2025年10月14日火曜日

20251013 読むことと、書くことについて

 作成するブログ記事の題材がなかなか決まらない時、私は「当ブログそのもの」を題材として作成を始めることがよくあります。文章の作成に煮詰まり、スランプに陥った際、自らの文章作成(つまり当ブログ)を題材とすれば、大抵の場合、ある程度の文量は作成出来ます。これは、当ブログの継続を通じて学んだ、一つの手法であると云えます。そしてまた、ここ最近はこの手法に頼ることが多く、今回もまた、その例にあたると云えます。

 とはいえ、この手法は、おそらくブログを作成されているすべての方々に適用されるわけではないと考えます。それは、「自らのブログ」を記事の題材とするためには、その「自らのブログ」自体に、ある程度の記事数と継続期間が必要であり、それらの履歴を省みて、ブログを作成する自らが意見や見解を述べることが求められるためです。このことには、ブログ開始からしばらく経った頃に気付き、それ以来、そうした形式の記事を少なからず作成してきました。

 そして現在、総投稿記事数は目標とする2400まであと10記事程度、総閲覧者数もあと200人ほどで100万人に到達しようとしています。こうした節目、しかも今回は比較的大きなものであることからか、これまでの節目の時期と同様に、ここ最近は文章を作成したいという気持ちがあまり起こらず、あたかも凪のようであると云えます。とはいえ、それは深刻なものではなく、どちらかと云いますと慢性的な倦怠感であると云えます。そうした状態では、文章作成への意欲は減衰し、作成を始める前に「いや、今日はいいか…。」と、どうしても思ってしまうのです(苦笑)。しかし、そこを押して作成を始めてみますと、思いのほか文章は進み、気が付くと、ある程度の文量にはなっています。これは、おそらくこれまでのブログ記事作成の継続習慣が齎した、一つの余禄であると云えます。

 他方、読書は相変わらず続けており、ここ最近も数冊の本を同時に読み進めています。これまでにも何度か述べましたが、私がブログを続けることが出来たのは、読書を続けているからであると考えています。読み続けていなければ、文章の作成も継続することは出来ません。おそらく文章の作成とは、他の文章を読むことによって触発された、自らの思考の揺れや痕跡を、言語として残そうとする営みであるのだと云えます。

 能動的に文語に触れる経験を持たない人が、自ら文語で文章を書こうと考えることは稀であると考えます。また、私にとって文章の作成とは、読むことの延長線上にあるものであり、文章作成への意欲は読書によってしか支えられません。あるいは異言しますと、読書が私を「文章を作成する人間」にしているのです。そこから、10年間以上当ブログをどうにか継続することができたのは、端的に、当ブログ開始以前からの読書習慣の賜物にほかならないと云えます。

 さらに振り返ってみますと、私が幼少期からそれなりに書籍に親しんできたのは、あるいは当ブログを作成するためであったのかもしれません。そう考えると、これまでの読書という営みのすべてが、現在の自分に収束しているのだとも思われます。読むことが「準備」であり、文章の作成が「活動」であるのだとすると、文章作成という「活動」は決して孤立した作業ではなく、長い時間をかけて蓄積された記憶が、内面で加工・編集され、新たな文章として顕現する過程であるのだと分かります。

 であるからこそ、現在の私は、あまり無理強いして書こうとはしないようにしています。それは、自発的に書きたいと思わない時期があっても、書籍を読んでいれば、いつかまた自然と書きたくなると考えているためです。

 10年間を過ぎた現在も、私にとってこのブログは自分の生活の一部であると云えます。投稿記事数や閲覧者数は、たしかに目に見える大事な成果ではありますが、それ以上に重要なのは、その背後にある、一見無為とも思われる「読むこと」と「考えること」に費やされた時間であると考えます。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。
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ISBN978-4-263-46420-5

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