2025年12月30日火曜日

20251229 ベートーベン:交響曲第9番の思想的射程と現代的意義について

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによる交響曲第9番ニ短調、作品125は、音楽史において独特の地位を占める作品であり、その最大の特徴は、終楽章に声楽を導入した点にあります。器楽を基盤として発展してきた交響曲の形式に、声楽を組み込むという試みは、当時の交響曲の様式からは逸脱するものでした。そして、その独自の構造ゆえに、本交響曲は音楽史における一つの転換点として位置づけられていると云えます。

本交響曲の構想は1818年頃から始まり、実際の執筆は1822年末から1824年初頭にかけて行われました。先述の終楽章にある声楽の歌詞には、フリードリッヒ・フォン・シラーが1785年に著した頌歌「歓喜に寄す」が採用されています。この詩を音楽化することは、ベートーヴェンにとって長年の願いであり、それが最後の交響曲において結実しました。

1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場で行われた初演では、ミヒャエル・ウムラウフが実質的な指揮を執り、聴力を喪失していたベートーヴェンはテンポを指示する役割で舞台に立ちました。終演後、聴衆の反応を認識できなかったベートーヴェンに対し、独唱者が客席の方へ向き直るよう促したことで、彼が初めて大喝采を認識したという記録が残されています。

また、本交響曲の背景には、当時の政治状況が深く関与しています。シラーが「歓喜に寄す」を執筆したのはフランス革命直前の啓蒙主義的な時代(1785年)でしたが、本交響曲が初演された1824年は、ナポレオン失脚後のウィーン体制下、宰相メッテルニヒによる保守反動的な政治体制が欧州を覆っていた時代でした。

こうした背景において、本交響曲は純粋な祝祭音楽とは異なる思想的性格を持ちます。終楽章冒頭において、先行する楽章の回想がバリトンの独唱によって否定される構成は、それまでの器楽的文脈を一度遮断し、新たな方向性を模索する転換点として機能しています。これは、既存の社会秩序や価値体系が限界に達した地点から、普遍的な共同性を再構築しようとする試みであるとも解釈出来ます。

また、当交響曲の作品構造は、内的苦悩から人類的な歓喜への移行を表現しています。第一楽章の不安定な導入、第二楽章の鬱勃とした律動、第三楽章の瞑想を経て、第四楽章において初めて「歓喜」が言葉として提示されます。

このプロセスは、歓喜が最初から与えられたものではなく、分裂や葛藤を通過した後にのみ到達し得るものであることを示しています。つまり、ここで描かれているのは、楽観的な調和ではなく、厳しい現実を前提とした上での生の肯定であると云えます。

後世、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』において本交響曲を論じたことは、第九の思想的解釈を深める一助となりました。ニーチェは同著の第1節において、ベートーヴェンの「歓喜に寄す」を、個の境界が崩壊し万物が根源的な一体感へと回帰する「ディオニュソス的陶酔」の象徴として引き合に出しています。彼にとって当交響曲の終楽章は、苦悩や混沌を否定するのではなく、それらを包含した上で生を全肯定する力を具現するものでした。構築された形式の中で、情念と理性、個と全体が均衡を保つその姿は、きわめて高度な精神的営為であると云えます。

そして、この視座は現在の分断され、不安定化した世界情勢においても有効な示唆を与えてくれます。国家間の対立や価値観の相違などが顕在化している現在、当交響曲が提示する「歓喜」は、既に完成された調和を謳歌するものではなく、むしろ、世界が分断され、不安定化している地点から、それでもなお共存の可能性を構想し得るかという問いとして機能するのではないかと考えます。

さらに、当交響曲が初演から200年以上経た現在も世界各地で演奏され続ける理由は、当交響曲が安定した世界の祝祭音楽的なものではなく、不安定な世界においてこそ参照されるべき思想的課題を我々人類に提示し続けているからであると考えます。救いが保証され得ない厳しい状況から、いかにして我々は歓喜を見出し得るのか。その問いは、今もなお現代社会に対する解決が困難な問題(アポリア)として提示され続けていると云えるのではないでしょうか?

Beethoven: The Ideological Scope and Contemporary Significance of Symphony No. 9

Ludwig van Beethoven’s Symphony No. 9 in D minor, Op. 125 occupies a unique place in the history of music. Its most striking feature is the introduction of vocal music in the final movement. To incorporate voices into a form that had developed as purely instrumental was a clear departure from the conventions of the symphony at the time. For this reason, the Ninth Symphony is widely regarded as a turning point in the history of Western music.

Beethoven began to conceive the work around 1818, and he composed it between late 1822 and early 1824. The text sung in the final movement is drawn from Friedrich von Schiller’s 1785 ode “An die Freude” (“Ode to Joy”). Setting this poem to music had been one of Beethoven’s long-held ambitions, and it was in his final symphony that this aspiration was finally realized.

The premiere took place on May 7, 1824, at the Kärntnertor Theater in Vienna. Michael Umlauf effectively conducted the performance, while Beethoven—by then profoundly deaf—stood on stage giving tempo indications. When the music ended, Beethoven was unable to perceive the audience’s reaction. According to contemporary accounts, one of the soloists turned him toward the audience so that he could see the overwhelming applause.

The political background of the work is also significant. Schiller wrote “Ode to Joy” in the intellectual climate of the Enlightenment, shortly before the French Revolution. By contrast, the symphony was premiered in 1824 during the post-Napoleonic era, when Europe was dominated by the conservative order enforced under the leadership of Metternich.

In this context, the Ninth Symphony cannot be understood as simple celebratory music. At the opening of the final movement, motifs from the preceding movements are recalled and then rejected by a baritone soloist. This gesture interrupts the established instrumental narrative and marks a decisive break, opening the way toward a new direction. It can be interpreted as an attempt to reconstruct a form of universal human community at a moment when existing social orders and value systems had reached their limits.

The overall structure of the symphony traces a movement from inner struggle toward a vision of human joy. The uneasy opening of the first movement, the surging vitality of the second, and the meditative character of the third all precede the final movement, in which “joy” is articulated for the first time through words. Joy is not presented as something given from the outset, but as something that can be reached only after passing through division and conflict.

What is affirmed here is therefore not an easy or optimistic harmony, but a form of affirmation grounded in harsh reality. Joy emerges not through the denial of suffering, but through its inclusion.

The later reception of the work was deepened by Friedrich Nietzsche, who discussed the Ninth Symphony in his first book, The Birth of Tragedy. Nietzsche refers to “Ode to Joy” as an expression of Dionysian ecstasy, in which the boundaries of the individual dissolve and all beings return to a fundamental unity. For Nietzsche, the final movement does not negate suffering or chaos, but gives form to a force that affirms life by embracing them. Within a carefully constructed musical form, passion and reason, the individual and the whole, are held in tension and balance. This represents an exceptionally high level of spiritual achievement.

This perspective remains relevant in today’s divided and unstable world. At a time when conflicts between states and clashes of values are increasingly visible, the “joy” presented in the Ninth Symphony does not celebrate a harmony already achieved. Rather, it functions as a question: whether it is still possible to imagine coexistence from a point of fragmentation and instability.

The fact that this symphony continues to be performed worldwide more than two centuries after its premiere suggests that it is not music for a stable and settled world. Instead, it persistently confronts humanity with a set of intellectual and ethical challenges that become most urgent precisely in times of uncertainty. From conditions in which no redemption is guaranteed, how are we to find joy? This question continues to confront modern society as an unresolved aporia.

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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2025年12月24日水曜日

20251223 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」 pp.56‐59より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」
pp.56‐59より抜粋
ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

 一般社会の人間は全部盲目だ、そう考えない限り、彼らは社会の自分たちへの仕打ちを許せない。しかしそれは結局、社会のすべての価値判断を拒否して、これと断絶し、軍隊内だけの自己評価と、互いの間だけで通用する相互評価の中だけで生きていくことになる。だが、この評価は日本の社会にも世界にも通用しない。触れれば、すぐにくずれてしまう。そこでさらに断絶はひどくなり、ついには自分の集団内だけで通用する特別の言葉を使い、それによって社会とも世界とも一切の接触を断っていく。これは当然の帰結であった。

 しかし、その彼ら(将校)より、さらに不安定な位置にいる人びとがいた。下士官である。最低のサラリーマンとはいえ、将校は、一つの「職業人」としての社会的地位はもっていた。しかし、将校の社会的地位の急激な低下を皺よせされた下士官は、その社会的地位に関する限り、もう絶対的で救いがたい状態であった。社会は彼らを「職業人」とすら認めなかった。

 日本という学歴社会およびそこから生み出されたインテリは、口では何といおうと、実際には労働者や農民を蔑視している。彼らが口にし尊重する「労働者・農民」は、一種の集合名詞乃至は抽象名詞にすぎない。これは昔もおなじで、当時の新聞や御用評論家がいかに「軍」や「軍人」をもちあげようと、それは「軍」「軍人」という一種の集合名詞・抽象名詞に拝跪しているのであって、この軍という膨大な組織の最末端に現実に存在する最下級の「職業軍人」すなわち下士官は、現実には、徹底的に無視され嫌悪され差別され軽蔑されていた。

 これがいかに彼らを異常な心理状態にしたか!下士官を象徴する「軍曹」という言葉は、軍隊内ですらウラでは一種の蔑称であった。「モモクリ三年カキ八年、低能軍曹は十三年」であって、彼らはあらゆる劣等感にさいなまれつづけていた。集合体としても個人としても、同じように扱われれば、すなわち「軍」も「下士官」も同じように扱われるのならば、たとえ低く扱われても、それはそれなりの安定がある。戦後の自衛隊はそういう状態に安定しているのかも知れない。しかし「軍」という名で極端に賞揚され、「下士官」という名で極端におとしめられるーこれをやられると、どんな人間でもある程度は精神が異常になってくる。私は当時の軍人の精神状態は、下士官に一番はっきりと露呈していたと思う。そしてのその精神状態は、結局は、下級将校も同じなのである。

「社会が悪い」といえる点があるなら、この点であろう。集団へのリップサービスでは最高の敬意を払い、その個々の構成員は、一個の社会人としてすら認めないほど蔑視し、最低の報酬した払わず、最低の待遇しかしない。これが一番ひどい扱いだと私は思う。最低の待遇しかしないなら、最高の敬意などは、むしろ払わねばよいのである。

