2025年3月2日日曜日

20250301 紀伊半島西部の河川流域の歴史文化についてのブログ記事を作成していて思ったこと

 先日来より、紀伊半島西部を流れる河川流域の歴史文化を主題としたブログ記事を幾つか作成しています。これは現在も進行中であり、ブログの新規投稿を行わない日も、何かしら文章を作成をしたり、調べものをしたり、あるいは既投稿記事の加筆などをしています。そして、何故、今になり修士課程での研究テーマをまた視座を変えて扱ってみるのかと思い出してみますと、それは過日投稿の『20250206 既投稿記事からの発見と、ブログ記事作成への影響について』にて、これまでの投稿記事は紀伊・和歌山を主題とした記事が多かったと述べ、また現在も、年に二回程度当地を訪問する機会があることから、継続的に当地域に関心があり、私としては比較的文章化し易いのだと思われます。くわえて、冒頭で述べた地域の歴史文化を主題とするブログ記事を作成したり、あるいは作成のための調べものをしていますと、突如として当時の記憶が想起されることが度々ありました。そして、それらの想起された記憶は、作成中の文章や、調べものをしている書籍の記述と関連があるものが多いのですが、それらの想起された記憶と作成する文章とを、さらに混淆させて加筆をしたり、あるいはまた、新たに作成することにより、読み易い、読み難いは関係ないものの、文章に個性あるいはオリジナリティ(独自性)が付与されるのではないかと考えます。また、こうした試みは、以前より試みているChatGPTを用いた文章の作成と組み合わせることにより、以前と異なる方法で、自らの文章を作成することが出来るようになりますので、現在進行中の冒頭テーマでのブログ記事作成は、ここ最近では珍しく、続きを作成するのが少し楽しみです。以前に用いた、さまざまな資料を振り返ることで、以前は見落としていた事柄に気が付いたり、あるいは異なる解釈が生まれることは文章作成の醍醐味と云えます。そして、こうした作業を通じて、単に自らの内面の動きを説明するだけに留まらず、それらを多少は深化させて、さらに、それらを発信できることは、これまで継続してきたことではありますが、やはり、それなりに楽しいものであると云えます…。

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2025年2月21日金曜日

20260220 有田川流域の歴史と文化について(0303加筆)

 和歌山県中北部を東西に流れる有田川は、紀伊山地北部を水源として高野山の麓を流れ紀伊水道へと注ぐ。その流域には縄文時代からの遺跡が複数確認されており、後に弥生時代への移行に伴い、水稲耕作の普及により、下流域への定住化が進み、当時代を通じて集落の位置は何度か移動するものの、当地域にて継続的に集落が営まれていたことが分かる。また、当地域からは銅鐸や銅戈などの弥生時代を特徴付ける青銅製祭器も複数出土している。やがて古墳時代になると、ヤマト朝廷と何らかの関係を持った豪族が当地域を支配していたことが複数の古墳と、それらの出土物から示唆される。  
 このように考えてみると、有田川流域は興味深い地域と云える。その理由は、上流部に真言密教本山の高野山があり、その流れが当地域の豊かな自然環境を流れ、ぶどう山椒(ミカン科)や蜜柑といった独特の香気を持つ植物・果実を育み、そして、その最下流部には椒古墳と呼ばれる古墳があることである。言語化は未だ困難であるものの、そこには何らかの深遠な思想があるのではないかとも思われる...。
 ともあれ、話を戻すと、古墳時代以降も有田川流域にはさまざまな変動出来事があり、以降それらについて時系列的に述べていく。

縄文時代
 有田川流域における縄文時代の遺跡は、主に陸地からごく近い島嶼や有田川沿いの丘陵上に分布しており、縄文草創期から晩期にわたる長期間にわたる土器片などの出土物が確認されている。代表的なものとして鷹島遺跡(有田郡広川町)や地ノ島遺跡(有田市初島町)が挙げられる。また、下流域には縄文時代の土器片や石棒が出土した野田地区遺跡、そして、近くの藤並遺跡からは、縄文草創期から古墳時代以降に至るまでの各時代の遺物が多数発出土している。縄文時代のものとしては磨製石斧や石鏃を含む石器・土器片などであるが、そこから、当地域(野田・藤並)が複数の時代にわたり中核的な集落として機能していたことが推察される。そして、紀ノ川下流域での、これと類する遺跡としては、太田黒田遺跡が挙げられると考える。 
 くわえて、これら縄文時代の遺跡からシカやイノシシの骨も頻繁に出土しており、そこから当時、狩猟において弓矢が使用されていたものと考えられる。また、それらの骨や角を加工した骨角器も複数出土していることから漁労にも活用していた可能性が高い。さらに、貝塚も発見されており、海や河川からの資源も重要な食糧源となっていたことが推察される。これらの知見から、当時の有田川流域の人々が自然資源を巧みに活用して生活を営んでいたことが理解出来る。
 さらに、自然資源の活用の興味深い一例として、さきに述べた流域の縄文遺跡からは黒曜石製の石器も出土している。黒曜石は火山活動で形成される天然のガラス質の石であり、縄文時代は石器の素材として珍重されていた。しかし、有田川流域には黒曜石の産地が存在しないことから、遠隔地(近くでは奈良県二上山)からもたらされたと考えられることから、当時、有田川流域の人々が広域な交易ネットワークを持っていたことが示唆される。  
 そこから、有田川流域の縄文時代における人々は、地域の自然環境を活用しつつ、地域間の交易活動も活発に展開していたことが理解出来る。また、鷹島遺跡や藤並遺跡などの遺跡が、それぞれ異なった資源利用や交流の様相を示している点も特徴的と云える。このように、有田川流域の縄文文化は、地広域な交易ネットワークを持ちつつ、地域内でも独自の生活文化を形成していたことが出土物から理解出来る。

弥生時代
 紀元前300年頃より有田川流域においても水稲耕作を基盤とした社会が形成されていたことが複数の遺跡や、出土遺物によって裏付けられている。先述の縄文時代以来の藤並遺跡は、弥生時代も地域の代表的な集落跡でもあり、ここでは、整備された水田跡や木製の農具、土器などが多数出土している。一方、有田川下流北岸、有田サンブリッジ北詰周辺に位置する新堂遺跡からは1932年(昭和7年)出土の「大峯銅鐸(新堂銅鐸)」が知られている。約40cmと32cmの2口の銅鐸は、扁平鈕式であり比較的古段階に属し、地域の祭祀に用いられていたものと考えられる。くわえて、当地域での出土青銅器で大変興味深いものは有田市山地(旧有田郡箕島町)で1916年(大正5年)に大阪湾型(近畿型)銅戈6口が、鋒と内側が交互に3口ずつ重ねられ、何やら儀礼的な埋納形態で出土した。また同遺跡からは約27cmの銅鐸も出土しているが、銅鐸と銅戈が同一遺跡で発見されるのは珍しく、他には兵庫県神戸市の桜ケ丘遺跡から14口の銅鐸と7口の銅戈が出土した事例と2007年に長野県中野市の柳沢遺跡にて銅鐸1口と銅戈7口が出土した事例のみである。また、当地で出土した大阪湾型(近畿型)銅戈は近畿地方南端の出土例であり、これに、同地域の旧吉備中学校校庭遺跡から発見された青銅鏡が弥生時代のものとしては近畿最南端の出土例であったことを加味すると、弥生時代のある時期においては、この有田川流域が銅戈や銅鏡を祀る文化圏の最南端いわば「文化果つるところ」であったと推察できる。さらに1877年(明治10年)有田市千田・野井で約43cmの銅鐸が出土したことが伝わっている。そして、これらの当地域で出土した一連の青銅器から、当地には、先述の紀ノ川下流域でのそれはまた様相が異なる青銅器祭祀文化があったことが理解できる。以上のように、有田川流域の弥生時代は、水稲耕作を基軸として展開を見せた農耕社会としてだけでなく、銅鐸や銅戈を用いた独特な祭祀文化を形成し、特に大阪湾沿岸地域との交流により独自のマージナルな文化圏を築いており、換言すると、有田川流域が弥生時代の近畿交易圏の最南端であり且つ重要な地域であったことが推察される。

古墳時代
 有田川流域は、紀伊半島西部に位置し、古墳時代には紀伊水道に面する交通・交易の要衝として栄えた。この地域は、弥生時代以来の農耕発展を背景に豪族が台頭し、古墳時代に入ると権力を象徴する多様な古墳が築造された。これらの古墳群は、単なる埋葬施設にとどまらず、有田川流域が畿内や東北アジア、さらには四国とも活発な文化交流を行っていたことを示している。なかでも椒古墳(椒浜古墳)、箕島古墳群、天満1号墳、宮原古墳などは、それぞれの地域的特色を反映しつつ、流域全体の社会構造や文化的特徴を明らかにする重要な遺跡である。

椒古墳
 有田市初島町浜地区に位置する椒古墳(椒浜古墳)は、有田川流域を代表する前方後円墳である。5世紀中頃から後半に築造され、後円部は直径約20メートル、前方部は幅約8メートル、長さ約5メートルと推定されている。埋葬施設は、近畿圏においても最初期に属する横穴式石室であり、それまで主流であった竪穴式石室からの移行を示す点で、時代の変革を象徴する存在といえる。
 副葬品としては、虺竜文鏡(銅鏡)、石枕、直刀、甲冑、管玉、六弁花形金銅製飾金具などが出土しているが、なかでも特筆すべきは、日本列島では奈良県五條市の猫塚古墳と本古墳の二例しか確認されていない蒙古鉢冑の存在である。この冑は東北アジアの騎馬民族に起源を持ち、同じく紀の川下流域北岸の大谷古墳で出土した馬冑とも類似している。これらの遺物は、椒古墳の被葬者が東北アジアの影響を強く受け、軍事的にも高度な文化交流を行っていたことを物語っている。
 椒古墳周辺にはかつて複数の古墳が存在していたが、1940年(昭和15年)以降の石油精製工場建設の過程で、その多くが失われた。奇跡的に椒古墳のみが現存し、工業地帯に変貌した今もなお、その歴史的存在を伝えている。また、地元にはこの古墳の被葬者を奈良時代の皇族長屋王とする伝承があり、1914年(大正3年)には墳丘上に「長屋王霊蹟之碑」が建立された。現在も地域住民による例祭が行われ、歴史と信仰が交錯する場所となっている。

箕島古墳群
 有田市箕島地区には、箕島古墳群が存在する。箕島の北西部、東西に延びる丘陵の南斜面に築かれ、1925年(大正14年)の蜜柑畑開墾中に発見された。この古墳群は、地域の支配者層が有田川流域の東部を治め、紀の川地域と文化的に密接な関係を築いていたことを示している。現存する1号墳は、標高約10メートルの丘陵先端部に位置する円墳で、玄室の長さ約2メートル、幅約1.5メートル、高さ約2メートルの横穴式石室を持つ。石室の築造技法は、和歌山市の岩橋古墳群と共通する持ち送り積みの方式であり、かつて埴輪が周囲に巡らされていたと考えられる。このことから、箕島古墳群の被葬者は紀の川地域との結びつきが強く、畿内の影響を受けながら地域を支配した豪族であった可能性が高い。

天満1号墳
 和歌山県有田川町の藤並神社境内に位置する天満1号墳(泣沢女の古墳)は、直径約21~24メートルの円墳で、周囲には幅約3メートルの周溝が巡らされている。埋葬施設は南向きの両袖型横穴式石室で、全長約7.6メートル、玄室の長さ約3.6メートル、幅・高さともに約2.4メートルを測る。石室内からは耳環、ガラス玉、鉄釘、土師器、須恵器などが出土しているが、特に注目されるのは12歳前後の少女のものと推定される歯の発見である。歯の成長段階や摩耗の程度を分析した結果、被葬者が若年の女性であった可能性が極めて高いとされる。一般的に、古墳時代の首長墓では成人男性が葬られることが多いが、天満1号墳のように少女が埋葬された事例は極めて珍しい。このことは、当時の社会構造や身分制度、埋葬の在り方を考える上で重要な手がかりとなる。この古墳は7世紀前半に築造されたと推定され、1958年(昭和33年)には和歌山県指定史跡となった。また、天満1号墳の周辺にも複数の古墳が確認されており、この一帯が当時の有力者層の墓域であったことがうかがえる。天満1号墳は、有田川流域における政治的中心地の象徴であると同時に、埋葬された人物の年齢や性別の特異性から、当時の社会制度や価値観を探る上で極めて貴重な遺跡である。天満1号墳の周辺には、古墳時代の集落跡である藤並遺跡と新堂遺跡が存在し、これらは当時の有田川流域の政治・経済活動を考察する上で重要な役割を果たしている。藤並遺跡では、須恵器、鉄器、銅鐸、農具などが出土しており、ここが単なる集落ではなく官衙的(行政機関的)機能を持つ地域であった可能性が高い。一方で、新堂遺跡では海上交易の拠点としての性格が明確に示される遺物が出土している。有田川河口部に位置するこの遺跡は、当時の物流の中心地であり、外部地域との交易を管理する役割を担っていたと考えられる。これら遺跡の存在からは、有田川流域が単なる地方豪族の支配地ではなく、政治・交易・行政が密接に結びついた多層的な社会構造を持っていたことが読み取れる。特に、椒古墳の被葬者がこの交易を掌握していた可能性もあり、海上交易の利権が地域支配の重要な要素であったことがうかがえる。

