2025年10月14日火曜日

20251013 読むことと、書くことについて

 作成するブログ記事の題材がなかなか決まらない時、私は「当ブログそのもの」を題材として作成を始めることがよくあります。文章の作成に煮詰まり、スランプに陥った際、自らの文章作成(つまり当ブログ)を題材とすれば、大抵の場合、ある程度の文量は作成出来ます。これは、当ブログの継続を通じて学んだ、一つの手法であると云えます。そしてまた、ここ最近はこの手法に頼ることが多く、今回もまた、その例にあたると云えます。

 とはいえ、この手法は、おそらくブログを作成されているすべての方々に適用されるわけではないと考えます。それは、「自らのブログ」を記事の題材とするためには、その「自らのブログ」自体に、ある程度の記事数と継続期間が必要であり、それらの履歴を省みて、ブログを作成する自らが意見や見解を述べることが求められるためです。このことには、ブログ開始からしばらく経った頃に気付き、それ以来、そうした形式の記事を少なからず作成してきました。

 そして現在、総投稿記事数は目標とする2400まであと10記事程度、総閲覧者数もあと200人ほどで100万人に到達しようとしています。こうした節目、しかも今回は比較的大きなものであることからか、これまでの節目の時期と同様に、ここ最近は文章を作成したいという気持ちがあまり起こらず、あたかも凪のようであると云えます。とはいえ、それは深刻なものではなく、どちらかと云いますと慢性的な倦怠感であると云えます。そうした状態では、文章作成への意欲は減衰し、作成を始める前に「いや、今日はいいか…。」と、どうしても思ってしまうのです(苦笑)。しかし、そこを押して作成を始めてみますと、思いのほか文章は進み、気が付くと、ある程度の文量にはなっています。これは、おそらくこれまでのブログ記事作成の継続習慣が齎した、一つの余禄であると云えます。

 他方、読書は相変わらず続けており、ここ最近も数冊の本を同時に読み進めています。これまでにも何度か述べましたが、私がブログを続けることが出来たのは、読書を続けているからであると考えています。読み続けていなければ、文章の作成も継続することは出来ません。おそらく文章の作成とは、他の文章を読むことによって触発された、自らの思考の揺れや痕跡を、言語として残そうとする営みであるのだと云えます。

 能動的に文語に触れる経験を持たない人が、自ら文語で文章を書こうと考えることは稀であると考えます。また、私にとって文章の作成とは、読むことの延長線上にあるものであり、文章作成への意欲は読書によってしか支えられません。あるいは異言しますと、読書が私を「文章を作成する人間」にしているのです。そこから、10年間以上当ブログをどうにか継続することができたのは、端的に、当ブログ開始以前からの読書習慣の賜物にほかならないと云えます。

 さらに振り返ってみますと、私が幼少期からそれなりに書籍に親しんできたのは、あるいは当ブログを作成するためであったのかもしれません。そう考えると、これまでの読書という営みのすべてが、現在の自分に収束しているのだとも思われます。読むことが「準備」であり、文章の作成が「活動」であるのだとすると、文章作成という「活動」は決して孤立した作業ではなく、長い時間をかけて蓄積された記憶が、内面で加工・編集され、新たな文章として顕現する過程であるのだと分かります。

 であるからこそ、現在の私は、あまり無理強いして書こうとはしないようにしています。それは、自発的に書きたいと思わない時期があっても、書籍を読んでいれば、いつかまた自然と書きたくなると考えているためです。

 10年間を過ぎた現在も、私にとってこのブログは自分の生活の一部であると云えます。投稿記事数や閲覧者数は、たしかに目に見える大事な成果ではありますが、それ以上に重要なのは、その背後にある、一見無為とも思われる「読むこと」と「考えること」に費やされた時間であると考えます。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

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ISBN978-4-263-46420-5

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連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

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2025年10月12日日曜日

20251011 ブログ記事の作成と遅れて来る理解について

 これまでにも何度か、ブログ記事の題材としたことがありましたが、ある程度の期間、ブログを続けていると、時折、不思議な出来事に出くわします。たとえば、突然、特に理由もなく、ある既投稿記事が多く読まれていたり、あるいは、新たに記事を投稿した直後に、その記事の内容と関連している既投稿記事が読まれていたりすることです。

