当ブログを始めてから10年と数か月が経ちました。この節目にあたり、これまでを振り返ってみますと、ブログとして文章を作成し続けてこられたのは、単に「文章を書くことが好きであるから」という理由だけではなかったように思われます。
側聞するところによりますと、10年間継続するブログは稀少であり、大半は開始から2年ほどで更新が止まると云われています。また、仮に数年続いたとしても、次第に更新の間隔が長くなり、やがて、更新が途絶えてしまうとのことです。その理由は様々でしょうが、生活環境の変化により時間が取れなくなったり、あるいは、閲覧数の伸び悩みから意欲を失ったりといった事情があるのだと思われます。
私自身、そうした事情により、当ブログをやめようと思ったことは度々あります。とはいえ、以前と比べ、更新の間隔は長くなったものの、今日に至るまで、当ブログはどうにか継続しています。そして、その理由を考えますと、一つには、文章を作成すること自体が、歯磨きや入浴のように自分の生活の一部となっているからであると思われます。日々の生活で思ったことや、読んだ書籍から得た考えなどを、自らの言葉で文章化するという行為が、次第に日常の中に組み込まれ、開始後2年ほど経った頃には、毎日のブログ記事の作成が「書くかどうか」ではなく、「何について書こうか」へと変化していました。そこから、その時点でブログの作成は身体化されて、生活の一部になっていたのだと思われます。
第二に、読んでくださる方々の存在があります。当ブログは一日で一万人のアクセスがあるわけではありませんが、それでも読み続けてくださっている方々の存在を意識することで、作成する意欲が湧いてきます。それは数値的な評価とは異なり、「自分の作成した文章が誰かに読まれている」といった感覚であり、それがあることで、時には面倒にも感じられるブログ記事の作成を継続することが出来たのだと思われます。
そして第三に、これまでの研究や実験の経験から「蓄積の価値」を信じていることです。継続的に積み重ねることにより、やがて自他にとって、何らかの意味を持つ記録になるのではないかと考えてきました。これは効率的なやり方ではないのかもしれませんが、時間をかけて継続してきたものの中に深みや意味が生じるのではないかと考えます。
しかしその一方で、近年はChatGPTを援用しての文章作成も行っています。当初はなかなか慣れず、生成された文章に違和感を覚えていましたが、これも継続的な使用により、少しずつ慣れてきたように思われます。それでも、生成文章をそのままコピペして用いることはありません。そこに適宜加筆を行い文章の調整を行います。そして、このChatGPTによる生成文章を自分の文章にしていく過程が、思いのほかに手間と時間を要するのです。
ChatGPTによる生成文章をそのままコピペして用いれば、たしかに文章作成の効率は著しく上がります。しかし、書き手自らの感覚による文体にするため、あるいは、魂の入った文章にするためには、やはり書き手による大幅な加筆修正や調整が欠かせません。むしろ、この面倒とも云える過程にこそ、ChatGPTを援用した文章作成における要諦があり、また、やりがいがあるのではないかと考えます。そうしたことから、ChatGPTを援用した文章作成とは、必ずしも効率性に基づいた省力化ではなく、むしろ、ある種の新たな文章作成法であり、生成文章への推敲や加筆修正を行うことにより、自らの考えや感覚をより明晰化して表現することが出来るのではないかと考えます。
とはいえ、ChatGPTも含めて「慣れ」というのは便利である一方、そこにある種の惰性が生じて、能動性が減衰してしまうこともあると思われます。ここ最近、当ブログの更新頻度が低下したことの背景には、この「慣れ」に起因する部分も少なからずあるように思われます。そのため、時には、こうしたChatGPTの援用を出来るだけ排した文章作成も、当ブログの継続のためには必要であると思われるのです。
本日も、気付くと、すでに深夜となっておりますが、PC机に向かいキーボードを打ち始めますと、意外にも文章は滑らかに出てきました。おそらく、文章作成という行為もまた、少なからず慣れの要素があり、ある程度継続していますと、多少のブランクがあっても、比較的速やかに復調することが出来るようです。
