とあわせて読んでみてください。
前章の最初に記したように、チャンブリ人の社会は、イギリスの影響を受けて一変した。
だが、いうまでもなくイギリスは、チャンブリ人の社会における男女の役割を一変させようとして、その政治的影響力を行使したのではない。
従ってその変化は、イギリスも予期しない一種の波及的効果だったといえる。
こういった波及的効果は、異なった二文化の接触の際必ず起こるものだが、それらの多くは、社会の機構がチャンブリ人のごとく単純明確でないため、だれにでも明確にわかる表面的現象にならず、逆に、内攻してしまう。
前述のように、戦後の平和憲法の一部は、チャンブリ人への、イギリスによる部族間の戦争禁止と似た面がある。
もちろんアメリカの意図は日本の精神面・物質面における完全な武装解除であり、それ以外に彼らは何も意図していなかったと思われるが、それが、彼らには考えも及ばなかった波及的効果を全日本に与えたところで不思議ではない。
もちろん同じ現象は、もっと複雑な形で明治にもあった。
そしてその波及的効果はさまざまに作用し合って、チャンブリ人の社会に見られるとはまた形の違った一種の倒錯を生んだ。
これは政治的・社会的倒錯と呼ばれるものかも知れない。
その焦点は後述するように「現人神天皇制」があるわけだが、それらに進む前に、二つの文化の接触による二重基準から身動きができなくなって滅亡した一例の、今に残る詳細な記録の一部を紹介しよう。
それは二〇〇〇年前のユダヤ民族の滅亡であり、それを記したのは、フラウティウス・ヨセフスという一ユダヤ人である。
では「民族の滅亡」とは何なのであろうか。
人間が消えることではあるまい。
多くの、滅亡した民族の生物学的子孫は、他の民族の中に今も生きている。
「歴史としての聖書」の著者ケラーは、民族を、全人類という巨大なオーケストラの中の各メンバーと規定し、民族が滅びるとは「有史以来つづいている人類の文化という一大交響曲の中から、その民族という楽器の音が消えること」だという意味のことを言っている。
そう言えるかもしれない。
確かに人間は残るが、民族としては、沈黙して消えてしまうのだから―。
では、民族は、どうして滅びるのであろう。
「敗戦で民族が滅びることはない」という言葉は、今では自明のことであろう。
これは太平洋戦争によって獲得した貴重な認識の一つである。
ではなぜ民族は滅びるのか。
さまざまなケースがあり、いろいろな診断が可能であろう。そこで私はここに、史上稀に見る詳細さをもつ、ある民族の志望診断書を提示し、われわれの自己診断に一助としたいと思う。
「われわれの都はかつて繁栄の極に達したのち、最も深い災いの淵に転落した・・・。私の考えでは世界が始まって以来のいかなる悲運もユダヤ人のそれとは到底比較にならない・・・。しかもその責任をいかなる外国人にも求めるわけにはいかないからこそ、悲しみを押えられないのだ・・。」(ヨセフス「ユダヤ戦記」Ⅰ(3))
自国・自民族の滅亡を、まるで「臨終に立ち会った臨床医」のような態度で書き記したファラウティウス・ヨセフスという不思議な人物は、紀元三七~三八年ごろ―イエスが十字架に架けられた七、八年後?―にエルサレムに生まれ、紀元一〇二~〇三年ごろローマで死んだ。
その生涯自体が一つの「小説」といいたいほど数奇なものだが、その要約は後に回し、彼の残した実に稀有な著作について少し記そう。
なぜ稀有といえるのか。
通常滅ぼされたものは記録を残さない。
歴史はほとんどすべて勝者の手で記される。
確かに勝者が敗者を言及し、また敗者が勝者の不当をなじる悲痛な叫びをあげることはあっても、前述のように臨終に立ち会った臨床医の目」で、自民族いわば自らの死の「死亡診断書」を記したものはいない。
確かに傍観者の記録ではあるであろう。
しかし、傍観者は、その病人を救おうと悪戦苦闘した臨床医ではない。
