2025年7月18日金曜日

20250717 不明瞭な言語化が困難な想念への対応について

 ここ最近は引用記事をたて続けて投稿してきましたが、その間、「自分の文章で記事を書きたい」という強い意欲は特に湧いてきませんでした。くわえて、当ブログとは別に、いくつかの文章も作成していたことから、文章を書くことへの焦燥感のようなものも、同様に湧いてくることはありませんでした。

 おそらく現在の私は、去る6月22日にブログ開始から丸10年を迎え、その後「2400記事までは続ける」と決めつつも、他方では「休みたい」といった相反する欲求を抱いているのではないかと思われます。

 また、読書の方も、天候不順による影響であるのか、あまり順調ではありませんが、それでも何冊かは並行して読み進めています。そして、そのおかげで、先日お目に掛かった文系師匠や、その場におられた方々との会話にも、どうにかついていくことができ、私としては、それなりに興味深い対話ができたのではないかと思われます。

 そして、その晩は久しぶりに、ある程度深掘りした人文系の対話が出来たためか、かなり珍しく夢を見ました。その内容は目覚めた直後に忘れてしまったものの、寝起きの感覚がとても良かったことから、良い夢であったのだろうと思われます。

 また、その感覚の流れであるのか、後刻、文系師匠からご連絡を頂き、そのやりとりの中で、これまで数年間モヤモヤしていた「自分が本当にやりたいこと」を、自然なカタチで言語化することが出来ました。その内容については、また近い別の機会に述べたいと考えています。

 ともあれ、こうした、言語化が困難なモヤモヤとした想念や、ある種の悩みのようなものは、それが「本物」であり、かつ継続して考える癖のようなものがあれば、やがて徐々に明確になり、言語を通じて自分なりに理解することが出来るようになるのではないかと考えます。

 あるいは異言しますと、こうしたモヤモヤした不明瞭な思いや悩みとは、多くの場合「余計なもの」として排除されがちではありますが、それがホンモノであり、長く続くものであれば、それについて考え、そして、適切と考えられる言語を付与し続け、あるいは他者との議論していくうちに、不図「分かる」(自分なりに)といった瞬間が訪れるのではないかと思われるのです。

 そして、そうした理解に至るためには、受動的な業務としてではなく、自ら選んだ文章や書籍を能動的に読み、言語と主体的に向き合う感覚を保ち続けることが重要であると考えます。

 もっとも、この能動的な「自由意志としての感覚」を、日常的なもの、あるいは本能に近いものとして自らに定着させることが、私を含め、多くの人々にとって古今を通じて変わらずに困難なことであり、そしてまた、近年急激な進化発展を遂げている人工知能が、広汎に社会に普及したとしても、おそらく、この困難さは変わらず、我々人間の本質的な性質として残っていくのではないかと思われます。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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