 だが、一般社会には、彼らを蔑視しているという意識さえなかったのである。またそれによって、彼らが(そしてまた将校も)屈辱的な社会的地位の低下と徒らなる賞揚に異常な精神状態になっていようなどとは、だれも夢にも考えなかった。それは戦後に書かれた、横暴で無知な下士官の描写によく表れている。そのほとんどの場合、書いている本人が、自分が内心どれだけ下士官を蔑視していたかを忘れているーというより、今でも全然そのことが念頭にないのである。日本のインテリ特有の一種の鈍感さである。

 下士官は、このことをいわば肌で知っており、この点では異常なほど敏感ーというより一種の対「社会アレルギー」という状態になっていた。従って、お世辞はもちろんのこと、好意にすら耐えられず、自分に向っての何気ない微笑すら容赦できなかった。「バカヤローッ、軍隊には愛嬌はイラネーンダ、ナレナレしいよ、このヤロー」。彼らは、本心から自分に好意をもち、本心から自分という人間を対等に扱ってくれる人がいるなどとは、絶対に信じなかった。そして軍隊内だけでしか通用しない自己評価と相互評価だけで生きていた。そしてその評価のうらづけは、現実には将校の位置である。彼らは内心では将校を軽蔑しつつも、これを半神のように扱うよう兵に要求した。これも、将校より下士官が嫌われた一因であろう。そしてそれがかもし出す一種の雰囲気、たえずイライラしたような緊張感は、全軍隊を一種異様な精神状態にしていった。

 一般社会から実際には無視される。すると今度は、彼らが一般の社会人を人間と認めなくなる。これが面白いことに、新聞などで報ぜられる大学騒動のときの先進的な助手や大学院生の言葉と非常に似た感じになってくる。岡本公三の長兄のことが雑誌に出ていたが、相手のほおをてのひらで軽くヒタヒタと叩くというその姿は、あのころの最も冷酷な下士官を髣髴とさせる。また、「ガスが爆発すると人は死にます、機動隊とは限りません。しゃーないやないすか、そんなもの」という滝田修の言葉は、内容だけでなく、表現まで下士官そっくりである。

 結局これは、社会の彼らへの扱いの裏返しである。「軍」で賞揚され「下士官」で蔑視される。すると「お国のため」と「お国」」を賞揚して、そのお国を構成する国民の一人一人は人間とは扱わない。同じように、「人民のため」と「人民」は賞揚しながら、その人民を構成する個々の人間は「そんなもの」になってしまう。

 こういう状態で生きていれば、結局は一種の根源主義者にならざるを得ない。彼らが何もかも否定し、社会全部を「めしい」考えることによって彼らだけの自己評価に生きるなら、その評価が依拠する根元は「絶対」であらねばならない。ここに「天皇制ラディカル」ともいうべき「国体明徴」問題も起れば、彼らの自己評価のみに基づく行動も起る。

 二・二六の将校、特にその推進者は、一言にしていえば中隊付将校、すなわち「ヤリクリ中尉」であり、その社会的な地位は、はたちを少し越えた最下級の貧乏サラリーマン、それと最末端の管理職、課長というより係長ともいうべき「ヤットコ大尉」である。しかし「幼年学校」出の彼らの自己評価においては、天皇制ラディカルとして日本の根元を問い、それに依拠して一大革新を行うべき、自己否定に徹した革命家であった。だがその中の典型とも言うべき中橋基明中尉の言動を見ると、異常に高い自己評価と異常に低い社会的評価との間の恐るべきギャップが、このエリート意識の強い一青年を狂わしたとしか、私には思えない。

 

2025年12月16日火曜日

20251215 師匠の講演前夜での予演および駄弁りと、当ブログの備忘録的性質について

 昨日投稿の記事は、これまでブログ記事作成を休止していた反動によるものであるのか、比較的一気呵成に作成することが出来たと云えます。また、ブログ休止中であっても、記事のネタになりそうな現実の出来事はそれなりにありますので、それらについても忘れないように、何処かに書き記しておく必要があると思われます。しかし現在、ブログを休止していますと、当ブログ副題で述べた通りの「主に面白いと思った記述、考えたことを記します。自身の備忘録的な目的もあります。」という一文が、実際にそのままの意味であったことに、改めて気が付かされます。

 つまり、さきのような現実の出来事を、ある程度抽象化して文章にすること自体が、その出来事を忘れないための手段であったことに、今さらながら思い至るのです。

 さて、ここまで文章を作成していて思い出された記憶は、去る12月6日(土)に関与させて頂いた学会に関するものです。こちらの学会は比較的新しい歯科医学分野の学会であり、その学術大会は、今回で第11回目を迎えます。そして、この学術大会では、以前より、歯科理工学分野の師匠を教育講演講師としてお呼び頂いていますが、今回も師匠は新たにネタを仕込み、スライドを作成され、講演前日の夕方には会場近くのホテルに入られていました。
 
 そしてその日、学術大会の用務を終えた私と、診療を終えた都内で開業されている門下の先生(私の兄弟子にあたります)を呼び出し、宿泊先のホテルで、作成したスライドを予演のように我々に聞かせるのです。その後、我々の意見を聞き、それが議論を通じて妥当であると判断されますと、スライドに加筆修正をしたり、画像データを差し替えたりされます。そうした様子を見ていますと、師匠は既に70歳をとうに過ぎているにもかかわらず、他者からの見解を度々求め、ご自身の作成スライドに躊躇なく手を加えることが出来ることに毎回のように感心させられます。

 実際、そのことを師匠に尋ねてみますと、概ね次のように返答されました。

「最近はだいぶ普及してきた云うてもやな、まだまだジルコニアは分かってへんことも多いんや。それでな、一番アカンのは、よう分からンままに、科学的な根拠もない憶測みたいなンが、業界やら学会やらに、割と広う出回ってしもてることや…。
せやからな、この学会で教育講演やらせてもらえるンは、ワシにとってはホンマに有難い機会なんや。
それでや、お前らみたいに気ぃ使わんでエエ連中に、いっぺん作ってきたスライドの内容を聞かせて、その反応を見てな、これはイケる、これはアカン、云うてもろて、それをまたスライドに落とし込む。まあ、そういう作業がな、ワシにとっては結構大事なンや。」

さらに、体力や学会などでの立ち振る舞いについては、次のようにも述べられていました。

「ワシもな、前に比べたら、体力は確実に落ちてきとる。せやけどな、まだ60分や90分くらいの講義や講演やったらイケる。ただな、元の体力が落ちとる分、余計なとこで消耗したくないンや。

学会のパーティ云うたら、エライ先生もようけ来てはるやろ。それに、よう知らん先生にも、それなりに気ぃ使わなアカン。

そんなンするくらいやったらやな、お前らみたいに、気ぃ使わんでエエ連中相手に、いろいろ喋っとる方が、よっぽど楽やし、その分、講演の方にも気持ちがちゃんと向くんや。」

この師匠のスタンスは以前と変わらないものであると云えますが、学会発表であれ、講義や招待講演や教育講演であれ、自らの知見に基づき、科学的に妥当と考えられる見解を、出来るだけ分り易く伝えようとする、その一貫した行為態度には、私自身も多少なりとも学ぶところがあったのではないかとも思われます。あるいは、それが少しでも根付いたからこそ、当ブログは、なんとか10年以上継続することが出来たのではないかとも思われます。

ちなみにこの時、最近刊行された歯科専門雑誌に掲載された師匠の執筆記事について、「お前、読めえ!」と云われ、続いて同席していた先輩からも「俺の記事も読めえ!」と云われました。そこで私は、「分かりました。次の休みに水道橋のシエン社に行って、立ち読みして、面白そうでしたら購入します」と返事をさせて頂きました。そして、去る11日(木)の休日に御茶ノ水駅で下車し、駿河台を下って靖国通りに出て、神保町の古本屋街沿いを九段下方面へ少し歩き、神保町交差点で右折して白山通り沿いに水道橋方面へ進み、JR水道橋駅の高架を過ぎて後楽園方面への交差点を渡る手前で左折すると、マクドナルドやココイチを過ぎた辺りの左手に、歯科系書籍の専門店として界隈では知られているシエン社があります。

そこで、他の歯科系雑誌や書籍をしばし立ち読みした後、件の雑誌を手に取り読んでみますと、やはり面白いと思われましたので、購入させて頂きました。また、購入時に領収書の作成をお願いしたところ、そこからシエン社さまの相談役の方と多少話が盛り上がってしまいましたが、ともあれ、師匠から勧められた書籍は購入し、その後拝読させて頂きました。内容は、師匠が常々述べられている世界規模での歯科医療の様相や、その推移が、材料学あるいは工学的見地から述べられており、特に業界に関与される方々は、興味深く読むことが出来るのものと考えます。

また、ここまで文章を作成していて、さらに思い出されたことがあります。それは、過日、国際関係論や公衆衛生、医療政策分野などに造詣が深い別の先生から、電話口にて自著を勧めて頂いたことです。後日、こちらの著作も購入して拝読させて頂きましたが、これもまた大変興味深い内容が述べられており、いずれ改めて引用記事を作成させて頂く予定です。

このように、ブログ記事のネタとなりそうな現実の出来事は、それなりに生じています。しかし、いざそれらを記述しようとしますと、どうも、この文章のように、何やらゴタゴタした文章になってしまうようです…(苦笑)。後日、改めて加筆修正を行うことになると思われますが、とりあえず、今回はこの辺で区切らせて頂きます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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2025年12月15日月曜日

20251214 2400記事への到達後に思ったこと:1万時間の法則から

去る11月にブログ総投稿記事数が目標としていた2400記事に到達し、そこから自作文章での新たなブログ記事はあまり作成しておらず、また、引用記事はいくつか作成しましたが、それらは10記事もありません。他方、文章を作成する機会はコンスタントにあるため作成していますが、当ブログが目標に到達して一旦休止となったためであるのか、その文章作成も以前ほど身が入らなくなってきた感じが少しあります。しかし、それは恒常的な変化ではなく、またしばらく休止期間を設けることにより、以前よりも、より充実して上達した文章作成が出来るようになるのではないかと思われます。この休止期間の中にあっても、人工知能に頼らずに、時々はこうして文章を作成することは、それなりに重要であると思われるため、こうして新たな記事作成を試みています。また、作成を始めてから、ここに至るまで比較的スムーズに出来たことは、自分としては安心を感じますが、一方で、さらに投稿の頻度を上げた方が良いのではないかと危惧する部分もあります。とはいえ、新規での記事作成を行わないことによって生じる、こびり付くような不快感は、過日の2400記事到達により、ありません。そして、このことが到達前後で最も大きく変わったことであると思われます。

