こうした出来事は頻繁ではないものの、決して珍しくはありません。実際、直近の投稿記事(20251008)を投稿した直後にも、後者の出来事がありました。投稿したばかりの記事と、数年前に作成した記事とが、呼応するかのように閲覧されていたのです。もちろん、それは偶然の一致であるのかもしれませんが、そうした出来事に接しますと、何らかの他者の意図らしきものが感じられます。
とはいえ、そうした出来事についていくら考えても、納得できる合理的な説明には至らないでしょう。こうした見方によれば、偶然とも見える閲覧傾向の背後には、閲覧された方々の気まぐれや、少し時間差があり表示される「ブロガー」のアルゴリズムなどがあるのではないかと思われます。むしろ、そうした出来事を深読みしようとすると、そうした考えは妄想的なものとなり、そして記事更新の意欲を減衰させてしまうのではないかと考えます。それ故、そうした出来事は「不思議なこと」として受け止め、あまり深入りしないようにしています。
しかし他方で、こうした出来事に全く意味がないとも考えていません。新規の投稿記事の内容が、過去のそれと関連するものであると認識することには、書き手(私)の中に何らかの連続性が働いていることを示しているのだと云えます。また、文章を作成するという行為には、過去と現在の意識、無意識の記憶を作成している今現在に結び付けようとする意図があると云えます。そして、そこで認識された記憶のつながりを、あえて意識し過ぎずに受け流す鈍感さこそが、ブログのような文章作成を、ある程度の期間、継続するために不可欠なものであると考えます。
そして、この鈍感さは、難解な書籍を読む時の感覚にも類似しています。当初はあまり理解出来なくても、読み進めるにしたがい、徐々に全体の構造が見えてくることは、読書において、ごく日常的にあることです。また、ブログでの文章作成においても同様の感覚があり、あまり意味を見出せないまま作成した断片的な文章が、後日、作成するブログ記事の主題、重要な一節になることは、これまた日常的にあります。こうしたいわば「遅れて訪れる理解」のようなものを、あまり意識はせずに、鈍感にただ信じることが、思いのほかに重要であるのだと考えます。
とはいえ、この鈍感さは生来の性質ではなく、一つの意識された姿勢・スタンスのようなものであると云えます。大抵の場合、行為の意味あいをすぐに確かめたくなるものですが、それを急くことによって書くことも読むことも息苦しくなってきます。そうしたことから私は、スランプであっても、何らかの文章を作成することには、それなりの意味があると考えています。
これを踏まえて、冒頭で述べた直近記事の投稿直後に関連があると思われる既投稿記事が閲覧されているのを見て、過去のある出来事を思い出しました。そしてまた、その夜、不思議なことに、その出来事を夢を見ました。近年、夢を見ることはなかったため、これは強く印象に残りましたが、そこに深入りしようとは思いません。先述のように、こうしたことに意味を過剰に求めると、心身の疲労を招くと考えるためです。
むしろ、そうした出来事を「それもまた起こり得ること」として鈍感に受け入れることが、精神衛生上、重要であるのだと考えます。過剰に反応せず、生じた出来事に適度な距離を保ちつつ、それでも文章の作成を続ける。
(重要な)理解とは、時間をかけて得られるものであり、取組み当初から全体を見通すことは出来ません。文章を作成するうちに、そこに自分なりの意味が生じ、また、読み進めるうちに全体の輪郭が見えて来るといった構造があり、それ故、あまり急がずに継続することが、こうしたブログなどでの創造や、学び全般を支える基礎であるのではないかと考えます。
今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

ISBN978-4-263-46420-5
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