 こうした出来事は頻繁ではないものの、決して珍しくはありません。実際、直近の投稿記事(20251008)を投稿した直後にも、後者の出来事がありました。投稿したばかりの記事と、数年前に作成した記事とが、呼応するかのように閲覧されていたのです。もちろん、それは偶然の一致であるのかもしれませんが、そうした出来事に接しますと、何らかの他者の意図らしきものが感じられます。

 とはいえ、そうした出来事についていくら考えても、納得できる合理的な説明には至らないでしょう。こうした見方によれば、偶然とも見える閲覧傾向の背後には、閲覧された方々の気まぐれや、少し時間差があり表示される「ブロガー」のアルゴリズムなどがあるのではないかと思われます。むしろ、そうした出来事を深読みしようとすると、そうした考えは妄想的なものとなり、そして記事更新の意欲を減衰させてしまうのではないかと考えます。それ故、そうした出来事は「不思議なこと」として受け止め、あまり深入りしないようにしています。

 しかし他方で、こうした出来事に全く意味がないとも考えていません。新規の投稿記事の内容が、過去のそれと関連するものであると認識することには、書き手(私)の中に何らかの連続性が働いていることを示しているのだと云えます。また、文章を作成するという行為には、過去と現在の意識、無意識の記憶を作成している今現在に結び付けようとする意図があると云えます。そして、そこで認識された記憶のつながりを、あえて意識し過ぎずに受け流す鈍感さこそが、ブログのような文章作成を、ある程度の期間、継続するために不可欠なものであると考えます。

 そして、この鈍感さは、難解な書籍を読む時の感覚にも類似しています。当初はあまり理解出来なくても、読み進めるにしたがい、徐々に全体の構造が見えてくることは、読書において、ごく日常的にあることです。また、ブログでの文章作成においても同様の感覚があり、あまり意味を見出せないまま作成した断片的な文章が、後日、作成するブログ記事の主題、重要な一節になることは、これまた日常的にあります。こうしたいわば「遅れて訪れる理解」のようなものを、あまり意識はせずに、鈍感にただ信じることが、思いのほかに重要であるのだと考えます。

 とはいえ、この鈍感さは生来の性質ではなく、一つの意識された姿勢・スタンスのようなものであると云えます。大抵の場合、行為の意味あいをすぐに確かめたくなるものですが、それを急くことによって書くことも読むことも息苦しくなってきます。そうしたことから私は、スランプであっても、何らかの文章を作成することには、それなりの意味があると考えています。

 これを踏まえて、冒頭で述べた直近記事の投稿直後に関連があると思われる既投稿記事が閲覧されているのを見て、過去のある出来事を思い出しました。そしてまた、その夜、不思議なことに、その出来事を夢を見ました。近年、夢を見ることはなかったため、これは強く印象に残りましたが、そこに深入りしようとは思いません。先述のように、こうしたことに意味を過剰に求めると、心身の疲労を招くと考えるためです。

 むしろ、そうした出来事を「それもまた起こり得ること」として鈍感に受け入れることが、精神衛生上、重要であるのだと考えます。過剰に反応せず、生じた出来事に適度な距離を保ちつつ、それでも文章の作成を続ける。

(重要な)理解とは、時間をかけて得られるものであり、取組み当初から全体を見通すことは出来ません。文章を作成するうちに、そこに自分なりの意味が生じ、また、読み進めるうちに全体の輪郭が見えて来るといった構造があり、それ故、あまり急がずに継続することが、こうしたブログなどでの創造や、学び全般を支える基礎であるのではないかと考えます。

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2025年10月9日木曜日

20251008 中動態的行為としての文章作成

 当ブログを開設してから10年3カ月ほど経過しました。総投稿記事数は当記事を含めて2386であり、目標としている2400まで、あと14記事の更新を要します。また、総閲覧者数もつい先日、99万9千人を越えて、おそらく、年内には100万人に達することが見込まれます。こうした数字には、あまり特別な意味などはないのかもしれませんが、それでも10年間、当ブログを(どうにか)継続してきたことは、私にとっては、それなりの重みがあると云えます。

 とはいえ、昨今は記事の更新が滞りがちであり、いわば、10年という節目を過ぎた後での「燃え尽き」に近い状態にあると云えます。そしてまた、今後、当ブログをどうしたいのかといった考えも、ぼやけているのが現状であると云えます。しかしそれでも、2400記事到達までの残り14記事を出来るだけ速やかに更新するまでは、当ブログから離れるつもりはありません。