また、そのように考えてみますと、当ブログはもう終えて閉じるべきであるのかとも思われるところですが、それと同時に2500記事程度までは、そこまで大きく苦労をすることなく到達出来るようにも思われるのです。それ故、休息期間は今しばらく継続して、具体的には来年の3月末頃までは基本的に休止し、その間も時々は文章の作成自体を忘れないように、このように新規での作成を心掛けたいと考えています。

そういえば、このブログ記事作成の休止期間に、どうしたわけか「1万時間の法則」という言葉を耳にする機会が何度かありました。そこで、その意味をネット検索で調べてみますと、これは単純に「時間を積み重ねれば熟達する」という意味ではないことが分かりました。むしろ、意味のある練習を長期にわたり継続することで技能や思考が一定の水準に達する、という趣旨での経験則であり、「1万時間」という数字も多分に象徴的な値に過ぎません。それよりも、その本質は、長期的な継続を通してしか得られない変化があるという点にあり、これは多くの領域に通底する考え方であるように思われました。

また、当ブログについて考えてみますと、その価値は論文のように投稿先雑誌毎の評価指標により数値化されるわけでもなく、スポーツのように点数や審査員による判断があるわけでもありません。そのため、特定の記事やブログ全体の意味を、どのように位置づければよいのか分からず、曖昧な不安を覚えることもあります。その点で、この「1万時間の法則」は、明確な指標を持たない営みの価値を測るための、ひとつの座標軸になるのではないかと思われました。

とはいえ、文章表現の熟達は「書けば書くほど上達する」といった直線的なものではなく、むしろ長く継続するほどに、自らの未熟さや無知に気付いてしまうといった側面があります。さらに、ある程度継続しますと、ブログ記事の作成といった行為自体の意味を問い直したくなる時期も訪れます。やがて継続の理由も、技術向上や成果の可視化といった外的指標では測定され得ず、むしろ「文章の作成を通して思考が組み換えられ、世界の見え方がわずかに変わっていく」内的な効果に重点が移っていくのではないかと思われるのです。

近現代史や国際関係論や考古学、古代史あるいは民俗学といった分野に触れるたびに、それらは思考の層となり、徐々にこれまでとは異なった景色へと導いてくれます。そして、文章の作成とは、単に知識を扱う技術ではなく、世界を認知する方法そのものを再構築する営みであると云えるのかもしれません。その過程で、これまで所与・自明であった前提や価値観が次第に揺さぶられ、やがて自らの思考そのものが、いつの間にか変化していることに気付かされます…。

長期的に取り組むほど、継続は「上達のため」だけではなく「対象への理解を深めるため」に行われるようになります。文章化することは、対象の構造を理解するための方法であり、思考を透明化する媒体でもあると云えます。文章化することにより曖昧であった概念が言語としての輪郭を持ち、推敲を通じ、さらに明晰化されます。そして、こうした循環を何度も反復することで、意識の奥に沈んでいた思考が徐々に結晶化していくのではないかと考えます。

そして、この視座から「1万時間」を見直してみますと、それは単に熟達の到達点を示す数字ではなく、「ある程度の継続期間が思考をどのように変化させるか」を示す象徴とも見えてきます。長期にわたる継続的活動は、自覚され得る成長を直線的に保証するものではありませんが、同時にそれは、さまざまな質の時間を含み込みつつ、緩徐的に認知の構造を変化させます。それ故、成長を実感できない時期も、不意に新たな、そして明晰な視野が開ける瞬間も、同じ時間の連続線上に位置付けられるものと云えます。時間が精神に及ぼす作用とは、多くの場合、そのように複雑で非線形なものであると云えるでしょう。

ともあれ、そうしたことから、対象が変わらなくても、ある程度の期間をかけて向き合えば、その対象の見方や理解の仕方は変わっていきます。その意味で、文章の作成とは、その過程において認知の癖や偏りに気付き、それを調整する手掛かりが示され、内面での調和を取り戻す行為でもあるとも云えます。そして、その継続とは、こうした自己の再編成が緩やかに進行することであり、あるいはむしろ「1万時間」という区切りを越えてから、より本質的な変化が生じるのかもしれません…。

そうしますと、重要であるのは「1万時間」という数字そのものではなく、その継続した時間の中で何が変わり、何が見えるようになり、世界との関係がどのように変化したかということであると云えます。そこから、文章の作成とは、自らが世界に触れるための営みであり、そして、時間をかけて、その精度を研ぎ澄ませることが、世界に触れ、自らの考えを整える営みと云えるのではないかと思われます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。
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2025年11月29日土曜日

20251128 株式会社新潮社刊 三島由紀夫著「春の雪」pp.91-94より抜粋

株式会社新潮社刊 三島由紀夫著「春の雪」
pp.91-94より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 410105049X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4101050492

松枝家の大ぜいの使用人のなかで、こうも無礼なあからさまな飢渇を、目に湛えているのは飯沼一人であった。来客の一人がこの目を見て、

「失礼だが、あの書生さんは、社会主義者ではありませんかね」

と尋ねたとき、侯爵夫人は声を立てて笑った。彼の生い立ちと、日頃の言動と、毎日「お宮様」に参詣を欠かさないことを、よく知っていたからである。

 対話の道を絶たれたこの青年は、毎朝早く必ず「お宮様」に詣でて、ついにこの世で会うことのなかった偉大な先代に、心の中で語りかけるのを常としていた。

 むかしは端的な怒りの訴えであったのが、年を経るにつれて、自分でも限度のわからない厖大な不満、この世をおおいつくすほどの不満の訴えになった。

 朝は誰よりも早く起きる。顔を洗い、口をすすぐ。紺絣の着物と小倉の袴で、お宮様へ向かうのである。

 母屋の裏の女中部屋の前をとおって、檜林の間の道をゆく。霜柱が地面をふくらませ、下駄の朴歯がこれを踏みしだくと、霜のきらめく貞潔な断面があらわれた。檜の茶いろの古葉のまじる乾いた緑の葉のあいだから、冬の朝日が紗のように布かれ、飯沼は吐く息の白さにも、浄化された自分の内部を感じた。小鳥の囀りは希薄な青い朝空から休みなく落ちた。胸もとの素肌を、発止と打ってくる凛烈な寒さのうちに、心をひどく昂らせるものがあって、彼は「どうして若様を伴って来られないのか」と悲しんだ。

 こういう男らしい爽やかな感情をただの一度も清顕に教えることができなかったのは、半ば飯沼の越度であり、清顕をむりやりこの朝の散歩へ連れ出すような力を持つことができなかったのも、半ば飯沼の科であった。6年間のあいだに、彼が清顕につけた「良い習慣」は一つもなかった。

 平らな丘の上にのぼると、林は尽きて、ひろい枯芝と、その中央の玉砂利の参道のはてに、お宮様の祠、石灯籠、御影石の鳥居、石段の下の左右の一対の大砲の弾丸などが、朝日を浴びて整然と見える。早朝のこのあたりには、松枝家の母屋や洋館をめぐる奢侈の匂いとはまったくちがった、簡浄の気があふれている。新しい白木の桝のなかに入ったような心地がする。飯沼が子供のころから美しいもの善いものと教えられたものは、この邸うちでは死の周辺にしかないのである。

 石段をのぼって社前にたったとき、榊の葉の光りを乱して、赤黒い旨を隠見させている小鳥を見た。鳥は柝を打つような声を立てて眼前に翔った。鶲らしかった。

『御先代様』と飯沼はいつものように、合掌しながら、心の中で語りかけた。「何故時代は下って今のようになってしまったのでしょう。何故力と若さと野心と素朴が衰え、このような情けない世になったのでしょう。あなたは人を斬り、人に斬られかけ、あらゆる危険をのりこえて、新しい日本を創り上げ、創成の英雄にふさわしい位にのぼり、あらゆる権力を握った末に、大往生を遂げられました。あなたの生きられたような時代は、どうしたら蘇えるのでしょう。この軟弱な、情けない時代はいつまで続くのでしょう。いや、今はじまったばかりなのでしょうか?人々は金銭と女のことしか考えません。男は男の道を忘れてしまいました。清らかな偉大な英雄と神の時代は、もう二度と来ないのでありましょうか?

 そこかしこにカフエーというものが店開きをして客を呼んでいるこの時代、電車の中で男女学生間の風儀が乱れるので、婦人専用車が出来たというこの時代、人々はもう、全力をつくし全身でぶつかる熱情を失ってしまいました。葉末のような神経をそよがすだけ、婦人のような細い指先を動かすだけです。

 何故でしょう。何故こんな世の中が来たのでしょう。清いものが悉く汚れる世が来たのでしょう。私が仕えている御令孫は、正にこういう弱々しい時代の申し子になられ、私の力も今は及びません。この上は死して私の責を果すべきでしょうか?それとも御先代様は深い御神慮により、ことさらこうなりゆくように、お計らいになっておられるのでしょうか?』

 しかし、寒さも忘れてこの心の対話に熱してきた飯沼の胸もとには、紺絣の襟から胸毛の生えた男くさい胸がのぞき、自分には清らかな心に照応する肉体が与えられていないことを彼は悲しんだ。そして一方、あのような清麗な白い清い肉体の持主の清顕には、男らしいすがすがしい素朴な心が欠けていた。

 飯沼はそういう真剣な祈りの最中に、体が熱してくるにつれて、凛とした朝風をはらむ袴のなかで、急に股間が勃然とするのを感じることがあった。彼は社の床下から箒をとり出し、狂気のようにそこらを掃いて廻った。

2025年11月26日水曜日

20251125 株式会社かや書房刊 篠田英朗著「地政学理論で読む多極化する世界:トランプとBRICSの挑戦」pp.129-132より抜粋

株式会社かや書房刊 篠田英朗著「地政学理論で読む多極化する世界:トランプとBRICSの挑戦
pp.129-132より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4910364854
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4910364858