宮原古墳
 有田市宮原町滝に位置する宮原古墳は、JR紀勢線紀伊宮原駅の西北方、標高約90メートルのミカン畑の中に存在する。墳丘は失われ、現在は石室の天井石が露出している。かつてこの周辺には3基の古墳があったとされるが、現在確認されているのは2基のみである。宮原古墳の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、紀の川流域に広がる岩瀬千塚古墳群に近い特徴を持つ。特に、玄室の前壁と奥壁が上段にいくにつれて強くせり出し、その上に天井石を架構する方式が採用されており、これは有田川流域以南の地域に見られる特異な造営法である。さらに、この造営法は、紀伊水道を挟んだ徳島県吉野川中流域(吉野川市山川町・美馬市)の古墳とも類似しており、有田川流域が紀伊半島内のみならず、四国、とも文化的なつながりを持っていたことを示唆される。そこから、宮原古墳の造営技法は、紀伊水道を越えた文化交流の痕跡を残している。

中世の有田川流域の歴史文化
 古墳時代以降も有田川流域は政治・宗教・経済の要所として発展し続けてきた。7世紀には全国的な評制の施行により、紀伊国の一部として「あで郡(安諦・阿氐・阿提)」が成立した。しかし、大同元年(806年)平城天皇(安殿親王)の諱(いみな)に類似していることを憚り「在田郡」と改称された。これにより行政の枠組みが整えられ、そして当地域は、さらなる中央との結びつきの強化をはかった。

平安時代
 弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が真言密教の本山を高野山を置くと、有田川流域はその参詣道「高野七口」の一つとして重視されるようになった。特に上流域の蘭島(あらぎ島)周辺は、高野山へ向かう修行僧や参詣者の往来が多かった。また、平安時代の仏教文化が地域に根付き、清水地区には当時の仏像が多く残されている。特に仏像彫刻の技法には都との文化交流の影響が見られる。また、堂鳴海山(どうなるみやま)には10世紀初頭以降建立の寺院の遺構が確認されている。このように、有田川流域は、高野山との関係を基軸として仏教文化が栄えた地域でもあり、その影響は鎌倉時代以降も続いていくこととなる。

鎌倉時代
 10世紀末には、有田川流域には石垣荘(上荘・下荘)が成立し、清水地区は上荘に属した。そして12世紀以降、本家の円満院(近江の三井寺)、領家の寂楽寺(白川喜多院)、そして地頭の湯浅党によって統治する「阿弖河荘(あてがわのしょう)」が成立した。特に地頭である湯浅党の影響は大きく、鎌倉幕府成立後、この一族は源頼朝の側近として活躍し、紀伊国の有力武士団としての地位を確立した。彼らは有田川流域の治安維持や荘園経営を行い、地域の発展に寄与したものと考えられる。しかし、鎌倉時代後期になると統治が揺らぎ、有田川流域でも土地を巡る争いが生じた。特に、高野山は「弘法大師御手印縁起」に記された範囲を本来の寺領であると主張し、近隣の荘園と領有権を巡る対立を深めていった。また、史料には「阿弖河荘上村百姓等片仮名書申状」という訴状が残されており、地元の百姓たちが地頭の湯浅党による暴虐を訴えている。このことから、当時の荘園支配は必ずしも安定していなかったと云える。
 また、鎌倉時代の有田川流域にて重要な人物の一人が明恵上人(みょうえしょうにん)である。明恵は1173年(承安3年)、紀伊国石垣荘(現在の有田川町歓喜寺)に生まれた。父は平重国、母は湯浅宗重の娘であったが、幼くして両親を失い、湯浅党の他門である崎山良貞のもとで育てられた。その後、叔父の上覚を頼り、京都の神護寺に入り、華厳宗や真言宗の教えを学んだ​。明恵は生涯を通じて厳しい修行を重んじ悟りを追求した僧侶であり「紀伊の法然」「紀伊の親鸞」とも称される。明恵の思想は、華厳宗の復興に大きく貢献し1206年(建永元年)には京都の高山寺を再興した。明恵は仏教の戒律を厳守する一方で、夢を通じて仏の教えを受けたとして『夢記(ゆめのき)』を著し、仏道修行の精神を後世に伝えた​。また、有田川流域にも、たびたび訪れて修行を行ったとされており、草庵を営んだ場所は「明恵上人紀州八所遺跡」として現在も遺っている。これらの遺跡は、有田市・有田川町・湯浅町に点在して修行の足跡を伝えている。また、彼の弟子である喜海は、これらに木製の卒塔婆を建立し、後に1344年(康永3年)、弁迂(べんう)によって石造の卒塔婆へと建て替えられた。これらの多くは現在も遺り「明恵紀州遺跡卒塔婆」として国史跡に指定されている​。さらに、明恵の生誕地とされる吉原遺跡周辺では13世紀中頃の掘立柱建物跡が発見されており、当時の集落構造が明らかになっている。また前述の縄文・弥生・古墳時代の記述にもある藤並地区では、13世紀中期、藤並荘の地頭であった藤並氏の居館跡が発掘されており、築造された土塁や堀の遺構が確認されている。そこから、藤並氏も有田川流域において一定の勢力を持っていたことが分かる​。こうして、鎌倉時代の有田川流域は、明恵上人による仏教思想の復興と、湯浅党・藤並氏などの武士団による政治支配が交錯する地となった。その後の南北朝・室町時代には、これらの勢力が戦乱に巻き込まれ、地域の社会構造が変化していくことになる。

室町・戦国時代
 室町・戦国時代の紀伊は、険しい山々と海に囲まれた地形により、外部勢力による侵攻が困難である一方、紀伊国内では国人・寺社勢力がそれぞれの権力を保持していることから、統一が進みにくい状であった。有田川流域も例外ではなく、室町時代から紀伊国守護を務めた畠山氏をはじめ湯河氏や玉置氏といった国人勢力、さらには高野山や根来寺などの寺社勢力が複雑に絡み合いつつ支配権をめぐる争いが繰り広げられた。
 この時期、紀伊国守護であった畠山氏は有田川流域にも勢力拡大を試みた。しかしやがて、室町幕府の権威が衰退しはじめて、守護である畠山氏に内紛が生じると、紀伊国内では在地勢力が自立性を強めていった。特に紀北では寺社勢力が強く、中紀・南紀では国人勢力が勢力を拡大していった。
 こうした時代背景の有田川流域では、畠山氏による名目上の支配が続いていたものの、実際には湯河(川)氏や玉置氏といった国人領主が独自の勢力を築いていた。湯河(川)・玉置両氏は幕府直属の奉公衆としての地位を有し、守護である畠山氏の影響を受けつつも一定の独立性を保っていた。奉公衆とは、室町幕府の将軍直属の編成された武士団のことであり、湯河(川)氏は日高郡小松原(現御坊市)を本拠地(出自は道湯川:現田辺市)として、玉置氏は日高郡江川(現日高郡日高川町)を本拠地としていた。また、守護畠山氏の庶流で幕府奉公衆でもあった畠山氏も有田郡宮原(現有田市宮原町)を本拠地とした国人領主であり、戦国時代を生き延びた。これら有力な国人領主の存在は、守護である畠山氏の勢力拡大を阻む要因であった。さらに、先述したが紀伊では、これら国人勢力だけでなく、寺社勢力も強大な影響力を保持していた。高野山、粉河寺、根来寺、熊野三山などの寺社は、広大な荘園を有し、独自の武力を抱えていた。1418年には守護畠山氏と熊野三山の軍が田辺の支配をめぐって衝突して守護方が大敗している。また、1460年には、同畠山氏と根来寺が灌漑用水の使用をめぐる争いが生じたが、この戦いでも守護方は敗北している。このように紀伊国では在地の国人勢力だけでなく、寺社勢力もまた、戦国期での勢力争いの主要なアクターであった。
 やがて16世紀に入ると、有田川流域の勢力争いでは、国人勢力の湯河(川)直光が、復権をはかる守護、畠山尚順が拠点とした高城城(広城)を急襲して落城させるという事件が生じた。このように地域の勢力図は変転としており、紀伊国内のみならず各国で、このような争いが続いていた。
 そして16世紀も後半に入ると、紀伊国の戦国時代に大きな転機が訪れる。織田信長・豊臣秀吉による紀州侵攻である。1577年には織田信長が雑賀攻めを行い、鉄砲を駆使する雑賀衆と激突。さらに1585年には豊臣秀吉が紀州征伐を行い根来寺や雑賀衆を壊滅させた。この過程で、有田川流域の国人勢力にも大きな変化が生じて、多くが秀吉に降伏した。こうした戦国時代を通じた支配構造の変転により、有田川流域の城郭は軍事的な要素を強めていったものの、二度にわたる紀州侵攻の結果、紀伊は豊臣政権の直轄地となり、それまでの在地土着の国人・寺社勢力は再編されて、その独立性はほぼ失われた。そして、その後の江戸時代において、紀州藩による統治のもとで有田川流域は新たな時代を迎えた。

2025年2月14日金曜日

20250213 紀伊半島の河川が紡ぐ歴史と文化①

紀伊半島の河川が紡ぐ歴史と文化①
はじめに
 紀伊半島は列島内でも特に山がちで嶮しく平野が少ない。そして、半島を走る紀伊山地西麓からはじまる複数の河川は、単に自然の地形に沿った流れというものではなく、それら河川流域に住む人々に、時代を通じて、多大な影響を与えてきた。特に水稲耕作が本格的にはじまった弥生時代以降、それぞれの下流域沖積平野には、比較的大きな集落が営まれていたことが、さまざまな遺跡等から確認でき、また、
当時の社会構造や周辺地域との交易関係なども推察できる。
 
 当記事では、紀伊半島を流れる河川について、北から①紀ノ川、②有田川、③日高川、④南部川、⑤富田川と、それぞれの地理的特徴および歴史・文化的な背景を述べる。

①紀ノ川流域について
地理と概要
 紀ノ川は、特に降水量が多いことで知られる奈良県の大台ヶ原山を水源として、和歌山県北部を横断して紀伊水道へ注ぐ全長約136キロメートルの河川である。また、古くから大和(奈良)と紀伊(和歌山)とを結ぶ重要な水路であったことから、大和(奈良)に首府が置かれた時代はもとより、それ以前の水稲耕作がはじまった弥生時代より、その流域は栄えてきた。

弥生時代と銅鐸の出土
 古代より紀ノ川流域は交通の要衝であり、また特に可耕面積が広い下流域は弥生時代より栄えていた。そして、同時代に用いられ、近畿地方・西日本各地で数多く出土する青銅製祭器である銅鐸もまた紀ノ川流域から複数出土しており、その様相はさまざまであるが、紀ノ川以南の富田川までの銅鐸出土例がある主要河川下流域と比較すると、総じて後期大型の銅鐸は、平野部の紀ノ川のごく近く、あるいは中洲などから出土し、対して、初期・中期の比較的小型(~50㎝程度)のものは、集落跡、丘陵地といった平野内陸部から出土する傾向がある。また、これを先述した他の河川流域での出土様相と比較すると「三国志」内「魏志倭人伝」に記述がある「倭国大乱」(2世紀後半)との関連性も検討され得るが、ここでは扱わない。
 ともあれ、一つ興味深い事例を挙げると、弥生時代の紀ノ川下流域にて拠点的な集落であったと考えられる太田黒田遺跡(JR和歌山駅近く、戦国末期、織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの際の抵抗する紀州勢の主要拠点であった太田城の跡も近い)からの出土銅鐸は、当地(紀ノ川南岸)特産の緑泥片岩(紀伊青石)による舌を鐸内部に伴い出土し、またそれは、島根県加茂岩倉遺跡出土の銅鐸(加茂岩倉4号・7号・19号・22号鐸)と同笵(同一の鋳型で作成)であった。そこから、弥生時代の紀ノ川下流域の社会とは、同時代の出雲地域と、何らかの祭祀文化を共有する関係であったことが示唆され、また、そこから、出雲神話にある大国主(オオナムヂ・大穴牟遅神)が、八十神達からの再度の襲撃を逃れるため、木国(紀伊国)の大屋毘古神(イタケルノミコト・五十猛神)のもとに避難したという話が想起される。

