2025年9月30日火曜日

20250929 我が国での包摂的制度の一つの具体像について

 1939(昭和14)年、米国の科学者・教育家であったアブラハム・フレクスナーは「役に立たない知識の有用性」(The Usefulness of Useless Knowledge)という論考を発表しました。同年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発し、全体主義の国々では、学問や文化、科学技術に対しての支配を強化していた時代に、彼はあえて「役に立たないもの」にこそ価値があると主張しました。それは単なる逆説的な挑発ではなく、人類の文明の存続を左右する普遍的な問題提起であったと考えます。

 この論考でフレクスナーが強調したことは、科学技術や芸術などでの創造は「役に立とう」という意図からではなく、純粋な好奇心から生まれるという事実です。19世紀に電磁波の存在を理論化したマクスウェルも、それを実証したヘルツも、そこからラジオや無線通信が生まれることを予想してはいませんでした。ファラデーの電磁気の研究もまた、社会的な応用を意図したものではありません。しかし、こうした一見「無駄」に見える営みこそが、後に人類の生活を一変させる発明や発見を生んできたのです。

 この視点を我が国の近代化と重ねてみますと、夏目漱石の「現代日本の開化」が想起されます。漱石は、明治日本の文明開化が外発的・皮相的なものであり、精神の成熟を欠いていると指摘しました。とはいえ、欧米列強に追いつくため急速に制度や技術を導入する必要があったことは事実です。しかし、その過程で「一見役に立たないもの」への寛容さが失われてしまいました。そして、漱石によるこの指摘は、明治期にとどまらず、現在に至るまで続き、近年の「コスパ・タイパ重視志向」とも連続していると云えます。

 加藤周一もまたその著作『日本人とは何か』において、同様の問題を指摘しています。明治政府は富国強兵を至上の目標に定め、官立大学を設けて、役人や技術者の効率的な養成を試みました。こうして知識人全般は、国家目的のために徹底して動員されて、文学や芸術や思想といった「役に立たなそうな領域」には目を向ける余裕を持ち得ませんでした。加藤はその象徴として、世界最大の戦艦(大和)を建造しながら、国民のための乗用車を量産できなかった我が国の工業環境を挙げています。そして、そこから「コスパ重視」志向によって知の多様性が省みられていなかった様子が理解出来ます。

 さらに加藤は、我が国の知識人の多くが自国文化への関心を失い、輸入文化の愛好に偏ってしまった結果、文化全般の歴史的厚みが乏しくなったと指摘しました。当然ながら、輸入した文化とは、我が国の土着文化との親和性が低く、そこからは、厚みのある文化芸術を育てることは困難であり、そのため、明治の文明開化から太平洋戦争の敗戦に至るまでと、戦後から今日に至るまで続いている思想・文学・芸術的な貧困があると加藤は指摘します。そしてこれは、漱石が「現代日本の開化」で批判した「外発的開化」とも通底するものがあると云えます。

 2024年にノーベル経済学賞を受賞した経済学者ダロン・アセモグルは、政治学者ジェイムズ・ロビンソンと共著した『国家はなぜ衰退するのか』(Why Nations Fail, 2012)において、国家の命運を分けるのは制度の性質であると述べました。つまり、自由で多様な参加を保障する「包摂的制度」を持つ社会は長期的に繁栄しますが、「コスパ重視志向」のもとで利益や成果が一部に集中して、創造性を抑圧する「収奪的制度」に傾いた社会は、必ず衰退するということです。そこから、冒頭のフレクスナーが主張した「役に立たない知識の有用性」は、まさに包摂的制度における文化・学術的なものの価値とも通底するものがあると云えます。

 現代の我が国においては「コスパ重視志向」は、教育や研究の評価などにも浸透して、短期間で成果が見えるものが優先される一方で、基礎研究や人文学のような「すぐには役立たない営み」が軽視されがちです。その結果、長期的な発展可能性が閉ざされ、「失われた30年」と呼ばれる停滞の中で「衰退のスパイラル」に陥っているのではないかと考えます。