中国は大陸からの脅威と海洋からの脅威の両方に備えなければならないという点で、典型的な「両生類(amphibia)」である。大陸国家(land power)としての性格と、海洋国家(sea power)としての性格を、併せ持つ。この特性は、ロシアのような典型的な大陸国家とは、大きく異なっている。しかもインドのようにチベット山脈に守られながら、海洋に突き出た半島部に存在する半島国家とも、異なっている。

 歴史上、かつて「両生類」と言えるが、世界有数の大国となった国があた。1871年統一以降のドイツである。ドイツは、東欧のプロイセン主導でヨーロッパ大陸中央に位置し、東欧その他の大陸各地域に影響力を行使しやすい性格を持っていた。他方、バルト海のみならず北海にも面し、ライン川のような大規模河川も持ち、海洋にも影響を与えうる地理的性質も持つ。実際に、ドイツは、陸軍も海軍も、欧州有数の強力な軍隊とした。ここに「ドイツ問題」、つまり欧州大陸の中央部に最大の人口と国力を持つ大国が生れて従来の勢力均衡政策が通用しなくなってしまった、という問題が生まれた。これによって、19世紀までのバランス・オブ・パワーの仕組みが時代遅れなものになって崩壊し、二度の世界大戦を引き起こした。

 21世紀になってからの中国の超大陸としての台頭は、二度の世界大戦の前の時期のドイツの世界の大国としての台頭を想起させる。21世紀東アジアにおける「ドイツ問題」と言って過言ではない。東アジアにおけるアメリカの存在が、均衡を維持するための方策のカギになるが、急速に拡大する中国の勢力を考えると、均衡維持は簡単ではない。

 ドイツの台頭を伝統的な「バランサー」であったイギリスが受け止めることができなかったように、21世紀の中国の超大国としての存在を、旧来の覇権国であるアメリカも受け止めることができない、と考える者は「トゥキュディデスの罠」を強調して、米中戦争は不可避であるという見方に傾く。「トゥキュディデスの罠」とは、新旧の覇権国の間の相互不信から対立が深まって戦争に発展していく現象のことだ。

 20世紀初頭のドイツと現在の中国が似ているのは、「両生類」の国家が世界有数の大国として台頭した点だ。「両生類」国家は、大陸と海洋の両面で、自国に有利な戦略をとれる優位性を持つ。他方、最大の弱みは、内陸の他の大陸国と、海洋国家との間の挟み撃ちに遭う恐れがある点だ。かつてのドイツの場合には、二度の世界大戦で、大陸国家で、大陸国家ソ連(ロシア)を米英の海洋国家の挟み撃ちにされた。その後、第二次世界大戦後も、海洋と大陸の双方向からの封じ込めによって、大国としてのふっかるの可能性を抑え込まれた。

 これを現在の中国にあてはめると、米ロの大同盟が形成されて、挟み撃ちにされてしまうと、非常に苦しい、という観察が導き出される。米ロの挟み撃ちにされると、どちらにも影響力を拡張できないばかりか、両面からの挟撃に応じて始原を分割していかなければならなくなる。ドイツはこの負担に耐えられず、二度の世界大戦で敗北した。

 かつて15世紀の明朝の時代に、鄭和提督は7回にわたるインドやアフリカにまで至る海外への大遠征を行った。欧州諸国の大航海時代が始まる前に、中国の西太平洋からインド洋にかけての地域における海洋覇権の可能性があったのである。しかし明の皇帝は突然、海外渡航を禁止し、艦隊を廃止した。北方の蛮族の侵入に備えるためであったと推定されている。両面作戦を避け、資源の集中投下を図ったのである。

 この観点から見ると、アメリカとの超大国間の緊張関係の管理を引き受けていかなければならない現在の中国にとって、大陸側の背後に控えるロシアとの良好な関係の維持は、死活的な意味を持つ。関係を損ねたら、アメリカとロシアに挟み撃ちにされる。逆に、もしロシアから攻められる恐れがなければ、資源を太平洋側に面した海洋の防衛にあて、台湾奪回統一もその路線にそって狙っていけばいいことになる。

 中国の軍事費は、2000年に約300億ドルだったが、2024年には約3140億ドルと10倍い所の規模になっている。その過程で、特に高い伸びを見せたのが、中国人民解放軍海軍(PLAN)である。中国海軍は、すでに艦艇数で世界最大と言われる。海軍への予算配分は、2000年代初頭の約10%から、2020年代には約30%に増加したと推定されている。これによって南シナ海や台湾海峡を越えて、インド洋や太平洋に展開することができる能力を整備し、「遠海防衛」戦略を進めている。有事の際の海上封鎖の可能性を排除し、アメリカとの超大国間の競争関係を勝ち抜く意図があると言える。なお中国の陸軍は、2015年に30万人の兵力削減を発表し、約200万人体制となった。予算配分としては、2000年代の約50%から、2020年代には約30%に減少したと推定されている。こちらは大陸側に仮想敵が存在していないという認識を反映した措置だと言ってよいだろう。

2025年11月25日火曜日

20251124 毎日新聞出版刊 黒川 清著「考えよ、問いかけよ「出る杭人材」が日本を変える」 pp.116-120より抜粋

毎日新聞出版刊 黒川 清著「考えよ、問いかけよ「出る杭人材」が日本を変える
pp.116-120より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4620327557
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4620327556

 私が折に触れ読み返している本に、「ベルツの日記」があります。
 この本の中には、お雇い外国人学者として明治9(1876)年から26年間、東京医学校(現・東京大学医学部)で教鞭をとり「日本の近代医学の父」ともいわれたドイツ人医師エルウィン・ベルツが、日本在留25周年記念の祝賀会で来賓と学生を前にして行った次のような演説が収められています。
「わたしの見るところでは、西洋の科学の起源と本質に関して日本では、しばしば間違った見解が行われているように思われるのであります。人々はこの科学を、年にこれこれだけの仕事をする機械であり、どこか他の場所へたやすく運んで、そこで仕事をさすことのできる機械であると考えています。これは誤りです。西洋の科学の世界は決して機械ではなく、一つの有機体でありまして、その成長には他のすべての有機体と同様に一定の気候、一定の大気が必要なのであります。」
「西洋各国は諸君に教師を送ったのでありますが、(中略)かれらは科学の樹を育てる人たるべきであり、またそうなろうと思っていたのに、かれらは科学の果実を切り売りする人として取り扱われたのでした。かれらは種をまき、その種から日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれるようにしたのであって、その樹たるや、正しく育てられた場合、絶えず、新しい、しかもますます美しい実を結ぶものであるにもかかわらず、日本では今の科学の「成果」のみをかれらから受取ろうとしたのであります。この最新の成果かれらから引き継ぐことで満足し、この成果をもたらした精神を学ぼうとはしないのです。」エルウィン・ベルツ著トク・ベルツ編、菅沼竜太郎訳「ベルツの日記 上巻」岩波文庫、1979年)
 ベルツ先生の「(日本では科学の成果を)引継ぐだけで満足し、この成果をもたらした(科学の)精神を学ぼうとはしない」というこの苦言を、私はたびたび噛みしめています。それは、ベルツ先生がこの言葉を述べた当時から現在まで、日本のこの「病巣」が何の治療も施されないまま放置され、存在し続けているからです。
 明治維新後、それまで西欧から大きく遅れていた日本は、西欧の技術と工業を急いで導入し、生活レベルと軍事力で世界に追いつくために国家をあげて取り組みました。ベルツ先生が嘆いたように、日本は科学の真髄を学び、そこから学問として発展させる余裕も考えもなく、ただひたすら科学技術の成果を追い求めたのでしょう。
 そして、日本人の創意工夫のセンスと、何事にも勤勉に取り組む国民性が、急速な近代化の波に乗って後発国の成功物語を築き、ついには太平洋戦争へとつながっていきました。戦後はスクラップになった国をゼロから立ち上げ、外国の技術導入に取り組み、生来の勤勉さを発揮して高度経済成長を実現しました。
 しかし、こうした日本の成功と失敗の体験は、科学技術を国家観の中に取り込み、政策理念としての基礎を築くことには寄与しませんでした。ベルツ先生のいた明治からずっと、日本は科学の果実だけを追い求めるような国家なのです。
 日本は毎年のようにノーベル賞受賞者を輩出していますが、これは科学投資と研究理念の基盤固めが功を奏したわけではなく、個人的な能力が発揮された結果といえるでしょう。私には、日本人のノーベル賞が国家として科学技術創造立国を築き上げてきた成果の賜物という見方はできません。どちらかといえば、本流ではない方々が受賞しているように思います。
 私達の社会では、教育現場が依然として「理系・文系」と色分けされ、偏差値だけで大学進学の行方を決め、ひいては人生そのものを大きく左右する仕組みをつくってしまいました。
 国民もこれを受け入れたため、長きにわたって高等教育と研究の現場はタテ型に固定されてしまいました。その結果、この仕組みを打破してグローバル時代に適応した社会に再構築することを困難にしています。
 この日本的な「成功物語」で築き上げた科学の伝統を打破し、ベルツ先生が苦言を呈した状況から脱却するための方策を、私はここまでにいくつか提案してきました。
 最後に、「科学リテラシーのある政治家を多数、国会に送らねばならない」とも私は考えています。そして、政党の政策立案の段階から科学技術創造立国を構築する理念を盛り込み、国家の中枢に「ハコもの」ではない真の科学政策司令塔と、それを支える組織を確立するのです。
 「科学リテラシーを持つ政治家」といっても、いわゆる理系教育を受けてきた人を指すわけではありません。理系の人間が文学や芸能に才気を発揮することもあるように、文系の人間でも科学技術への興味とセンスを持っている人は必ずいるはずです。まずは、そうした人材の掘り起こしが急務なのではないでしょうか。

2025年11月24日月曜日

20251123 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻 pp.322-325より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー下巻
pp.322-325より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504652
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504656