 その後、3世紀代、古墳時代に入ると、紀ノ川下流域においても銅鐸による祭祀は廃され、代わって当時代を代表する古墳が造営されるようになった。また、紀ノ川下流域において造営された古墳において特徴的であるのは、6世紀代(古墳時代後期)以降、我が国にて普及した朝鮮半島あるいは大陸渡来の墓制、横穴式石室を用いた比較的小型ものが圧倒的に多く、また、それらが平野丘陵部に集中し墓域を形成し、いわゆる群集墳となっていることである。そして、この群集墳の盟主的存在が当時、当地の国造であった紀氏であると考えられている。しかし、この紀州での紀氏とは、当群集墳の系だけでなく、同下流域北岸の大谷古墳の被葬者もまた、そうであったと考えられている。大谷古墳は副葬品に、国内で3例のみ出土例がある大陸的要素が強い馬冑があったことで知られ、そこから、当古墳の被葬者が、当時、5世紀代に半島でのヤマト朝廷の軍事活動に従事した人物であったことが示唆される。その他にも同下流域には、特徴的な遺物が出土した古墳があるが、それらの事例から、古代ヤマト朝廷が外征などを行っていた時代の紀ノ川下流域とは、大和盆地から外に進出する際の要衝であったことから、国内外の文物が蓄積し易い環境であったものと考えられる。さらに、この視座は、次の有田川下流域について述べる際にも有用と考える。そしてまた、これまでの記述から、以下に示すコンラッドによる「闇の奥」冒頭部近くの記述を模したブログ記事の作成を試みたのか、ご理解して頂けるのではないかと考える。

『僕は大昔のこと、我が国の初代天皇(大王)に率いられた一団がここにやってきた頃のことを考えていたんだ・・ついこの間のことのようにね・・。
そしてあとの時代、この紀ノ川の河口から髪を角髪(みずら)に結い、胡服に身を包み、直刀を杖立てた連中にはじまり、鎧兜姿に太刀を履いた連中がそれぞれ船団を組んでこの港、当時は雄ノ湊とか徳勒津とか云ったらしいけれども、そこからさまざまな事情を背負いつつ出立して行ったわけだが、それはね、青々とした水田、畑を走る一陣の風あるいは一瞬の稲妻のようなものなんだ・・。
われわれ人間の生なんてはかないものだーせいぜいこの古ぼけた地球が回り続けるかぎり、それが続くことを祈ろうじゃないか。
しかし、我々が今でも知り得ない世界はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ・・。
まあ想像してもごらんよ、九州の東海岸にいた航海術に長けた連中が・・そうそう、そういえば当時の我が国には、外洋航海を目的とするような構造船はなくて、大型の丸木舟に舷側板を立てたような船だけであったらしいけれども、そうした船で瀬戸内海を東に抜けて今の大阪か奈良あたりに向かうと決まった時の気持ちをね・・。
それはいわば、自分達とは全く違う不可解な形をした青銅祭器を祀っているような連中の間を抜けて・・いや、そうした連中の真っ只中に行くわけなんだが、それでもこの当時九州東海岸にいた連中はとても勇ましかったようで、ものの本などによると、古代有数の軍事部族であった大伴氏や佐伯氏などは、ここに出自を持っているらしいのだがね・・。
ともあれ、彼等がこのあまり堅牢とはいえない、まあ準構造船とでも云えるような船に兵糧・武器その他あれこれを積んで、どうにか瀬戸内海を抜け、そうだな当時の大阪、河内平野一帯に広がっていた潟湖である河内湖に入り、その流れ込みの淀川のデルタ地帯に上陸したところあたりを想像してみたまえ・・。
砂州、沼沢、故地とは違った植生の森林、自分達とは異なるイントネーションの言語、衣服・・それまで自分達が慣れ親しんだ文化が見当たらなく、陸に上がっても狡猾な罠があったり、毒矢で射られたりして、この航海で見知った仲間達が日を追って減っていったに違いない・・。
こうした環境では、水、森林、草原、藪のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
だが、もちろんそれでも彼等は特に思い惑うこともなく上陸地点を慎重に選定しながら、時には敵対部族とも戦いながら、更なる航海を続け、また上陸後は上陸後で険しい山道を通り抜け、どうにか目的地に達することが出来たのであろう・・。
彼等こそがこうしたまったく見知らぬ土地に立ち向かうに十分な強さを備えた連中だったのだ。
そして、もし、この一連の長く続く航海、在来部族との諍い、そして、この慣れない気候風土を生き抜いたあかつきには、この航海の目的地でもあり、そして、いずれは此処が己が居地ともなることもあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ・・。』

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2025年2月11日火曜日

20250210 歴史の記号接地について ~建国記念の日に寄せて~

 我々は歴史を「事実」として学ぶ。しかしまた、歴史とは新たな資料の発見によって解釈が変わり得るものでもあり、その意味で、固定的なものではない。他方、フィクションでは、それが一度確立されれば、その物語(フィクション)内部では「事実」として扱われる。この対比は、歴史が新たな発見や研究の進展によって可変的であるのに対し、フィクションの世界での事実は確定的であるという逆説を示している。

 たとえば、源義経は兄頼朝に追われ奥州に逃れた後、攻められて自害したとされている。しかしながら、義経が生き延びて大陸に渡りチンギス・ハーンになったという伝説もまた根強い。このように、歴史的に事実とされることは、新たな発見により覆る可能性がある。他方、夏目漱石による『吾輩は猫である』の主人公の猫が最後に溺死するという結末は、いかなる新資料が発見されたとしても変わることはない。つまり、歴史は新たな発見によって変化する可能性を持つが、フィクションの内部においては、事実は物語の枠組みの中で確定されていると云えよう。

 このことを踏まえると、我々が持つ歴史に関する知識とは、直接経験されたものではなく、さまざまな史料や文献を通じて獲得されたものであると云える。そして、この問題は「記号接地問題(Symbol Grounding Problem)」とも深く関連するものであり、歴史に関する知識が現実と、どのように結びついているのか、という根本的な問いを惹起させる。たとえば、人工知能(AI)は「春に桜は咲く」と表現することは可能であるが、それは過去のデータを統計的に分析した結果に過ぎず、AIが実際に桜を見たり、その香りを感じたりした経験を持つわけではない。そして、それと同様に、我々の歴史理解も直接経験に基づくものではなく、過去の研究の知見が積み重ねられた結果として形成されるものであるため、その接地の確実性には常に疑問が残る。

 他方で、フィクションにおいては、このような問題は生じない。物語や小説に登場する人物の役回りは一貫しており、揺らぐことがない。たとえば、『桃太郎』に登場する鬼は、どのバージョンであっても、主人公である桃太郎に退治される存在として描かれる。これは、歴史上の事実が新たな発見によって変わり得るのに対し、フィクションの世界における「事実」は一貫しているという興味深い違いを示している。そして、この歴史的事実の可変性とフィクション内における事実の確定性の対比を前提として検討することにより、我々日本人の歴史意識の特徴が理解できるのではないかと考える。

 しばしば「日本人は歴史意識が希薄である」と指摘される。しかし一方で、我が国の歴史学は世界的に見ても決して水準の低いものではなく、また、膨大な研究成果が蓄積されている。それにもかかわらず、何故、我々日本人の歴史意識が希薄であると指摘されるのか、それは、学術的な歴史研究とは別の、社会全般における歴史意識のあり方があるのではないかと考える。

 つまり、我が国においては、歴史に関する研究はそれなりに盛んであるものの、社会全般においては「歴史を現在の社会や自己の存在と結びつける意識」が希薄と云えるのではないだろうか?

 折口信夫は、「日本人は歴史観の上に生きることの強い国民である」と述べたが、これは戦前の教育において、国家から歴史と国家の一体性が強調され、歴史的な枠組みの中で個人の行動や思考を位置づけることが求められたためであると考えられる。しかし、そうした(上からの)価値観が敗戦により崩壊した戦後日本社会では、自らの歴史を「過去のもの」として隔離して、現代社会との結びつきを意識することが少なくなった。そして、この変化こそが「日本人は歴史意識が薄い」と指摘される主な理由であると考えられる。

 くわえて、我々日本人の歴史意識には独特な側面もある。それは、歴史的事実よりも「伝承」や「物語」としての歴史が重視されるという点である。源義経の生存説などの事例が示すように、史実の精確さよりも、そこに込められたある種の精神性や象徴性が強調される傾向がある。こうした歴史観は、学問的な歴史とは異なり、「擬歴史意識(Quasi-history)」とも呼び得る。

 そこから、我が国における(擬)歴史意識は、学問的な知識としての歴史とは異なる形で、文化や社会に深く根付いているものと云える。あるいは異言すると、歴史を史実の集積の体系として捉えるのではなく、その中に込められた特殊な意味や価値を重視する傾向があるため、新規の発見の有無に係らず、別様の再解釈がされ続ける。こうした現象から、我が国の日常的な
(擬)歴史意識においては、体系立った史実よりも、ある出来事や人物に込められた象徴的な意味の方がより重視されることが示されるのではないかと考えられる。

 また、我が国では歴史の因果関係を体系的に捉えるよりも、個々の出来事や人物を独立した象徴として扱う傾向もある。たとえば、昨今では異論もあるが、それでも西洋社会では、フランス革命が「社会の変革と進歩の歴史」として語られるのに対し、我が国では「忠臣蔵」が「武士道の美学」として語られるように、歴史を社会変遷のプロセスではなく、精神的あるいは道徳的な教訓として捉える姿勢が見受けられる。

 こうして考えると我が国の歴史意識のあり方は、記号接地の観点からも説明することができると考える。我が国において歴史とは、客観的な事実としてではなく、文化的・精神的な象徴として受け入れられる傾向があると云える。これは、事実としての長い因果関係のなかでの出来事よりも、社会の中で意味を持つ「記号」として機能していることを示している

 たとえば、織田信長は歴史上で評価が分かれる人物であるにもかかわらず、フィクションの世界では「革新的な英雄」としてのイメージが確立されている。このような現象は、我が国において歴史的人物や出来事が、事実そのものというよりも、文化的な「記号」として機能していることを示唆している。そして、こうした記号の接地とは、歴史学の発展とは別の系で社会的・文化的な文脈の中で維持され続けていると云える。

 そして、我々が歴史を学ぶ際には、こうした我が国(特有?)の記号接地のあり方を理解することが重要である。つまり史実そのものを検証するだけでなく、歴史がどのように社会の中で意味づけられ、機能しているのかを問い続けることが求められる。つまり、歴史とは、単なる史実の集積ではなく、それが、我々の文化の中でどのように接(地)されて、どのような価値を持ち続けているのかを考えることもまた、歴史を学ぶ一つの大きな意味であると考える。

