A「最近こちらは朝晩が結構寒くなってきましたが、そちらはどうですか?」
B「ええ、基本的にそちらより、ここ関東の方が寒いと思いますが、この時期では、まだあまり大きな違いはないのではないでしょうか?」
A「まあ、そうですね。
そういえば秋といえば芸術の秋ですが、最近何か面白いものを見つけましたか?」
B「いえ、最近は映画もテレビも御無沙汰です。
一方、このブログ作成や、手近にある本の読み直しが最近習慣づいてきましたね・・。
ブログの作成に関しましては、面倒くさいと思いつつも、周囲のよく分からないけれども面白い反応に支えられて続けているのが現状です。
また、書籍の抜粋であれ、自身の文章であれ、こういうのを作っている最中はまた、何とも云えない別の感覚があるようです。
しかし、そうではあるのですが、同時にブログの材料探しのために読書するのもどうも違う様な気がしますので、それは少し注意した方が良いかなと思いましたね・・。」
A「ええ、何でも恣意的なニオイがするものは、それだけでどうも胡散臭く見えてしまいますからね。
単純に楽しめなくなります。
我々日本人は、よくわかりませんが、その「自然」っていう感覚をとても大事に大切にします(笑)。
ですから、Bさんがブログの作成を面倒くさいと思うのは、それを楽しみにしておきたい、そして「出来るだけ自然なものをつくりたい。」という願望がそうさせているのかもしれませんね・・。
さて、それで思い出しましたけれど、たしかルナールの「にんじん」に「主人公(にんじん)は自分の好きな玩具で遊ぶ時はできるだけ楽しくないように遊ぶ、そうしないと誰かにそれを奪われるから。」といった意味のことが書かれていましたけれど、ニュアンス的にはそれに近いものもあるのではないでしょうか?
しかし案外創造力、創造性というものは、そういった多少不便、不足のある環境の方が生成し易いのかもしれませんね・・。
最近の最新技術を駆使した映画などを観ますと、どうもそうではないかと考えさせられます・・。
B「ええ、云われてみますと確かにそういった一面はあると思います。
しかし私の場合、ブログ作成はあくまでも精神衛生のためであり、あるいは先ほどの創造力、創造性をどうにか維持、持続させるための手段であると認識しています・・。
とはいえ、よく考えてみると、私のブログには創造的な要素はあるのでしょうか・・?
その大半は多少ひねっているのもありますが書籍からの抜粋であり、自身の文章であっても、書籍からの抜粋に触発された考えを過去の会話に絡める程度のものですので、まあ創造性は意外に乏しいのではないかと思ったりもします・・。」
A「創造性の詳細な定義は今現在、ここでは私もよくわかりません。
しかし、それでも先ほどのことにも通じますが一つ云えることがあります。
それは「目の前ににんじんを吊るされた馬の様にあまり力まない方が良いのではないか?」ということです。
これも、さきほどの様に自然体にて選んだ書籍からの抜粋、作成文章の方が彼我双方から見て単純に楽しいと思いますからね・・。」
B「ははあ、確かに私はすぐに力む、肩に力が入るクセがありますから・・最近はこれが冬季に生じる気分の落ち込みの原因になっているのではないかと思います。
ともあれ、どうもありがとうございます。
それは、確かにおっしゃる通りかもしれません・・。
それにしても偶然かもしれませんが、今までの会話でAさんが「にんじん」という言葉を二回出されたのは何か面白いですね・・。
その「にんじん」で私も思い出しましたけれども、これは確か小林秀雄がどこかで云っていたと思うのですが、その昔にんじんは大変高価な薬の原材料であり、今でも朝鮮人参、高麗人参などが有名なのですが、これを畑で一度栽培すると、生育の過程でにんじんが畑の土壌の栄養素を全て吸収するのか、あるいは、同じ過程で毒素を土壌内に放出するのかわかりませんが、とにかくしばらくその畑は使い物にならなくなるらしいのです。
現在では多分こういったことは科学的に明瞭に解明されているとは思いますが・・。
そしてさらにこの話で私が思い出すのはロバート・グレーヴスの「さらば古きものよ」の上巻に書いてあったデンマークのある地方における一族の風習です。
それは奇数世代と偶数世代がそれぞれ交互に板金職と牧師職に就くというものであり、これを著者は「あながち悪い風習ではない。」と評価していました。
こうした風習の背後にある考えとは、少なくとも現代日本ではなかなか見られない、そして同時に長い期間、何世代にもわたる人間に対しての深い洞察があるのではないかと考えさせられます。
しかし一方、多分、明治以前の日本社会においても同様の風習はあったのではないかとも私は考えています・・。
それらは明治維新以後の社会の大きな変化により徐々に形骸化、衰退していったのだと考えます。
その他の伝統、風習と同様に・・。
また、そういったことは現在でも進行しているのかもしれません。
その意味で明治初年に生じた新政府に対する一連の叛乱とは、そういった在来の伝統、風習の衰退を拒否するものであったとも云えるかもしれません。
また、古来よりの風習を全て因循姑息なものとして捨て去った代わりに得た新しい、代替のものは、それほど良いものであったのでしょうかね・・・?」
A「うーん何だか夏目漱石の「現代日本の開化」や「三四郎」の冒頭部の広田先生との会話を想起させる様な発言ですが、確かにそういった側面はあると思います。
そしてその後の太平洋戦争後の日本社会も同様に在来の文化、風習を衰退、破壊するものであったのだと思います・・。
そしてそれと同時に現代社会のこの混乱とは、大きく見れば明治維新以降の、また小さく見れば太平洋戦争後の絶頂期であったバブル期以降の社会の様々な面での歴史からの評価がなされている状態ではないかと思います・・。
そしてこの先の時代の価値観とは、良くも悪くもこの評価の上に築かれるのだと思います。」
B「それはよくわかりますね・・。
あまり楽天的な話にできないのが残念ではありますが・・・。
しかし、この話自体は大変興味深く思いましたので、少し筋を変えてブログのネタにさせていただきます・・(笑)。」
A「ああ、そうですか、どうぞ。」
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