 より包括的な制度と漸進的改革への道をうまく地ならしできた政治改革に共通する要素は何だろうか?北米、19世紀のイングランド、独立後のボツワナで成し遂げられ、結果的に包括的政治制度をかなり強化することにもなったそうした改革に共通するのは、社会のきわめて広範かつ多様な集団への権限委譲に成功したことだ。包括的政治制度の基盤である多元主義に必要ななのは、政治権力が社会に広く行き渡ることであり、狭い範囲のエリートに権力を与える収奪的制度から出発する場合には、権限委譲のプロセスが必要だ。第七章で強調したように、名誉革命はそうしたプロセスのおかげで、あるエリートによる別のエリートの放逐とは一線を画したものとなった。名誉革命の場合、多元主義の出発点は政治革命によるジェームズ二世の排除である。革命を率いた幅広い連合には商人、実業家、ジェントリーばかりか、王権側に与しないイングランドの貴族も多数含まれていた。これまで見てきたように、名誉革命は。それに先立つ幅広い連合の結集と権限委譲のおかげで達成されやすくなった。より重要なのは、名誉革命によって、以前よりもさらに幅広い階層に、さらに権限が委譲されたことだ。とはいえ、その階層が社会全体に比べれば狭かったのは明らかだし、イングランドはその後200年間、真の民主主義からは程遠い状態にあった。北米の植民地で包括的制度の誕生につながった要因も同じようなものだったことは、第一章で見た。ヴァージニア、カロライナ、メリーランド、マサチューセッツに始まり、独立宣言と合衆国における包括的政治制度の統合に至った道筋もまた、社会のより幅広い階層に権限が委譲されていく道筋だった。

 フランス革命もまた、社会のより幅広い階層への権限委譲の一例で、そうした階層がフランスのアンシャンレジーム(旧体制)に向かって立ち上がり、より多元主義的な政治機構への道を開いた。だが、ことに革命の最中に生じたロベスピエールの弾圧的で血なまぐさい恐怖政治を見れば、権限委譲のプロセスには落とし穴があることは明らかだ。それでも結局、ロベスピエールとジャコバン派幹部は排除された。フランス革命が残した最も重要な遺産はギロチンではなく、革命によってフランスやヨーロッパで各地で成し遂げられた大幅な改革だったのである。

 そうした権限委譲の歴史的過程と、1970年代以降、ブラジルに起こったことのあいだには多くの共通点がある。労働者党のルーツの一つは労働組合運動だったが、その最初期から、ルーラのような指導者たちは、党に協力する多数の知識人と野党の政治家とともに幅広い連合をつくることを目指した。そうした動きが、党による地方政府支配の広がりとともに、全国各地の社会運動と融合しはじめ、市民の参加を促し、全土に及ぶ一種の統治革命のきっかけとなった。ブラジルでは、17世紀のイングランドと18世紀初頭のフランスとは対照的に、政治制度を一挙に変える導火線となるような急進革命は起らなかった。それにもかかわらず、サンベルナルドの工場で始まった権限委譲のプロセスが有効だったのは、一つには軍政から民主主義体制への移行のように国政レベルで根本的に政治を変える動きとなったからだ。より重要なのは、ブラジルでは草の根レベルの権限委譲が、民主主義への移行と包括的政治制度への動きの同時進行を可能にし、公共サービス、教育の拡大、真に平等な機会の提供に取り組む政府を誕生させる最大の要因となったことだ。これまで見てきたように、民主主義は多元主義の誕生を保証するわけではない。それに関しては、ブラジルの多元的制度の発展と、ベネズエラの経験の対比が多くを物語る。ベネズエラも1958年から民主主義体制へ移行したものの、草の根レベルの権限の委譲を伴わず、政治権力の多元的な配分も生み出さなかった。その代わり、腐敗政治、利益供与のネットワーク、対立がはびこり、そのせいもあって、選挙の際、有権者はウゴ・チャベスのように独裁者になりそうな候補者でも喜んで支持した。おそらく、ベネズエラで地位を確立しているエリートたちに立ち向えるのは彼だけだと考えたからだろう。その結果、この国はいまだに収奪的制度を脱することができず、一方でブラジルは旧弊を打破できたのだ。

2025年11月22日土曜日

20251121 株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻 pp.95-99より抜粋

株式会社集英社刊 サミュエル・ハンティントン著 鈴木 主税訳『文明の衝突』下巻
pp.95-99より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4087607380
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4087607383

中国が21世紀まで経済の高度成長を持続でき、鄧小平の時代まで団結を保ち、主導権争いで混乱しなければ、覇権を目指すことになるだろう。それが成功するか否かは、東アジアの武力外交ゲームの他の当事者の反応にかかっている。

 中国は、歴史、文化、伝統、その領土の大きさ、経済的な活力、自己のイメージなどのすべてから見て、東アジアでの覇権を求めようとするだろう。この目標は、その急激な経済発展から見ても自然なものだ。他のすべての強国、イギリスとフランス、ドイツと日本、アメリカとソ連は、自分たちが急激な工業化と経済成長をはたすと同時に、またはその直後の時期に、領土拡大や強い自己主張、そして帝国主義に走った。経済的、軍事的な力をたくわえたあとで、中国が同じようなことをしないと考える理由はまったくない。2000年にわたって中国は東アジアで抜きん出た強国だった。その歴史的な役割を回復しようとする意思を、中国はますます強く示しはじめている。1842年に、南京条約をイギリスに押しつけられたときからはじまって100年以上にわたった西欧と日本にたいする長い屈辱的な従属の時代に終止符を打ちたいと思っているのだ。

 1980年代の末に、中国はその拡大する経済的な資源を、軍事力や政治的影響力に変えようとする力は、成長する経済の大きな部分を占めるだろう。公表された数字では、1980年代の大半を通じて、中国の軍事支出は減少してきた。しかし1988年から1993年のあいだに、中国の軍事支出は、現在の貨幣価値に換算して倍増し、実額で50%増えている。1995年の計画では、前年度よりも21%の増加を見込んでいる。1993年の中国の軍事支出は、公式の外貨換算率でおよそ220億ドルから370億ドルのあいだ、実際の購買力平価では900億ドルと予測されている。1980年代末に、中国はその軍事戦略を書きかえ、ソ連との本格的な戦争にともなう侵略への防衛から、地域内で突出した軍備拡張を中心にした戦略に変換した。この転換にともない、海軍力の拡張にのりだし、近代的な長距離戦闘機を手に入れ、空中給油能力の開発を行い、空母の購入を決定した。中国はまた、ロシアとのあいだで、両者に有益な兵器購入について合意した。

 中国は東アジアで支配的な勢力になりつつある。東アジアの経済発展も、ますます中国志向を強めつつある。大陸中国と他の三つの中国の急成長。それに加えてタイ、マレーシア、インドネシア、フィリピンの経済成長に中国系の人びとが中心的な役割をはたしていることなどで、この傾向がさらに強まっている。中国では、南シナ海における主権を主張する声がますます高まっている。西沙諸島に基地を設け、1988年にはいくつかの島々の領有権をめぐってヴェトナムと交戦し、フィリピン沿岸のミスチーフ岩礁に軍を駐留させ、インドネシアのナトゥナ諸島に接する天然ガス産地の所有権を主張している。東アジアにアメリカ軍が引きつづき駐留することにたいしては、控え目な支持を打ち切り、強く反対しはじめた。冷戦時代には、ひそかに日本に軍事力拡張をうながしてきたが、冷戦が終結すると同じように、日本の軍事力拡大にたいする懸念をしだいに強く表明するようになった。地域での覇権国の通例にしたがい、中国は地域における軍事的優越性を確保するための障害を最低限にしようとしている。

 南シナ海などのわずかな可能性をのぞいて、東アジアにおける中国の覇権には、直接的な武力の行使による領土の拡大は必要がないと思われる。しかし、中国は他の東アジア諸国に、程度こそちがえ左記のいくつか、あるいはすべてを期待するだろう。

●中国の領土保全、チベットと新疆ウイグル自治区に対する中国の主権、香港と台湾の中国への併合。

●南シナ海と、場合によってはモンゴルにたいする中国の主権を黙認すること。

●経済、人権、兵器拡散、その他の問題をめぐる西欧との紛争で中国を支持すること。

●この地域で、中国が圧倒的な軍事力をもつことを容認し、その優位に対抗できるような核兵器、通常兵器をもたないこと。

●地域的な問題に対処するのに、中国の指導力を尊重すること。

●一般的に中国からの移民を受け入れること。

●自分たちの社会で、反中国人運動を禁止するか抑止すること。

●それぞれの社会に居住する中国人の権利を尊重すること。彼らが中国国内の親戚や、出身地域と緊密な関係を保つ権利を尊重すること。

●他の勢力と、軍事同盟や反中国的な提携関係を結ばないこと。

●東アジアの公用語として、まずマンダリンに英語を補完させ、最終的にはそれを公用語にするようにすること。

 専門家によれば、中国お急激な興隆は、19世紀末期のヨーロッパで、ウィルヘルム時代のドイツが支配的勢力として勃興したのに似ているという。新しく強大な勢力が出現すると、かならず大きな混乱がともなう。実際に中国が主要勢力となったら、過去500年に起こった似たような現象も、すこぶる矮小なものに見えるだろう。「世界に占める中国の領土は巨大なもので」と、1994年にリー・クワンユーが述べている。「30年から40年ののちには、新しい力のバランスを見出さなければならない。それは単に新しい巨大な勢力というだけにとどまらない。人類史上、最大の勢力だ」。中国の経済発展が、あと10年つづいたら(可能に思える)、そして後継者選びのときにもその団結を維持できれば(できそうに思える)、東アジア諸国はもちろん世界中が、人類の歴史で最大の勢力がますます独断的な役割を演じるのを受け入れざるをえないだろう。

2025年11月20日木曜日

20251119 複数分野の往還による疲労感について

 過日、目標としていたブログの10年間の継続、および2400記事の投稿を達成し、現在は休止状態ではありますが、その後もほぼ毎日、何かしらの文章は作成しており、実際のところは、休止と云えない状態であると云えます。また、ブログの閲覧者数も、過日到達した100万人以降も多少は増加しています。とはいえ、こうした数値は自慢出来るようなものではなく、他の多くの視聴者、閲覧者数を得ている配信者、発信者の方々と比較しますと、実に微々たるものであると云えます。しかし他方で、これら継続期間や投稿記事数そして閲覧者数は、特に経済的利益を企図したものでなく、むしろ、開始当初の頃からの葛藤による、已むに已まれぬ活動であるならば、それなりに頑張った方であるようにも思われます。