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2025年2月7日金曜日

20250206 既投稿記事からの発見と、ブログ記事作成への影響について

 ここ1週間は所用のため外に出ることが多く、また本日も外出していたことから、休息をとった実感がありません。他方、当ブログについては、直近の投稿が2月1日であることから、もう新規作成をした方が良いと考え、多少疲れは残っているものの、作成を始めた次第です。さて、直近の投稿記事でChatGPTについて触れ、現在も度々運用していますが、そのなかで、複数の既投稿ブログ記事を加工して、新たなブログ記事の作成を試みており、そして、その加工途中の文章が当ブロガーでの下書きに200記事ほどありますが、これらも多くなってきました…。そのため、時折、それら下書きの一つを開き、目を通してみますと、また作成時とは異なった視座から眺めることが出来て、新たな発見などもありますので、読むにしても、自ら作成するにしても、その文章を何度か、時間をおき、読み返してみるのが良いと考えます。そして、昨今、ブログを継続していて思うことは、当初は作成した自分の文章を読むのがとても嫌いでしたが、ここ最近は、記事の作成頻度を落としたためであるのか、既投稿記事を読むことが、そこまで苦ではなくなってきたことです。そしてまた、面白いことに、かつての投稿記事の稚拙な作成文章から、新たな記事作成のヒントを得ることも度々あったことから、以前では、あまり進んでは開こうとはしなかった過去の投稿記事を開き、さらには、さきに述べたようにChatGPTによる加工も行っています。これはある種、自らの作成した文章を対自化するという意味もあると考えられることから、今後も継続したいです。そして、こうした経緯で、既投稿記事をいくらか開いてみますと、どうしたわけか、それらは紀州和歌山に関連する主題の記事が多く、そこから、当ブログを始めた経緯も和歌山にあったことが思い出されました。和歌山といっても、当初に在住したのは市内ではなく、県南部の西牟婁郡白浜町であり、その初めての南国的とも云える温暖な気候風土のもとで感覚が多少変容して、そこから同県和歌山市にある大学院修士課程に進みましたが、こちらでは、以前にも述べましたが、それまでとは桁違いに、さまざまな書籍を読みました。そうして、読書や文章・資料の作成などをしばらく継続していますと、またやがて感覚に変化が生じ、これまでとは異なる、もう少し内容が緻密そうな著作を読むことが出来るようになったり、あるいは、地域の歴史や文化や民俗などについての著作を読んでいますと、突如、訪れるように、地域の歴史文化を語る際の枠組みが思い付いたりするのですが、そうした枠組みとは、多くの場合、小説など物語での記述がベースにあったと云えます。そして、そのことが比較的強く想起されたのは、過日、20250103作成の「立ち読みと集中力から ~意識の変容について~」を読み返していた時であり、その想起した内容につきましては、また近い別の機会に、ブログ記事として作成・投稿したいと考えています。

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2025年2月2日日曜日

20250201 2312記事に到達して振り返って思うこと

 ここ4日間、ブログの更新をしませんでしたが、直近、1/27の引用記事の投稿によって総投稿記事数が2312に到達していました。これは特に区切りの良い数値ではありませんが、昨年末頃から、投稿記事数を気にしていなかったことから、ここで認識を新たにして、投稿記事数の経過を考えてみますと、当ブログを開始から3年目の2018年に1000記事まで到達し、そこから約5年後の2023年に2000記事にまで至り、投稿頻度は当初ほどではなくなったものの、その後、さらに300記事ほど新規で投稿してきました。また、ここ最近では、人口知能のChatGPT(無課金)を用いた記事作成も並行しており、これについては、以前より(どうにか)慣れてきた感があり、あるいは記事の種類・主題によっては、ChatGPTを用いた方が、速やかに良い記事を作成することが出来るのではないかと考えています。そして、こうした感覚は、これまで自らの文章によって継続的にブログ記事を作成してきたことから、ある種、新鮮なものとして感じることが出来るのではないかと考えます。そしてまた、この経験があることから、ChatGPTの運用についても、かなり稚拙ではあるものの、どうにか慣れつつあるのではないかと思われます。40代半ばを過ぎて、こうした新たな技術に触れて、使いこなすことは、ポンコツである私にとっては容易なことではありません...(苦笑)。しかし、それでも少しずつ自らの進歩を感じることができるのは、やはり挑戦し続けてきたからであると考えます。これまでの人生の中で、新たな挑戦をする際には、自らの限界と向き合わざるを得ませんでした…。若い頃であれば、それが当然であるとも感じられるのでしょうが、歳を重ねると、それは徐々に困難になっていくものと感じられます。それ故、ChatGPTのような新たな「抽象的な道具」を、緩慢ながらも徐々に用いることが出来るようになっているという自覚(実は錯覚かもしれませんが...。)は、現在の私にとってはなかなか貴重なものであると云えます。

 さて、そうした経緯で、ChatGPTをブログ記事作成に援用し始めてから1年以上経過しました。そして、その多くで、何らかの試行錯誤をしてきたと云えますが、たとえば、初期の頃は、自分の表現したいと思う意味と、生成された文章のそれが異なると感じられることが多かったですが、その後、先方(ChatGPT)がさらに賢くなったこともあるのか、あるいは私が慣れてきたのか、自らの文章化したい意味に近い文章を徐々に生成することが出来るようになってきました。しかしその一方で、習熟(?)に伴い、自らの文章について考えさせられることも度々ありました。そしてまたChatGPTが生成した文章と自らの作成した文章とを比較してみますと、こうした文章からもご理解頂ける通り、私の作成する文章には機械的とも云える合理性や効率性が乏しく、そして、それこそが、文章上での私の個性、すなわち「文体」であるのでないかと思われるのです。そして、そうしたことから、今後、さらにChatGPTなどの人工知能に関する技術が進化発展して、たとえ、それをより多く用いるようになっても、自分で文章を作成することが重要であり続けるのではないかと考えます。

 振り返ってみますと、当ブログ開始当初の頃(2015年)の私は、まさかChatGPTのような人工知能を用いてブログ記事の作成をする日が来るとは、全く予測していませんでした。当時はただ、自分の思いや考えなどの「モヤモヤ」を文章化して、心身の健全化をはかることが主目的であったと云えます。そして、この文章化を継続することが出来た期間が3年間程であり、その後は、その3年の継続で培った、ある種原始的な方法論によって、さらに継続して現在に至っていると云えます。そして、2020年からは旧ツイッター(エックス)の運用も始め、以前よりもさらに、自分の作成した文章が人目につく機会が多くなり、そこから、プレッシャーのようなものを感じましたが、しかし、このプレッシャーがあるからこそ、緊張感を保ちつつ、文章の作成が出来るのではないかとも思われ、そして、それが日常化することが、変化後の状態の恒常化、すなわち上達と云えるのではないかとも思われます。そして、そうしたことを考えますと、ある程度、公表するものとしての緊張感を保ちつつ、自らの文章を作成することが(どうにか)出来るようになったという自覚を得た後に、ChatGPTなどの人工知能が我が国に現われ、汎用化したことは、少なからず幸運であったのではないかと思われました。

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ISBN978-4-263-46420-5

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2025年1月27日月曜日

20250127 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳 「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻 pp.280-282より抜粋

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳
「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻
pp.280-282より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504644
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504649

難破船とグリーンランドの氷床スコアを利用すれば、初期ローマの経済的拡大を追跡できたのと同じように、その衰退も追跡できる。500年までに、ピーク時に180隻あった難破船は30隻まで減少していた。ローマが衰退すると地中海貿易はすたれた。ローマ時代のレベルに戻るのは、19世紀になってからのことだと主張する学者さえいる。グリーンランドの氷床からも似たような状況が読み取れる。ローマ人は銀でコインを鋳造し、鉛を用いてパイプや卓上食器類といったさまざまなものをつくった。氷床に堆積した鉛、銀、銅の量は、1世紀にピークを迎えたあとで減少したのだ。

 ローマ共和国時代の経済成長の経験は、ソ連のような収奪的制度のもとでの成長事例と同じく、印象深いものだった。だが、包括的な一面を持つ制度のもとで起こったことを考慮しても、その成長は限られたものであり、持続しなかった。成長を支えていたのは、比較的高い農業生産性、属州からの相当な貢ぎ物、遠距離貿易などだったが、裏付けとなる技術的進歩や創造的破壊が欠けていたのだ。ローマ人はいくつかの基本的なテクノロジー、すなわち鉄製の道具や武器、読み書きの技能、鋤を使った農業、建築技術などを受け継いでいた。共和国の初期にはそれ以外のものを生み出した。たとえば、セメントを使った石造建築、ポンプ、水車などだ。だがそれ以降、ローマ帝国時代を通じてテクノロジーは停滞した。たとえば海運業では、船の設計や索具装置にほとんど変化はなかったし、ローマ人がオールによる操船術の代わりに船尾舵を開発することは決してなかった。水車の普及は遅々としていたため、水力がローマの経済に革命を起こすこともありえなかった。水道橋や都市下水路といった偉業でさえ、完成させたのはローマ人だが、既存のテクノロジーに頼りある程度の経済成長は可能だったが、それは創造的破壊の伴わない成長だった。こうした成長は長続きしなかった。財産権がさらに不安定になり、市民の経済的権利が政治的権利の後を追うように縮小すると、経済的成長も同じように縮小したのだ。

 ローマ時代の新しいテクノロジーに関して注目すべきことは、その創造と普及が国家によって推進されたらしいことだ。これは善いニュースだ。ただし、政府が技術的発展に与しないと決めるまではー創造的破壊への恐怖のせいで、こうした事態はありふれているのだ。

20250126 知的探求の足場としての読書

つい先日、中央公論新社刊 竹中亨著『大学改革』を書店で立ち読みしたところ、大変興味深く思われたたため購入し、現在読み進めています。おそらく、ウェブ上にもあると思われますが、当著作の視座で興味深いところは、比較対象とする大学をアメリカ合衆国ではなく、ドイツ連邦共和国とした点と云えます。そして、文中にある、その理由についての記述も妥当であると考えたことから、さらに読み進めている次第です。

  斯様に、現在もいくつかの新書や既読の著作を読んでいますが、冬も深まり寒さのために活性が落ちているのか、これまで、また新たに「それなりにヘビーな著作を読んでみよう」と思うことはありません。しかし、例年、暖かくなってきますと再び読書意欲も活性化しますので、特にあわてる必要はないと考えています。

 とはいえ、昨今の読書について振り返りますと、以前にも述べたことがありますが、SNS(X)上の情報から購入した著作が多くなり、SNS使用以前(~2020年)のように、書店での立ち読みから購入に至るケースが減ったと実感しています。そして、そうした書籍選択時の行動の変化によるものなのか、ここ数年は国際情勢の変動に関連した著作を読む機会が多くありました。これらの著作は勉強になり良かったのですが、同時にやはり、そうした読書は少し疲労を感じることもあります。

 端的に云えば、ある程度慣れた分野の著作であれば読む際にそれほどストレスを感じませんが、新たな分野の著作を読む場合は、その分野特有の言語に慣れるまで少なからずストレスを感じるものです。これは、近年読んだ中東・東欧を扱った著作の読書の際に度々感じました。しかし一方で、その中に既知の事柄(近現代史上の重要な出来事など)が含まれていると興味が持ち直されて、さらに読み進める意欲が湧いてくるのです。その意味で、ストレスが多い新たな分野での読書の中に、ある程度知っていると自覚できる要素があることは、その書籍を読み進める際に、ある種、理解の足場となるのではないかと考えます。

 その意味において、読書という文字体験には、口語やマンガのような表現形態とは異なる種類の影響が精神にあり、それらの影響の蓄積と個々の相互反応が議論となり、さらに統合されて文章となり、学術的な洗練を経て論文などへと昇華されるのではないかと考えます。その意味から、諸学の基盤としての読書、すなわち、書籍を読み、その意味や内容を文章や図などを通じて理解し、実地での検証を試みるまでの行為の中には、人間の知性にとってきわめて重要なものが含まれていると考えます。そしてまた、そうであるからこそ、幕末期に大阪の著名な蘭学塾である適塾出身の方々が、当時のさまざまな方面で活躍することができたのではないかと考えます。

 適塾出身の方々は、西洋の学問を取り入れ、それを我が国独自の文脈に応用して、その実力を示しました。そして、そうした我が国の基本的な状況は、現在であっても大きくは変化していないと考えます。しかし同時に昨今では、そうした知識や情報の参照元が、分野によっては西洋ばかりではないといった様相が強くなり、また今後は、さらに流動的になっていくのではないかと思われます。そして、そうした近年の歴史的潮流とは、あるいは数百年に一回程度のものである可能性もあることから、今しばらくは、この状況をもう少し理解するため、異分野の著作であっても出来るだけ読み進めます。

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2025年1月26日日曜日

20250125 光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」 pp.69-72より抜粋

光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」
pp.69-72より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334785204
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334785208

現代の日本人の間では親鸞と日蓮がポピュラーで、知識人の間では道元の評判がよい。これらの人たちはそれぞれ、ひたすら一つの方向に徹底していった。それが多くの日本人に好かれる。空海はそう単純じゃない。とくに明治以後の日本知識人には、ものすごく異質的に思われるのです。空海が好きという人は少ない。