 振返ってみますと、当ブログ開始当初は、ブログ記事の題材を何にすれば良いのかも分からず、その時々に思い付いたことを書き綴っていることが多く、また、閲覧者数を気にする余裕もなく、ただ、ブログ記事と云う文章の作成そのもので焦燥感から逃れようとしていました…。それが、しばらく(2年程度でしょうか)継続するなかで、作成する文章は自らの考えを整理して、それを再認識し、そして自分がより大きな世界を認識して、関与するための手段へと徐々に変化していきました。

 こうした文章の作成とは、論文であれブログであれ、根本的に孤独な作業であると云えます。それは、誰かと共に進めるものではなく、自分の考えを掘り下げて、言葉を探り続ける営みです。そしてそこには、明確な締め切りも評価もなく、推進力はただ、自分の意志と興味関心だけです。しかし同時に、孤独のなかで作成された文章は、時に読まれることによって他者とつながることがあります。また、これは私見ではありますが、現在のようなネット社会では、孤独であるほどに、作成された文章は、外界へと浸透し、他者の時間と交差するのではないかと思われます。

 そして、この「孤独でありながら他者と交わる」という一見矛盾した構造とは、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」にも似ているように思われるのです。文章の作成とは、自己内部に沈潜するものであると同時に、他者と世界を共有する行為でもあると云えます。あるいは、内と外、主観と客観、自己と他者、それらが分かれることなく、一つの運動として成立しているのだと思われるのです。そして私は、そうした運動の中に、文章作成の本質があるのではないかと考えます。

 さらに、この西田哲学を異言しますと、それは。中動態的な存在の在り方であると考えます。即ち、能動でも受動でもなく、行為と変化がひとつの場で起こるということです。文章の作成とは、まさにそのような営みであると云えます。私は「文章を作成する者」であると同時に「文章に書かれる対象」でもあるのです。そして文章を通して、自らの考えを具現化しつつ、同時にその文章によって徐々に自分が変化していくのです。文章の作成により、私は自らの考えを整理、再認識して、私自身が新たに生成され、更新されるのです。こうした循環とは、中動態的な行為であると考えます。

 かつて作成したブログ記事を読み返してみますと、恥ずかしく感じられるものも多々ありますが、同時に、それらの中には、現在の私では思い付くことが出来ないであろう、作成当時の頃の考えや切実な疑問などが散見されます。そしてまた、かつて感じた疑問が、形を変えつつ現在に至るまで残っていることに気が付きますと、私は、こうした文章の作成が単なる記録ではなく、いわば思考の連鎖であることを実感します。過去に作成した文章が層となって、そこから、新たな文章が生じてくる、その連なりの中で、私の考えや認識は少しずつ変化し続けていくのだと云えます。

 現代は、インターネットなどによって情報が即座に拡散され、また多くは、速やかに忘れ去られていく時代であると云えます。そうした中で、時間をかけて更新、加上された文章には、さきの速度とは異なる種類の力が宿るのではないかと考えます。それは即効性はなくとも、徐々に浸透するような力であると考えます。10年間と云う期間を経て分かったことは、継続とは、執念や忍耐よりもむしろ、呼吸のような自然な営みであると云うことです。あまり無理はせずに、しかし止めないこと。文章の作成が日常生活に溶け込み、呼吸のように続いていくとき、ようやく「文章作成の理由」を探さず、考えないようになります。

 また、書くという行為は、他者への発信であると同時に、自らを保つための行為でもあります。日々の出来事に言葉を与えることで、思考は形を得て、感情は静まり、心の均衡が保たれます。孤独のうちに書きながらも、その言葉の向こうには誰かがいて、私はその見えない誰かとともに思考している。書くとは、自己の内に他者を含み、他者のうちに自己を見いだす中動的な運動にほかなりません。

 これから先、2400記事に到達出来ましたら、当ブログがどのようになるのかは分かりません。あるいは、頻繁な更新は困難になるかもしれませんが、他方で、止める理由も見当たりません。また、新たに特別な目標を掲げなくとも、文章の作成自体が私にとって生活の一部であり、思考の具現化でもあります。現在のような変化が速い時代にあって、自らの速度で考え、そして出来るだけ自らの言葉で文章を作成することは、今後将来、何らかの意味や価値を意味を持つようになるのではないかと考えます。

 10年という期間は、短くもあり、長くもあったと云えます。そして、その間に積み重ねたそれぞれのブログ記事には、作成当時の私の考えや思いが書かれています。振り返れば、それらは私にとって生の軌跡であり、また、私なりの思考の呼吸そのものです。もしも、当ブログに価値があるとすれば、それは10年間の中で絶えることなく継続した「思考の呼吸」、すなわち中動態的な行為のなかにあるのではないかと思われます。