 私は先ず、新卒として三井観光開発株式会社に入社し、その事業所である複数ホテルに勤務し、とりわけ、南紀白浜の白良荘グランドホテルでの勤務の際には、当地の歴史文化や自然環境に興味を持つようになり、やがて、そこで得られた経験を明晰化、整理することを望むようになり、そして当地にある大学の大学院修士課程に進学し、地域学を専攻しました。この当時は、それまでの人生で最も書籍を多く読んだ時期であり、また、その前後において、内面の何かが変化したように感じられました。修士課程を修了しますと、今度は開業した実家での勤務が出来るように、歯科技工士となるべく、都内の歯科技工専門学校に進みました。こちらの専門学校は、さまざまな材料を用い、自らの手により、各種、歯科補綴装置の作成を学ぶ場所であり、それまでの人文的な思考とは異なる、より身体性に基づいた理解が求められました。そして、こちらも卒業して、歯科技工士免許を取得しましたが、以前に「今後は歯科技工士も大学院に進まなければ…』とのご意見に接し、また私の方も、人文系ではないが、こちらも、さらに研究したいと考えるようになり、歯科技工士の進学先として妥当と云える歯科生体材料学分野の大学院博士課程に進学しました。
 当初、この分野での諸研究は大変興味深く感じられ、私の方も、それなりに研鑽努力をして、実際に学会で優秀発表賞を何度か受賞させて頂きました。しかし、2010年暮れに指導教員である師匠が退職され、その後、嫌なことも少なからずありましたが、周囲の方々からのご支援もあり、紆余曲折の経緯を経て、どうにか学位取得にまで至ることが出来ました。

 こうした複数研究分野(地域学・歯科生体材料学)を横断するなかで、私は一つの研究分野での言語体系(ボキャブラリー)に依拠しない考え方を無意識のうちに育ててきたのではないかと思われます。思考の幅や深さは、運用可能なボキャブラリーの量と密接に関連します。そして、一つの言語体系のなかで考える方々は、その言語体系、すなわち分野を超える批判力や、その先の創造性を持ち得ることは困難であると考えます。換言しますと、ある言語体系を批判し、それを乗り越える為には、異なった言語体系を知る必要があるのではないかと云うことです。

 そこから、自らの紆余曲折を経た経緯を振返ってみますと、人文系と歯系、抽象と具象と云った異なるボキャブラリーを要する分野に身を置き、その都度で考えを整理したり、結節させたりしながら、遅々としたものではあるかもしれませんが、自分なりに理解を深めてきました。社会人時代のホテルフロントでの勤務経験は、地域の歴史や文化に対する興味関心を惹起させ、その後、地域学を学ぶ経験では、さまざまな構造を考える枠組みを認識し、さらにその後、歯科技工および歯科理工学での学びからは、さまざまな試料作製や機器を用いる実験により、具体的な現象を理解する態度を育てました。また、これらは異なった分野である一方、深層では互いに結節、補完し合うものであると云えます。また、冒頭で述べました、当ブログの投稿記事数と関連すると思われることは、実験のために作製した、さまざまな条件での試料数が合計で10000を超え、さらに、予備実験段階のものをも含めると、おそらく20000を超えていたと思われることです。そして、この程度の試料を作成してきたことは、前述の投稿ブログ記事数とも関連があるように思われ、また、具体的な事例を積み重ねて全体像に迫るという帰納的なアプローチを好むと云う、自らの傾向を示しているのではないかと思われるのです。実験に用いる試料の作製と、ブログ記事の作成は、一見しますと、全く異なる営みであるかもしれませんが、それらの背景にあるスタンスは意外なほどに共通しているのではないかと思われます。

 こうした複数の分野・言語体系に身を置く経験とは、原初的な科学の態度や精神と云い得る「物から出て物へ返す」つまり、経験と観察を重視しながら、異なる複数分野の言語体系を自在に横断する態度とも通じるものがあるように思われるのです。さらに、そこから、東洋の伝統的な思考法がそうであったように、私は人文系、歯系といった複数の分野を、異なったものとしてではなく、あるいは「いい加減」とも評し得るのかもしれませんが、互いに往来可能なものとして捉えているのではなかかと思われるのです。

 そこから、現在感じている憂鬱さや疲労感とは、複数分野を往還してきた者が、一つの区切りに至った際に覚える種類のものであるとも思われるのです。とはいえ、これはおそらく、恒常的なものではなく、当ブログを含めた、これまでの経験が統合されつつある兆候であるようにも思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?いずれにしましても、今しばらくは基本的に休止しますが、今後、また回復してきましたら、次はどの方向に進むのかは不明ではありますが、また焦らずに、遅々とした更新頻度ではあれ、当ブログをさきに進めたいと考えています。そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。

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~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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連絡先につきましては以下の通りとなっています。

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どうぞよろしくお願い申し上げます。

2025年11月12日水曜日

20251111 2400記事に到達して、現在読んでいる小説から

 去る5日に2400記事に到達し、そのあと数日間は、どうしたわけか眠気が抜けずに始終ぼんやりした状態が続きました。こうしたことは、これまで、あまりなかったことから、不思議に感じられましたが、それも数日のうちに収まり、現在は多少風邪気味ではありますが、概ね通常の状態に戻っていると云えます。

 ブログの更新はもう少し休みたいのですが、実際には、他でも文章を作成しており、また、ChatGPTを援用した文章の作成も相変わらず継続しています。そのため、当ブログから離れているといった実感はありません。10年間以上、当ブロガーにて文章を作成していますと、このフォームでの文章作成が習慣化してしまうのか、ブログに投稿する以外の文章作成も、このフォームで行うことがよくあります。おそらく、このフォームでの文章作成が落ち着くようになってしまったのだと思われます…(苦笑)。

 そのようにして作成した下書きの文章は今や300以上あります。そして過日、2400記事に到達したのを機に、それら下書きの整理のために閲覧していますと、それなりに面白く感じられ、続きを作成したいと思うものも複数ありました。とはいえ、これまで閲覧出来た下書きは30にも満たず、おそらく今後、整理を続けて行きますと、さきと同様、面白く感じられるものが、それなりに数多く見つかるのではないかと思われます。

 加えて、つい先日より、新たに小説を読み始めました。それは過日、複数の方々が「名作であると思う」と評価されていたためであり、書店で立ち読みをしてみますと、確かに興味深い作品であると思われたことから購入しました。読み進めて行きますと、かなり久しぶりの小説ということもあり、新鮮に感じられ、思いのほか早いペースにて読み進めることが出来ています。また、当作品は四巻ものの長編でありながら、一巻毎でも物語はひとまず結ばれており、これまであまり馴染みのなかった構成であると云えます。

 現在読み進めている第一巻の舞台は20世紀初頭(明治末~大正初期)の我が国です。また、作品で描かれる世界は、少し後(20年ほど)の時代を扱った野上弥生子の長編『迷路』や、武田泰淳による『貴族の階段』と近似したものが感じられますが、当作品では、特に、登場人物の会話が生々しく、場面毎にその雰囲気が立ち上がってくるようであり、そして、その為か、読んでいますと自然に引き込まれ、頁が進んでいるといった感覚があります。

 当作品の他にも、併行して読み進めている著作が幾つかありますが、そのなかでも、かなり久しぶりに読む小説である当作品には、未だ明確に言語化出来ませんが、何やら不思議な感じがあると云えます。そして、その感じがどのようなものであるかは、さらに読み進めてみますと、もう少しは明瞭化されると思われますが、とりあえずは、この感覚を味わいつつ読み進めて行こうと思います。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。


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2025年11月6日木曜日

20251105 2400記事への到達  変動の時代にて

 本記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。しかし、そうした実感や高揚感もなく、以前からの凪のような状態が続いているように思われます。それでも、記事作成が半ば習慣化しているためであるのか、このまま、気負わずに先を続けることが出来るのであれば、それはそれで自然な形であるのかもしれません…。

 当ブログを始めたのは2015年6月22日でした。そして本日が2025年11月5日であることから、丁度、3789日経過したことになります。そして、その間の総投稿記事数が2400であることから、単純計算しますと、この期間の中で5日のうち3日以上は記事を投稿してきたことになります。また、近年は投稿頻度がやや落ちていますが、これは、開始から3年間は、ほぼ毎日投稿してきたことが期間全体での平均を押し上げているのだと云えます。

 10年以上にわたり、停滞やスランプもありましたが、当ブログを止めることなく継続できたことは、外面での成果というよりも、内面的な持続の成果であると云えます。

 また、2400という数値は、単に区切りが良いだけでなく、割り切れる数が多く、時間や周期の単位とも呼応します。10年という継続期間を踏まえますと、この数値には、ある種の構造的な必然性があるようにも感じられてきます…。

 この10年間で、記事の主題や文体は変化してきました。当初は、歯科材料や地域学など、これまで取り組んできた分野の内容が中心であり、文体も硬質でした。その後、高等教育や社会制度への考察へと関心が広がり、さらに、当ブログそのものを題材とする記事も増えました。こうした変化は、単なる主題の変遷ではなく、「書く」という行為そのものの意味が変わってきた過程を示しています。すなわち、文章を通じて内省をして、そこから得られた考えを再び文章として返す、この往復の過程が当ブログを形成してきたのだと云えます。

 そして、2400という数値は、この往復のリズムが一つの均衡点に達したことを示しているようにも思われます。月平均約20本、年間約240本という投稿ペースは、意図的に設定したものではなく、日々の積み重ねの結果として自然に形成されたものです。むしろ、その自然さの中に調和を見出すことができます。

 また、2020年以降の世界的変動は、当ブログにも少なからぬ影響を与えました。新型コロナウイルス感染症の拡大は、社会全体を内向化させ、人と人との距離や時間の使い方を変えました。私自身も外出を控え、自宅で過ごす時間が増えたことで、必然的にブログ執筆へと向かう時間が増えました。この時期に書いた一連の【架空の話】は100本を超えましたが、コロナ禍の収束とともに筆が止まり、現在は中断状態です。