 -そこからだんだん結論的な話にはいらせていただきたいと思うんですが、われわれは人類史的にみまして偉大な創造的な仕事をした人を天才と称しているわけですが、学問、芸術そのほか創造的な頭脳を発揮した人が出てくるというためには、出てくる社会経済史的な環境がいると思います。弘法大師の場合も、大師と同じくらいの能力をもった人が、大師以前、以後になかったかというと、それは必ずしもそうはいえないと思う。逆に申しますと、もしあっても、あれだけの大きな仕事をする条件が熟していなかったと思います。わたしは環境論にすべてを帰そうとは思いませんが、そういった条件も無視できない。その条件というのは何かといいますと、やはり当時の社会において、かなりの矛盾と危機的状況が進行していたんじゃないか。さきほどの先生のお話ですと、最澄は比叡山の上で何をやったかというと、堕落した奈良仏教と理論闘争をしておったということですけれども、奈良仏教が堕落しておったというのは、当時の社会があの時点で相当混乱しておったわけなのでしょうか。

湯川 ぼくはそのへんの確かなことはわかりませんけれども、要するに奈良は首都として七十年ですか、七代も続いたわけでしょう。だけど、桓武天皇という人は、相当偉い統治者、政治家でしょうね。その時代になりまして、奈良ではあかんというので、場所を捜すと、京都のこの辺がひじょうにいい。そこで移るといっても、長岡京をつくりかけたり、なかなか簡単に移れませんけれども、細かい話は別として、わたしの歴史の見方は怪しいけれども、とにかく、日本の政治体制も社会も、やはり変わりつつある奈良時代の末期に弘法大師は生まれてきて、彼がおとなになったころには、京都が中心になって新しい体制にはいっていくわけですね。ですから、やはり大きな変動期に生れていたといっていいでしょうね。 

ーそうしますと、わたしはさきほどから弘法大師に対する多少の疑問があったのですが、つまり空海が護国寺を守ったというのは、一応の変革を終って、堕落した反動的権力だけを護持する国家の教学、宗教を守ったというのではなしに、奈良の古いものを脱ぎ捨てて京都へ遷都してきた国家信仰といえども、なにか前向きの生産的、創造的なものがまだ残っていたとみていいわけでしょうね。

湯川 明治の初めごろに似ておりまして、奈良時代からすでに唐の文物、文化を取り入れるということをやっておりますから、ある程度引き続きですけれども、それがさらに強まるわけです。ただし弘法大師のパトロンは桓武天皇ではなくて、嵯峨天皇ですね。桓武天皇の時代にもかかっておりますけれども、桓武天皇は伝教大師のパトロンと思っていいと思います。次は平城天皇ですが、またその次の嵯峨天皇はひじょうな文化人なんです。教養の高い人で、字なんかもひじょうにうまいですし、中国的教養の非常に高い人です。それをもっと吸収したいというわけで、そうなると、弘法大師という人は、中国的教養全部を身につけているから、大師をひじょうに尊敬するわけです。ですから、パトロンになり、漢詩の贈答をしたり、友だちづきあいをしているわけですよ。だから、中国文化、唐の文化を全面的に吸収している時代でもあるわけです。

ーそうしますと、奈良の東大寺大仏殿の建造のときのように、律令国家がだいぶんあぶなくなって。それを引き締めるために聖武天皇がああいうものをつくったというのとは、社会経済史的背景がだいぶん違いますね。

湯川 どうでしょうかね、よく知りませんが、平安初期というのは教養主義みたいなものが、ひじょうに感じられる時代ですね。

2025年1月23日木曜日

20250123 春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」 pp.85-89より抜粋

春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」
pp.85-89より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4861100585
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4861100581

 古代には土地はそれぞれの魂をもつと信じられていた。これを国魂と呼んでいる。国魂は国の生命であって、それを身につけたものが、その国の支配者になることができる。どのような権力者であっても、国魂を身につけないと戦いに勝てないし、国魂から見放されれば、その国を支配することもできない。諸国に国魂を祀った神社があるのはそうした考えに基づいている。

 琉球の最古の歌謡集「おもろそうし」巻十一には、

島が命
国が命 みおやせ

という言葉が出てくる。これは島や国に命があって、それを奉れ(みおやせ)という意味である。島や国を献上するというのではなく、島の命、国の命を献上するというのであって、明らかに服属のしるしである。島の命を島魂、国の命を国魂と置きかえることができる。島も国も生命をもっていたことは生国とか生島という名を冠した神社があることではっきりしている。

 大嘗祭では悠紀・主基の両国から天皇を賛美する風俗歌が献上されたが、その歌には必ず地名が詠みこまれている。それは国の魂を奉ることをあらわに示しているのである。その中で最も古い記録は「古今和歌集」巻二十に見られる仁明天皇の和歌で、「古今和歌集」には五百種入集している。

 地名を入れた歌は風俗歌であるが、この風俗歌が勅撰和歌集にとりあげられると、そこで詠みこまれた地名が歌枕になっていく、歌枕の枕は動詞の「まく」と関連があり、神霊の寓する所という意味である、というのが折口説である。ここにおいて歌が地名と切っても切れない由縁をもつことが分かる。

 風俗歌はもともと国風(くにぶり)を指している。「風」というのは、「雅」に対してであり、「雅」は宮中の歌、「風」は地方の民謡というのが「詩経」の分類であるが、それはわが国では宮中の大歌、民間の歌の小歌の分類にもあてはまる。

 しかし風をフリと詠ませるには別の理由がある。フリはタマフリのフリであって、フリはタマシイを相手に付着させることであると折口は言う。タマフリの歌が省略されて、フリとなった。それを「記紀」では振とか曲という。自分の支配する国の魂を天皇に差し出して身につけて貰うのが国風である。それを歌にしたものが、大嘗祭の風俗歌である。平安以降の大嘗祭でそれを詠むのは宮廷の歌人であったが、古い大嘗祭で風俗歌を奉献するのは土地の人々であった。

 タマフリの歌であるクニブリの最後は「万葉集」に見られる東歌である。東国はさいごまで宮廷に抵抗していたから、それの服従を誓うためには国のタマシイをささげねばならなかったと折口は言う。そうであれば東歌に地名がかず多く登場することも、そのそもそもの背景が推察できるのである。東歌の特徴は民謡の色彩が濃厚であり、その表現は直截的である。その率直な歌の中で地名は大きな役割を果たしている。つまり地名はその土地の精霊として登場している。

 折口は歌枕の地名を「ライフ・インデキス(生命の指標)」と称している。地名が歌に詠みこまれているということは、「生命の指標」をその歌に活していることになる。とも折口は言っている。

 これは枕詞についても言える。枕詞には地名を冠したものが多いが、それは歌の一部になっていて、土地の霊を喚起する重要な役割をもっている。「葦が散る難波」と言えば、そこを訪ねたことのない人間にも昔の難波の情景が思い浮かぶのである。枕詞の枕も歌枕の枕と同断で精霊がよりつき、国魂が寓する。折口によれば、はじめは本縁譚があったのが、だんだん省略されて枕詞だけになったというのである。枕詞も歌枕と同様に「生命の指標」である。

 ライフ・インデキスという言葉は折口の発明ではない。バーンの「民俗学概論」に出てくる語で、民族学者の岡正雄は「生命指標」と訳出している。たとえば、ある人の運命が樹木に結びつけられていて、もし樹木が凋むと、それに関係する人は病気にかかる。もしそれを切り倒すと、人は横死するという信仰がインド、西アフリカ、太平洋諸島に見られる。

 折口はこの考えを枕詞や歌枕に適用したのである。「文章の中心になって、その生命を握っている単語、あるいは句」とみずから解説しているが、歌枕や枕詞の地名がそうであったということは、その歌と地名との不可分な関係を強調していることでもある。それをさかのぼれば、それぞれの国には国魂があり、それを密着させることがクニブリであり、それには地名が詠みこまれなければならなかったのである。

 クニブリには二通りあった。一つはクニブリの歌であり、もう一つはクニブリの諺であった。諺は上から下へ宜り下す呪文である。それに対して、歌は下の者が上の者への愁訴哀願する内容をもつ。前にも述べたように「うたう」と「うったう」は同根の語である。

 折口の呪言の「詞」から諺が発生し、叙事詩の「詞」の部分から歌が発生したと考える。つまり諺と歌は形式も内容も対照的である。諺は最小の偶数形式である二句型式であるが、歌は片歌にせよ短歌にせよ奇数形式であった。偶数形式の言辞が命令を内容とするのに対して、奇数形式はうったえる内容をもったと折口は言う。

 風俗歌はクニブリウタと訓み、風俗諺はクニブリノコトワザである。後者は長い地名起源を説く詞章の後に、それを集約するような形であらわれる。クニブリノコトワザが最小になると、枕詞と地名という二句になる。つまり地名の本縁譚は枕詞の中に凝縮されるということから、そこには国魂が寓すると見られるのである。

 枕詞や歌枕に見られる地名の重要性を見れば分かるとおり、地名は「うた」にとってはたんなる情景ではなく、その核心の生命を把握している。

 

2025年1月19日日曜日

2250119 紀州和歌山の食文化について:師匠からのお電話から思ったこと

 つい先日、文系修士院生時代の指導教員(師匠)からお電話を頂きました。過日、お年賀は頂戴していましたが、今回の電話では、近況や今後の活動の展望について伺うことができました。こちらの師匠は、私と同郷、千葉県ご出身の関東者(かんとうもん)であり、就職を機に紀州和歌山へ赴き、定住された方です。また師匠は、古来より紀州和歌山からの移民が多い県内海側地域のご出身であり、さらに、その苗字は和歌山県海南市が発祥とされることから「先祖返り」ともいえる側面があり、それは師匠御自身も認めておられました。

 ともあれ、師匠は紀州和歌山の歴史文化全般に造詣が深く、とりわけ食文化については知る限り随一と云えます。これまでに私が当ブログにて、紀州和歌山の食文化を題材とした記事を複数作成してきましたが、それらで述べたことの大半は、こちらの師匠から学んだものです。しかし、私が紀州和歌山の食文化に能動的な興味を持ち、その価値を認識するようになったきっかけは、それ以前の南紀白浜でのホテル勤務経験にあります。かつて、私が勤務していた白良荘グランドホテルは、地元食材を活かした料理によって高く評価されていました。そこでの勤務では、地域の食文化に触れる機会が多くあり、また、ホテル以外での日常的な食の経験も大変新鮮なものでした。そして、こうした経験を通じて、次第に地域の食文化に対し、さらに、我が国の食文化に対しても、それまでとは異なった視点を持つようになりました。具体的には、紀州和歌山は我が国の食文化に不可欠な醤油や鰹節の発祥地として知られ、さらに梅干しの生産量も全国一を誇ります。こうした我が国の食文化の基軸とも云える重要な食材がこの地で生まれた背景には、その豊かな自然環境と長い歴史の中で育まれた人々の知恵、そしてその結晶である技術があると云えます。また、当地の熊野本宮大社の主祭神である家都御子神が樹木や穀物(食物)の神とされている点も、地域食文化の奥深さを示しているものと考えます。そして、こうした考えや感覚とは、客観的な認識のみでは不十分であり、一定期間その地域に埋没して生活することによってのみ得られると考えます。それ故、書籍や文献資料のみでの調査、学習では不十分であり、実際にその地に住み、その文化に地元の住民として触れることが不可欠であると考えます。そして、そうした経験を経ることにより、やがて地域の諸文化が対自化され、理解が深まるのではないかと考えます。その意味から、紀州和歌山は私にとって、地域のみならず我が国の食文化について再認識させてくれた地域と云えます。

 当然ではありますが、食文化をはじめ諸文化は、その地域の歴史文化や自然環境などと密接に結節しており、とりわけ思想文化が全般的に乏しい我が国にあって食文化とは、強い伝統的なアイデンティティを持つものであると云えます。そうした視座から、紀州和歌山の食文化が我が国全体の食文化のなかで、いわば過分とも云えるほどの重要性を持っていることは、端的にこの地域には、過去に対する実直な洞察と、それを積み重ねる努力があったからであると考えます。そうした意味で、私にとって紀州和歌山の経験やそれに基づいた知識や見識は、単なる記憶のみに留まるものでなく、これまでの、そしてまた、これからの活動や発信にも繋がる大切な基盤であると云えます。食文化とは、単に「食べる」という全ての動物が持つ本能的な行為を超えて、地域と、そこに住む人々の営みすなわち諸文化との結節そのものを象徴しており、その中には、積み重ねられた過去だけでなく、未来をも築く力を秘めているのではないかと考えます。

