2024年11月6日水曜日

20241105 読む書籍が変ると、意識もまた変わることについて(途中から対話形式)

 現在もいくつかの書籍を読み進めていますが、考えてみますと、2022年2月に勃発した第二次宇露戦争以降、購入する書籍をエックス(旧ツイッター)上にて見つけることが多くなりました。それ以前であれば、周囲のご意見から、あるいは、感覚的な立ち読みなどで見つけていましたが、4年前の新型コロナ禍に続く第二次宇露戦争、そして今なお戦闘・緊張状態が続いている中東、アフリカ、中南米の国々といった国際情勢は、大げさでなく、第二次世界大戦終結以降、最も混乱している状況と云えます。そして、そうした状況を出来るだけ精確に知るためには、海外報道機関による情報は、とても有益であり、それらの報道動画を視聴し、そこで述べられていた情報と関連する、我が国のアカデミアやシンクタンクなどの調査研究機関が運営するサイトの動画を視聴して、そこで納得出来る見解を示す研究者が著した著作が紹介されていますと、後日の書店訪問の際には、やはり、立ち読みして購入に至ることも多く、これが、冒頭で述べた「購入する書籍をエックス(旧ツイッター)上にて見つけることが多くなった」背景にある主たる事情と云えます。そして、そうしたことから、自然と読む書籍の分野は国際関係論や近現代史関連が多くなりましたが、先日、不図、気になったた谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡」を読んでみますと、さきの国際関係論や近現代史などの著作で述べられている文章とは異なった深度で文章について考えるようになり、また、おそらく、その深度での考えが、本来の我が国の言葉での「考える」を意味したのではないかとも思われるのです。そして、そこでの語彙からは、どうしたわけか、自然と和歌山や鹿児島での古くからの地名や、当地の郷音での話し言葉のイントネーションが想起されるのです。また、そうしたことを文章としていますと、今年の春に鹿児島へ訪問した際のことが想起されました。それは鹿児島での歯科理工学会が開催された日の晩に、以前、歯系院時代にお世話になった先輩の先生との会話です。そして、その会話を再現したものを以下に示します。

私「**先輩、それじゃあ今日は早めに医院を閉めて天文館までいらしたのですか?」

先輩「いや、早くには閉めれんよ…。閉めてから大急ぎで準備して来たのです。あとは照国の会館にちょっと用事があって、それも済ませてきました。そういえば、**さん(私のこと)は、あそこの歯科技工専門学校に**先生と一緒に歯科理工学の実習を教えに行ってましたね。あ、あそこの歯科衛生専門学校にも求人票を出さないと…。」

私「…開業医の先生ともなると色々と大変ですね…。あと**先生によると先輩の歯科医院は歯科衛生学校の臨床研修先になっているとお聞きしましたが...。」

先輩「そうなんよ、まったくかなわんよ…。でも、歯科衛生学校といっても、さっきの照国の方じゃなくて、もう一つの方の学校の方で、あそこは**さん(私のこと)が院生だった頃、**先生の代わりで1年間、歯科英語の講義したことがあったでしょう。」

私「ええ、そうです。あれは2012年でしたね。しかし、あれから12年も経つと、先輩の医院がそこの臨床研修機関になるのですね…(笑)。でも、私があそこで歯科英語の講義をさせて頂いた時、学生さんは皆、年頃らしく快活で元気でしたから、おそらく、あの子達はその後、良い歯科衛生士になったと思いますよ。」

先輩「うん、少し前までは照国の学校を出た衛生士さんの方が優秀だと云われていたけど、最近は、こっちの学校を出た衛生士さんも優れているってよく聞きますので、まあ両方の学校が共に良くなってくれれば、こちらとすれば云うことなしですよ(笑)。」

