そして一般の誤解としては、人類の進歩とともに、近来、婦人の社会的地位は高くなっているが、まだまだ男性に及ばず、従って完全な男女同権とはいえず、「婦人は未だ解放されていない」というのが、通念であろう。
そうでなければ、国際婦人年といった「お祭り」が企画されることはあるまい。
だが婦人の地位と人類の進歩は果たして関係があるのであろうか。
また進歩とは一体、何を意味しているのであろうか。
では、男女の社会的任務が逆転し、女性が男性的役割を演じて男性的となり、男性が女性的役割を演じて女性的になる、という社会が現出したら、それは進歩なのであろうか。
「いや、そういうことは生物学的にあり得ない。従って、性差による「差別」の撤廃と両性の平等化が目的なのだ」という世論は当然に出ることと思う。そこで私は、M・ミードが指摘しているニューギニアのかつてのチャンブリ人の男女を紹介してみたいと思う。
この社会は、ちょうどアメリカ型の逆であって、儀礼的には「レディ・ファースト」ならぬ「ジェントルマン・ファースト」だが、社会の実験はすべて女性が握っている。
社会の経済的支柱は、女性による漁撈と採集と機織で支えられ、彼女らは「財布のひも」をしっかりと握っている。
そのくせ形式的・儀礼的には男性に従属していることになっており、男性の中には数人の妻をもっている者もいる。
一言でいえば、経済的には男性が女性に従属し、形式的・儀礼的には女性が男性に従属している社会なのである。
その結果、男性は文字通り女性的で、われわれの社会でいう「女々しい」という言葉がぴたりとあてはまる。
従ってこの社会では「女々しい」を意味する場合「雄々しい」」といわなければならず、「まことに男らしい男」とわれわれの社会でいわれる性格は「まことに女らしい女」といわなければ意味が通じない。
すなわち男性は、情緒的で嫉妬深く、つまらぬ口論にもくよくよし、陰口、不平、見栄、依頼心といった要素を百%もち、経済的従属を当然のことと考えて、この点には何の疑問ももたない。
一方女性は、六~七歳のころから、経済的自立のための基本的技術を厳格に教え込まれ、自立して、立派に生活して行けるように仕込まれる。
従って女性は、支配的・確信的で、厳格な管理者であるが非常に協調性に富み、情緒的不安定は全くない。
そして堂々と男性の品定めまでする。
しかし夫を働かして経済的に依存しようなどとは、絶対に考えない。共働きなどというものも存在しない。そして男性にはきわめて寛容で、彼らの競技や舞踏などを、喜んで見物に行く。同時に女性は「女だけのクラブ」をもち、「女のつき合い」とでもいうべき公然の社交機関がある。そして「男と男の友情」のような「女と女の友情」があり、公然たる同性愛もあるが、男性はそのクラブには入れてもらえない。従って「女に媚を売ろう」とする男性は、女に変装し、監視の目をくぐってそのグループに入って「気をひく」。
これはこの社会の一種の公然の秘密になっている。
ミードは「(女は男に言い寄らないが)女に変装した男には女も言い寄るさまは、他のいかなる儀式的所作にもまして、チャンブリ人の錯雑とした性の様相を示していると思う。
表面的には男は、家主・家族の長で、数人の妻を持つことさえあるが、実際の権力と指導権は、女の手にある」と記している。
結局「男性的」「女性的」といわれる要素の大部分は、後天的に、社会的任務によって決定されるものであり、「女はつくられる」なら「男もつくられる」のであって、それは決して永久不変のものではない。
一体、彼らの社会は、なぜこうなったのであろうか。歴史のはじまりからそうだったのか。それとも、このチャンブリ人だけ、例外的に生物学的な性が逆転しているのか。
もちろん、そうではない。この社会も、イギリスの植民地となるまでは厳然たる男性中心の社会であった。男は支配者であり、戦士であり、部族を守り、家族の生命と財産を保護する重要な任務があった。しかしイギリスの統治とともに部族間の戦争が禁止されると、一転して彼らは単なる儀礼的任務しかもたない、社会の「装飾品」となってしまった。
そのため実質的逆転が生じたのだが、この転換はおそらく二世代ぐらいの短期間に完了したはずである。男性が戦士以外に社会的任務をもたず、その任務が「イギリス占領政策ニューギニア憲法第九条」で一挙に急激になくなったので社会的な存在理由を失い、「装飾品」として存在するだけになってしまったので装飾品としてしか扱われなくなった、これが以上の状態の簡単な図式化である。これを見ると「日本ほど社会の変化がはげしい国はない」という言葉は、修正しなければならないとともに、将来、これくらいの変化がさらに起こっても不思議ではないようにも思われる。同時に、男女の性格差といった、生物学的宿命のように考えられているものが、意外にそうでないこともわかる。かつての、日本男子と大和撫子といったイメージが、もう一世代で完全に逆転したとしても、またその逆方向にさらに再逆転しても、別に驚くべきことではあるまい。しかしそうなった場合、それが果たして進歩といえるのであろうか、日本がチャンブリ型社会になった場合はもちろん、その逆になった場合も、果たして進歩という概念にあてはまることなのであろうか。
存亡の条件 (講談社学術文庫 394)
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ISBN-10: 4061583948
ISBN-13: 978-4061583948
山本七平
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