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2025年1月15日水曜日

20250114 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」 pp.43-46より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」
pp.43-46より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309467458
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309467450

20世紀には、民族主義運動がきわめて重要な政治的役割を果たしたが、この運動は、地球を分割してそれぞれ独立した民族国家にするのを支持する以外には、世界の将来のための首尾一貫したビジョンを持たなかった。インドネシアの民族主義者はオランダの支配と戦い、ヴェトナムの民族主義者は自由なヴェトナムを望んだが、人類全体のためのインドネシアの物語もヴェトナムの物語もヴェトナムの物語もなかった。インドネシアやヴェトナム、その他すべての独立国がどうし連携し、核戦争のようなグローバルな問題に人間はどう対処するべきかを説明する段になると、民族主義者は判で押したように、自由主義か共産主義の考えてに頼るのだった。

 だがもし、自由主義と共産主義が今やともに信頼を失ってしまったのなら、ことによると人間は、単一のグローバルな物語という発想そのものを捨てるべきなのか?けっきょく、これらのグローバルな物語はみなー共産主義でさえー西洋の帝国主義の産物だったのではないか?ヴェトナムの村人たちは、トリール生まれのドイツ人とマンチェスターの実業家〔訳注 マルクスとエンゲルスのこと〕の頭脳の所産をどうして信頼しなくてはいけないのか?どの国もそれぞれ、古くからの自国の伝統によって定まる独自の道を選ぶべきなのだろうか?ひょっとしたら、西洋人でさえ趣向を変え、世界を動かそうとするのをやめて内務に専念するべきか>

 これは世界中ですでに起こっていると思ってほぼ間違いない。それは、自由主義の崩壊によって残された空白が、過去の局地的な黄金時代にまつわるノスタルジックな夢想によって、とりあえず埋め合わされている結果だ。ドナルド・トランプは、アメリカの孤立主義への呼びかけは、「アメリカを再び偉大にする」という約束と組み合わせたーまるで1980年代あるいは50年代のアメリカが、21世紀にアメリカ人がどうにかして再現するべき完璧な社会であったかのように。EU離脱支持者はイギリスを独立した大国にすることを夢みているーまるで、自分たちが依然としてヴィクトリア女王の時代に生きており、「栄光ある孤立」がインターネットと地球温暖化の時代にとって実用的な政策であるかのように、中国のエリート層は、西洋から輸入した怪しげなマルクス主義のイデオロギーの捕捉として、いや、それどころか代替として、自らに固有の帝国と儒教の遺産を再認識した。ロシアではプーチンの公式ビジョンは腐敗した寡頭制政権の構築ではなく、かつてのロシア帝国を復活させることだ。プーチンはボリシェヴィキによる革命から一世紀を経た今、ロシアのナショナリズムと東方正教会への忠誠心に支えられた独裁政権がバルト海からカフカス地方まで勢力を拡げる。かつての帝政ロシアの栄光へ回帰することを約束している。

 民族主義的な愛着と宗教伝統を混ぜ合わせた、同様のノスタルジックな夢が、インドやポーランド、トルコをはじめ、数々の国の政権を支えている。こうした幻想が他のどこよりも極端なのが中東で、そこではイスラム原理主義者が、1400年前にメディナの町に預言者ムハンマドが打ち立てた制度を真似たがっており、その一方で、イスラエルのユダヤ教の原理主義者がイスラム原理主義者さえも凌いで、聖書時代まで2500年もさかのぼることを夢見ている。イスラエルの連立政権は、現代のイスラエルの国境を聖書時代のイスラエルの国境に近づくように拡げることや、旧約聖書の律法を復活させることで、はては、エルサレムでアルアクサ・モスクの代わりに唯一神ヤハウェ(エホバ)の神殿を再建することさえ、公然と語っている。

 自由主義のエリート層は、こうした展開をぞっとしながら見守り、大惨事を避けるのに間に合うように、人類が自由主義の道に戻ることを期待している。オバマ大統領は2016年9月、国連での最後の演説で、「国家や部族や人種や宗教どうしを隔てる昔からの境界に沿って明確に分割さて、ついには争いが起こる世界へと」後退してはならないと聴衆に警告した。そうした後退をすることなく、「開かれた市場と責任ある統治、民主主義と人権と国際法の原理が…今世紀における人間の進歩の最も強固な基盤であり続ける」と彼は述べた。

 自由主義のパッケージは多くの短所を抱えているとはいえ、他のどんな選択肢と比べても、はるかに優れた実績を持っていると、オバマはいみじくも指摘した。ほとんどの人間は、21世紀初頭における自由主義秩序の庇護の下で享受したほどの平和と繁栄は、かつて経験したことがない。史上初めて、感染症で亡くなる人の数が老衰で亡くなる人の数を下回り、飢餓で命を落とす人の数が肥満で命を落とす人の数を下回り、暴力のせいでこの世を去る人の数が、事故でこの世を去る人の数を下回っている。

 だが自由主義は、私たちが直面する最大の問題である生態系の崩壊と技術的破壊に対して、何ら明確な答えを持っていない。自由主義は伝統的に経済成長に頼ることで、難しい社会的争いや政治的争いを魔法のように解決してきた。自由主義は、より大きなパイの取り分を全員に約束して、無産階級を有産階級と、信心深い人を無神論者と、地元民を移住者と、ヨーロッパ人をアジア人と和解させた。パイがつねに大きくなっていれば、それも可能だった。ところが、経済成長はグローバルな生態系を救うことはない。むしろその正反対で、生態系の危機の原因なのだ。そして、経済成長は技術的破壊を解消することもない。破壊的技術をますます多く発明することの上に成り立っているからだ。

2025年1月11日土曜日

20240111 1848年の「諸国民の春」から学ぶ激動する国際情勢と我が国の戦略

 近年、世界は複雑かつ深刻な混乱に直面している。社会の分断や閉鎖的な傾向が多くの国々で顕著となり、さらなる国際的危機を引き起こす可能性が懸念される。特に、第二次宇露戦争が収束しないなか、新たな戦争が中東あるいは極東で勃発する事態となれば、それが世界戦争へと拡大する危険性も否定できない。このようなシナリオを回避するためには、我々は現在の脅威を精確に認識し、適切に対応する必要がある。

 2020年に始まった新型コロナウイルス感染症の世界的流行(パンデミック)は、国際社会にとって大きな転換点であった。このパンデミックにより、各国は急速に内向きな政策を取るようになり、国際協調が試される局面を迎えた。同時に、社会の不平等が顕在化し、政府に対する市民の信頼が揺らぐ事態が頻発した。これらの動きは、1848年にヨーロッパ各地で発生した「諸国民の春」と呼ばれる革命運動に類似していると考える。当時、経済不安や不平等が背景となり、市民は自由や権利を求めて蜂起した。現代においても同様に、パンデミックは社会的亀裂を明らかにし、市民が不満を抱く状況を生み出している。

 2022年2月、ロシアはウクライナへの軍事侵攻を開始した。この行動は、現状を武力で変えようとする試みであり、国際秩序に重大な挑戦を突きつけた。ロシアは国際社会から経済制裁を受けながらも、依然としてその意図を貫いている。この動きは、1848年の革命運動において保守勢力が革命の波に直面しつつ権力維持を図った姿勢と共通点があると考える。一方、中国は侵攻を続けるロシアを注意深く観察し、それを分析するなかで、自国の国際的地位を強化する戦略を進めている。中国はロシアとの関係を強調しながら、「一帯一路」構想を通じて中東地域での影響力拡大をはかっており、これまでの欧米主導の国際秩序に対抗する姿勢を強めている。

 2023年には、ハマースによるイスラエルへの奇襲攻撃が中東全体の不安定化を招いた。この出来事は、1848年のヨーロッパにおける革命の伝播に似ている。当時、自由や独立を求める運動が複数の地域で同時多発的に広がり、各地の権力構造を揺るがした。同様に、現在の中東情勢も地域全体に広がる緊張を生み出している。さらに、中国による台湾侵攻や南シナ海での軍事行動の可能性も取り沙汰されており、これがアジア太平洋地域に新たな不安をもたらしている。この動きは、19世紀のオーストリア帝国がハンガリーやイタリアに対して武力行使で統一を維持しようとした歴史と重なる部分がある。現在の中国は、台湾問題を巡る国際的圧力と国内ナショナリズムの高まりの間で困難な舵取りを迫られている。

 これらの動きは、我が国にも重大な影響を及ぼす。我が国にとって最優先課題は安全保障の強化であると考える。これまでの日米同盟を基盤として、自らの防衛力を高めるとともに、東南アジア・オセアニア諸国との更なる連携強化が求められる。また、経済面においてはサプライチェーンの多角化を進め、中国への依存を軽減する努力が必要と考える。同時に、中国との経済関係も維持しつつ、対立を回避する独自の外交政策を進めることが重要であると考える。

 歴史を振り返れば、1848年の革命は多くが直接的には失敗に終わったものの、後のヨーロッパにおける近代化や民主主義の進展に大きく寄与した。同様に、現在の国際社会が直面する混乱も、新たな国際秩序の形成に繋がる可能性が少なからずあると云える。現在、世界が多極的秩序への移行が進むなか、我が国は、国際社会での平和を推進する役割を強化して、地域の安定を維持するために積極的に行動する必要があると考える。

 そして、上述の現代の課題に対処するためには、歴史的視座を持つことが不可欠と云える
。1848年の革命とその後のヨーロッパの変化を教訓とすることにより、現代の混乱をより深く理解し、新たな秩序を構築するための道筋を明瞭化することが出来るものと考える。そして、こうした歴史的視座に基づいて、我が国は長期的な戦略を構築し、未来への備えを検討することが良策であると考える。

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2025年1月6日月曜日

20250106 4年制大学で目指す歯科衛生士

 歯科衛生士は、歯科臨床の現場で患者さんのお口の健康を守る重要な専門職です。この職種に就くためには、高等学校を卒業して、歯科衛生士養成機関で必要な科目や実習を履修し、毎年2月に実施される歯科衛生士国家試験に合格する必要があります。その後、歯科衛生士名簿に登録することで正式に資格取得となります。また、歯科衛生士になるための進学先としては3年制の専門学校や短期大学、そして4年制大学があります。それぞれの養成機関には特色があり、自分の希望する将来像に合わせた選択が可能です。

専門学校・短期大学の特徴
 専門学校や短期大学は、修学期間が3年間と比較的短いため、速やかに資格を取得して歯科臨床の現場で活躍したい人に適していると云えます。これら養成機関では、実践的な技能や知識の習得に重点が置かれ、即戦力としての歯科衛生士を育成することを主な目的としています。学費は養成機関によって異なりますが、3年間での総額は約300万~400万円程度が目安と云えます。また、多くの養成機関では奨学金制度や学費減免制度を利用することも可能であり、経済的負担を軽減する選択肢も用意されています。

4年制大学の特徴
 一方、4年制大学では、総じて、より専門的かつ幅広い学びの機会が提供されます。4年制の「歯科衛生士学科」や「口腔保健学科」などの学科では、歯科医療のみならず、福祉、公衆衛生、予防歯科などの関連分野の知識を深めることが可能です。そして、研究活動や大学院進学といった、さらなる学問的探求への選択肢も広がり、歯科医療以外の分野に進むことも視野に入ってきます。学費はさきと同様、養成機関によって異なりますが、4年間での総額は私立大学の場合、約500万~600万円程度と専門学校より総じて高額と云えます。しかしながら、4年間で得られる知識や経験は非常に価値が高く、そのため、4年制大学の養成機関を卒業した歯科衛生士は、より高度な専門知識を活用して、歯科医療分野のみならず、公衆衛生や教育、研究、行政などといった多様な分野に進むことも充分に可能と云えます。

歯科衛生士養成課程を擁する4年制大学
 以下に、国内のおもな歯科衛生士養成課程を擁する4年制大学を紹介します。また、それぞれの大学の特色や魅力、そして学費などの情報や学科URLも記載しました。

