2025年7月31日木曜日

20250730 スランプ時のブログ記事の作成について

 6月末からの異常な暑さが続くなか、ここ最近は以前ほど積極的にブログ記事を作成したいという気持ちが湧かなくなってきました。これは、先述の気温の高さに加え、当ブログの開始から10年という一区切りを迎えたこともあり、ある種の安堵や気の緩みが影響しているのかもしれません。

 思い返せば、記事投稿数が未だ1000記事に満たなかった頃には、たとえ疲れていても「少し無理をしてでも書こう」といった気持ちがありました。また当時は日常の些細な出来事や心の中に浮かんだ断片的な思考を言葉にすることで、自分自身の内面の安定を図っていたように思われます。しかし最近は、さきに述べたように、そうした内発的な衝動がやや希薄になりつつあると云えます。

 とはいえ、文章を書くこと自体から離れているわけではなく、ここ最近は、ChatGPTのようなAIツールを活用し、断片的な文章の下書きは日常的に作成しています。これらは、ブログ記事の材料として用いることを前提にしているわけではなく、今のところは「試作」や「遊び」に近い感覚と云えます。ただ、これも広義の言語表現の一種であり、従来とは異なる手法を試しているという点では、前向きな取り組みと云えるかもしれません。

 しかし、そもそも当ブログは、外部からの要請により始めたものではなく、自分の中にある漠然とした感情や思考を言語化し、内面を安定化して整えるための試みとしてスタートしたものでした。それが日々の習慣となり、次第に書くこと自体が生活の一部として定着していきました。このように継続することには、確かに手応えや、やりがいのようなものはあり、そしてそれは「義務感」のみで続くものではなく、やはり、何らかの手応えが支えとなっていたからこそ可能であったのだと云えます。

 現在、「10年間続ける」というひとつの区切りを迎えたことにより、それまでの目標や目的意識が曖昧になりつつあります。そのため、現在は「2400記事」という次なる節目を目指すという方針を立ててはいますが、これまでのように順調には進んでいないのが実情と云えます。記事数としては残り30本程度といったところですが、この数字に何らかの意味を見出しているわけでもなく、これはあくまで目安に過ぎないと云えます。

 また、以前であれば、こうしたモチベーションの低下を補うかのように、書籍からの引用記事を作成して記事更新のリズム維持を試みていましたが、昨今は何冊かの本を読み進めてはいるものの、それらから積極的に引用記事を作成したいという気持ちはあまり生じません。それでもいずれ、再び文章を作成したいという波が自然に訪れるのではないかと、これまでの経験から私には思われます。

 そのため、現在は、たとえ多少の無理をしてでもブログ記事の量産しようとは考えておらず、思いついたことやChatGPTを用いて断片的な文章を作成しつつ、次の波あるいは風を待っているような状況にあると云えます。そして、ブログ記事の作成がまた日々の生活に戻ってくることを、あまり意識せずに願いつつ、以前にも述べましたように「悠々として急ぎたい」と考えています。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2025年7月29日火曜日

20250728 空回りの時期と当ブログの開始に至るまで②

 私にとって歯科訪問診療コーディネーター業務は大変な重荷に感じられました。くわえて、その少し前から始めていた当ブログの執筆もあり、当時の平日の平均睡眠時間はおそらく5時間に満たず、そのため慢性的な睡眠不足状態にあったと記憶しています。

 それでも何とか、半年ほど勤務を続けていますと、勤務先医療法人の理事が、新たに別法人を立ち上げ、そこで医療・介護人材に特化した求人・求職サイトを運営するとのことで、私はその運営要員として配置替えとなりました。

 当初、私はこの異動に全く気が進まず、医療・介護人材の求人情報の獲得など考えたくもありませんでしたが、やがてすぐに、このサイトは私が求人情報を集めない限り機能しないということを知りました。そこで、まずは実家のクリニックの求人情報を了解を得て掲載しました。続けて、鹿児島在住期から面識のある開業医の諸先生方に問い合わせたところ、概ね二つ返事にて了承してくださいました。

 さらに、そうした先生方が面識や知遇のある医師・歯科医師の先生方にもお声掛けくださり、また所属地区の医師会・歯科医師会の先生方もご紹介くださり、おかげさまで相応の件数の求人情報を獲得することができました。さらに、特筆すべきことは、ほとんど見込みがないだろうと、半ば諦め気味で行っていたテレアポでも数件は話を聞いてくださり、求人情報を頂けたことです。

 とはいえ、この求人情報の獲得の基本は自らの足で稼ぐものでした。先方の医院に赴き、お話を伺い、求人情報や掲載の許可を頂くといった流れが圧倒的に多かったと云えます。そして、そうした訪問を重ねるなかで見えてきた各医療機関さまの様相は、現在振り返ってみますと、なかなか興味深いものがあります。

 また、こうした経緯により、歯科医院を中心とした医療機関をある程度の件数、訪問していくなかで、それぞれの地域における同業種(歯科医院・医院)の評判を伺う機会も少なからずありました。そして、そこで得た情報をもとに、後日、そちらの医療機関さまに連絡を取らせて頂き、アポイントを得て訪問するという新たな流れも出てきました。思い返しますと、この時期は本当によく歩き、また、少なからずの開業医の先生方とお目に掛かることが出来ました。そして、この一連の経験が良くも悪くも、現在の私に影響を及ぼしていると云えます。

 ともあれ、当法人に入社してから半年後、歯科訪問診療コーディネーターから求人・求職サイトの運営に配置転換後、当初、運営側が想定されていたよりも、かなり多くの求人情報を比較的短期間で集められたことは、法人本部にとっても予想外であったようで、以降、私は法人主催の勤務歯科医師向けの勉強会などの企画・運営にも参画させて頂くようになりました。