私「ああ、そうですね。そういえば、今のお話を聞いていて思い出したのですが、以前、私が歯科英語の講義をしていた頃、桜ケ丘から原付で朝に行っていましたが、講義室に入ると宿題か何かをされている学生さんが多数いて、そのなかで、近くにいた学生が何をやっているのかと、開いたノートを見たところ、そこに短歌らしきものが数首書かれていたため、驚いて「何、君は短歌を作るのですか?」と訊ねたところ、その学生さんは「いえ講義の課題で作りました。」と返答されました。どのような講義であるか分かりませんが、しかし、その学生さんはたしか徳之島か奄美大島かの御出身で、高校の同期が照国の技工専門学校におられました。お二人とものびのびとした立派な体格でしたが、そうした学生さんが短歌を作って、そしてまた歯科英語も、まあ普通に出来ましたね、ただ面白かったのは、私が講義の際によく行っていた、私が教科書の英文を音読して、続いて、その部分を学生さんが繰り返し音読してから和訳を述べて頂く流れのなかで、その課題の短歌を作っていた学生さんに当ててみますと、英文を音読した後に、しばらく間をおいてから、おもむろに音読した漢字を何文字か述べるのです。しかも、その漢字はたしかに、その英文の主な意味を示すものであったことから、少し驚いて「すごいな、英文を漢文に訳す講義であれば、それは正解かもしれないけれど、それを日本語で云うとどんな感じですか?」と問うたところ、それらしい和訳を述べられましたので、まあ、それで良かったのですが、しかし、そうした言葉の用い方について、沖縄や島も含めて、ここ九州の特に南の方では、何だか独特なものがあると思うのです。そして、実際、そうしたことを意見として述べていた谷川健一という熊本出身の民俗学者がいましたが、そのなかで、万葉集などの日本の古代の謡(うたい)の原型は九州南部や沖縄の南島歌謡にあると述べているのです。そして、そうした見解を介して、私が経験したさきの歯科英語の講義でのことを考えてみますと、何だか深いものがあるようにも思えてくるのです…。」

といった意味のことを私が述べると、その先輩は肘を卓上に置き、もう片方の手でロックの芋焼酎が入ったグラスを口元におき、少しづつ飲みながら、真面目な様子で聞かれていた。

 こちらの先輩は、鹿児島の男性らしく、普段は至極陽気な方であるのですが、時折、私がこうした話をする時は、それが当地の気風であるのか、真面目に聞いてくださることが多く、また内容も分かって質問もされるのですが、それは自らの文化や風土などが部外者からどのように見られ、考えられているかを知る良い機会と捉えているのかもしれませんが、そのあたりについては今のところよく分かりません…。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2024年11月5日火曜日