 2022年に始まった第二次宇露戦争は、作成記事の視野を大きく広げました。世界情勢に対する関心が再び高まり、国際関係論などに関する著作を改めて読むようになりました。この戦争は、我が国の民主主義社会にも少なからぬ影を落とし、これまで長く続いた安定の前提が揺らぎつつあることを実感させました。私は特定の政治的立場を取らず、さまざまな歴史的経緯の中から共通する構造を見出そうと努めてきました。そのため、読書や関連する主題の記事作成とは、現実をより明晰に捉えるための手段であると云えます。

 翌2023年にはパレスチナ紛争が再燃し、世界の分断はさらに鮮明になりました。膨大な情報が交錯するなかで、何を信じ、どのように記すかの判断が、一層困難になりました。たとえ個人ブログであっても、実名で公に発する文章には、少なからず緊張感が伴います。この当時の張りつめた空気感は、投稿する文章にも少なからず影響を与えました。

 このように、変動の時代において「文章作成」という行為は、単なる表現を超えて、時代と自己の関係を記録しようとする試みへと変化したと云えます。かつて、専門領域や研究の延長で始めた文章作成が、やがて社会の動きに呼応し、時には個人をも超えて、世界の一部として位置付けられるようになりました。もしも、こうしたブログに意味や価値があるのだとすれば、それは、変動する世界の中で、揺れる個人と社会との関係を、明晰に認識しようとする試みであることによるのではないかと考えます。

 2020年代前半は、我が国を取り巻く環境が急速に不安定化した時期であったと云えます。そして、その不安定さは当ブログにも影響を及ぼしましたが、変動とは常に起こり得るものです。大切であるのは、そのなかで何を観察し、何を記すかということであると考えます。10年間の継続期間の中で、私の文章は内面を映す鏡であると同時に、多少は外界の変化を写す鏡にもなりました。

 今回の2400記事への到達は、一区切りではありますが、これからも変動を続けるであろう、さまざまな情勢を注視しつつ、及ぶ限り、文章作成を継続して、自らの認識をより明晰なものにしていきたいと考えています。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。


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~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2025年11月5日水曜日

20251104 黎明期の試作機である私について

 当記事を含めて、残り2記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。さて、以前にも当ブログで述べたことがありますが、私は2007年に修士(経済学)を取得後、歯科技工専門学校に入学し、歯科技工士としての専門教育を受け、2009年に歯科技工士免許を取得して、歯科生体材料学を専攻分野として大学院博士課程に進学、2013年に博士(歯学)を取得しました。

 現在では、国内に4年制の歯科技工士養成課程を有する大学が2つあり、広島大学が2005年、東京科学大学(旧・東京医科歯科大学)が2011年に、それぞれ設置されています。それ故、私が博士号を取得した2013年当時、仮に最初の学士課程の入学生が順調に進学されていたとしても、博士課程3年目にあたる段階であり、修了には至っていなかったと見込まれます。つまり、その時点で修士課程を経て課程博士を修了した歯科技工士の事例はほとんど存在せず、私の修了は、ごく初期、あるいは日本初であった可能性もあると考えています。

 キャリアパスが整備される以前に、異分野の修士課程を経て、歯科技工士として進学が妥当と云える歯学分野の博士課程に進み、どうにか修了にまで至ったことは、巨視的に見れば、我が国の歯科技工士教育と歯学分野の学術研究とを結節する、ごく初期の試みであったと云えます。

 現在では、4年制大学での課程を卒業された歯科技工士の方々が、大学院修士課程、さらに博士課程へと進学する事例も聞かれます。そうした整備された道を歩まれてきた方々と比べますと、私などはまるで、黎明期の試作機、あるいは不格好な多砲塔戦車のような存在と云えるかもしれません(苦笑)。しかし、そうした時期であったからこそ、特有の創意や自由闊達さもまたあったのではないかと思われます。

 とはいえ、その過程には以前にも述べました通り、さまざまな困難があり、決して順風満帆なものではありませんでした。そうしたなか、2012年、教授(師匠)も准教授の先生もおられない状況で、担当させていただいた鋳造および鑞付けの歯科理工学実習では、研究室の先生方からご許可を頂き、人文的な話題を随所に交えながら実習を進めることができましたが、これは余程、自分の性質に合致していたのか「それまでの人生がこのためにあったのだ!」と感じられるほどの経験であり、それだけに、今なお強く記憶に残っています。

 それでも、学位取得後の道のりもまた、決して平坦なものではなく、まさに紆余曲折を経るものでした。黎明期の人間として、その不完全さなどネガティブな面全てを含めて、まあ自分らしい経路であったのではないかと思われるところですが、今後は、これまで培った経験を活かしつつ、若い世代の医療専門職の方々が、より自然に人文書に興味を持ったり、臨床と研究とを往還出来るような環境の整備に微力ながら関わりたいと考えています。

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2025年11月4日火曜日

20251103 和歌山と鹿児島と当ブログについて

 当記事を含めて、残り3記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。さて、直近の投稿にて「ブログ開始当初から文章化したいと考えていることに、少しずつ、にじり寄っているようにも感じられる」と述べましたが、これは、開始当初の頃の文章作成への勢いを、葛藤や精神的な苦しさを伴うことなく再活性化しようとする試みであるようにも思われます。

 当ブログは、2013年の学位取得後、帰郷して2年ほど経た2015年に始めましたが、その契機は、文章作成そのものよりも、「それを行わなければならない」と思い込む、ある種の感情にありました。そして、その感情は、南紀白浜や和歌山で得られたものではなく、むしろ、その後の鹿児島での在住期間に醸成されたものであったと云えます。

 昨今も何度か、和歌山や南紀を題材とした記事を作成・投稿していますが、それらの作成を支える根源にある感情は、やはり鹿児島で得られたものであると云えます。南紀白浜および和歌山での在住期間は、いわば、そうしたことを感じ、考えるために学び、耕していた時期であり、その上に鹿児島での経験が種や雨、日光となり、当ブログが芽吹いたのだと云えます。

 以前にも述べましたが、元来、私はこうした文章を実名で継続的に公表するような種類の人間ではありませんでした。それが後になり、葛藤や苦悩を和らげるために文章を作成するようになったのだと云えます。そして、その背後には、何らかの「経験」がありました。それは、「自らの実感を伴った理解を言語化し、それを他者に伝える」という行為でした。

 こうした行為を繰り返すうちに、そこで得られた実感が、次第に私に「表現せよ」と促すようになりました。しかしながら、「表現せよ」と内面の声があったとしても、文章による表現を継続するためには、ある程度の内容が必要であり、その意味で、投稿頻度に多少の変動はあるものの、どうにか10年以上、当ブログを継続できたこと自体が、先の鹿児島で得られた経験の性質を示しているのだと云えます。

 とはいえ、これまでも述べてきましたように、鹿児島での経験は決して楽しいものばかりではありませんでした。兄の死、師匠の退職といった出来事が続き、全体としては苦い記憶のほうが多かったのではないかと思われます。それでも、そうした状況であったからこそ、「実感を伴った理解を言語化する」際の私の言葉に、ある種の切実さが付加されたのではないかとも思われます。その意味で、言語とは、単に記録のための手段ではなく、喜ばしくない経験に意味を与え、変換する機能をも併せ持つものであると考えます。

 現在、目指している2400記事への到達とは、おそらく、単なる通過点に過ぎません。しかし、そこに至るまでには、確かに私自身の歩みが刻まれています。実際、初期の投稿記事を読み返してみますと、現在のそれよりも、さらに稚拙なものが多いのは事実です。しかし、それら初期の文章があってこそ現在があるのだと云えます。

 おそらく、文章の作成という行為は、結論的な見解を得るためだけのものではなく、問いを持ち続けるためにあるのではないかと考えます。そして、その問いを持ち続ける限り、私はこれからも、何らかの形での文章作成を行うと思われます。

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2025年11月3日月曜日

20251102 記憶と文章作成との距離について

 当記事を含めて、残り4記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。他方、ここ最近はスランプ気味であり、文章作成への意欲が湧きにくい状態が続いています。それでも、目標まであと数記事であることを考慮すれば、やはりここは、新たに作成・投稿を重ねる方が良いと云えます…。

 さて、ここ数か月内に投稿した記事の中には、継続的に(当ブログとしては)比較的多くの方々に閲覧されているものがいくつかあることに気が付きました。また、それら記事はいずれも、多少、時間を掛けて作成したものであったことに気が付きました。そしてそこから、一つの文章作成手法を思い付きました。すなわち、ChatGPTを援用し、ブログ記事の断片となるような数百字程度の文章を、気軽にいくつか作成しておき、それら文章に日々気が付いた時に少しずつ加筆修正を行い、時間を掛けて推敲し、文量を適度なところまで増やしたうえで、全体を見直して再び加筆修正を行うという手法です。

 この手法の肝心なところは、「時間を掛けて推敲する」その時間の長さにあります。半ば忘れるほどの期間をおき、いわば「寝かせた」文章を記憶が少し薄らいだ頃に改めて読み返すと、不思議なことに、そこからスムーズに加筆修正が進み、意外にも早く、一旦の完成に至ることが多いのです。さらに、投稿後も数日間は時折開いて文章を読み返し、何度か加筆修正を行いますと、何といいますか、それなりに文章として整ってくるように思われます。

 こうして作成した記事が、継続的に(当ブログとしては)比較的多くの方々に読んで頂いていることは、作成者である私にとって喜ばしいことであり、端的に、今回の記事作成へとつながっています。また同時に、ここ最近の投稿記事では、開始当初から文章化したいと考えていることに、少しずつ、にじり寄っているようにも感じられます。換言しますと、作成記事の内容が、当ブログのいわば「源泉の感情」に徐々に近くなっているのだと思われます。

 しかし、不思議なことに、そうした内容をブログ記事として文章化・投稿した後には、何故か強い疲労感を覚えます。さらに、その当時の嬉しくない記憶も想起され、しばらく落ち込み気味になってしまうのですが、それも数日経つと概ね回復して、再び新たな文章作成に取り掛かることができます。そこから考えますと、ブログ記事の題材とする自らの経験の時期は、ある程度、時間的に離れつつも、比較的明晰に眺められる時期こそが、あまり疲労を伴わずにスムーズに文章化することが出来るのではないかと思われます。

 私の場合、具体的にそうした時期を考えてみますと、それは2000年代後半あたりであると思われます。この頃の私の特徴は、読書量が急激に増えたことでした。書籍を読むことと、文章化できる記憶を持つことの関係が、どのようなものであるか、現時点の私には科学的に説明することはできませんが、経験的に、何らかの関係があると思われます。