 そうした中で、私によく声を掛けてくださった先生のお一人がある日「鶴木さん、今度、大学時代の仲間と一緒に摂食嚥下機能のリハビリテーションで定評のあるS教授がおられる東京歯科大学の老年歯科補綴学講座を見学したいのですが、セッティングはお願いできますか?」と尋ねてこられました。そこで私は、S教授とご縁があると思われた歯科理工学の師匠に電話を掛けて伺ったところ「ワシの門下だと云えば繋がるはずや!」とのお返事を頂きました。

 半信半疑ながら、さっそく同講座に電話をかけ、最初に出られた方にこちらの背景と目的を簡潔にお伝えすると「確認いたしますので、少々お待ちください」とのご返答であり、そのまま緊張しながら待っていますと、しばらくしてS教授ご本人が電話口に出て来られ、こちらの要件を簡潔にご確認されたうえで「よし、分かった。いいよ。」と、あっさりとご承諾いただけました。

 また、この見学は、歯科理工学を専門とされる別の開業医の先生からのご支援もいただき無事に終えることができました。そして後日、当見学をご依頼くださったさきの先生から「とても勉強になり良かったです。また、一緒に行った先生方も皆、大変勉強になったと云っていました。」とのお言葉をいただきました。

 さらに、こちらの先生から「S教授から日本老年歯科医学会の学術大会で発表してみませんか?とお声掛け頂きました。」と好奇心を帯びた声で仰い、続けて「せっかくお声掛けくださったので、私、発表してみようと思うの、でも、できるかしら…?」と仰られたことから「そうなりましたら、出来る限りのご支援はします。」とお返事をして、さらに事態は進展することになりました...。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。






2025年7月22日火曜日

20250721 空回りの時期と当ブログの開始に至るまで①

 現在になり思い返してみますと、2013年の学位取得から2015年の当ブログ開始までの期間、恥ずかしながら私は、諸事空回りをしていました。それは、おそらく、自らのキャリアと年齢とを考慮することで生じた葛藤により、急かされていたことが原因であったと思われます。しかしまた、そうした葛藤とは、どこかで発散しなければ、止むことはないことから、良くも悪くも、仕方のないことであったようにも思われます。

 ともあれ、落ち着きを取り戻してから、また、さまざまな求人情報媒体に目を通すようになり、そして、自らの経験が生かせると思われた、ある求人に応募しました。それは、東京都を中心に首都圏で多数の分院を展開し、歯科訪問診療を手広く行っている医療法人が募集していた「歯科訪問診療コーディネーター」という職種でした。応募書類を投函して数日後、法人事務局より連絡を頂き、日程を調整のうえ、東急東横線沿線の都内某所にある法人本部を訪問し、面接を受けることとなりました。

 面接では、まず経歴の概要を尋ねられた上で、しばらく対話をしてから「これまでとは色々と異なる業務になりますが、当法人には他にも様々な仕事がありますので、まずは訪問診療のコーディネーターから始めてください。」とのことで、採用が決まりました。

 この歯科訪問診療のコーディネーターという職種は、一言で云いますと、訪問診療の実施主体である歯科医師や歯科衛生士が、居宅・施設を問わず、外来とは異なる環境で円滑に診療を進められるよう、さまざまな支援を黒子のように行う職種です。

 もう少し具体的にその業務内容を述べますと、まず基本となるのは日々の訪問診療スケジュールの調整業務です。これは、居宅や施設の患者さん、そのご家族や施設スタッフの方々との都合を摺り合わせて診療時間を組み、効率的な訪問ルートを設定するというものです。この業務は想像以上に労力がかかり、また、円滑に行うためには、診療スタッフや患者さん、そしてその周囲の方々との信頼関係が不可欠です。

 次に、訪問診療に使用するポータブルユニットなどの機材管理や運搬も行います。訪問診療の現場では、限られた空間や時間の中で診療を行うことが多く、機材の不備や忘れ物は大きな支障となります。また、患者さんやその周囲の方々への対応も、身体の健康にも関与する医療分野である以上、言葉遣いや挙措動作にも、それなりの配慮が求められます。

 さらに、診療を終えて医院に戻ると、診療スタッフとは別にさまざまな事務処理業務を行います。これらのいわば裏方の業務も、多くの場合、コーディネーターの重要な業務と云えます。

 加えて、歯科訪問診療の依頼を検討されている居宅介護支援事業所、地域包括支援センター、訪問看護ステーションなどを訪問し、先方にとって有益と思しき情報を提供しつつ、新規依頼を獲得する「周知活動」と呼ばれる営業業務も担当します。これは歯科医療に関する専門知識よりも、むしろコミュニケーション能力の方が重視される場面が多かったように思われます。

 以上のように、歯科訪問診療コーディネーターの業務は多岐にわたり、まさにマルチタスク型の職種といえます。

 しかしながら、私自身はどちらかといえば、それとは反対の専門特化型に近いと思われることから、この入社当初に就いた訪問診療コーディネーター業務は非常に負担が大きく感じられました。また、周囲におられた営業畑出身の方々からすると、私の働きぶりは噴飯ものであったのではないかとも思われます。

 また、ちょうどこの時期に当ブログを開始したこともあり、通勤電車の中ではメモ帳にブログ記事のアイデアや主題、あるいは引用したい書籍の候補などを頻繁に書き留めていましたが、何故であるのか、この時期は常に眠く、慢性的な睡眠不足であったと記憶しています。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2025年7月18日金曜日

20250717 不明瞭な言語化が困難な想念への対応について

 ここ最近は引用記事をたて続けて投稿してきましたが、その間、「自分の文章で記事を書きたい」という強い意欲は特に湧いてきませんでした。くわえて、当ブログとは別に、いくつかの文章も作成していたことから、文章を書くことへの焦燥感のようなものも、同様に湧いてくることはありませんでした。

 おそらく現在の私は、去る6月22日にブログ開始から丸10年を迎え、その後「2400記事までは続ける」と決めつつも、他方では「休みたい」といった相反する欲求を抱いているのではないかと思われます。