20241104 2285記事の到着および今後の記事作成および人工知能(ChatGPT)について

 今回の記事投稿により、総投稿記事数が2285に到達します。昨年5月の2000記事到達以降からは意識しつつ引用記事を多めに作成してきましたが、次の区切りの良い目標である2300記事に到達することが出来ましたら、しばらく当ブログから離れて、そして今度は徐々に自らによる独白記事を多く作成したいと考えています。これまでしばらくの期間、有意に多く作成してきた引用記事は、どれも興味深いと思われた記述であり、そうして作成した記事が多くの方々に読んで頂けることは作成した私としても「良い記述を紹介できた。そして引用元の著作にも興味を持って頂けると良いな…。」と思い、また、それが新たな引用記事作成の意欲にも繋がるわけですが、しかしやはり、引用記事は、自らによる文章ではないため、ブログ記事作成後にある、ある種の達成感が希薄であり、そしてまた、この作成後の感覚の蓄積もまた自分にとって重要なものであったことを感覚として知ったのが、この1年程度であったと云えます。引用記事の作成を継続していますと、日常での書籍の選び方、読み方も徐々に変化していき、そして読書が自分にとって楽しいものではなくなるような感覚が度々ありました。しかし他方で、この書籍や記述を選ぶ際の感覚は、継続していますと向上したようにも思われました。おそらく、こうした感覚には「詩心」と通底するものがあると思われます。ともあれ、さきのように、読書の楽しみを維持するためにも、自らによる記事作成継続の重要性を知ったわけですが、そこから、来る2300記事到達以降は、また徐々に自らの文章による記事作成へシフトしたいと考えています。また、普段文章を作成していないと、機に応じて適切と思しき考えを想起して述べることも困難になってくると思われますので、次の100記事作成のタームでは、強めに「引用記事作成を(出来るだけ)禁止」したいと考えます。そのため、当初の方ではおそらく、また経験不足により稚拙化した独白形式の記事がしばらく続くと思われますが、こちらも継続していきますと、徐々に調子を取り戻し、自分なりにではあれ、何とかまた読めるものを作成することが出来るようになっていくのではないかと、これまでの経験は語ります。そして、ここで重要であるのは、それを自らで決断して、実行したという記憶であると考えます。そして、そうしたことから、さきに述べた2000記事以降の引用記事を主とした投稿が続いた期間で、それに慣れて慢性化しつつも、また、意識しつつも、そこまで労せずして、自らによる文章作成へと戻ることが出来るのだと考えます。しかしまた、大変興味深いことは、先述の2000記事到達の2023年5月以降、いや、より視野を大きくして2020年代初頭からは、我々人類が一般的に人工知能(ChatGPT)を用いて文章作成をするようになったことであり、実際、当ブログでの数十以上の投稿記事は、人工知能(ChatGPT)を用いて作成したものであり、また人工知能(ChatGPT)を援用したブログ記事作成についても、以前にブログ記事を作成しましたが、端的に、おそらく、毎回、人工知能(ChatGPT)を用いた記事作成も出来ると思われますが、それは、さきに述べた引用記事の作成期間と同様、記事作成後の何らかの感覚の蓄積が困難になると察せられることから、その適切な用い方については、また自分なりに考えていきたいと考えています。しかし、人工知能(ChatGPT)の一般化による社会への影響は大きいと考えられ、今後数年かけて、その波及効果が社会に顕現してくるものと考えます。しかし、考えてみますと、もしこれが2015年6月以前の当ブログを始める前に社会で一般化していたならば、果たして私はここまで、ある種の執念や情熱をかけてブログ(文章作成)を続けていたのであろうかとも思われます。そして、その視座から、あるいは私は運が良かったのかもしれないとも思うのです。また、2020年代初頭の人工知能の普及が進む以前から、数年以上にわたり、自らで文章を作成してきたことは自分にとっては多少は意味があったように思われます。そして、そうした言語を用いる経験があったからこそ、人工知能(ChatGPT)の出現の驚きを体感として理解出来たのだと思われます。ともあれ、冒頭に戻って、今後2300記事までは、以降の独白文章によるブログ記事作成への移行期間として、拙く、多少短くではあれ、出来るだけ自らによる文章での記事作成を心掛けます。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!


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ISBN978-4-263-46420-5

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2024年11月3日日曜日

20241103 有限会社春風社刊 楠木敦著「シュンペーターの経済思想 ヴィジョンと理論の相剋」 pp.57-60より抜粋

有限会社春風社刊 楠木敦著「シュンペーターの経済思想 ヴィジョンと理論の相剋」
pp.57-60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861109604
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861109607

 シュンペーターによれば、「変動機構についてのわれわれの理論は、非連続性を強調している。われわれの理論は、いうなれば、発展(evolution)は継続的な革命によって進行する。またはこの過程中には、その特徴の多くを説明する躍動ないし飛躍がある、という見解を採っている」(ibid.:[Ⅰ]236,訳[Ⅱ]337)という。すなわち、シュンペーターは、不可逆的な時間の下で、非連続的で質的な変化が生み出されるという。このような理由からシュンペーターは、「森の輪郭を、ある目的のためには非連続的と呼ぶことと、他の目的のためには連続的と呼ぶことの間に、何の矛盾もないように、それら〔連続性と非連続性〕の間にはなんらの矛盾もない」(ibid.:[Ⅰ]227,訳[Ⅱ]338)と指摘する。

 さらに、シュンペーターは、このように飛躍に基礎付けられた「「発展」とは、経済が自分自身の中から生み出す経済生活の循環のことであり、外部からの衝撃によって動かされた経済の変化ではなく、「自分自身に委ねられた」経済に起こる変化とのみ理解すべきである(Schumpeter[1911]2006:103)という。すなわち、経済の外部からの衝撃によって惹き起こされた変化ではなく、内生的な変化だけを発展として捉えるというのである。

