岩橋千塚古墳群の造営は、4世紀末(古墳時代前期)に花山地区にて始まり、花山8号墳が、その初期古墳の典型とされる。5世紀前半に入ると花山10号墳・44号墳などが造営されて、首長墓としての性格を強めた。やがて5世紀中葉には、紀ノ川北岸に木ノ本古墳群や大谷古墳などの大型古墳が造営され、南岸の岩橋千塚での造営はいったん停滞する。しかし6世紀前半になると再び活発化し、花山6号墳・大谷山22号墳・大日山35号墳・井辺八幡山古墳など、全長50メートルを超える前方後円墳が相次いで造営された。この時期、埋葬施設は竪穴式石室から横穴式石室へと移行し、当地に特有の「岩橋型横穴式石室」が発達する。玄室に石梁や石棚を備えるのが特徴で、6世紀中頃の天王塚古墳では高さ5.9メートルに達する壮大な石室が造営された。被葬者は紀氏に連なる支配層とみられ、複数世代にわたって墓域が継承されたことも確認されている。6世紀後半になると墳丘形態は前方後円墳から円墳、さらに7世紀初頭には方墳へと変化し、井辺1号墳がその典型である。立地も丘陵の高所から裾部へと移り、7世紀中頃には新たな造営が途絶えた。
岩橋千塚以外でも、紀ノ川下流域の和歌山市周辺には多くの古墳が分布する。北岸に約120基、南岸には海南市との境を含め約200基が確認されている。古墳時代前期には、平野部の集落遺跡に隣接して古墳が造営され、秋月1号墳や井辺遺跡、川辺遺跡などでは周溝を伴う前方後円墳が確認されている。4世紀末から5世紀初頭にかけて、六十谷2号墳、晒山1号墳、花山8号墳、井辺前山24号墳など丘陵端部に古墳群が造営された。埋葬施設は粘土槨や竪穴式石槨、箱式石棺など多様である。
古墳時代中期(5世紀後半以降)には、沿岸部に近い低地に大型の首長墓が造営され、木ノ本古墳群(釜山古墳群)や、馬冑の出土で知られる晒山大谷古墳がその代表的存在と云える。同時期、大阪府岬町の淡輪古墳群も形成され、紀北から泉南一帯にかけて首長層の墓制が確立した。後期に入ると沿岸部での造営は減少し、丘陵部では群集墳の造営が活発化する。紀ノ川北岸では晒山古墳群東方に雨が谷古墳群・鳴滝古墳群が、さらに東方の山地には直川八幡山古墳群・八王子山古墳群が分布し、園部丸山古墳や奥出古墳では畿内系の横穴式石室が確認されている。南岸では岩橋千塚を中心に岩橋型横穴式石室をもつ群集墳が広く分布し、さらに東方約5キロメートルには穹窿(アーチ)状天井を備える寺山古墳群が存在する。これらは岩橋型石室の末期的展開と考えられ、7世紀に入ると古墳造営はほぼ終息し、代わって仏教寺院の建立が進む飛鳥・奈良時代へと移行した。
さらに視野を紀北全域に広げると、岩出市・紀の川市の紀ノ川流域や貴志川流域、橋本市・九度山町の中流域にも多くの古墳が分布する。5世紀には紀の川市の丸山古墳・鑵子塚古墳・三昧塚古墳、橋本市の陵山古墳など直径40メートルを超す大型円墳が造営された。丸山古墳は箱式石棺を用い、陵山古墳は近畿でも早期の横穴式石室を採用している。海南市山崎山5号墳(長さ約45メートルの前方後円墳)では割竹形木棺が使用され、いずれも地域首長の墓と考えられる。6世紀に入ると横穴式石室が一般化し、岩橋千塚を中心に大小の古墳が集中して造営された。やがて古墳群は群集墳的性格を強め、7世紀中頃には造営が終息する。以降、紀北地域では6世紀に伝来した仏教の寺院建立が進むようになる。
このように紀北地域の古墳は、立地において丘陵から平地へ、形態において前方後円墳から円墳・方墳へと移行しながら、約3世紀におよぶ社会構造の変遷を映し出している。岩橋千塚古墳群は、その中心として、紀州和歌山の古代社会の姿を今日に伝える貴重な歴史的遺産であると云える。
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