 また、それらを表わす文字に目を向けてみますと、記憶とはすなわち歴史のことであり、古くは「史」と書いて「ふみ」と読みました。一方で、文章の「文」も同様に「ふみ」と読みます。つまり古では、記憶としての歴史も、それを記した文章も、同じ呼称「ふみ」であったのではないかと思わます。このことは以前にも当ブログで述べたことではありますが、先述した「記憶の文章化に伴う疲労感」を通じて、あらためて、その意味を実感しました。

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2025年10月31日金曜日

20251030 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」 pp.134-136より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」
pp.134-136より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188552
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188559

暦本純一: AI研究は時間の流れが速い。そのまま本にすると情報が古くなってしまうので、年末にあらためて対談を行いました。

落合陽一:「最新」を伝えてもどうせすぐに古くなる。むしろ一種のエスノグラフィーを目指しました。

清水亮:おっしゃるとおりAI研究の状況が日々目まぐるしく変わるなかで、あの対談はタイトルのとおり、とても普遍的な議論がなされているものでした。

暦本:要は「2023年ごろの人類はなにを考えていたのか」を残そうとしたわけです。ぼくも落合くんも。来年にはぜんぜんちがう考え方やアイデアを持っているかもしれません。それくらいAIの世界は日進月歩です。その意味で、この五月にハワイで開催されたCHI(Conference on Human Factors in Computing System)という国際学会は象徴的でした。ほんらいはグラフィックスや入出力デバイスを中心に、人間とコンピュータの関係をあつかう学会です。VRやマウス、キーボードのように、手や身体を使ってリアルタイムに操作するもののイメージですね。そんな身体的なインタラクションの牙城とも言える学会に、AI研究が突然大量に入り込んできたんです。

清水:AIはエージェントですから、人間が直接操作するものではありませんよね。

暦本:そうです。同じ学会の発表内容が、たった一年でここまで変わることはかつてなかったと思います。

落合:ぼくも参加しましたが、今年はLLM関連の発表ばかりでしたね。ただ困ったことに、採録は23年の9月だったので、実際に発表されるときにはどれも賞味期限が切れてしまっていました。

清水:なるほど、半年以上もまえの研究だからもう古くなっていたんだ。

暦本:たとえば「なぜLLMは‘‘Knowledge Navigator‘‘を作れないのか」という趣旨の発表がありました。「knowledge Navigator」は1987年にAppleが制作した映像作品で、そこではタブレット端末に搭載されたAIのエージェントが、ユーザーと流暢に会話する様子が描かれています。

清水:あの映像はとてもおもしろいですよね。約40年前の映像作品とは思えないほど未来を先取りしている。「なぜLLMは‘‘Knowledge Navigator‘‘を作れないのか」とはつまり「なぜAIはふつうに会話できないのか」ということですね。

暦本:そのとおりです。たしかに発表が採録された2023年の段階では、AIは「knowledge Navigator」ほど自然に会話できませんでした。しかし奇しくも当の発表の前日、2024年5月13日にChatGPT-40が公開されてしまった。あまりに自然に会話ができるので、みな衝撃を受けました。その翌日に「なぜAIはふつつに会話できないのか」という発表を聞くのは、なかなか気まずい体験でした。

落合:今回の工学系の発表は退屈でしたね。むしろ人間に焦点を当てた研究のほうがおもしろかった。「ロボット掃除機にあだ名をつけてしまうのはなぜか」とか「VRで飲み会をやるとふだんより酔いやすい」とか(笑)。

暦本:CHIはわりとなんでもありなので、そういうおもしろい発表もできます。地方で研究の対象や分野がきっちり決まっている学会が、このゲームチェンジに対応するのが大変かもしれません。

落合:もはや学会の存在意義そのものが謎ですよね。論文の発表を中心とするいまの学会のあり方は、19世紀に形成されたフォーマットです。しかしもはや、学会はほんらい行うべき知の交換と、根本的にスピード感があっていない。AIをめぐる現状はそれを可視化したように思います。

暦本:すぐれた研究は「arXiv」などでプレプリントをさきに読むから、学会はたんなる答え合わせの場になっていますよね。

清水:たしかに、ぼくもあの学会のあり方は疑問で、とくに査読がそうですね。いわゆるWorld-wide web論文や、ChatGPTを支える深層学習モデル「Transformer」を提案したAttention論文といった、重要な論文が査読で落とされた事例は少なくない。議論があまりにも先駆的だと、内容が正しいかどうかの判断がむずかしいですから。

落合:新しい情報やアイディアの交換はもうすべてX(旧Twitter)で済ませればいいんじゃないですかね。

暦本:もちろんそのほうがスピード感は出ますが、発表の場がウェブだけになると、発信力の強いプレイヤーだけが生き残ってしまう懸念もあります。まったく無名のひとがいい研究を発表しても、同時期に同じような内容をGoogleやMetaが公開してしまったら、そのひとの研究成果は埋もれてしまう。学会とは、どんな無名のひとでも研究の内容そのものを適切に評価しようとする、例外的なコミュニティです。とはいえ、非効率性や査読の正確性といった問題があるのはそのとおりなので、よしあしは慎重に検討しなければいけませんが。

清水:これからは自由で雑多な研究をテンポよく共有できるような、新しい学会のフォーマットが必要なのかもしれませんね。

2025年10月29日水曜日

20251028 創造の源泉と歴史的視座について

 当記事を含めて、残り6記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。また、当ブログは2015年に開始し、その5年後に新型コロナ禍が世界を覆い、さらにその2年後には、現在の混乱している世界情勢の要因となった第二次宇露戦争が勃発しました。

 このような世界的出来事が立て続けに起こるなか、世界規模で情報は飛び交い、私もまた、それらの情報を得るために海外の報道機関の動画やサイトを視聴・閲覧する習慣が身につきました。それ以前であれば、こうした必要性を考えることはなかったと思われます。

 そして、2015年から始めた当ブログにて、文章を書き続けていたことにより、21世紀に起こったこれら世界史的出来事および、それらの推移について、後追い的ではあっても理解を深めることが出来ているのだと考えます。

 しかし一方、近年の社会では、膨大な情報が絶え間なく流通しています。PCを開きインターネット画面を見れば、瞬時に世界の何処かで生じた出来事が目に入り、さらに、そこに次々と他者の意見や主張が押し寄せています。

 こうした情報の氾濫の中に身を置きながらも、我々はむしろ「何が本質であるのか分からない」という感覚を強めているのではないでしょうか?情報は増え続けているにも関わらず、それらを意味付けて未来への指針とする統合力がなければ、情報や思考は断片のままに留まり、統合化からはじまる創造活動全般は停滞してしまいます。

 では、この統合力はどのようにすれば見出すことが出来るのでしょうか。私はその答えの一つを、歴史に見出しています。歴史とは、単なる過去の出来事の記録の集積ではありません。それは、さまざまな過去の出来事を統合し、現在の事象がどのような文脈の上にあるのかを理解するため、あるいは今後の社会の方向性をある程度見通すための枠組みであると云えます。

 歴史を学ぶことにより、我々は、眼前の出来事を偶然によるものとしてではなく、一定の連続性やパターンの中にあるものとして認識することが出来るようになります。そして、視野を拡げれば、現代社会のさまざまな課題や問題もまた、一時的な現象ではなく、連綿とした過去の文脈の流れとして理解されるようになるのではないかと考えます。つまり、歴史を学ぶということは、過去からの連続性を見通す視座を持つことであり、それを得た時、初めて、我々は現在の大小さまざまな事象を理解することが出来るようになると云うことです。

 こうした認識を踏まえて、これまで10年間、ブログを継続してきたことを振返りますと、それは、現代の複雑な情報環境の中で、自らの知的立脚点を確認し続ける行為であり、また、歴史的な視座から現在の事象を読み解く試みでもあったのだと云えます。

 しかしながら、こうした営みは決して容易ではありません。たとえブログ記事であっても、実名で公開する文章を作成するには、ある程度の集中力と、それに伴う疲労があります。また、文章の作成とは創造的な行為であり、そこには必然的に孤独が伴います。

 それでも私が当ブログを止めなかったのは、実名で公表する文章の作成が単なる発信ではなく、大袈裟に聞こえるかもしれませんが「歴史的文脈の中に自らを位置づける営み」であると漠然とながら考えていたからです。

 では、なぜ自らを歴史的文脈に位置付けようとする営みを続けたのか、その根底には「他者の存在」を意識していたことがあると云えます。

 私を含め多くの人々は、誰かに理解されたい、承認されたいという欲求を持っています。とりわけ男性にとって、女性からの共感や応援は、生の根源的衝動と結びついた力として顕在化することが数多くあります。つまり、男性の創造活動の背後には、しばしば「女性という他者のまなざし」が存在しているのだと云えます。

 こうして始まった創造活動は、単なる恋愛感情を超え、「自分の存在がこの世界に受け入れられているのか」という深層の問いにまで至ることも多々あります。近年の我が国での世知辛くなってしまった男女関係のなかで、こうした構造は語られることが少なくなりましたが、人間の精神の深層には、今なお「創造とは他者との関係性の中で生まれる営みである」という本質が脈打っています。

 継続的な創造とは、孤独な営みであると同時に、他者から評価され、共感される可能性を信じるからこそ成立します。そして、その「他者」への理解を深め、対象を統合する力を養う手段こそが、歴史への学びであると考えます。

 現在のさまざまな事象を歴史的文脈を通して理解したとき、初めて我々は、自らの創造がどこから来て、どこへ向かうのかという道筋を、ある程度見定めることが出来るのだと考えます。したがって、歴史を学ぶことは過去を懐かしむための行為ではなく、現在の視野を明晰に認識し、その先に未来をも見通すための知的行為であると云えます。

 そして創造とは、他者との関係性の中で生まれる、人間固有の根源的な営みであり、その営みを支えているのは、自らの存在を誰かに受け入れられたいという欲求であると考えます。この欲求を否定するのではなく、むしろ、その力を理解し、創造へと昇華させる時、我々は初めて、さらなる精神の自由を獲得し、創造的活動の主体になることが出来るのではないかと思われますが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。
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