 シュンペーターは、これらの性質のために、「それ〔創造的反応〕はすべての関連した事実を完全に知った観察者の立場から、事後的に理解できるに過ぎない。事前には、実際上、決して理解できない。すなわち、推論の普通のルールでもって、以前から存在する事実から創造的反応を予測することはできない。…創造的反応は、それがないときに出現したであろうような状況とは断絶した状況を創り出す。これがなぜ創造的反応が歴史的過程のなかで本質的要素なのかということの説明である。いかなる決定論的信条(deterministic credo)もこれに対して抗することはできない」(Schumpeter 1991a:411-412,訳336-337:傍点は引用者)と述べる。創造的破壊は、不可逆的な変化であり、事前に予見することができない、内生的で非連続的な質的変化を本質とするのであり、創造的破壊によって生み出される現象は、常に予測することができず、新しいものとなる。

 次に、前述した性質を有するために創造的破壊と創造的進化とは、数学的・微分的方法では捉えることができない。まずベルクソンは、次のように説明している。

 無機の物体の現在の状態は、それに先立つ瞬間の事情にもっぱら左右される。科学が限定し孤立させたシステム内の質的な位置は、それらの質点が直前に占めた位置から決まる。言葉を換えて言えば、有機化されていない物質を支配する法則は、原理的には、(数学者の解する語義での)時間が独立変数の役目をつとめる微分方程式でもってあわらされる。生命に関する法則もそうであろうか。…生命の領域には何ひとつこれに類するものがない。(Bergson[1907]2001:19-20,訳42:傍点は引用者)

 このように、創造性としての生命を微分方程式によっては、説明することができないと述べる。というのも、ベルクソンによれば、微分方程式とは、量的な変動を取り扱うことができるだけであって、質的な変動を取り扱うことができないからである。同様に、シュンペーターも、このような方法によっては、創造的な変化としての発展を捉えることはできないと述べている。

 時間的に無数の小さな歩みを通じて行われる連続的適応によって、小規模の小売店から大規模な、例えば百貨店が形成されるというような連続的変化は生態的考察の対象となる。しかし、最も広い意味での生産の領域における急激な、あるいは一つの計画にしたがって生まれた根本的な変化についてはそうはいかない。なぜなら、静態的考察方法はその微分的方法に基づく手段によって、このような変化の結果を正確に予測することができないばかりでなく、そのような生産革命の発生やそれにともなって現われる現象を明らかにすることができないからである。(Schumpeter 1926b:94-95,訳[上]173:傍点は引用者)

 このように、経済発展の現象は、不可逆的な連続性の相ー不可逆的な時間ーの下における内生的で質的な変化としての飛躍を本質とするために、微分的方法によっては捉えることができない。創造的進化と創造的破壊とは、微分的方法では捉えられない本質を有するという点でも共通しているということができよう。

 最後に、創造的進化においては、「生物は何はともあれ通過点」(Bergson[1907]2001:129,訳160:傍点は引用者)にすぎない。すなわち、それぞれの生物種が「生命のはずみ」を連繋して役割を果たしているのである。進化の主体と考えられるべきものは、無数の個体を生み出しつつも、それらを超えて進む連続的全体としての生命(創造性)ということになる。ベルクソンは、「生命のはずみ」とは、言い換えれば、創造せんとする要求であると述べている。創造的破壊においても、「そのような人間〔企業者〕たちは、ほかになすべきことを知らないために、創造する(schaffen)」(Schumpeter 〔1911〕2006:138)のであり、企業者というものは、「変動機構の担当者」(Schumpeter 1926b:93fn,訳[上]170fn)にすぎない。そして、このような企業者に、次のような症状が現れたならば、それは企業者機能の死ではなく。それを担う人間の死にすぎないとシュンペーターは述べる。

 典型的な企業者というものは、…獲得したものを享楽して喜ぶために生活しているのではない。もしこのような願望が現われたとすれば、それは従来の活動線上の停滞ではなく衰滅であり、〔自己の使命の〕履行ではなく身体的死滅の徴候である。(idid.:137,訳[上]244)

 こうしたことから、経済発展論における企業者とは、創造的進化における生物種と同じように、いわば「創造性」の乗り物としての機能を果たしていると考えることができるかもしれない。すなわち、企業者も単なる通過点の役割を果たしているということができるのではないだろうか。もし、このように考えることができるとするならば、企業者機能であるところの「創造性」は死すべきものとしての個々人を超えるものであるという結構が、「創造性」としての「生命のはずみ」が死すべきものとしての諸生物種を超えたものであるという結構と同じであり、この点においても、共通しているということが言えるであろう。