 しかしながら、我が国の文化にはまた別の側面もあります。それは、俳句や茶道のように、一見「無駄」に見えるものを尊ぶ伝統です。これらの文化は、実用性を欠いているように見えながら、人々の感性や生活の質を豊かなものにし続けてきました。そして、そのことは、フレクスナーが説いた「役に立たない知識の有用性」とも共通するものがあると考えます。そのため、もしも、こうした我が国古来からの伝統を再評価して、学問研究や制度設計などにも組み込むことが出来れば、我が国独自の取組みとして、包摂的な学問研究を含む文化全般をより創造的なものにすることが出来るのではないかと考えます。

 そこで、現代の我が国社会での課題に目を転じてみますと、具体的な施策としては、第一に基礎研究への長期的投資が不可欠であると考えます。医療や工学をはじめとする自然科学系・理系分野においても、すぐには成果が出ない探究を支えることが将来の大きな革新を生むと考えます。第二に、我が国が直面している超高齢化社会の現実を鑑みますと、医療介護系の専門職大学の新設も急務であると考えます。そこでは単なる職業訓練だけではなく、人文学や基礎科学への能動的な好奇心も重視して、現場での実践と学術研究を往還できるような人材を育成出来るような制度を整備することが重要です。さらに、これは基礎研究を含む「科学に従事する人」を育成するという意味においても有意義であると考えます。また、今後、我が国が直面する医療介護分野での課題と、それらへの対応とは、将来、同様の課題に直面する国々にとっても価値を持つことになると考えます。そして、そこに向けた各種基盤の整備や制度設計こそが、我が国において「包摂的制度」を具体化するものであり、そして長期的な繁栄への礎になるのではないかと考えますが、さて、如何でしょうか?

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2025年9月24日水曜日

20250923 三島由紀夫と小野田寛郎から見る忠誠について および地域性について

 三島由紀夫と小野田寛郎。彼ら二人の人生から、戦後日本人にとっての「忠誠」という概念について考えさせられます。両名はいずれも国家、そして天皇に対して深い敬意と忠誠心を抱きながら、その表現の仕方は著しく異なっていました。三島由紀夫は戦後社会において天皇への忠誠心が失われていくことを憂い、自らの思想に殉じて劇的な死を遂げました。それに対して小野田寛郎は、敗戦後も遠くフィリピンのルバング島で30年近く残置諜者として任務を続け、生き抜くことによって忠誠を示しました。

 三島(平岡公威)は1925(大正14)年、東京の高級官吏の家庭に生まれました。旧制学習院で学び、高等科卒業の際には主席として昭和天皇から恩賜の銀時計を拝受しています。その後、東京帝国大学法学部に進学し、敗戦を挟んで1947(昭和22)年に東京大学を卒業しました。卒業後、一時期、大蔵省に勤務しましたが、文学への情熱を抑えきれず作家へと転じました。『仮面の告白』『金閣寺』『潮騒』などで文壇に登場し、文学的評価と経済的成功を両立させましたが、その特異性は作品以上に、むしろ、さまざまな行為を通じて示されたと云えます。肉体改造、居合や格闘技の稽古、自衛隊への体験入隊、さらに民間防衛組織「楯の会」の設立など、彼は自己の思想と美学を身体を用いて表現しようとしました。

 1970(昭和45)年11月25日、三島は自衛隊市ヶ谷駐屯地で決起し、自衛隊員に呼びかけを行いましたが、支持は得られず、割腹自決に至りました。この行為は単なる自決ではなく、美学と政治思想を身体を通じて表現する試みでした。明治天皇崩御の際に乃木希典夫妻が遂げた静かな殉死とは異なり、三島は事前に報道機関へ告知し、多くの視線を集めました。忠誠とは内面的な信念に留まらず、社会全体に突きつけるべき抗議であるという考えが、彼をある種の「演出された殉教」へと導いたのだと考えます。そして、その死は当時の我が国社会に大きな衝撃を与えました。