 また、読書の方も、天候不順による影響であるのか、あまり順調ではありませんが、それでも何冊かは並行して読み進めています。そして、そのおかげで、先日お目に掛かった文系師匠や、その場におられた方々との会話にも、どうにかついていくことができ、私としては、それなりに興味深い対話ができたのではないかと思われます。

 そして、その晩は久しぶりに、ある程度深掘りした人文系の対話が出来たためか、かなり珍しく夢を見ました。その内容は目覚めた直後に忘れてしまったものの、寝起きの感覚がとても良かったことから、良い夢であったのだろうと思われます。

 また、その感覚の流れであるのか、後刻、文系師匠からご連絡を頂き、そのやりとりの中で、これまで数年間モヤモヤしていた「自分が本当にやりたいこと」を、自然なカタチで言語化することが出来ました。その内容については、また近い別の機会に述べたいと考えています。

 ともあれ、こうした、言語化が困難なモヤモヤとした想念や、ある種の悩みのようなものは、それが「本物」であり、かつ継続して考える癖のようなものがあれば、やがて徐々に明確になり、言語を通じて自分なりに理解することが出来るようになるのではないかと考えます。

 あるいは異言しますと、こうしたモヤモヤした不明瞭な思いや悩みとは、多くの場合「余計なもの」として排除されがちではありますが、それがホンモノであり、長く続くものであれば、それについて考え、そして、適切と考えられる言語を付与し続け、あるいは他者との議論していくうちに、不図「分かる」(自分なりに)といった瞬間が訪れるのではないかと思われるのです。

 そして、そうした理解に至るためには、受動的な業務としてではなく、自ら選んだ文章や書籍を能動的に読み、言語と主体的に向き合う感覚を保ち続けることが重要であると考えます。

 もっとも、この能動的な「自由意志としての感覚」を、日常的なもの、あるいは本能に近いものとして自らに定着させることが、私を含め、多くの人々にとって古今を通じて変わらずに困難なことであり、そしてまた、近年急激な進化発展を遂げている人工知能が、広汎に社会に普及したとしても、おそらく、この困難さは変わらず、我々人間の本質的な性質として残っていくのではないかと思われます。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2025年7月15日火曜日

20250715 株式会社白水社刊 トム・リース著 高里 ひろ訳「ナポレオンに背いた「黒い将軍」:忘れられた英雄アレックス・デュマ」 pp220-221より抜粋

株式会社白水社刊 トム・リース著 高里 ひろ訳「ナポレオンに背いた「黒い将軍」:忘れられた英雄アレックス・デュマ」
pp220-221より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560084262
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560084267

 ヨーロッパ人は昔からエジプトを手に入れたがってきた。エジプト人は古代世界の全権力を象徴するーローマより三千年も歴史の古い帝国だった。エジプトにはその豊かな神話とおなじくらい豊かな収穫があると考えられてきた。歴史上の帝国の戦略家たちは、その耕作地を支配すれば人口と軍隊を養えるはずだと考えた。アレクサンドロス大王は紀元前四世紀にエジプトを征服し、自身の王朝を立てた。ナポレオンは彼のひそみに倣い、自身の王朝を夢見た。

 今なおフランスではエクスペディション・エジプト(エジプト遠征)と呼ばれているこの一大事業は、ナポレオンの世界征服の野望の中でも、もっともとほうもない妄想だったと考えられている。しかしフランス人は昔からエジプトを、冒険、そして豊穣の土地であり、広い世界への足掛かりとして見ていた。18世紀、識字率が上がり、印刷された本が広まったことによって、人びとは大量の近東旅行記を読んでいた。「ナイル川はセーヌ川と同じくらいよく知られている」ある観察者が1735年にそう書いている。遠征は、サヴァンの助けを借りて有名なロゼッタ・ストーンを発見し、王家の谷を発掘し、無数の古代の遺物の目録を作成したーそして学問の名の下に、そうした遺物をごっそり運び去った。

 1769年、ルイ15世の外務大臣はエジプト侵攻を国王に進言したーアメリカにおける[フランスの]植民地が失われた場合に、それに代わって同じ作物を生み出し、より広域の貿易が可能な植民地とするために、インディゴ、綿花、そしてもっとも重要なサトウキビといった作物は、エジプトでもサン・ドマングと同じように栽培可能かもしれない。当時のフランスで、エジプトにかんする有益な情報源のひとつに、夢想家の哲学者ヴォルネーの旅行記があった。ヴォルネーはヴォルテールに敬意を表してつけた名前で、彼の旅行記は物議をかもした。ヴォルネーは1783年から1785年まで中東を旅行し、アラビア語を習得して民族衣装を身に着け、エジプト人に交じって暮らした。彼の「エジプトとシリアへの旅」という本は、エジプトの経済、社会、政治、戦略郡について詳しく説明した。ヴォルネーの考えでは、エジプトは東洋の圧政によっておちぶれているが大きな可能性があり、征服可能だったーフランスにとって魅力的な植民地候補だ。実現すればフランスはアジアへの重要航路を手に入れ、古代エジプトの栄華を復活させたことで信じられないほどの名声を得るだろう。

 ヴォルネーが人気哲学者として注目されたのは1791年のことだった。彼の著作「廃墟ー帝国の運命についての瞑想」がイギリスのロマン派詩人シェリーや、政治哲学者トマス・ペインらに絶賛された。トマス・ジェファーソンは同書を英訳した。ヴォルネーの本は急進的な民主主義者等にも影響を与えたが、まったく別の種類の人間にも大きな影響を及ぼした。1792年、ナポレオンはコルシカ島に屋敷を購入したヴォルネーに直接会っている。若いナポレオン・ボナパルトはその年、フランスの混乱を避けて故郷のコルシカ島で過ごしていた。ナポレオンはヴォルネーの島の案内役となり、彼からエジプトの知識を吸収した。