今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

側聞するところによりますと、10年間継続するブログは稀少であり、大半は開始から2年ほどで更新が止まると云われています。また、仮に数年続いたとしても、次第に更新の間隔が長くなり、やがて、更新が途絶えてしまうとのことです。その理由は様々でしょうが、生活環境の変化により時間が取れなくなったり、あるいは、閲覧数の伸び悩みから意欲を失ったりといった事情があるのだと思われます。
私自身、そうした事情により、当ブログをやめようと思ったことは度々あります。とはいえ、以前と比べ、更新の間隔は長くなったものの、今日に至るまで、当ブログはどうにか継続しています。そして、その理由を考えますと、一つには、文章を作成すること自体が、歯磨きや入浴のように自分の生活の一部となっているからであると思われます。日々の生活で思ったことや、読んだ書籍から得た考えなどを、自らの言葉で文章化するという行為が、次第に日常の中に組み込まれ、開始後2年ほど経った頃には、毎日のブログ記事の作成が「書くかどうか」ではなく、「何について書こうか」へと変化していました。そこから、その時点でブログの作成は身体化されて、生活の一部になっていたのだと思われます。
第二に、読んでくださる方々の存在があります。当ブログは一日で一万人のアクセスがあるわけではありませんが、それでも読み続けてくださっている方々の存在を意識することで、作成する意欲が湧いてきます。それは数値的な評価とは異なり、「自分の作成した文章が誰かに読まれている」といった感覚であり、それがあることで、時には面倒にも感じられるブログ記事の作成を継続することが出来たのだと思われます。
そして第三に、これまでの研究や実験の経験から「蓄積の価値」を信じていることです。継続的に積み重ねることにより、やがて自他にとって、何らかの意味を持つ記録になるのではないかと考えてきました。これは効率的なやり方ではないのかもしれませんが、時間をかけて継続してきたものの中に深みや意味が生じるのではないかと考えます。
しかしその一方で、近年はChatGPTを援用しての文章作成も行っています。当初はなかなか慣れず、生成された文章に違和感を覚えていましたが、これも継続的な使用により、少しずつ慣れてきたように思われます。それでも、生成文章をそのままコピペして用いることはありません。そこに適宜加筆を行い文章の調整を行います。そして、このChatGPTによる生成文章を自分の文章にしていく過程が、思いのほかに手間と時間を要するのです。
ChatGPTによる生成文章をそのままコピペして用いれば、たしかに文章作成の効率は著しく上がります。しかし、書き手自らの感覚による文体にするため、あるいは、魂の入った文章にするためには、やはり書き手による大幅な加筆修正や調整が欠かせません。むしろ、この面倒とも云える過程にこそ、ChatGPTを援用した文章作成における要諦があり、また、やりがいがあるのではないかと考えます。そうしたことから、ChatGPTを援用した文章作成とは、必ずしも効率性に基づいた省力化ではなく、むしろ、ある種の新たな文章作成法であり、生成文章への推敲や加筆修正を行うことにより、自らの考えや感覚をより明晰化して表現することが出来るのではないかと考えます。
とはいえ、ChatGPTも含めて「慣れ」というのは便利である一方、そこにある種の惰性が生じて、能動性が減衰してしまうこともあると思われます。ここ最近、当ブログの更新頻度が低下したことの背景には、この「慣れ」に起因する部分も少なからずあるように思われます。そのため、時には、こうしたChatGPTの援用を出来るだけ排した文章作成も、当ブログの継続のためには必要であると思われるのです。
本日も、気付くと、すでに深夜となっておりますが、PC机に向かいキーボードを打ち始めますと、意外にも文章は滑らかに出てきました。おそらく、文章作成という行為もまた、少なからず慣れの要素があり、ある程度継続していますと、多少のブランクがあっても、比較的速やかに復調することが出来るようです。
今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
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