 一方、小野田寛郎は1922(大正11)年、和歌山県海草郡(現海南市)に生まれました。旧制海南中学校を卒業後、会社勤務を経て徴兵され、陸軍予備士官学校を経て、陸軍中野学校で遊撃戦を学び、フィリピンのルバング島に派遣されました。そして敗戦後も降伏を信じず、仲間の死や飢餓、病に耐えながら三十年近く潜伏を続けました。やがて、1974(昭和49)年、元上官からの正式な任務解除を受けて、ようやく投降しました。その忠誠には演出性はなく、ただ「命令だから」という一点に支えられていたと云えます。いわば、栄誉や喝采を伴わない、寡黙で持続的な行為でした。

 帰国後、小野田は昭和天皇との謁見を辞退し、「陛下に謝られるのが嫌だった」と語りました。ここには、自らの忠誠を他者の評価に委ねない、反骨精神に近い強い自律性 が表れています。とはいえ、戦後の我が国社会は、彼にとって居心地の良い場所ではなく、やがてブラジルに渡り、開拓、牧場経営に従事しました。また、晩年には再来日し、青少年育成に尽力しましたが、その歩みもまた、派手さはない「忠誠のその後」であったと云えます。帰国時、我が国の社会は彼を英雄視しつつも、同時に約30年という隔絶に戸惑いを抱きました。小野田にとっての忠誠とは、土俗的なものであり、そして長い年月を生き抜いて示されたものでした。

 両者を比較しますと、「思想に殉じた三島」と「命令に殉じた小野田」という構図が看取され得ます。三島は都市的で衆目を集めると云う意味で演劇的な手法を用いて命を賭して忠誠を示し、他方の小野田は、長期にわたる潜伏生活を通じてその忠誠を示しました。そして、その姿には、我が国の古い記録とも通底するものがあります。

 『続日本紀』神護景雲三年(769)の条に、陸奥国牡鹿郡の俘囚、大伴部押人による願い出が記されています。押人は「祖先は紀伊国名草郡片岡里の出であり、かつて蝦夷討伐に従った大伴部直が陸奥に至って住み着いた。しかし子孫は蝦夷に捕らえられ、代々俘囚の身となった」と述べました。やがて朝廷の威徳により当地の平定が進み、良民となったため「俘囚の名を解き、調庸民として扱ってほしい」と願い出て、許可されています。そこには「異郷に長く留め置かれて、やがて帰還を果たす」という経験が記されています。

 紀州を出自とする者が、異郷にて俘囚として生き、世代を経て帰還したと云うこの記録は、ルバング島に30年近く留め置かれた末に帰国を果たした小野田の姿とも重なります。さらに、いずれも紀州北部を出自として、異郷にて不自由を強いられ帰還に至ったという点で共通します。

 さらに、注目すべきは、紀州に残る名草戸畔の伝承です。『日本書紀』によれば、神武東征の際、当地の女酋長・名草戸畔は神武軍に抗して討たれ、遺体は三つに分けて祀られました。その首を祀るのが海南市の宇賀部神社、通称「おこべさん」であり、小野田家の本家は代々この神社の神職を務めてきました。小野田自身、自らの「負けじ魂」の源流を名草戸畔に見ており、紀州人の反骨精神を受け継いでいると語っています。彼の密林での潜伏やブラジルでの開拓は、この精神の発露でもあったのだと云えます。

 このように見ますと、忠誠とは思想であるのか、行為であるのか、あるいは生か死か、といった問いが浮かびます。三島と小野田は、この問いに対してそれぞれ異なる答えを示したと云えます。そして両者の忠誠の対比に加え、さきの歴史記録を通して浮かび上がるのは、時代を超えて受け継がれる当地の「反骨精神」です。ともあれ、こうしたことから、忠誠の様相は一様なものではなく、その多様な姿は、よくよく見ますと、我々日本人の歴史的経験に、それなりに深く刻まれているのではないかと思われましたが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?