 ナポレオンは12歳のときにアレクサンドロス大王の伝記を読んだときから、エジプトに強い関心を寄せていた。晩年、ヨーロッパを征服してそれを失った後で、彼はエジプトでの刺激的な日々をふり返っている。「わたしは多くのものを夢見て、どうしたらすべての夢を実現できるかわかっていた」彼は考えた。「わたしはアジアへと続く道をゆく自分を想像した。像に乗り、頭にターバンを巻き、手にはわたしが自分のために書いた新しいコーランを持って、わたしはおのれの目的のために世界の歴史の舞台を駆け、ふたつの世界の経験を統治するという困難を成しとげただろう」ナポレオンはヴォルネーからエジプトに関するさまざまな知識を学んだが、もっとも重要な教えには耳を貸さなかった。中東の帝国という夢は、はかない幻影だということだ。

2025年7月14日月曜日

20250713 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻 pp.370-372より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻
pp.370-372より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504644
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504649

 絶対主義はヨーロッパの大半ばかりかアジアにも及び、産業革命によってもたらされた決定的な岐路に際しても、同じような工業化を拒んだ。中国の明と清、そしてオスマン帝国の絶対主義がいい例だ。宋(960-1279年)の時代の中国は、多くの技術革新で世界を牽引した。時計、羅針盤、火薬、紙と紙幣、磁器、製鉄用の溶鉱炉などを発明したのはヨーロッパより早かった。また、ヨーロッパ諸国とほぼ同時期に、紡ぎ車と動力としての水力の利用法を独自に開発していた。その結果、1500年当時の中国の生活水準はヨーロッパに引けをとらなかったものと思われる。何世紀にもわたって、中国は実力主義で選抜された官僚によって運営される中央集権国家でもあった。

 しかしながら、中国は絶対主義の国であり、宋の成長は収奪的制度によるものだった。皇帝以外には集団を代表する政治組織は存在せず、イングランドのパーラメントやスペインのコルテスに当たるものが社会にはまったくなかったのだ。中国では商人はいつも身分が不安定で、宋の偉大な発明も市場のインセンティヴによって促進されたわけではなく、政府の保護、ときには命令によって世に送り出された。商業化された発明品はほとんどなかった。宋に続く明や清のじだいには、国家の締めつけがさらに厳しくなった。こうしたあらゆる事態の根底にあったのは、おなじみの収奪的制度の論理だ。収奪的制度を統括する支配者の大半と同じく、中国の専制君主は変化に反対し、安定を求めていた。とどのつまりは創造的破壊を恐れていたのである。

 これは国際貿易の歴史に如実に表れている。アメリカ大陸の発見および国際貿易の運営法が、近代ヨーロッパ初期の政治闘争と制度改革において重要な役割を演じたのは、すでに見たとおりだ。中国では、一般的に民間の商人が国内の商取引を行っていたが、外国との交易は国の独占だった。1368年に明が国を統一すると、初代皇帝の洪武帝は30年にわたって君臨した。洪武帝は外国との交易が政治的にも社会的にも安定を損なうと懸念し、政府が運営し、朝貢があるときのみ外国との交易を許可した。商業活動は認めなかった。朝貢使節団なのに商業活動を行おうとしたとして大勢の人間を処刑さえした。1377年から1397年にかけては、外洋を航行する朝貢使節団が禁止された。洪武帝は民間の商人が外国人と取引することを認めず、中国人が外国に渡ることも禁じた。

 1402年に即位した永楽帝は、政府が主体となる交易を大々的に復活させて、中国史上よく知られた一つの時代をスタートさせた。永楽帝の支援を受けた提督の鄭和は、東南アジア、南アジア、アラビア、アフリカまで大艦隊を率いて遠征を六度実施した。中国は、長年の交易関係からこれらの場所について知っていたが、これほど大規模な遠征は初めてだった。最初の艦隊は二万七八〇〇人の乗組員と、宝船六二隻、小型船一九〇隻から成り、小型船のなかには飲み水を運ぶ船、食糧を運ぶ船、兵士を運ぶ船があった。ところが、1422年の六度目の航海後、永楽帝はいったん遠征を中止した。後継者である洪煕帝(在位1424-1425年)の時代も航海は行われなかった。洪煕帝は早世し、宣徳帝が即位した。宣徳帝1433年に鄭和に最後の航海を許可したものの、その後は外国との交易をいっさい禁止した。1436年には、遠洋航海船の建造さえ違法となった。海外交易禁止令は1567年まで解かれなかった。

 こうした一連の出来事は。社会を不安定にさせかねない多くの経済活動を禁じた収奪的制度の氷山の一角にすぎないが、中国の経済発展に根本的な影響を及ぼすこととなった。国際貿易とアメリカ大陸の発見がイングランドの制度を根底から変えつつあったまさにその時期に、中国はこの決定的な岐路に背を向け、内向きになっていった。この内向きの姿勢は1567年まで変わらなかった。明は1644年にアジア内陸部の満州族である女真族によって滅ぼされた。彼らは清を興した。その後、政治的にきわめて不安定な時期が続いた。清は財産と資産を大量に没収した。

2025年7月10日木曜日

20250710 株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」 pp.220~222より抜粋

株式会社講談社刊 講談社選書メチエ 廣部 泉著「黄禍論 百年の系譜」
pp.220~222より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4065209218
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065209219

 米国が日本の言動に突発的に必要以上と思える強さで反応することは時折あるものの、日本を主対象とした脅威論は、日本の国力の低下に伴い目に見えて減っていった。1990年には「日本の経済的脅威」と題する公聴会が連邦議会で開かれたが、21世紀に入ると主たる脅威の対象は、日本から中国へと移っていた。

 2005年の上院財政委員会の公聴会で、モンタナ州選出のマックス・ボーカス上院議員は、「中国の競争的な挑戦がアメリカ人を神経質にしている。財界から一般市民に至るまで、アメリカ人はアメリカの経済、雇用、生活様式などに対する中国の影響に神経質になっている」と述べている。そして、翌2006年に議会調査局が作成したのは、『中国はアメリカ経済にとって脅威か』というレポートであった。そこには、近い将来、中国がアメリカを抜き去り世界最大の経済大国となるとはっきり記されている。またその報告書の中には、中国は「不公正」な経済政策を多くとっており、公正に貿易を行っておらず、そのような中国の世界経済大国への伸長は、日本が1970年代から1980年代に経済的に躍進してアメリカ経済に大きな影響を与えた時と同じような説明が必要であると記されていた。そしてそこには、暗に中国の躍進も過去の日本の躍進も不公正なやり口によるものであるという解釈がなされていることが示されていたのである。