新潟大学(新潟県)
「歯学部 口腔生命福祉学科」は、歯科衛生士と社会福祉士の双方資格を取得可能な全国初の学科として設置されました。ここでは、口腔保健医療と福祉とを総合的に学び、地域社会に貢献できる専門職業人の育成を目指しています。また、4年間の教育課程では、1年次に教養科目を履修し、歯科医療の基礎知識を習得し、2年次以降は専門科目に進み、口腔保健や福祉について学びつつ、臨床実習や学外実習を通じて実践力を磨きます。そして最終年には、医療や福祉の現場での実習を重ね、調査研究を行いその成果を論文にまとめます。卒業時には、歯科衛生士と社会福祉士の国家試験受験資格が得られ、行政機関や医療施設、介護福祉分野など幅広い領域での活躍が期待されます。
学費: 初年度約82万円、4年間で約242万円
学科HP: 新潟大学 歯学部 口腔生命福祉学科

埼玉県立大学(埼玉県)
「健康開発学科 口腔保健科学専攻」では、歯科衛生士の国家資格取得を目指す学生に対し、質の高い教育を提供しています。この専攻では、歯科診療の補助、予防処置そして保健指導などの歯科衛生士として必要な幅広い知識と技術を習得します。さらに、選択科目の履修により養護教諭一種免許状の取得も可能であり、学校歯科保健に強い養護教諭の育成にも力を入れています。また、多職種連携も重視しており、看護師や理学療法士、作業療法士など、他の医療・福祉職との協働を推進する能力を養成します。これにより、学生は多職種連携の重要性を理解し、実践的なスキルを身につけることができます。カリキュラムは、口腔疾患の理解と口腔保健活動に関する科目を中心に構成されており、臨地・臨床実習では、歯科診療所や小学校・障害者施設など、多様な機関での実習を通じて実践能力の向上を図ります。これらの教育を通じて、口腔から全身の健康を推進するプロフェッショナルとしての歯科衛生士を育成しています。
学費: 初年度約83~104万円、4年間で約270~290万円
学科HP: 埼玉県立大学 健康開発学科 口腔保健科学専攻

東京科学大学(旧東京医科歯科大学)(東京都)
「歯学部 口腔保健衛生学専攻」は、4年制の歯科衛生士養成課程であり、この専攻では、保健医療や福祉分野と密接に連携して、口腔保健活動を展開できる能力を持つ歯科衛生士の育成に注力しています。また同時に、口腔保健分野の未来を担う研究者の育成も目指しています。そして、多職種連携教育や健康教育の企画と実践を通じ、医療を中心とした、さまざまな分野において活躍できる人材を育成することに重点を置いています。
学費: 初年度約92万円、4年間で約285万円
学科HP: 東京科学大学 歯学部 口腔保健衛生学専攻

千葉県立保健医療大学(千葉県)
「歯科衛生学科」では、口腔保健の専門家として地域医療に貢献できる人材の育成を目指しています。最新の設備を備えた歯科診療室での実習を通じて、実践的な技術と知識を習得することができます。また、多職種連携を重視したカリキュラムにより、総合的な医療提供能力を養います。卒業生は高い就職率を誇り、県内外の医療機関や教育機関で活躍しています。
学費: 初年度約82~96万円、4年間で約240~260万円
学科HP: 千葉県立保健医療大学 歯科衛生学科

明海大学(千葉県)
「保健医療学部 口腔保健学科」は、東日本の私立大学で初めて設置された4年制の歯科衛生士養成課程です。この学科では、歯学部付属病院など関連施設での臨床実習を通じて、幅広い研修の機会を提供しています。また、語学教育やキャリア形成教育、他学部との連携カリキュラムを取り入れて質の高い教育を実施しています。卒業後は、歯科診療所だけでなく、総合病院や介護施設、行政機関、企業、教育・研究機関など、多岐にわたる進路が開かれています。さらに、在宅医療や介護の場で重要視される口腔の健康に対応するため、摂食嚥下リハビリテーションや専門的口腔健康管理の教育も行っています。
学費: 年間約140万円、4年間で約490万円
学科HP: 明海大学 保健医療学部 口腔保健学科

大阪歯科大学(大阪府)
「医療保健学部 口腔保健学科」では、歯学部教授陣による講義や附属病院での豊富な臨床実習を通じて、国家資格水準以上の知識と技能を身につけることができます。カリキュラムは1~2年次に口腔および医療全般の基礎を学び、2~3年次には実際の病院設備や材料を用いた実習を行います。3~4年次には、附属病院の各診療科で多様な症例に触れることで、実践的な経験を積むことができます。また、思考力や判断力の育成にも注力しており、総合病院や医療関連企業など、歯科医院以外への就職も視野に入れた教育を提供しています。さらに同学科の歯科衛生士国家試験合格率は、近年連続して100%を達成しており、また就職率にも高い実績を誇ります。
学費: 初年度約160万円、4年間で約570万円
学科HP: 大阪歯科大学 医療保健学部

梅花女子大学(大阪府)
「口腔保健学科」では、歯科衛生士の国家資格取得を目指す学生に対し、充実したカリキュラムを提供しています。専門科目では、口腔ケアに必要な高度な知識と技術を修得し、実践力と柔軟な対応力を養います。また、最新の設備を備えた実習環境でのトレーニングを通じて、即戦力となるスキルを身につけることができます。さらに、女性の視点を活かしたケアの提供を重視し、患者さん一人ひとりに寄り添った対応力を育成します。卒業後は、歯科医院や病院、保健所、教育機関など、多岐にわたるフィールドでの活躍が期待されます。
学費: 初年度約160万円、4年間で約617万円
学科HP: 梅花女子大学 口腔保健学科

広島大学(広島県)
「歯学部口腔保健学専攻」では、養護教諭一種免許状の取得も可能です。学生は教養教育を通じて医療人としての基盤を築き、多職種連携教育や歯学部合同授業を通じて幅広い専門知識を修得します。3年次後期からは、広島大学病院や学外実習施設での臨床・臨地実習が行われ、在学中には海外研修の機会も多く設けられています。卒業後は、全国各地の病院や診療所での勤務、企業や行政での活躍、大学院への進学など、多様な進路が開かれています。また、口腔保健分野の教員や養護教諭、研究者としての道も選択可能です。取得可能な資格として、歯科衛生士国家試験受験資格と養護教諭一種免許状があります。主な就職先は、歯科医院、大学病院、歯科関連企業、公務員、大学教員、養護教諭など、多岐にわたります。
学費: 初年度約82万円、4年間で約242万円
学科HP: 広島大学 歯学部 口腔保健学専攻

徳島大学(徳島県)
「歯学部口腔保健学科」では、21世紀の多様なニーズに応える高度な歯科医療従事者の養成を目的としており、地域に密着した医療・保健・福祉の連携によるチームケアを他の関連職種と進めるための専門知識と技術を身につけた人材を育成します。教育課程においては、乳幼児期からの継続的な口腔疾患予防のためのケアと健康教育を重視し、社会福祉関連の科目を充実させています。これにより、幅広い領域の知識と視野を持ち、問題解決型の思考力と実行力を備えた人材育成を目指しています。また、医療従事者に求められる社会的責任感や倫理観、患者との的確な意思疎通能力、人間の尊厳を理解する豊かな感性を育成する教育も行っています。さらに、科学技術の発展にも柔軟に対応し、生涯学習への意欲を育むための基礎教育も提供しています。具体的な科目として衛生行政、歯科診療補助論、チーム歯科医療学、嚥下・摂食障害学、障害者福祉論などが開設されています。これらの科目を通じて、学生は多職種連携や高齢者・障害者の口腔保健衛生に関する知識と技術を習得します。
学費: 初年度約82万円、4年間で約242万円
学科HP: 徳島大学 歯学部 口腔保健学科

徳島文理大学(徳島県)
「口腔保健学科」では、4年制の教育プログラムを通じ、専門性の高い歯科衛生士を養成しています。学生は、歯科予防処置、歯科診療の補助、歯科保健指導の3大業務を中心に、専門分野や基礎分野を学びます。1年次から豊富な実習を経験し、最新の歯科診療ユニットや検査機器を備えた施設で臨床スキルを磨きます。教員は歯科医師や歯科衛生士としての豊富な経験を持ち、学生一人ひとりに親身な指導を行います。卒業後は、歯科クリニックだけでなく、大学病院や総合病院、保健所など多彩な現場での活躍が期待されます。また、歯科衛生士国家試験の全員合格を目指し、早期から国家試験対策を開始しています。学科独自の奨学金制度も設けられており、学生生活のサポート体制も充実しています。
学費: 初年度約167万円、4年間で約580万円
学科HP: 徳島文理大学 口腔保健学科

九州歯科大学(福岡県)
「口腔保健学科」では、歯科医療の基礎から高度な専門知識・技術までを体系的に学ぶことができます。カリキュラムは、基礎医学系科目や臨床系科目、さらに九州歯科大学附属病院や外部の医療施設での臨床実習を含み、実践的な教育が充実しています。また、歯学科との合同実習や多職種連携教育を通じて、チーム医療の重要性を理解し、全人的な歯科医療を提供できる人材の育成を目指しています。
学費: 初年度約80~100万円、4年間で約240~270万円
学科HP: 九州歯科大学歯学部 口腔保健学科

九州看護福祉大学(熊本県)
「口腔保健学科」では、保健・医療・福祉の視点から健康を総合的に捉え、ヒューマンケアを実践できる歯科衛生士の育成を目指しています。この学科では、ライフステージやコミュニティごとに異なる口腔保健のニーズに応える専門職を育てることを重視しています。また、カリキュラムは基礎科目から臨床実習まで幅広く編成されており、3年次には歯科診療所や病院での臨床実習を行います。くわえて、保育所や幼稚園、障がい児・者施設、高齢者施設などでの発達支援実習を通じて、多様な現場での実践力を養います。これにより、専門的な技術だけでなく、患者さん一人ひとりに合わせたケアの提供方法を学びます。この学科では、歯科衛生士国家試験の受験資格が得られるほか、履修条件を満たすことで、養護教諭一種免許状も取得可能です。これにより医療機関だけでなく、教育現場や地域保健の分野においても活躍の場が広がります。また、国家試験全員合格を目指して早期からの試験対策も充実しています。
学費: 初年度約112万円、4年間で約380万円
学科HP: 九州看護福祉大学 口腔保健学科

自分に合った進路を見つけるために
冒頭においても述べましたが、進学先を選ぶ際は、自分の将来像に合った学びが得られる大学を選ぶことが重要です。各大学の公式ウェブサイトやオープンキャンパスを活用して情報を収集し、自分にとって最適な選択をしましょう。そして、4年制大学での歯科衛生士となるための学びが、多様なキャリアの可能性を広げる貴重な機会となることを願っています。

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2025年1月5日日曜日

20250105 歯科材料の進化発展について 

 歯科材料発展の歴史は、人々の生活様式やそれを支える技術の進化と密接に関連しています。古来より用いられた歯科材料は、当時の社会的・技術的背景に強く影響を受けています。特に18世紀の西欧では砂糖の普及により虫歯が急増し、これが歯科治療の需要を高めて歯科材料の進化を促したとも云えます。

 まず、歯科治療において用いられる材料は、大きく分けて4種に分類されます。それは有機材料、無機材料、金属材料、そして複合材料です。古くからそれぞれの材料は、特定の役割を果たしてきました。たとえば、紀元前の精錬・冶金技術が未熟であった時代では金は化学的に安定して加工しやすく、また比較的得易いことから、歯の修復に材料として多く用いられましたが、現代では貴金属価格高騰のため使用が減少しています。

 前述のように18世紀の西欧においては、新大陸から齎された砂糖により虫歯が急増しましたが、当時は虫歯と砂糖との因果関係すら理解されておらず、歯科治療は主に抜歯でした。当時、この抜歯を専門とする「歯抜き師」という職業があり、これは前世期(17世紀初頭)のミゲル・デ・セルバンテスによる文学作品「ドン・キホーテ」にも登場しています。これがやがて、口腔内全般を扱う「歯の治療者」という職業へと変貌を遂げ、これが現代の西欧文化における歯科医師の起源となります。