 つまり、私は文章の作成を通じて、ようやく自分の時間を生きていると感じられます。文章の作成は孤独でありつつも、同時に他者と交わる一つの方法です。そして、その両義性の中にこそ、文章作成の本質があり、また、矛盾を抱えたまま世界と調和するための、ひとつの行為であると考えます。

 そして、これから先、たとえ2400記事まで到達しても、しばらくの休止期間を置きますが、おそらくは同じようにブログ記事の作成を継続するのではないかと思われます。それは、目標や成果を掲げるためではなく、自らの考えと現実世界のあいだにある揺らぎを、言語として捉え直すために。書くことは終わりのない営みであり、誰かと心を通わせ、またひとりに戻っていく――そんな呼吸のようなものです。ブログ開始から10年を経た現在もなお、文章は私の内から生まれて、外界へと広がり、やがて再び私の中に還ってきます。その循環のなかで、これからも、少しずつではあれ、変化していきたいと思います。

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2025年10月5日日曜日

20251004 ブログの継続による効果について

 当ブログを始めてから10年と数か月が経ちました。この節目にあたり、これまでを振り返ってみますと、ブログとして文章を作成し続けてこられたのは、単に「文章を書くことが好きであるから」という理由だけではなかったように思われます。

 側聞するところによりますと、10年間継続するブログは稀少であり、大半は開始から2年ほどで更新が止まると云われています。また、仮に数年続いたとしても、次第に更新の間隔が長くなり、やがて、更新が途絶えてしまうとのことです。その理由は様々でしょうが、生活環境の変化により時間が取れなくなったり、あるいは、閲覧数の伸び悩みから意欲を失ったりといった事情があるのだと思われます。

 私自身、そうした事情により、当ブログをやめようと思ったことは度々あります。とはいえ、以前と比べ、更新の間隔は長くなったものの、今日に至るまで、当ブログはどうにか継続しています。そして、その理由を考えますと、一つには、文章を作成すること自体が、歯磨きや入浴のように自分の生活の一部となっているからであると思われます。日々の生活で思ったことや、読んだ書籍から得た考えなどを、自らの言葉で文章化するという行為が、次第に日常の中に組み込まれ、開始後2年ほど経った頃には、毎日のブログ記事の作成が「書くかどうか」ではなく、「何について書こうか」へと変化していました。そこから、その時点でブログの作成は身体化されて、生活の一部になっていたのだと思われます。

 第二に、読んでくださる方々の存在があります。当ブログは一日で一万人のアクセスがあるわけではありませんが、それでも読み続けてくださっている方々の存在を意識することで、作成する意欲が湧いてきます。それは数値的な評価とは異なり、「自分の作成した文章が誰かに読まれている」といった感覚であり、それがあることで、時には面倒にも感じられるブログ記事の作成を継続することが出来たのだと思われます。

 そして第三に、これまでの研究や実験の経験から「蓄積の価値」を信じていることです。継続的に積み重ねることにより、やがて自他にとって、何らかの意味を持つ記録になるのではないかと考えてきました。これは効率的なやり方ではないのかもしれませんが、時間をかけて継続してきたものの中に深みや意味が生じるのではないかと考えます。

 しかしその一方で、近年はChatGPTを援用しての文章作成も行っています。当初はなかなか慣れず、生成された文章に違和感を覚えていましたが、これも継続的な使用により、少しずつ慣れてきたように思われます。それでも、生成文章をそのままコピペして用いることはありません。そこに適宜加筆を行い文章の調整を行います。そして、このChatGPTによる生成文章を自分の文章にしていく過程が、思いのほかに手間と時間を要するのです。

 ChatGPTによる生成文章をそのままコピペして用いれば、たしかに文章作成の効率は著しく上がります。しかし、書き手自らの感覚による文体にするため、あるいは、魂の入った文章にするためには、やはり書き手による大幅な加筆修正や調整が欠かせません。むしろ、この面倒とも云える過程にこそ、ChatGPTを援用した文章作成における要諦があり、また、やりがいがあるのではないかと考えます。そうしたことから、ChatGPTを援用した文章作成とは、必ずしも効率性に基づいた省力化ではなく、むしろ、ある種の新たな文章作成法であり、生成文章への推敲や加筆修正を行うことにより、自らの考えや感覚をより明晰化して表現することが出来るのではないかと考えます。 

