pp220-221より抜粋
ISBN-10 : 4560084262
ISBN-13 : 978-4560084267
ISBN-10 : 4560084262
ISBN-13 : 978-4560084267
ヨーロッパ人は昔からエジプトを手に入れたがってきた。エジプト人は古代世界の全権力を象徴するーローマより三千年も歴史の古い帝国だった。エジプトにはその豊かな神話とおなじくらい豊かな収穫があると考えられてきた。歴史上の帝国の戦略家たちは、その耕作地を支配すれば人口と軍隊を養えるはずだと考えた。アレクサンドロス大王は紀元前四世紀にエジプトを征服し、自身の王朝を立てた。ナポレオンは彼のひそみに倣い、自身の王朝を夢見た。
今なおフランスではエクスペディション・エジプト(エジプト遠征)と呼ばれているこの一大事業は、ナポレオンの世界征服の野望の中でも、もっともとほうもない妄想だったと考えられている。しかしフランス人は昔からエジプトを、冒険、そして豊穣の土地であり、広い世界への足掛かりとして見ていた。18世紀、識字率が上がり、印刷された本が広まったことによって、人びとは大量の近東旅行記を読んでいた。「ナイル川はセーヌ川と同じくらいよく知られている」ある観察者が1735年にそう書いている。遠征は、サヴァンの助けを借りて有名なロゼッタ・ストーンを発見し、王家の谷を発掘し、無数の古代の遺物の目録を作成したーそして学問の名の下に、そうした遺物をごっそり運び去った。
1769年、ルイ15世の外務大臣はエジプト侵攻を国王に進言したーアメリカにおける[フランスの]植民地が失われた場合に、それに代わって同じ作物を生み出し、より広域の貿易が可能な植民地とするために、インディゴ、綿花、そしてもっとも重要なサトウキビといった作物は、エジプトでもサン・ドマングと同じように栽培可能かもしれない。当時のフランスで、エジプトにかんする有益な情報源のひとつに、夢想家の哲学者ヴォルネーの旅行記があった。ヴォルネーはヴォルテールに敬意を表してつけた名前で、彼の旅行記は物議をかもした。ヴォルネーは1783年から1785年まで中東を旅行し、アラビア語を習得して民族衣装を身に着け、エジプト人に交じって暮らした。彼の「エジプトとシリアへの旅」という本は、エジプトの経済、社会、政治、戦略郡について詳しく説明した。ヴォルネーの考えでは、エジプトは東洋の圧政によっておちぶれているが大きな可能性があり、征服可能だったーフランスにとって魅力的な植民地候補だ。実現すればフランスはアジアへの重要航路を手に入れ、古代エジプトの栄華を復活させたことで信じられないほどの名声を得るだろう。
ヴォルネーが人気哲学者として注目されたのは1791年のことだった。彼の著作「廃墟ー帝国の運命についての瞑想」がイギリスのロマン派詩人シェリーや、政治哲学者トマス・ペインらに絶賛された。トマス・ジェファーソンは同書を英訳した。ヴォルネーの本は急進的な民主主義者等にも影響を与えたが、まったく別の種類の人間にも大きな影響を及ぼした。1792年、ナポレオンはコルシカ島に屋敷を購入したヴォルネーに直接会っている。若いナポレオン・ボナパルトはその年、フランスの混乱を避けて故郷のコルシカ島で過ごしていた。ナポレオンはヴォルネーの島の案内役となり、彼からエジプトの知識を吸収した。
ナポレオンは12歳のときにアレクサンドロス大王の伝記を読んだときから、エジプトに強い関心を寄せていた。晩年、ヨーロッパを征服してそれを失った後で、彼はエジプトでの刺激的な日々をふり返っている。「わたしは多くのものを夢見て、どうしたらすべての夢を実現できるかわかっていた」彼は考えた。「わたしはアジアへと続く道をゆく自分を想像した。像に乗り、頭にターバンを巻き、手にはわたしが自分のために書いた新しいコーランを持って、わたしはおのれの目的のために世界の歴史の舞台を駆け、ふたつの世界の経験を統治するという困難を成しとげただろう」ナポレオンはヴォルネーからエジプトに関するさまざまな知識を学んだが、もっとも重要な教えには耳を貸さなかった。中東の帝国という夢は、はかない幻影だということだ。