 いずれにせよ2010年には中国がGDPで日本を抜き去り、世界第二の経済大国となる。安全保障を米国に依存し、必需品を輸入に頼らざるを得ない小さな島国の日本とは異なり、巨大な大陸国家中国による脅威は深刻であることが、徐々に明らかとなっていった。眠れる巨人中国が一旦目覚めると大変なことになるという、19世紀以前から幾度となく語られ、そのたびに杞憂に終わってきたイメージが、ついに21世紀になって現実のものとなったのである。ただ、当初は、経済発展が進み国民一人あたりの所得が上昇するにつれて、中国は民主主義に移行するであろうし、また欧米と似た価値観を持つにいたるであろうという楽観的な見方が支配的であった。しかし、そのような見方は誤りであることが徐々に明らかになっていく。一方、2011年は東日本大震災が発生し、もはや日本は脅威のもとであるというよりも憐みの対象とも言えるような視線で見られることになっていった。中国の大国化にともない、これまでとは逆に中国が日本を従えた形でのアジア主義や黄禍論的脅威が、今や語られるようになってきている。日清戦争以前の中国を中心とした当初の黄禍論に戻ったともいえる。

20250709 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.264-266より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.264-266より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

 私は政治家でもなければ実業家でもなく、これらの職業に求められる才能もほとんどない。だが、歴史を理解すれば、今日のテクノロジーや経済や文化の展開をよりよく把握するーそして、こちらのほうが緊急性が高いのだが、私たちの政治上の優先順位を変えるーのに役立つと確信している。政治はおおむね、優先順位の問題だ。医療の予算を削減し、国防にもっとお金を費やすべきか?安全保障上、テロと気候変動のどちらかのほうが差し迫った脅威なのか?失われた先祖代々の領土の奪還に専心するのか、近隣諸国と共有の経済特区の創出に集中するのか?優先順位に即して人々の投票の仕方や、実業家の関心の持ち方、政治家が名を成そうとする方法が決まる。そして、優先順位は、私たちがどのように歴史を理解しているかに左右されることが多い。

 いわゆる現実主義者たちは歴史の物語を、国益を増進させるために利用されるプロパガンダの小道具として退けるが、じつは、そもそも国益を定義するのがそうした歴史の物語なのだ。クラウゼヴィッツの戦争論についての考察で見たように、最終目標を定める合理的な方法はない。ロシアやイスラエルやミャンマーの国益も、他のどんな国の国益も、数学や物理学の何かしらの方程式からは、けっして導くことはできない。国益はつねに、歴史の物語の教訓とされるものなのだ。

 したがって、世界中の政治家が手間暇かけて歴史的な物語を詳しく語るのは少しも意外ではない。先ほどのウラジミール・プーチンの例は、この点でおよそ特別ではない。2005年に国連事務総長のコフィ―・アナンは、当時ミャンマーの独裁者だったタン・シュエ将軍と初めて会談した。アナンは、先に話し始めるように助言を受けていた。将軍が会話を独占するのを防ぐためであり、対談はわずか20分の予定だったからだ、ところがタン・シュエが機先を制し、一時間近くもミャンマーの歴史をまくし立て、アナンにはほとんど口を利く機会を与えなかった。11年5月、イスラエルのベンジャミン・ネタニエフ首相がホワイトハウスでアメリカのバラク・オバマ大統領と会見したときにも同じようなことが起こった。オバマの短い前置きの後、ネタニヤフは彼を相手にイスラエルの歴史とユダヤの民について、延々と語って聞かせた。まるでオバマが彼の生徒であるかのような扱いだった。皮肉屋なら、タン・シュエもネタニヤフも歴史の事実などろくに気にも掛けず、何らかの政治目標を達成しるために意図的に歴史を歪めているのだと言うかもしれない。だが、それらの政治目標そのものが、歴史についての固い信念の産物なのだ。

 私がAIについてテクノロジー業界の起業家と語り合ったときだけではなく政治家と対談したときにも、歴史はしばしば中心的なテーマとして話題に上った。バラ色の歴史を描き出し、それに即してAIに熱狂的な対談相手もいた。これまでつねにより多くの情報はより多くの知識を意味してきたし、以前のどの情報革命も、私たちの知識を増やすことによって、人類に多大な恩恵をもたらしてきたと彼らは主張した。印刷革命は科学革命につながったのではないか?新聞とラジオは、近代的な民主主義の台頭につながったのではないだろうか?AIの場合にも同じことが起こるだろうと彼らは言う。それよりは暗い展望を持つ人もいたが、それでも彼らは、人類は産業革命をなんと切り抜けたのとちょうど同じように、AI革命もどうにかして切り抜けるだろうという希望を表明した。

 だが、どちらの見方も私にはたいして慰めにならなかった。これまでの章で説明した理由から、AI革命を歴史の上で印刷革命や産業革命と重ね合わせることを私は苦々しく思っている。権力の座にある人がそうするときには、なおさらだ。なぜなら歴史についての彼らの展望が、未来を形作る決定に色濃く反映されているからだ。このような歴史上の重ね合わせは、AI革命の前例のない性質と、これまでの革命の有害な面の両方を過小評価している。印刷革命の直接の結果には、さまざまな科学的発見と並んで、魔女狩りや宗教戦争があるし、新聞やラジオは民主主義体制だけではなく全体主義体制によっても利用された。産業革命はどうかと言えば、この革命に適応する過程で、帝国主義やナチズムといった壊滅的な実験も行われた。もしAI革命によって私たちが同じような実験へと導かれるのなら、今回も切り抜けられると、本当に確信を持つことができるだろうか?