 とはいえ、ChatGPTも含めて「慣れ」というのは便利である一方、そこにある種の惰性が生じて、能動性が減衰してしまうこともあると思われます。ここ最近、当ブログの更新頻度が低下したことの背景には、この「慣れ」に起因する部分も少なからずあるように思われます。そのため、時には、こうしたChatGPTの援用を出来るだけ排した文章作成も、当ブログの継続のためには必要であると思われるのです。

 本日も、気付くと、すでに深夜となっておりますが、PC机に向かいキーボードを打ち始めますと、意外にも文章は滑らかに出てきました。おそらく、文章作成という行為もまた、少なからず慣れの要素があり、ある程度継続していますと、多少のブランクがあっても、比較的速やかに復調することが出来るようです。

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2025年9月30日火曜日

20250929 我が国での包摂的制度の一つの具体像について

 1939(昭和14)年、米国の科学者・教育家であったアブラハム・フレクスナーは「役に立たない知識の有用性」(The Usefulness of Useless Knowledge)という論考を発表しました。同年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発し、全体主義の国々では、学問や文化、科学技術に対しての支配を強化していた時代に、彼はあえて「役に立たないもの」にこそ価値があると主張しました。それは単なる逆説的な挑発ではなく、人類の文明の存続を左右する普遍的な問題提起であったと考えます。

 この論考でフレクスナーが強調したことは、科学技術や芸術などでの創造は「役に立とう」という意図からではなく、純粋な好奇心から生まれるという事実です。19世紀に電磁波の存在を理論化したマクスウェルも、それを実証したヘルツも、そこからラジオや無線通信が生まれることを予想してはいませんでした。ファラデーの電磁気の研究もまた、社会的な応用を意図したものではありません。しかし、こうした一見「無駄」に見える営みこそが、後に人類の生活を一変させる発明や発見を生んできたのです。

 この視点を我が国の近代化と重ねてみますと、夏目漱石の「現代日本の開化」が想起されます。漱石は、明治日本の文明開化が外発的・皮相的なものであり、精神の成熟を欠いていると指摘しました。とはいえ、欧米列強に追いつくため急速に制度や技術を導入する必要があったことは事実です。しかし、その過程で「一見役に立たないもの」への寛容さが失われてしまいました。そして、漱石によるこの指摘は、明治期にとどまらず、現在に至るまで続き、近年の「コスパ・タイパ重視志向」とも連続していると云えます。

 加藤周一もまたその著作『日本人とは何か』において、同様の問題を指摘しています。明治政府は富国強兵を至上の目標に定め、官立大学を設けて、役人や技術者の効率的な養成を試みました。こうして知識人全般は、国家目的のために徹底して動員されて、文学や芸術や思想といった「役に立たなそうな領域」には目を向ける余裕を持ち得ませんでした。加藤はその象徴として、世界最大の戦艦(大和)を建造しながら、国民のための乗用車を量産できなかった我が国の工業環境を挙げています。そして、そこから「コスパ重視」志向によって知の多様性が省みられていなかった様子が理解出来ます。

 さらに加藤は、我が国の知識人の多くが自国文化への関心を失い、輸入文化の愛好に偏ってしまった結果、文化全般の歴史的厚みが乏しくなったと指摘しました。当然ながら、輸入した文化とは、我が国の土着文化との親和性が低く、そこからは、厚みのある文化芸術を育てることは困難であり、そのため、明治の文明開化から太平洋戦争の敗戦に至るまでと、戦後から今日に至るまで続いている思想・文学・芸術的な貧困があると加藤は指摘します。そしてこれは、漱石が「現代日本の開化」で批判した「外発的開化」とも通底するものがあると云えます。

 2024年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者ダロン・アセモグルは、政治学者ジェイムズ・ロビンソンと共著した『国家はなぜ衰退するのか』(Why Nations Fail, 2012)において、国家の命運を分けるのは制度の性質であると述べました。つまり、自由で多様な参加を保障する「包摂的制度」を持つ社会は長期的に繁栄しますが、「コスパ重視志向」のもとで利益や成果が一部に集中して、創造性を抑圧する「収奪的制度」に傾いた社会は、必ず衰退するということです。そこから、冒頭のフレクスナーが主張した「役に立たない知識の有用性」は、まさに包摂的制度における文化・学術的なものの価値とも通底するものがあると云えます。