前述のように、彼は、自民族の滅亡を「その責任をいかなる外国人に求めることもできない滅亡、すなわち一種の民族の自殺乃至は自らの招来した当然の帰結と見ても、不当にローマ軍に蹂躙された一小国の悲劇とは見なかった。
戦争による敗滅は一種の清算もしくは火葬にすぎず、それ以前に、民族はすでに破産し、死屍化していたと彼は見たわけである。
では一体何が一民族を破滅させ、以後二〇〇〇年の流浪と迫害を招来させたのであろうか。
そこには何か「滅亡の原則」のようなものがあって、その原則通りにすれば、いかなる民族も同じような道を歩むのであろうか。
私が彼の著作と同時代の関連史料から探ってみたいのはこの臨床医が見たその「滅亡の原則」であり、同時に、彼の「診断書」を正しいとすれば、われわれもその「原則」通りに同じ道程を歩んでいるのではないか、という問題である。
ヨセフスには、「ユダヤ戦記」「ユダヤ古代誌」「自伝」「アビオン反乱」の著作がある。このうち、最も貴重なものは「戦記」だが、これはいわば略称で彼自身は「ユダヤ人の戦について」と呼んだのだが、同時代はこれを「ペリ・ハローセオース」と呼んでいる。
「ハローセオース」という語は、ヨセフスの用語では、敗戦・破滅・滅亡の意味であり、従ってこの呼び名を字義通りに訳せば「滅亡について」になる。
これが同時代の読者の受け取り方だが、こういう受け取り方をされたのは、ヨセフスの心底に「なぜ、一民族が滅亡するのか」という問題意識が常にあり、それをしらずしらずのうちにも読者が看取したからであろう。
そしてそれを看取した者には、この書の奥には確かに「滅亡の原則」が意識されており、本書はそれの論証のように見えてくる。
それが、著者の表向きの意向とは別に「滅亡について」という書名を、読者がつけてしまった理由であろう。
その点、本書は、その民族に生き残る意志があるなら、最高の警告書であり、そこに表れた事例は、典型的な「反面教師像」である。
そしてこの書が、実に長い間、西欧の教養人の必読書であったことは忘れてはなるまい。
もちろん彼らは、この書を新約聖書の最も信頼できる同時代史として読んだのであろうが―しかし同時にそれは二〇〇〇年近く「こうすれば滅びる、こうすれば滅びる」と彼らに囁きつづけて来たはずである。
だが奇妙なことに、西欧化が口にされつづけた日本で、この伝統的な著作は、明治以来完全に無視されてきた。
無理もない。
というのは、明治のはじめから現代まで、日本において圧倒的なのは「興国史談」と「経国美談」だったからである。
明治のはじめにはその範は専ら西欧であり、やがてアジアに移り、戦後アメリカからソヴィエトに移って、またアジアにもどったという変化はあっても、それは筋と登場人物と舞台の設定は違っても内容は実質的には常に同じという「講談本」「通俗小説」の如くに、同じであった。
いろいろ問題になった中国報道やベトナム報道も、これを「興国史談」「経国美談」に書きかえられた通俗実話小説、すなわち明治以来の延長線上にあるものと見れば少しも不思議ではない。
ギボンの「ローマ帝国衰亡史」は確かに古典として翻訳出版されたが、これはあくまでも、はるか後代の一知識人の分析であっても、その滅亡の渦中にあったものの生々しい臨床医的記録ではない。
しかしそれですら、日本の読者には歓迎されなかった。
そしてこの「興国史談」「経国美談」の一世紀にわたる伝統は、ジャーナリズムまでその型にはめてしまい「さあ、興国側のまねをしよう」「その側に立とう」という形になり、さらに、次の「興国」を先取りしようという形にさえなっている。―そしてそのことも、実は「滅亡の定理」の一つだということも気づかずに。
山本七平
ニコ生トークセッション「愚民社会」大塚英志×宮台真司
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