2025年7月8日火曜日

20250708 工作舎刊 荒俣宏著「理科系の文学誌」 pp.76-79より抜粋

工作舎刊 荒俣宏著「理科系の文学誌」
pp.76-79より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4875020651
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4875020653

「山椒魚戦争」が発表されたのは1936年、ヨーロッパは第二次大戦へと急速になだれ落ちていく時期であった。このとき、各国はすべて自国の利益を思考の中心に置いて、人間のことなど思い出そうともしなかった。チェコよりも古く、やはり同じように故郷を失ったケルト人の哀しみを描いて詩人フィオナ・マクラウドは、「民族が滅びるということは、領土がなくなることでも血が絶えることでもない、民族の言語が消えることだ」と断言したけれど、チャペックもまた「山椒魚戦争」に籠めた感慨はまったく同じだったにちがいない。山椒魚たちはやがて各国独自の管理下に置かれ、言語もその国の母国語を教え込まれることになって、バベルの混乱は山椒魚レベルにまで拡大することになる。

 かくして人類は各国別にユートピア建設に着手する。イタリア人は地中海全体を含む「大イタリア」を、日本は太平洋海域に「新日本」を建設して、どの島にも人工火山を設置する。「将来そこに住む人たちに、聖なるフジヤマを思い出さ」せるために。人類は、山椒魚のおかげで、ようやく世界の支配者になったことを自覚したのである。

 しかしここで大逆転がおこる。山椒魚は法律的、人道的、政治的なキャンペーンを通じて自治権を確立し、その数にものを言わせて(約二百億!)人間相手の大戦争に勝利してしまう。最初はリンゴ園荒しだとか卵盗みといった日常生活レベルのいざこざから、ついにバルト海に武装結集した精鋭山椒魚軍が蜂起する。フランスの評論家マルキ・ド・サド(!)が英仏独に向けて発した警告も、もはや手遅れだ。地殻変動がはじまり、人類の運命も決したとき、山椒魚側の代表サラマンダー総統が呼びかけを行いない。巧みな戦術に乗った人間は体よく奴隷化される。月日は流れ、山椒魚の時代がつづく。しかしその山椒魚たちは、アトランチス山椒魚とレムリア山椒魚の二派に分裂し、「真正山椒魚主義の名」において同士討ちの地獄絵を描きはじめるー「マレーのあいくちとヨガの短剣で武装したレムリア山椒魚は、アトランチスの侵入者たちを容赦なく斬り殺し、一方ヨーロッパ的教育を受け進歩したアトランティス山椒魚は、レムリアの海に化学毒薬や培養した殺戮用バクテリアを流して」。かれらはともにすばらしい戦果をあげるが、結果として海は汚染され、鰓ペストによって自らの絶滅を招き寄せるのだ。そしてかれらの戦いのシンボルは、ピジン・イングリッシュ対ベーシック・イングリッシュである。

 普遍言語によらず英語によって文明の階段をのぼった山椒魚は、こうして滅びる。言語哲学の問題を内包したチャペックの物語は、言語の闘争による言語の敗北という観点に立ったとき、何にも増して完璧なアンチユートピア小説となる。しかも底に流れる言語のブラックユーモア(解読不能の記事やインチキ日本語のパンフ)は、人工言語を完璧な冗談として創りあげたモアの心意気に通じる。小松左京の「日本アパッチ族」は、チャペックのそれを手本とし、その展開をみごとに日本化した成功作だけれど、小松左京の作品からは唯一、モア=チャペックの普遍語幻想が漏れている。最後に、チャペックが普遍語の勝利を諦めた裏には、東洋に対する絶望があろう。ライプニッツ、ヴォルテールら古典的ユートピア言語派の時代には、東洋はまだ倫理と徳の国であり、漢字は聖文字(ヒエログリフ)文字であった。しかしチャペックの時代には、その神話すら吹きとんでいた。そのせいだろうか、山椒魚自体に、あるいは日本人を示す暗喩を感じることができるかもしれない。なぜならば、かれらはrの音を発音することができず、すべてのrをIに転化してしまったのだから…。

2025年7月7日月曜日

20250707 株式会社新潮社刊「新潮45」1996年 5月号 新潮社創立100年記念「司馬遼太郎講演集」 pp.34-36より抜粋

株式会社新潮社刊「新潮45」1996年 5月号 新潮社創立100年記念「司馬遼太郎講演集」
pp.34-36より抜粋

「日本文化について」ということですが。別にお話しすることを考えてないんです。(笑)…ただ、文化ということの定義を仮に申し述べておきますと、文化というのは、文明という言葉との間において成立している言葉でありまして、文明に対して文化は…というように。

…文明というのは、旅客機が飛んでおりまして、航空機文明というものにわれわれは誰でも簡単に参加することができます。チケットを買って、そして飛び立つときに、指示のとおりベルトを締めれば、それで航空機文明に参加できる。文明というのは便利なもの、そしてそれに参加するのには、ごく簡単な手続きだけで済むものです。たとえば自動車文明というのは、街角でタクシーをとめまして、メーター通り料金をお支払いすれば、目的地に着けてくれます。

 それに対して、文化というのは、やや非合理なもの、やや特殊なもの、場合によっては、その民族や社会にのみ限られるものです。 

 むろん文化も広く行き渡る場合があります。たとえば、ジーンズというものがあります。ジーパンがはやっています。ジーパンは、アメリカという多民族国家の中で成立した、若者ーだけではありませんけれどもーの流行ででき上がってきたものです。日本は島国ですから、アメリカではやっているんだろうというので、はく人もいます。海外のものが珍しいというわけではなく、ジーパンは文明なのか、アメリカの文化なのか、ちょっとわかりにくいですが、つまり他の国で受け入れられる文化もずいぶんあります。

…たとえば大相撲をロンドン子がずいぶん見ているそうですな。賭けなんかしているそうですな。ですから、大相撲は文化でありますけれどもー珍しがられて受け入れられている場合もありますがー外国でも受け入れられる。