 現代の我が国においては「コスパ重視志向」は、教育や研究の評価などにも浸透して、短期間で成果が見えるものが優先される一方で、基礎研究や人文学のような「すぐには役立たない営み」が軽視されがちです。その結果、長期的な発展可能性が閉ざされ、「失われた30年」と呼ばれる停滞の中で「衰退のスパイラル」に陥っているのではないかと考えます。

 しかしながら、我が国の文化にはまた別の側面もあります。それは、俳句や茶道のように、一見「無駄」に見えるものを尊ぶ伝統です。これらの文化は、実用性を欠いているように見えながら、人々の感性や生活の質を豊かなものにし続けてきました。そして、そのことは、フレクスナーが説いた「役に立たない知識の有用性」とも共通するものがあると考えます。そのため、もしも、こうした我が国古来からの伝統を再評価して、学問研究や制度設計などにも組み込むことが出来れば、我が国独自の取組みとして、包摂的な学問研究を含む文化全般をより創造的なものにすることが出来るのではないかと考えます。

 そこで、現代の我が国社会での課題に目を転じてみますと、具体的な施策としては、第一に基礎研究への長期的投資が不可欠であると考えます。医療や工学をはじめとする自然科学系・理系分野においても、すぐには成果が出ない探究を支えることが将来の大きな革新を生むと考えます。第二に、我が国が直面している超高齢化社会の現実を鑑みますと、医療介護系の専門職大学の新設も急務であると考えます。そこでは単なる職業訓練だけではなく、人文学や基礎科学への能動的な好奇心も重視して、現場での実践と学術研究を往還できるような人材を育成出来るような制度を整備することが重要です。さらに、これは基礎研究を含む「科学に従事する人」を育成するという意味においても有意義であると考えます。また、今後、我が国が直面する医療介護分野での課題と、それらへの対応とは、将来、同様の課題に直面する国々にとっても価値を持つことになると考えます。そして、そこに向けた各種基盤の整備や制度設計こそが、我が国において「包摂的制度」を具体化するものであり、そして長期的な繁栄への礎になるのではないかと考えますが、さて、如何でしょうか?

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2025年9月24日水曜日

20250923 三島由紀夫と小野田寛郎から見る忠誠について および地域性について

 三島由紀夫と小野田寛郎。彼ら二人の人生から、戦後日本人にとっての「忠誠」という概念について考えさせられます。両名はいずれも国家、そして天皇に対して深い敬意と忠誠心を抱きながら、その表現の仕方は著しく異なっていました。三島由紀夫は戦後社会において天皇への忠誠心が失われていくことを憂い、自らの思想に殉じて劇的な死を遂げました。それに対して小野田寛郎は、敗戦後も遠くフィリピンのルバング島で30年近く残置諜者として任務を続け、生き抜くことによって忠誠を示しました。

 三島(平岡公威)は1925(大正14)年、東京の高級官吏の家庭に生まれました。旧制学習院で学び、高等科卒業の際には主席として昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受しています。その後、東京帝国大学法学部に進学し、敗戦を挟んで1947(昭和22)年に東京大学を卒業しました。卒業後、一時期、大蔵省に勤務しましたが、文学への情熱を抑えきれず作家へと転じました。『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』などで文壇に登場し、文学的評価と経済的成功を両立させましたが、その特異性は作品以上に、むしろ、さまざまな行為を通じて示されたと云えます。肉体改造、居合や格闘技の稽古、自衛隊への体験入隊、さらに民間防衛組織「楯の会」の設立など、彼は自己の思想と美学を身体を用いて表現しようとしました。

 1970(昭和45)年11月25日、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起し、自衛隊員に呼びかけを行いましたが、支持は得られず、割腹自決に至りました。この行為は単なる自決ではなく、美学と政治思想を身体を通じて表現する試みでした。明治天皇崩御の際に乃木希典夫妻が遂げた静かな殉死とは異なり、三島は事前に報道機関へ告知し、多くの視線を集めました。忠誠とは内面的な信念に留まらず、社会全体に突きつけるべき抗議であるという考えが、彼をある種の「演出された殉教」へと導いたのだと考えます。そして、その死は当時の我が国社会に大きな衝撃を与えました。

