「武士武士というが、武家屋敷なんぞは小さいものだ」
ということを林氏がいいだした。林氏の母方の方は豊前だったか豊後だったかの小藩の藩士で、石高で勘定する家である。石高で勘定するのはたとえ小禄でも高等官なのだが、その家が林さんの子供のころの目にはびっくりするほど小さな家だったという。一概にはいえないが、そういう場合が多い。藩によってはちがうが、たとえば石州津和野四万三千石の藩の、御典医という威張った家だった森鴎外の家などは八十石で、その家屋はちょうど戦後のすぐの都営・市営住宅のように小さい。その川むこうにあるおなじ御典医で九十石の西周の家も同様である。林氏の子供のころの記憶は正しいであろう。
ところが、安岡氏はこれに異論をたてた。自分の父の生家は大きい、というのである。どうもまわりが一町四方ほどあって、建物も堂々としているという。林氏が、そんなばかなことがあるか、と怒りだした。酔っているから、仕方ない。
じつをいうと、安岡氏のいうほうも、それはそれで正しいのである。安岡氏の家は土佐安芸郡の郷士で、身分は林氏の母方よりもひくく、藩の高等官ではない。軍隊でいえば下士官の身分である。ところが土佐郷士というのは身分こそひくいがその多くは広大な田地をもち、小作農をかかえており、その本態はかつては戦国期には地侍で、所の大名が陣触れするとかれらは小作農の一人二人を足軽・小者としてひきつれ、出陣してゆく。こういう地侍が、他の分国では江戸期には大庄屋・庄屋になった。土佐の場合はある政治的理由から多くが郷士という階級をあたえられた。土佐では郷士が庄屋を兼ねることがあり、要するに農村の旦那衆というのが本態なのである。屋敷が大きいのは、それが武家であるからではなく、旦那衆であるからなのである。モミ干し庭もひろくとらなければならないし、庄屋として藩への年貢米の取次ぎをするから、米俵をおさめる蔵は大きくなければならない。場合によっては村落での裁判もやるから白洲もつくっておく。自然、屋敷が宏壮であることが必要になってくるのである。宏壮であっても、しかし郷士は藩吏として職をえても高等官にはなれず、せいぜい警察でいえば平巡査程度にしかなれない。石高で勘定される家は、たとえ小さな家にすんでいても、器量次第では仕置家老(一代家老)にまでのぼれるというのが、日本の封建制度のおもしろさの一つなのである。
日本の封建制のおもしろさとしてこの話と関連するが、元来、百姓屋敷というものは、いかに働きがよくて収入のいい百姓でもその座敷に勝手に欄間をつくることはゆるされなかった。藩や幕府(天領の百姓の場合)に献金をして、その公許を得ねばならないのである。
さらにそれ以上に大層なものは、門をつくることであった。庄屋門とよばれている、あの堂々たる門(鴎外の生家の門などは形ばかりのものである)は、戦国期の地侍階級がそのまま庄屋階級になった場合はべつとして、ふつう、代々献金をかさねかさねして莫大もない献金のすえに「苗字帯刀ゆるし」を得てはじめて建てることができるもので、私など、地方に取材に行って山間の朽ちた百姓屋敷の門などをみるとき、それを思うと、ときに息をわすれるような感慨をおぼえる。
もっとも、いま村々をあるいていても、門構えの農家が多い。げんに私は大阪の東郊にすんでいるが、このあたりは大正期にすでに都会化されたが、旧村を抱き込んで街がある。私どもの土地では、この旧村のひとびとは自分の居住区をムラナカとよんでいる。私は毎日その村中をつききって隣りの駅前まで散歩にゆくのだが、ムラナカの家はどの家もふるびて堂々たる庄屋門をもっている。これは、右のはなしとはちがうのである。このムラナカは元禄期までは一面の沼であった。元禄期に大和川が改修されて土地が干あがり、耕作可能地ができた。そこで各村の次男、三男坊がきて一村できたというから、古い村ではない。大正期にこのあたりが都市化するにつれ、農家は地主になり、金が入ったりしたが、金が入るとすぐ家を建てかえるのはむかしもいまもかわらない。どの家も、まっさきに庄屋門を建てたのは、それが前時代には金力の象徴のようなものだったからだろう。前時代には、庄屋門の背景に気の遠くなるような献金とそれを可能にする富力があったのだが、明治後は、門の改築費さえあれば建てることができる。
明治維新は、自作農以上の百姓にとって一つの意義は、門を勝手につくってもよいということで、家道楽が風習になっている淡路島などではさかんに門が建てられたという。明治の開化の象徴はザンギリ頭や洋服だけでなく、前時代の庄屋門の禁制解除ということにもあったにちがいない。
歴史の中の日本
・ISBN-10: 4122021030
・ISBN-13: 978-4122021037
司馬遼太郎
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