今なおフランスではエクスペディション・エジプト(エジプト遠征)と呼ばれているこの一大事業は、ナポレオンの世界征服の野望の中でも、もっともとほうもない妄想だったと考えられている。しかしフランス人は昔からエジプトを、冒険、そして豊穣の土地であり、広い世界への足掛かりとして見ていた。18世紀、識字率が上がり、印刷された本が広まったことによって、人びとは大量の近東旅行記を読んでいた。「ナイル川はセーヌ川と同じくらいよく知られている」ある観察者が1735年にそう書いている。遠征は、サヴァンの助けを借りて有名なロゼッタ・ストーンを発見し、王家の谷を発掘し、無数の古代の遺物の目録を作成したーそして学問の名の下に、そうした遺物をごっそり運び去った。
1769年、ルイ15世の外務大臣はエジプト侵攻を国王に進言したーアメリカにおける[フランスの]植民地が失われた場合に、それに代わって同じ作物を生み出し、より広域の貿易が可能な植民地とするために、インディゴ、綿花、そしてもっとも重要なサトウキビといった作物は、エジプトでもサン・ドマングと同じように栽培可能かもしれない。当時のフランスで、エジプトにかんする有益な情報源のひとつに、夢想家の哲学者ヴォルネーの旅行記があった。ヴォルネーはヴォルテールに敬意を表してつけた名前で、彼の旅行記は物議をかもした。ヴォルネーは1783年から1785年まで中東を旅行し、アラビア語を習得して民族衣装を身に着け、エジプト人に交じって暮らした。彼の「エジプトとシリアへの旅」という本は、エジプトの経済、社会、政治、戦略郡について詳しく説明した。ヴォルネーの考えでは、エジプトは東洋の圧政によっておちぶれているが大きな可能性があり、征服可能だったーフランスにとって魅力的な植民地候補だ。実現すればフランスはアジアへの重要航路を手に入れ、古代エジプトの栄華を復活させたことで信じられないほどの名声を得るだろう。
ヴォルネーが人気哲学者として注目されたのは1791年のことだった。彼の著作「廃墟ー帝国の運命についての瞑想」がイギリスのロマン派詩人シェリーや、政治哲学者トマス・ペインらに絶賛された。トマス・ジェファーソンは同書を英訳した。ヴォルネーの本は急進的な民主主義者等にも影響を与えたが、まったく別の種類の人間にも大きな影響を及ぼした。1792年、ナポレオンはコルシカ島に屋敷を購入したヴォルネーに直接会っている。若いナポレオン・ボナパルトはその年、フランスの混乱を避けて故郷のコルシカ島で過ごしていた。ナポレオンはヴォルネーの島の案内役となり、彼からエジプトの知識を吸収した。
ナポレオンは12歳のときにアレクサンドロス大王の伝記を読んだときから、エジプトに強い関心を寄せていた。晩年、ヨーロッパを征服してそれを失った後で、彼はエジプトでの刺激的な日々をふり返っている。「わたしは多くのものを夢見て、どうしたらすべての夢を実現できるかわかっていた」彼は考えた。「わたしはアジアへと続く道をゆく自分を想像した。像に乗り、頭にターバンを巻き、手にはわたしが自分のために書いた新しいコーランを持って、わたしはおのれの目的のために世界の歴史の舞台を駆け、ふたつの世界の経験を統治するという困難を成しとげただろう」ナポレオンはヴォルネーからエジプトに関するさまざまな知識を学んだが、もっとも重要な教えには耳を貸さなかった。中東の帝国という夢は、はかない幻影だということだ。
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