 しかし、大相撲は非常に文化的要素が強いものであります。たとえば、すぐさま相撲を取ればいいのに、いろんな手続きをする。いろんなしぐさをします。あれは神事なんでしょうな。日本の古くからの神道の要素が非常に強うございます。また、日本の神様は神々の神様でありますから、西洋とか中近東のアラーの神のように絶対者ではないわけで、たくさんいらっしゃいます。そして、共通して神様は退屈なさるそうで、神遊びをなさいます。神様のお喜びになるのは若者であります。若者が大好きであります。日本の神様は、若者の中でも若者らしいーというのは力を競う相撲であります。万葉時代では、元気のいい若者が元気よく振る舞っているというのを醜(しこ)と言いました。お相撲で四股を踏むというのは、あれは当て字であって、本来の日本語としては、つまり醜(しこ)ぶっている、神様の前で醜(しこ)ぶっているという意味でしょうな。

 大相撲にはそういうしぐさがいろいろあります。いろいろありますから、これはやっぱり日本の風土から生まれたものであります。…こんなお相撲の話をしているのは、これは前置きでありまして、メインの話ではありませんが…(笑)。

 お相撲は大昔からあったんですけれど、普通、芸能的なもの、スポーツのようなものは王様とか貴族たちの楽しみにして、そういうことでできあがるものでありますが、大相撲は、江戸や大阪その他の木戸銭でできあがっている、というが興業としての大相撲のおもしろさです。王様ではなく普通の人間の入場料でできあがっている。そしてお客さんというのは喜ばせなきゃいけませんですから、いろいろそれに沿ってマナーが発達していったり、無様なものはそぎ落されていったり、ルールもあまり煩瑣なものはそぎ落されていったりして…大相撲というのはよくできたものですね。これは珍しく日本の大衆が生んだスポーツでありますから、そういうものは、日本の大衆が生んだスポーツでありますから、そういうものは、やはり海外にもー海外にも大衆がいますからー受け入れられるんでしょうな。だけれども、基本的には大相撲は文化です。

2025年7月6日日曜日

20250705「日本文学史序説」との出会いについて②

 先月、6/15の投稿記事にて「自由な立ち読み的読書が、個人・社会の双方において創造性の活性化に何らかの良い効果をもたらすのではないか?」という見解を述べましたが、今回はこの見解と、その次、6/18の投稿記事「『日本文学史序説』との出会いについて①」を統合し、さらに、その続きを述べたいと考えます。
 繰りかえしにはなりますが、当著作を購入したのは鹿児島に在住していた2012年であり、そして実際に読み始めたのは、翌2013年の秋、学位を取得して帰郷後のことでした。目標であった学位取得は叶ったものの、すぐには就職が決まらず、さらに求職活動が長期化する可能性も現実的なものになってきた頃「これまでのように専門分野の論文や学術書ばかりを読んでいても、どうにもならないのでは?」と考えるようになり、そうした中、過日購入して積読状態となっていた当著作を手に取り読んでみたところ、大変面白く、強く惹かれて、自然と自分なりに精読をするようになっていました。
 現在、振り返ってみますと、これは一種の「開き直り」であったと思われます。それでも、こうして、自らの「専門性」という(思い込みの)枠組みから一旦離れ、棚上げ状態であった以前から興味関心を抱いていた分野の著作を読み進めることは、やはり楽しいものであり、さらに、書籍の読み方が、以前よりも多少深化しているように感じられたことは、あるいは錯覚であったのかもしれませんが、その後、約2年経過して始めた当ブログへと繋がるものがあったと思われます。
 これをもう少し詳説してみますと、多少の苦労を経て、どうにか獲得した制度に基づく専門性と、それまで、棚上げ状態であった内発的な興味・関心を持つ分野での読書が結びついて生じた感覚の変化は、やがて自らの考えにも影響をおよぼし、やがて「読む」ことと「思索する」ことの間の距離が次第に近づき、やがて、両者一体となって駆動し始めるような感覚が生じるのです。
 こうした経緯で感覚が駆動し始めますと、それまで断片的であった知識や経験といった「記憶」が、機に応じて統合され、そして文脈を持ち、再構成されていくようになります。   また、ここでいう「駆動」とは、外から与えられた刺激に反応するといったものではなく、内に蓄積されたものが、ある点に至り、自然と動き出すような自発的且つ持続的なものであると考えます。そして、このような内面での駆動感がしばらく続きますと、次第に「自分で文章を作成したい」という欲求が、ごく自然に生じてきました。
 あるいは、これを異言しますと、この感覚の駆動の内容を、他者に向け、あるいは自分自身のために言語として表現したいという欲求が生じ、それにしたがい継続しますと、やがて文章による表現とは、単に、その場限りのアウト・プットではなくなり、思考を深めて、そして更なる継続を求めるような、ある種の機構・機関のようなものになっていきます。このようにして徐々に、読むこと、考えること、そして書くことが、それぞれ別々の営みではなく、連動して、知性を用いた活動として、創造的な表現になっていくのではないかと思われるのです。
 実際、当ブログ開始当初は、『日本文学史序説』からの引用記事を盛んに作成していました。しかしそれらは、単なる著作の紹介としてではなく、当著作の文章に触発されながら、そこに自らの経験や考えを重ね合わせたり、組み合わせたりすることにより、自らの考えを深めていこうとしていたのだと思われるのです。
 異言しますと、当ブログ初期での引用記事は、いまだ自らの言語としては定着していない考えや思想を表現出来るようになるための「足場」のようなものであり、さらに、それらを何度か繰り返し、組み直すことで、徐々に自分の文章表現での抽象的な意味での型のようなものが形成かれて行ったのではないかと思われます。
 振り返ってみますと、2013年の学位取得から2015年の当ブログ開始に至るまでの約2年間は、色々と動き回り、また葛藤故にか「空回り」ばかりしていたと自ら思うのですが、しかし、これは見方を変えてみますと、当ブログ開始に至るまでのいわば発酵期間であり、そして、私にとって、その発酵を促すものが、さきに述べた「自由な立ち読み的読書」からの精読であったのではないかと思われるのです。
 そのように考えてみますと、こうしたブログを含めた文章の作成とは、何やら何か特別な才能などにより成し遂げられるものではなく、むしろ、日常のなかでの、あまり意図しない選択や、あるいはまた逸脱のなかから、自然と生じてくる感覚を拾い続けることによって出来るようになるものであるのかもしれません…。
 そして、こうした経緯を多少意識的に振り返ってみますと、私はアウグストゥスが述べ、開高健が本邦に広めた「悠々として急げ」という言葉が思い起こされます。急いで結果を求めるのではなく、しかしまた、立ち止まらずに歩き続けていくことが、何であれ表現の本質に通じているのではないかと思われました。
そして、今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2025年7月1日火曜日

