604
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861109607

 シュンペーターによれば、「変動機構についてのわれわれの理論は、非連続性を強調している。われわれの理論は、いうなれば、発展(evolution)は継続的な革命によって進行する。またはこの過程中には、その特徴の多くを説明する躍動ないし飛躍がある、という見解を採っている」(ibid.:[Ⅰ]236,訳[Ⅱ]337)という。すなわち、シュンペーターは、不可逆的な時間の下で、非連続的で質的な変化が生み出されるという。このような理由からシュンペーターは、「森の輪郭を、ある目的のためには非連続的と呼ぶことと、他の目的のためには連続的と呼ぶことの間に、何の矛盾もないように、それら〔連続性と非連続性〕の間にはなんらの矛盾もない」(ibid.:[Ⅰ]227,訳[Ⅱ]338)と指摘する。

 さらに、シュンペーターは、このように飛躍に基礎付けられた「「発展」とは、経済が自分自身の中から生み出す経済生活の循環のことであり、外部からの衝撃によって動かされた経済の変化ではなく、「自分自身に委ねられた」経済に起こる変化とのみ理解すべきである(Schumpeter[1911]2006:103)という。すなわち、経済の外部からの衝撃によって惹き起こされた変化ではなく、内生的な変化だけを発展として捉えるというのである。

 シュンペーターは、これらの性質のために、「それ〔創造的反応〕はすべての関連した事実を完全に知った観察者の立場から、事後的に理解できるに過ぎない。事前には、実際上、決して理解できない。すなわち、推論の普通のルールでもって、以前から存在する事実から創造的反応を予測することはできない。…創造的反応は、それがないときに出現したであろうような状況とは断絶した状況を創り出す。これがなぜ創造的反応が歴史的過程のなかで本質的要素なのかということの説明である。いかなる決定論的信条(deterministic credo)もこれに対して抗することはできない」(Schumpeter 1991a:411-412,訳336-337:傍点は引用者)と述べる。創造的破壊は、不可逆的な変化であり、事前に予見することができない、内生的で非連続的な質的変化を本質とするのであり、創造的破壊によって生み出される現象は、常に予測することができず、新しいものとなる。

 次に、前述した性質を有するために創造的破壊と創造的進化とは、数学的・微分的方法では捉えることができない。まずベルクソンは、次のように説明している。

 無機の物体の現在の状態は、それに先立つ瞬間の事情にもっぱら左右される。科学が限定し孤立させたシステム内の質的な位置は、それらの質点が直前に占めた位置から決まる。言葉を換えて言えば、有機化されていない物質を支配する法則は、原理的には、(数学者の解する語義での)時間が独立変数の役目をつとめる微分方程式でもってあわらされる。生命に関する法則もそうであろうか。…生命の領域には何ひとつこれに類するものがない。(Bergson[1907]2001:19-20,訳42:傍点は引用者)

 このように、創造性としての生命を微分方程式によっては、説明することができないと述べる。というのも、ベルクソンによれば、微分方程式とは、量的な変動を取り扱うことができるだけであって、質的な変動を取り扱うことができないからである。同様に、シュンペーターも、このような方法によっては、創造的な変化としての発展を捉えることはできないと述べている。

 時間的に無数の小さな歩みを通じて行われる連続的適応によって、小規模の小売店から大規模な、例えば百貨店が形成されるというような連続的変化は生態的考察の対象となる。しかし、最も広い意味での生産の領域における急激な、あるいは一つの計画にしたがって生まれた根本的な変化についてはそうはいかない。なぜなら、静態的考察方法はその微分的方法に基づく手段によって、このような変化の結果を正確に予測することができないばかりでなく、そのような生産革命の発生やそれにともなって現われる現象を明らかにすることができないからである。(Schumpeter 1926b:94-95,訳[上]173:傍点は引用者)

 このように、経済発展の現象は、不可逆的な連続性の相ー不可逆的な時間ーの下における内生的で質的な変化としての飛躍を本質とするために、微分的方法によっては捉えることができない。創造的進化と創造的破壊とは、微分的方法では捉えられない本質を有するという点でも共通しているということができよう。

 最後に、創造的進化においては、「生物は何はともあれ通過点」(Bergson[1907]2001:129,訳160:傍点は引用者)にすぎない。すなわち、それぞれの生物種が「生命のはずみ」を連繋して役割を果たしているのである。進化の主体と考えられるべきものは、無数の個体を生み出しつつも、それらを超えて進む連続的全体としての生命(創造性)ということになる。ベルクソンは、「生命のはずみ」とは、言い換えれば、創造せんとする要求であると述べている。創造的破壊においても、「そのような人間〔企業者〕たちは、ほかになすべきことを知らないために、創造する(schaffen)」(Schumpeter 〔1911〕2006:138)のであり、企業者というものは、「変動機構の担当者」(Schumpeter 1926b:93fn,訳[上]170fn)にすぎない。そして、このような企業者に、次のような症状が現れたならば、それは企業者機能の死ではなく。それを担う人間の死にすぎないとシュンペーターは述べる。

 典型的な企業者というものは、…獲得したものを享楽して喜ぶために生活しているのではない。もしこのような願望が現われたとすれば、それは従来の活動線上の停滞ではなく衰滅であり、〔自己の使命の〕履行ではなく身体的死滅の徴候である。(idid.:137,訳[上]244)

 こうしたことから、経済発展論における企業者とは、創造的進化における生物種と同じように、いわば「創造性」の乗り物としての機能を果たしていると考えることができるかもしれない。すなわち、企業者も単なる通過点の役割を果たしているということができるのではないだろうか。もし、このように考えることができるとするならば、企業者機能であるところの「創造性」は死すべきものとしての個々人を超えるものであるという結構が、「創造性」としての「生命のはずみ」が死すべきものとしての諸生物種を超えたものであるという結構と同じであり、この点においても、共通しているということが言えるであろう。