 一方、小野田寛郎は1922(大正11)年、和歌山県海草郡(現海南市)に生まれました。旧制海南中学校を卒業後、会社勤務を経て徴兵され、陸軍予備士官学校を経て、陸軍中野学校で遊撃戦を学び、フィリピンのルバング島に派遣されました。そして敗戦後も降伏を信じず、仲間の死や飢餓、病に耐えながら三十年近く潜伏を続けました。やがて、1974(昭和49)年、元上官からの正式な任務解除を受けて、ようやく投降しました。その忠誠には演出性はなく、ただ「命令だから」という一点に支えられていたと云えます。いわば、栄誉や喝采を伴わない、寡黙で持続的な行為でした。

 帰国後、小野田は昭和天皇との謁見を辞退し、「陛下に謝られるのが嫌だった」と語りました。ここには、自らの忠誠を他者の評価に委ねない、反骨精神に近い強い自律性 が表れています。とはいえ、戦後の我が国社会は、彼にとって居心地の良い場所ではなく、やがてブラジルに渡り、開拓、牧場経営に従事しました。また、晩年には再来日し、青少年育成に尽力しましたが、その歩みもまた、派手さはない「忠誠のその後」であったと云えます。帰国時、我が国の社会は彼を英雄視しつつも、同時に約30年という隔絶に戸惑いを抱きました。小野田にとっての忠誠とは、土俗的なものであり、そして長い年月を生き抜いて示されたものでした。

 両者を比較しますと、「思想に殉じた三島」と「命令に殉じた小野田」という構図が看取され得ます。三島は都市的で衆目を集めると云う意味で演劇的な手法を用いて命を賭して忠誠を示し、他方の小野田は、長期にわたる潜伏生活を通じてその忠誠を示しました。そして、その姿には、我が国の古い記録とも通底するものがあります。

 『続日本紀』神護景雲三年(769)の条に、陸奥国牡鹿郡の俘囚、大伴部押人による願い出が記されています。押人は「祖先は紀伊国名草郡片岡里の出であり、かつて蝦夷討伐に従った大伴部直が陸奥に至って住み着いた。しかし子孫は蝦夷に捕らえられ、代々俘囚の身となった」と述べました。やがて朝廷の威徳により当地の平定が進み、良民となったため「俘囚の名を解き、調庸民として扱ってほしい」と願い出て、許可されています。そこには「異郷に長く留め置かれ、やがて帰還を果たす」という数世代にわたる経験が記述されています。

 紀州を出自とする者が、異郷にて俘囚として生き、世代を経て帰還したと云うこの記録は、ルバング島に30年近く留め置かれた末に帰国を果たした小野田の姿とも重なります。さらに、いずれも紀州北部を出自として、異郷にて不自由を強いられ帰還に至ったという点で共通します。

 さらに、注目すべきは、紀州に残る名草戸畔の伝承です。『日本書紀』によれば、神武東征の際、当地の女酋長・名草戸畔は神武軍に抗して討たれ、遺体は三つに分けて祀られました。その首を祀るのが海南市の宇賀部神社、通称「おこべさん」であり、小野田家の本家は代々この神社の神職を務めてきました。小野田自身、自らの「負けじ魂」の源流を名草戸畔に見ており、紀州人の反骨精神を受け継いでいると語っています。彼の密林での潜伏やブラジルでの開拓は、この精神の発露でもあったのだと云えます。

 このように見ますと、忠誠とは思想であるのか、行為であるのか、あるいは生か死か、といった問いが浮かびます。三島と小野田は、この問いに対してそれぞれ異なる答えを示したと云えます。そして両者の忠誠の対比に加え、さきの歴史記録を通して浮かび上がるのは、時代を超えて受け継がれる当地の「反骨精神」です。ともあれ、こうしたことから、忠誠の様相は一様なものではなく、その多様な姿は、よくよく見ますと、我々日本人の歴史的経験に、それなりに深く刻まれているのではないかと思われましたが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?

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2025年9月19日金曜日

20250918 大気の薫りと混然一体とした記憶の想起について  ー和歌山への訪問から自然と歴史についてー

 先週末から今週の月曜日にかけて、久しぶりに和歌山を訪問する機会を得ました。今回の滞在は和歌山市内に限られ、市外や南紀方面へ足を延ばすことはありませんでしたが、街なかの空気を吸うと、周囲の山々や海から流れ込む独特の大気の薫りが、かつて南紀や和歌山市内で暮らしていた頃の記憶や感覚を呼び起こしてくれます。そして、この感覚は、気力や忘れかけていた興味なども蘇らせて、心身を元気にしてくれるように思われます。また、対照的に、現在在住している首都圏では、こうした自然豊かな大気を感じられるような環境や機会は乏しく、さまざまな利便性の反面で、自然との距離が遠いように感じられます。