20250701 東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一編著「新しい地政学」 pp.149‐152より抜粋

東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」
pp.149‐152より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4492444564
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492444566

 中国は、多くの場合、地政学上の概念で陸上国家と見なされることが多い。しかしスパイクマンの修正概念を用いれば、中国は、地政学上の「両生類(amphibia)」に分類される地理的環境にある。中国は、大陸に圧倒的な存在感を持って存在している一方で、遠大な大洋に通ずる沿岸部を持っているからである。中国は、歴史上大陸中央部からの勢力による侵略と、海岸での海賊等も含めた勢力による浸食に悩まされてきた。「一帯一路」構想は、ユーラシア大陸を貫く(中国影響圏の)複数の帯を放射線上に伸ばすだけでなく、大陸沿岸部にも中国から伸びる海洋交通路を確立することを目指している。

 南下政策の伝統的なパターンを踏襲するロシアの影響力の拡張に対して、一帯一路は、ユーラシア大陸の外周部分を帯状に伝って、中国の影響力を高めていこうとする点で、異なるベクトルを持っている。ロシアのように、大洋を求めて南下しているのではない。中国は、資源の安定的な確保や市場へのアクセスを狙って。リムランドにそって影響力を広げていこうとしている。そこで一帯一路は、海洋国家群のインド太平洋戦略と、点上においてではなく、平行線を描きながら、対峙していくことになる。

 2017年、スリランカのシリセナ政権は、中国からの支援を背景に内戦を勝ち抜いたラージャパクサ前政権時に累積した巨額の負債の処理に苦慮し、南部ハンバントタ港の運営権を99年間、中国企業に貸し出すことに合意せざるをえなくなった。同じようにインド洋に浮かぶモルディブでも、中国主導の経済開発が、政治的対立と結びつき、政情不安定が訪れている。スリランカでは、もともとラージャパクサ前大統領が中国に依存する傾向を持ち、シリセナ大統領はそれを是正する姿勢を見せていた。モルディブでも、中国との距離のとり方が、大統領派と反大統領派の政治対立に結びついている。インドを回避して、インド洋の「橋頭堡」を確保しようとする一帯一路あるいは「真珠の首飾り」(南シナ海、マラッカ海峡、インド洋、ペルシャ湾にかけての地域に軍事施設などを置く中国の政策)の戦略は、インド太平洋戦略と摩擦を起こしつつ、各国の内政にも影響を与えている。

◉超大国中国の影響
 東南アジアでも似たような構図が生れている。たとえばミャンマーのロヒンギャ問題は、現在の国際社会の一大関心事であり、欧米諸国はミャンマー政府を非難している。しかし具体的な対応策をとることができないのは、中国がミャンマー政府の後ろ盾となっている事情が大きいだろう。カンボジアのフン・セン政権の人権抑圧についても、あるいはタイの軍政や、フィリピンのドゥテルテ大統領の強権政治についても、中国の動きを入れるのでなければ、各国は政策を進めていくことができない。

 中国がさらに圧倒的な存在感を見せるのは、北朝鮮をめぐる問題においてである。巨大な島国である日本と、大陸の超大国である中国に挟まれた朝鮮半島は、古来より国際政治情勢に起因する大きな変動を被ってきた。ただし19世紀末から20世紀半ばまで、日本の国力の増大によって、朝鮮半島全体が日本の影響下・支配下に置かれるという事態が起こった。この事態を打ち破ったのは、同じ海洋国家として、むしろ拡大しすぎた日本の影響力を警戒したアメリカであった。

 アメリカは、日本を打ち破って占領統治した政策の帰結として、朝鮮半島の帰趨に関与することになった。朝鮮半島以降、日本に代わってアメリカが、中国とにらみあいながら。海洋国家のプレゼンスを朝鮮半島に維持する役割を担うようになった。現在、北朝鮮の核開発問題をめぐっては、アメリカと北朝鮮の間の直接交渉を通じた打開策が模索されている。本来であれば、経済制裁によって脆弱化した北朝鮮に対して、アメリカは優位な立場にある。しかし超大陸・中国が後ろ盾として存在しているかぎり、単純なアメリカ優位のままの事態の解決は容易ではない。一帯一路とアジア太平洋の戦略は、まず朝鮮半島から激突していると言ってよい状況である。なお、最近の日韓関係の悪化の背景に、こうした構造的な地政学的要因によって韓国の立ち位置が微妙なものになってきていることが関係していないとは言えないだろう。

 なお中国は、さらにアフガニスタンや中央アジア諸国、さらにはアフリカ諸国に関しても、財政貢献や政治調停への参画に関心を持っている。特に大量の援助を投入してきたアフリカにおける影響力は、かつてないほどに大きい。もっとも今のところ、中国の影響力は、中東においてはまだ限定的だと言える。

 急速な発展で超大陸の一つと見なされるようになった中国が紛争多発ベルト地帯に対して持つ影響力は、まだ発展途上にあると言えるかもしれない。しかしその一帯一路の戦略が、アジア太平洋の戦と、紛争多発ベルト地帯にまたがる形で摩擦を生み出していく傾向は、今後さらに増えていくだろう。