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2025年9月19日金曜日

20250918 大気の薫りと混然一体とした記憶の想起について  ー和歌山への訪問から自然と歴史についてー

 先週末から今週の月曜日にかけて、久しぶりに和歌山を訪問する機会を得ました。今回の滞在は和歌山市内に限られ、市外や南紀方面へ足を延ばすことはありませんでしたが、街なかの空気を吸うと、周囲の山々や海から流れ込む独特の大気の薫りが、かつて南紀や和歌山市内で暮らしていた頃の記憶や感覚を呼び起こしてくれます。そして、この感覚は、気力や忘れかけていた興味なども蘇らせて、心身を元気にしてくれるように思われます。また、対照的に、現在在住している首都圏では、こうした自然豊かな大気を感じられるような環境や機会は乏しく、さまざまな利便性の反面で、自然との距離が遠いように感じられます。

 これまでにも当ブログにて折に触れ何度か述べてきましたが、私がはじめて和歌山の自然環境に接し畏怖を覚えたのは、2001年に北海道から南紀白浜へ転勤した際でした。南紀白浜の関西圏有数の温泉地としての賑わいの背後には、黒潮からの波が打ち寄せる荒々しさと、紀伊山地(熊野)の南方的な鬱蒼とした照葉樹の森が広がっています。そして、その景観は、それまで、鼻で息を吸うと頭が痛くなるような寒い北の大地にいた私にとっては強烈なものであり、全てを包み込んでしまうような、その自然環境の前では、ただ立ち尽くすばかりでした。

 南紀白浜、その北隣の紀伊田辺市、さらに双方の内陸に位置する上富田町は、紀伊山地南西端の沿海部の中核地域であり、古い時代に「牟婁(むろ)」と呼ばれていたのは、この地域であったと推測されます。転勤後、この地名(西牟婁郡)をさまざまな書類や葉書や手紙に書くたびに、それまであまり縁がなく、また関心もなかった、その古風な地名の響きから、何と云いますか、本物の土俗的な歴史の厚みと、時間の隔たりに、ある種の違和感と驚きを感じていました。

 やがて、休日を利用して自転車や自動車で周辺地域を巡るようになりますと、古めかしい地名は「牟婁」にとどまらず、地域に多数あることに気が付きました。また、「牟婁」からさらに内陸に入りますと、熊野信仰の中心地域になります。そして、この「熊野」も「くまの」以外に「いや」と呼ぶ地名があったり、あるいは地名ではありませんが、能楽の曲「熊野(ゆや)」のように、文字と読みの対応関係が異なることを知り驚かされました。こうした経験は、我が国の古い言語と方言との関係や、口語と文語の歴史的な変遷、さらには地域性などについて考えさせる一つの契機になったと云えます。

 さらに、興味深いのは地名だけではありません。地域各地の遺跡や出土物なども、土俗的な歴史の厚みを物語るものと云えます。これまでに当ブログにて何度も題材としている弥生時代の青銅製祭器である銅鐸は、この「牟婁」地域、すなわち田辺・白浜・上富田からも複数出土しています。また、古墳時代に造営された古墳も、当地域に多数存在しており、その造営様式は紀北、すなわち紀ノ川下流域(和歌山市周辺)の古墳とは明らかに異なっています。それら地域の複数古墳は、むしろ、紀伊水道を隔てた対岸、徳島県(阿波)の古墳との類似性が指摘されており、このことは、古代での文化の伝播経路や交易ルートなどを検討するうえで重要な手掛かりであると云えます。

