とはいえ、昨今は記事の更新が滞りがちであり、いわば、10年という節目を過ぎた後での「燃え尽き」に近い状態にあると云えます。そしてまた、今後、当ブログをどうしたいのかといった考えも、ぼやけているのが現状であると云えます。しかしそれでも、2400記事到達までの残り14記事を出来るだけ速やかに更新するまでは、当ブログから離れるつもりはありません。
振返ってみますと、当ブログ開始当初は、ブログ記事の題材を何にすれば良いのかも分からず、その時々に思い付いたことを書き綴っていることが多く、また、閲覧者数を気にする余裕もなく、ただ、ブログ記事と云う文章の作成そのもので焦燥感から逃れようとしていました…。それが、しばらく(2年程度でしょうか)継続するなかで、作成する文章は自らの考えを整理して、それを再認識し、そして自分がより大きな世界を認識して、関与するための手段へと徐々に変化していきました。
こうした文章の作成とは、論文であれブログであれ、根本的に孤独な作業であると云えます。それは、誰かと共に進めるものではなく、自分の考えを掘り下げて、言葉を探り続ける営みです。そしてそこには、明確な締め切りも評価もなく、推進力はただ、自分の意志と興味関心だけです。しかし同時に、孤独のなかで作成された文章は、時に読まれることによって他者とつながることがあります。また、これは私見ではありますが、現在のようなネット社会では、孤独であるほどに、作成された文章は、外界へと浸透し、他者の時間と交差するのではないかと思われます。
そして、この「孤独でありながら他者と交わる」という一見矛盾した構造とは、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」にも似ているように思われるのです。文章の作成とは、自己内部に沈潜するものであると同時に、他者と世界を共有する行為でもあると云えます。あるいは、内と外、主観と客観、自己と他者、それらが分かれることなく、一つの運動として成立しているのだと思われるのです。そして私は、そうした運動の中に、文章作成の本質があるのではないかと考えます。
さらに、この西田哲学を異言しますと、それは。中動態的な存在の在り方であると考えます。即ち、能動でも受動でもなく、行為と変化がひとつの場で起こるということです。文章の作成とは、まさにそのような営みであると云えます。私は「文章を作成する者」であると同時に「文章に書かれる対象」でもあるのです。そして文章を通して、自らの考えを具現化しつつ、同時にその文章によって徐々に自分が変化していくのです。文章の作成により、私は自らの考えを整理、再認識して、私自身が新たに生成され、更新されるのです。こうした循環とは、中動態的な行為であると考えます。
かつて作成したブログ記事を読み返してみますと、恥ずかしく感じられるものも多々ありますが、同時に、それらの中には、現在の私では思い付くことが出来ないであろう、作成当時の頃の考えや切実な疑問などが散見されます。そしてまた、かつて感じた疑問が、形を変えつつ現在に至るまで残っていることに気が付きますと、私は、こうした文章の作成が単なる記録ではなく、いわば思考の連鎖であることを実感します。過去に作成した文章が層となって、そこから、新たな文章が生じてくる、その連なりの中で、私の考えや認識は少しずつ変化し続けていくのだと云えます。
現代は、インターネットなどによって情報が即座に拡散され、また多くは、速やかに忘れ去られていく時代であると云えます。そうした中で、時間をかけて更新、加上された文章には、さきの速度とは異なる種類の力が宿るのではないかと考えます。それは即効性はなくとも、徐々に浸透するような力であると考えます。10年間と云う期間を経て分かったことは、継続とは、執念や忍耐よりもむしろ、呼吸のような自然な営みであると云うことです。あまり無理はせずに、しかし止めないこと。文章の作成が日常生活に溶け込み、呼吸のように続いていくとき、ようやく「文章作成の理由」を探さず、考えないようになります。
また、書くという行為は、他者への発信であると同時に、自らを保つための行為でもあります。日々の出来事に言葉を与えることで、思考は形を得て、感情は静まり、心の均衡が保たれます。孤独のうちに書きながらも、その言葉の向こうには誰かがいて、私はその見えない誰かとともに思考している。書くとは、自己の内に他者を含み、他者のうちに自己を見いだす中動的な運動にほかなりません。
これから先、2400記事に到達出来ましたら、当ブログがどのようになるのかは分かりません。あるいは、頻繁な更新は困難になるかもしれませんが、他方で、止める理由も見当たりません。また、新たに特別な目標を掲げなくとも、文章の作成自体が私にとって生活の一部であり、思考の具現化でもあります。現在のような変化が速い時代にあって、自らの速度で考え、そして出来るだけ自らの言葉で文章を作成することは、今後将来、何らかの意味や価値を意味を持つようになるのではないかと考えます。
10年という期間は、短くもあり、長くもあったと云えます。そして、その間に積み重ねたそれぞれのブログ記事には、作成当時の私の考えや思いが書かれています。振り返れば、それらは私にとって生の軌跡であり、また、私なりの思考の呼吸そのものです。もしも、当ブログに価値があるとすれば、それは10年間の中で絶えることなく継続した「思考の呼吸」、すなわち中動態的な行為のなかにあるのではないかと思われます。
つまり、私は文章の作成を通じて、ようやく自分の時間を生きていると感じられます。文章の作成は孤独でありつつも、同時に他者と交わる一つの方法です。そして、その両義性の中にこそ、文章作成の本質があり、また、矛盾を抱えたまま世界と調和するための、ひとつの行為であると考えます。
そして、これから先、たとえ2400記事まで到達しても、しばらくの休止期間を置きますが、おそらくは同じようにブログ記事の作成を継続するのではないかと思われます。それは、目標や成果を掲げるためではなく、自らの考えと現実世界のあいだにある揺らぎを、言語として捉え直すために。書くことは終わりのない営みであり、誰かと心を通わせ、またひとりに戻っていく――そんな呼吸のようなものです。ブログ開始から10年を経た現在もなお、文章は私の内から生まれて、外界へと広がり、やがて再び私の中に還ってきます。その循環のなかで、これからも、少しずつではあれ、変化していきたいと思います。
今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

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