 これまでにも当ブログにて折に触れ何度か述べてきましたが、私がはじめて和歌山の自然環境に接し畏怖を覚えたのは、2001年に北海道から南紀白浜へ転勤した際でした。南紀白浜の関西圏有数の温泉地としての賑わいの背後には、黒潮からの波が打ち寄せる荒々しさと、紀伊山地(熊野)の南方的な鬱蒼とした照葉樹の森が広がっています。そして、その景観は、それまで、鼻で息を吸うと頭が痛くなるような寒い北の大地にいた私にとっては強烈なものであり、全てを包み込んでしまうような、その自然環境の前では、ただ立ち尽くすばかりでした。

 南紀白浜、その北隣の紀伊田辺市、さらに双方の内陸に位置する上富田町は、紀伊山地南西端の沿海部の中核地域であり、古い時代に「牟婁(むろ)」と呼ばれていたのは、この地域であったと推測されます。転勤後、この地名(西牟婁郡)をさまざまな書類や葉書や手紙に書くたびに、それまであまり縁がなく、また関心もなかった、その古風な地名の響きから、何と云いますか、本物の土俗的な歴史の厚みと、時間の隔たりに、ある種の違和感と驚きを感じていました。

 やがて、休日を利用して自転車や自動車で周辺地域を巡るようになりますと、古めかしい地名は「牟婁」にとどまらず、地域に多数あることに気が付きました。また、「牟婁」からさらに内陸に入りますと、熊野信仰の中心地域になります。そして、この「熊野」も「くまの」以外に「いや」と呼ぶ地名があったり、あるいは地名ではありませんが、能楽の曲「熊野(ゆや)」のように、文字と読みの対応関係が異なることを知り驚かされました。こうした経験は、我が国の古い言語と方言との関係や、口語と文語の歴史的な変遷、さらには地域性などについて考えさせる一つの契機になったと云えます。

 さらに、興味深いのは地名だけではありません。地域各地の遺跡や出土物なども、土俗的な歴史の厚みを物語るものと云えます。これまでに当ブログにて何度も題材としている弥生時代の青銅製祭器である銅鐸は、この「牟婁」地域、すなわち田辺・白浜・上富田からも複数出土しています。また、古墳時代に造営された古墳も、当地域に多数存在しており、その造営様式は紀北、すなわち紀ノ川下流域(和歌山市周辺)の古墳とは明らかに異なっています。それら地域の複数古墳は、むしろ、紀伊水道を隔てた対岸、徳島県(阿波)の古墳との類似性が指摘されており、このことは、古代での文化の伝播経路や交易ルートなどを検討するうえで重要な手掛かりであると云えます。

 ともあれ、そうしたことから南紀白浜や和歌山市での在住の頃を振り返ってみますと、自然と歴史が渾然一体となって息づいていたことを改めて実感させられます。内陸部ダム湖での釣行への運転時、周囲を見渡しますと、古くからあまり変わっていないであろうと思しき南方的な横溢とした自然の景観のなかに銅鐸出土地があったり、南紀白浜の白良浜北側に鎮座する熊野三所神社境内にある半ば自然と一体化したような火雨塚古墳を見ていますと、千年以上前からの時の流れや、人々の営みについて否応なく考えさせられます。そして、負け惜しみのように聞こえるかもしれませんが、こうした経験は、少なくとも私にとっては首都圏での生活では得がたいものであったと云えます。あるいは、元来、歴史などに興味を持つ性質であった私にとっては、前述のような自然と歴史が混然一体となった環境によって、歴史への興味が、より具体的なもの、あるいは、地に足のついたものへと深化したのではないかと思われるのです。

 そして、今回の短い滞在においても、こうした感覚がまた少し甦ったように感じられました。地域での大気の薫りが契機となり、自らの、そしてまた、太古から現代に至るまでの地域の歴史の営みに、また思いを馳せることが出来たように思われます。自然と人間、そして地域の記憶とも云える時間の重層性は、少なくとも私にとっては、和歌山と云う地域において特に顕著に感じられると云えます。また、現在、首都圏に在住する私にとって、この再認識・確認は、単なる懐古に留まらず、同時に、現在よりさきについて考えるための契機にもなったように思われます。

そういえば、吉田松陰による「西遊日記」に以下のような記述があります。

原文
『心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触に従ひて発し、感に遇ひて動く。発動の機は周遊の益なり。』

現代語訳
『心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる。』

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。


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