 ともあれ、そうしたことから南紀白浜や和歌山市での在住の頃を振り返ってみますと、自然と歴史が渾然一体となって息づいていたことを改めて実感させられます。内陸部ダム湖での釣行への運転時、周囲を見渡しますと、古くからあまり変わっていないであろうと思しき南方的な横溢とした自然の景観のなかに銅鐸出土地があったり、南紀白浜の白良浜北側に鎮座する熊野三所神社境内にある半ば自然と一体化したような火雨塚古墳を見ていますと、千年以上前からの時の流れや、人々の営みについて否応なく考えさせられます。そして、負け惜しみのように聞こえるかもしれませんが、こうした経験は、少なくとも私にとっては首都圏での生活では得がたいものであったと云えます。あるいは、元来、歴史などに興味を持つ性質であった私にとっては、前述のような自然と歴史が混然一体となった環境によって、歴史への興味が、より具体的なもの、あるいは、地に足のついたものへと深化したのではないかと思われるのです。

 そして、今回の短い滞在においても、こうした感覚がまた少し甦ったように感じられました。地域での大気の薫りが契機となり、自らの、そしてまた、太古から現代に至るまでの地域の歴史の営みに、また思いを馳せることが出来たように思われます。自然と人間、そして地域の記憶とも云える時間の重層性は、少なくとも私にとっては、和歌山と云う地域において特に顕著に感じられると云えます。また、現在、首都圏に在住する私にとって、この再認識・確認は、単なる懐古に留まらず、同時に、現在よりさきについて考えるための契機にもなったように思われます。

そういえば、吉田松陰による「西遊日記」に以下のような記述があります。

原文
『心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触に従ひて発し、感に遇ひて動く。発動の機は周遊の益なり。』

現代語訳
『心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる。』

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2025年9月17日水曜日

20250916 戦後文学と社会批判の交差点「真空地帯」と「神聖喜劇」

 野間宏による長編小説『真空地帯』(1952)は、戦後文学史において重要な位置を占める作品と云える。野間(1915〜1991)は、1941年から44年にかけての3年間、兵営生活を送り、中国戦線やフィリピンでの戦闘、野戦病院勤務、憲兵隊による検挙、軍法会議、さらには陸軍刑務所での収監を経験した。後年、野間は「私の内に積み重なった戦争と軍隊に対する怒り」を小説化したものが『真空地帯』であると述べており、自らの経験に根差した激しい怒りが作品に迫真性を与えている。戦場の様相を描いた戦記作品ではなく、兵営・内務班における帝国陸軍の実情を一兵士の視点から描いたことが本作品の特徴であると云える。

 小説の舞台は帝国陸軍の内務班である。そこでは人間が自然な要素を奪われ、規律と条文によって兵士へと鋳造される過程が「真空」という比喩で描かれている。兵営は塀と規則に囲まれ、家族や女性が排除され、上官が人工的な「父母」に置き換えられる。こうして人間性は抑圧され、自然な呼吸さえも困難な空間が成立する。そして当時、多くの軍隊経験者は各々自らの経験を想起し、未経験者もまた、その抑圧された環境の様相を想像することが出来た。そうしたことから『真空地帯』は戦後文学を代表するベストセラーの一つとなり、大きな社会的反響を呼んだ。

 しかし本作品は、単なる軍隊小説を超えた論争を巻き起こした。それは同じく軍隊経験者である大西巨人(1916〜2015)による批判である。大西は後に戦後文学の超大作『神聖喜劇』を著したが、この作品もまた帝国陸軍の内務班を舞台として、兵営での理不尽さや社会的矛盾を描いている。