 さて、先述の18世紀はまた、西欧にて磁器の製造技術が確立した時代でもありました。ドイツの錬金術師ヨハン・ベトガーが磁器製造に成功して、これが歯科材料にも応用されました。また、英国のウェッジ・ウッド社も、磁器の製造技術を応用して陶歯を製造して、その美しさで人気を博しました。この陶磁器製造技術による陶歯は、入れ歯にも使われ、それは当時の基準では、美しさと機能性を兼ね備えたものでしたが、技術的には不完全なものでした。たとえば、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが用いたとされる入れ歯はバネで上下を繋ぎ、咬筋を用い食いしばらないと外れてしまうようなものであったとされています。

 一方、我が国では、もっと早くから入れ歯が用いられていました。現存するものから、15世紀末から16世紀初頭にかけて、柘植(つげ)を材料とした木製の入れ歯が作られ、職人たちによって手作業で精巧に彫られてたことが分かっています。この技術には、我が国古来の彫刻や仏像制作と共通する部分が少なからずありました。とはいえ、19世紀後半から、明治新政府の文明開化、欧化政策により西洋の歯科医療が導入されると、さきに述べた我が国古来の木製入れ歯作成技術は衰退してしまいました。

 近代に入ると、歯科材料の研究開発はますます進み、有機材料(レジンなど)や無機材料(セラミックスなど)、そして複合材料が広く使用されるようになりました。特にセラミックスは、天然歯に近い色調や耐久性を持ち、現在でも審美性が求められる治療においては主流の材料と云えます。また、現代の歯科医療では、3Dスキャン技術などのコンピューターを用いた所謂「デジタル歯科」が普及して、それにより精度の高い補綴装置の製造が可能となっています。

 こうして、歯科材料は古代から現代に至るまで、その時代の技術と社会背景とに応じて進化発展してきました。歯科医療とは、よく云われるように「自然科学とアートが融合した分野」であり、そこでの材料の選択とは、機能性のみならず、審美性や個々の患者さんの要望に応じて変化し続けていると云えます。そして、その中でも特に(現代の美的感覚において)審美性が高い材料と云えるセラミックスは、古来からの磁器技術を応用して進化発展を遂げてきたものであることから、今後もさらに洗練されていくものと考えます。

*ChatGPTによる添削後
 歯科材料の発展の歴史は、人々の生活様式やそれを支える技術の進化と密接に関連しています。古来より用いられてきた歯科材料は、当時の社会的・技術的背景に強く影響を受けていました。特に18世紀の西欧では、砂糖の普及により虫歯が急増し、これが歯科治療の需要を高め、歯科材料の進化を促したといえます。

 まず、歯科治療において使用される材料は、大きく分けて有機材料、無機材料、金属材料、複合材料の4種類に分類されます。それぞれの材料は古くから特定の役割を果たしてきました。たとえば、紀元前の精錬・冶金技術が未熟だった時代には、金が化学的に安定して加工しやすく、比較的得やすいことから歯の修復材料として多く使用されました。しかし、現代では貴金属価格の高騰により、使用が減少しています。

 前述のように、18世紀の西欧では新大陸から齎された砂糖の普及により虫歯が急増しましたが、当時は虫歯と砂糖との因果関係すら理解されておらず、歯科治療の主流は抜歯でした。この時代には抜歯を専門とする「歯抜き師」という職業が存在しており、ミゲル・デ・セルバンテスの文学作品『ドン・キホーテ』にもその存在が描かれています。その後、「歯抜き師」は口腔内全般を扱う「歯の治療者」へと発展し、これが現代の西欧文化における歯科医師の起源となりました。

 また、18世紀は西欧において磁器の製造技術が確立した時代でもありました。ドイツの錬金術師ヨハン・ベトガーが磁器製造に成功し、その技術が歯科材料にも応用されました。さらに、英国のウェッジウッド社は磁器製造技術を応用して陶歯を製造し、その美しさで人気を博しました。この陶歯は入れ歯にも使用され、当時の基準では美しさと機能性を兼ね備えたものでしたが、技術的には不完全でした。たとえば、アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが使用したとされる入れ歯は、バネで上下を繋ぎ、咬筋を使って食いしばらないと外れてしまうような構造だったと伝えられています。

 一方、我が国ではさらに早い時期から入れ歯が使用されていました。現存するものから、15世紀末から16世紀初頭にかけて、柘植(つげ)を材料とした木製の入れ歯が作られ、職人たちによって精巧に彫られていたことが分かっています。この技術には我が国古来の彫刻や仏像制作との共通点が少なからずありました。しかし、19世紀後半になると、明治新政府の文明開化や欧化政策により西洋の歯科医療が導入され、我が国古来の木製入れ歯技術は衰退しました。

 近代に入ると、歯科材料の研究開発が進み、有機材料(レジンなど)、無機材料(セラミックスなど)、複合材料が広く使用されるようになりました。特にセラミックスは天然歯に近い色調と耐久性を備えており、現在でも審美性が求められる治療において主流の材料といえます。さらに、現代の歯科医療では3Dスキャン技術などのデジタル技術が普及し、これにより精度の高い補綴装置の製造が可能になっています。

 このように、歯科材料は古代から現代に至るまで、その時代の技術や社会背景に応じて進化・発展してきました。歯科医療は「自然科学とアートが融合した分野」といわれるように、材料の選択には機能性だけでなく、審美性や患者の要望が考慮されます。その中でも特に審美性に優れるセラミックスは、古来からの磁器技術を応用して進化を遂げてきた材料であり、今後もさらなる洗練が期待されます。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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2025年1月3日金曜日

20250103 立ち読みと集中力から ~意識の変容について~

 昨年末は慌ただしく過ぎ、今年に入ってからも、未だ新年の実感が乏しいのですが、久々に連日散歩に出ました。本日の神田神保町には既に営業している書店がいくつかあり、入って立ち読みをしていますと、やがて面白そうな書籍を見つけ、しばし、それに読み入り、そして、こうした行為を何度か繰り返すことにより、いつの間にか意識が変容していることが、書店や図書館などでの立ち読みでの一つの醍醐味ではないか?と、何故であるか久々に感じられました。この立ち読みによる意識の変容については、以前、当ブログにて述べたことがあったと思われますが、かつて和歌山市在住の頃、住んでいたアパートから自動車で10分程度の場所に比較的大きなショッピングセンターがあり、その中に、これまた大きな書店があり、その書店は大学からも近いためか、専門書なども揃えてあり、大学図書館とはまた違った楽しさがあり、さらに当時は24時間営業であったことから、アパートで調べものや文章の作成などをしていて煮詰まってきますと、時間帯を問わずここに来て、全く異分野の書籍の立ち読みなどをしばらくしていますと、不思議なことにリフレッシュされて、やがてショッピングセンター内のスーパーマーケットで氷菓などを購入して、それを食べつつ帰路につくため駐車場に戻るわけですが、そうした際に、自分がこの比較的大規模なショッピングセンターの駐車場の何処に駐車したのかを、キレイに忘れていることが何度かありました。他方で、その10分ほど前に読んでいた書籍の内容については、比較的明瞭に憶えているにもかかわらず…。そして、その後しばらく自己嫌悪の念を抱きつつ、自分が駐車した場所を探し続けるのですが、しかし同時に、こうした明確な意識の断層が生じるほどの意識の変容が生じることが、冒頭にて述べた「立ち読みの醍醐味」とも通底するものがあるのだと考えます。そして、それを肯定的に捉えるのであれば「集中力」と捉えることが出来ると云えます。そして端的に、当時の私は、それまであまり鍛えてこなかった「集中力」を、読書などにより自分なりに鍛えていたのだとも云えます。修士院生当時は、それまでではあり得ないほどの量の読書をしました。私は元来、興味を持った分野での読書であれば、あまり苦にならない性質であることから、当時は、本来の専攻であった地域学以外にも民俗学、考古学、古代史、経済学、社会学、近現代史など、それなりに多岐にわたる分野の書籍を読むことが出来たのだと云えます。そしてまた、それぞれの分野での読書が、他の何らかの分野での読書から生じたストレスを緩和する意味もあったことから、こうしたことが出来たのだと云えますが、しかしながら他方で、人文系の大学院修士課程では、このようなことは特に珍しくはないと云えます…。そして、この「集中力」は当時と比較しますと、現在は明らかに減衰したと感じられます。その理由の多くにはスマホ画面を見続けることによる視力の衰えもあるとは考えますが、こうしたことは読書の進み具合などから、自身としては比較的明瞭に認識することが出来ます。それ故、若くて目が健康で強いうちに、出来るだけ多くの難しそうな書籍を集中して読むことをおススメします。若い頃にそうした書籍に取り組み、理解出来た記憶があるのであれば、その後も、その記憶の経験を足場として、また新たな難しそうな書籍などにもあまり臆せずに取り組むことが出来ると考えます。そして、私もまた、そうした経験を足場として、昨年は2024年ノーベル経済学賞受賞の研究者等による著作を(どうにか)通読することが出来ましたが、おそらく、これも、それまでの読書経験があったからであると考えます。とはいえ、昨2024年は、目まぐるしく変転する国内外の情勢を自分なりに理解するために、これまで読まなかった分野での著作を立て続けに読んだためであるのか、現在に至るまで、少しバテ気味であり、そしてまた、この状態には、さきに述べた「以前であれば余裕であったのに…」と感じられる「集中力の減衰」があると私は考えています…。

*ChatGPTによる添削後
 昨年末は慌ただしく過ぎていき、今年に入ってからもまだ実感が湧かないままの日々が続いています。しかし、今年に入ってからは久しぶりに連日散歩に出かけました。本日の神田神保町では既に営業している書店がいくつかあり、立ち寄って立ち読みをしていると、やがて興味を引く書籍を見つけ、しばらくそれに読みふけっていました。このように立ち読みを繰り返すうちに、いつの間にか意識が変容していることに気づきました。こうした感覚は、書店や図書館で立ち読みをする醍醐味の一つではないかと、久しぶりに実感した次第です。

 この「立ち読みによる意識の変容」については、以前、当ブログでも述べた記憶があります。かつて和歌山市在住の頃、住んでいたアパートから車で10分ほどの場所に比較的大きなショッピングセンターがあり、その中に大規模な書店がありました。その書店は大学からも近かったためか、専門書も充実しており、大学図書館とは異なる楽しさがありました。また、当時は24時間営業だったこともあり、アパートで文章作成などをして行き詰まると、時間を問わずそこに出向いて、全く異なる分野の書籍をしばらく立ち読みすることがよくありました。不思議なことに、そうすると気分がリフレッシュし、その後、ショッピングセンター内のスーパーでアイスを買い、食べながら帰路につくのが常でした。

 ただし、帰り際に駐車場で自分がどこに車を停めたかをきれいに忘れてしまうことが何度かありました。一方で、その直前に読んでいた書籍の内容は比較的鮮明に覚えているのです。このような意識の断層が生じること自体、立ち読みの「意識変容の醍醐味」と通じる部分があるのだと感じます。この現象を肯定的に捉えれば、集中力の発露とも言えるのではないでしょうか。

 当時の私は、それまであまり鍛えてこなかった集中力を、読書を通じて鍛えていたのだと思います。修士課程時代には、それまでの人生で考えられないほど多くの読書をしました。元来、興味を持つ分野の読書であれば苦にならない性質だったため、本来の専攻である地域学に加え、民俗学、考古学、古代史、経済学、社会学、近現代史など、多岐にわたる分野の書籍を読むことができました。また、それぞれの分野の読書が、他の分野での読書によるストレスを和らげる役割も果たしていたため、これだけ多くの読書が可能だったのだと思います。もっとも、人文系大学院の修士課程では、このようなことは珍しくないとも考えられます。

 しかしながら、この集中力は現在、明らかに減衰したように感じます。その理由の一つとして、スマホ画面を長時間見ることで視力が衰えたことが挙げられます。この影響は読書の進み具合からも自覚できるところです。そのため、若く視力が健康なうちに、できるだけ多くの難しい書籍を集中して読むことをお勧めします。若い頃にそうした書籍に取り組み、理解した経験があれば、その後もその記憶を足場に新たな難しい書籍に臆せず挑むことができるでしょう。

 私自身もそのような経験を足場に、昨年は2024年ノーベル経済学賞受賞者の著作をどうにか通読することができました。これも過去の読書経験があったおかげだと感じます。ただ、昨2024年は、変化の激しい国内外の情勢を把握しようと、それまで手に取らなかった分野の著作を次々に読んだこともあり、少々疲れが残っています。また、この状態には、先に述べた「以前は余裕でできていたことができなくなった」という集中力の減衰が影響していると感じます。

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