 大西は『真空地帯』に対し、「兵営を社会から断絶した『特殊境涯』と見做すのは誤りであり、軍隊は『累々たる無責任の体系、膨大な責任不在の機構』にほかならない」と批判した。つまり軍隊は決して「真空地帯」ではなく、日本の半封建的絶対主義性と帝国主義的反動性を濃縮した社会の縮図にすぎないというのである。この見解は『神聖喜劇』にも貫かれており、帝国陸軍の兵営を国家と社会の圧縮典型として描いた。また大西は批評「俗情との結託」のなかで、『真空地帯』は著者「真面目さ」が当時の大衆的俗情と結び付き、結果的に国家権力の論理を敷衍してしまう危険性をはらむと指摘した。これに対し野間は、帝国陸軍の兵営を社会と峻別された国家権力の特殊装置と位置づけて反論をした。両者の論争は「『真空地帯』論争」と呼ばれる議論へと発展したが、結局、決着はつかず戦後文学史にその名を留めた。

 さらに、この論争と並行して『真空地帯』は国民的な論争にも巻き込まれた。サンフランシスコ講和条約後の我が国は米国から軍隊の駐留と再軍備を迫られ、当時の知識人の間では、米国の帝国主義に抵抗する国民的団結を文学で組織しようとする議論が生じた。その文脈から『真空地帯』は、数百万人が経験した内務班生活を共通経験として呼び覚まし、反米ナショナリズムの基盤となる可能性を持った。野間自身も自著を「国民解放のレジスタンス文学」と位置づけている。ここに反戦小説でありながらナショナリズムを喚起するという逆説が生じた。すなわちそれは、戦前の国家主義的ナショナリズムとは異なる、米国による新たな帝国主義に対抗するための左翼的ナショナリズムであった。

 話を戻せば、この論争の焦点は「内務班をどう捉えるか」に帰着する。内務班を国家の暴力装置の核と見做すのか、あるいは社会の縮図と見るのか。野間は前者を強調し、大西は後者を主張した。大西はまた、自らの論考を丸山眞男の「超国家主義の論理と心理」とを比較しつつ、我が国の組織全般を「累々たる無責任の体系」と規定して批判した。だが、その批判の改善は為されず、むしろ、現代日本国家は戦前・戦中にも匹敵する「無責任の体系」に堕していると警告した。これは大西独自の見解であり、また、文学論争を超えた現代社会への批判の射程の長さを示していると云える。

 こうして見ると、『真空地帯』をめぐる論争は、単なる文学論争ではなく我が国社会の在り方そのものを問うものであったと云える。戦後の左翼的ナショナリズムは、現在の所謂「リベラル」の源流ともなり、その価値観が社会の主流となった結果、我が国はさまざまな場面で漸進的あるいは抜本的な制度改革を果たせず、「失われた30年」の停滞へと至った。大西巨人が『真空地帯』に対して批判した「俗情との結託」とは、単なる文学批判にとどまらず、後に我が国が惰性と責任回避の構造に陥ることを予告した大いなる警句として読むことが出来るのではないかと考える。

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2025年9月13日土曜日

20250912 ブログ記事作成について、量から質への移行?

 ここ数日はブログを更新しませんでした。特に明確な理由があったわけではありませんが、夏バテ気味で気力がやや低迷していたことが影響していたのかもしれません。それでも、この休止期間中も、ふとブログのことを思い出し、新たな記事の題材や文体について考えることが度々ありました。

 2022年末頃から断続的にChatGPT を援用したブログ記事の作成を試みを続けていますが、当初と比べれば、多少は使い方に慣れ、意図に近い文章を生成出来るようになってきました。しかし、この手法に慣れるほど、自分自身で文章を書くのが以前より少し億劫に感じられるようにもなりました。ChatGPT による生成と自らによる文章作成をどのように組み合わせるかは、現在もなお模索中ですが、今後も続けて自分なりの最適解を見つけたいと考えています。

 たとえば、先日(0906)投稿した「空回りの時期と当ブログの開始に至るまで③」は、過去の複数の記事から文章を抽出・統合し、そこに新たな情報を加えて仕上げたものです。これは比較的文量の多い記事でしたが、こうした統合作業に多少は慣れて効率も上がってきました。しかしまた一方で、こうした作業に時間をかけるほど、前述しましたように、ゼロからの文章作成を始める意欲がやや低下しているといった感覚もあります…。記事作成における「効率」と「意欲」のバランスは、いまだに自分の中で試行錯誤が続いています。

 それでも、ChatGPT と自らによる文章作成の双方が重要であることに変わりはないと考えます。そして、どちらか一方に偏るのではなく、自然に両立できることを目指したいと考えています。その意味で、ChatGPT をブログ記事作成に援用するようになってから、たしかに投稿頻度は減少したかもしれませんが、その分、一つの記事にかける時間は増え、結果として文章の精確性はいくらか高まり、また、以前よりも明晰で読み易い文章になってきたとも感じます。もし、この感覚が妥当であるのならば、それは単なる記事数の増減では測れない、いわば「量から質への移行」と評してもよいのかもしれません。

 具体的には、かつては一日で記事を仕上げ、そのまま投稿することが多かったのに対し、最近では数日かけて文章を推敲し、全体の流れや構造を整えてから投稿するようになりました。この変化は、単なる作業スタイルの変化ではなく、自分の中での「文章作成」行為そのものの意味が変わってきたことを示しているようにも思われます。また、現時点で、ChatGPT を援用して作成した下書きは二百本以上あり、それぞれに少しずつ推敲や加筆修正を重ねて、順次投稿していきたいと考えています。これは確かに手間はかかりますし、時には気が遠くなるようにも感じられますが、その過程自体が現在の自分にとって重要な営みになっていると考えます。

 また、この推敲や加筆修正の作業を通じて、以前よりも自分なりに文章として表現できる内容が増えてきたという手応えや実感もあります。記事数が増えること以上に、自らの考えや感覚が整理され、言語として(自分なりに)定着していく感覚は、とても貴重であると云えます。それは単なるアウトプットではなく、ある種の深化であるのではないかとも考えます。

 それ故に、焦らず、途切れることなく、ChatGPT と手作業の双方を活かしつつ、これからもしばらくはブログを続けていきたいと考えています。単に投稿記事数の増加を喜ぶのではなく、自分で納得できる文章を一つずつ積み重ねることを大切にし、今後も出来るだけ読み易く、明晰な文章の作成を目指したいと考えています。

2025年9月12日金曜日

20250911 手作業での文章作成とChatGPTによる援用について

 長年にわたり研究をされてきた人文系の先生方には、膨大な読書と思索の蓄積があります。それは何にも代え難い知の財産であり、社会にとっても大切なものです。しかし昨今、研究環境は急速に変化しつつあります。情報はデジタル化され、国際的な議論はオンラインで進み、さらに人工知能(AI)も実用的なものとなりました。そうした背景から、OpenAI社のChatGPTは、人文系研究者の方々にとっても役立つ存在になりつつあると云えます。

 まず、ChatGPTは知識を整理する手助けになります。たとえば、思想や古典などの文学作品をChatGPTからの視点でまとめさせますと、自分の考えを改めて見直すきっかけが生まれます。これは単に便利な道具というだけではなく、過去の知識と現在の課題を改めて結び直す橋のようなものと云えます。実際、我が国の大学院生全体で見ますと、ChatGPTなどの生成AIの利用率は、およそ半数を超えており(52%)、理系では57%、文系でも43%が既に日常的に用いています。また、理系では工学、生命科学、医学・疫学などでの利用が目立ち、コード生成やデータ解析、論文執筆補助などの場面で急速に普及しています。人文系でも、論文の要約や外国語文献の読解、原稿作成補助などに導入されつつあり、じわじわと利用が広がっています。

 また、ChatGPTは知的な対話相手にもなり得ます。一般的に年齢を重ねますと、同世代の仲間との議論の場は減り、若い世代とは関心が少しずつ離れていくこともあります。そうした際に、AIとのやりとりは、自分の考えを試し、反論や補足を受けながら思索を続ける小さな「書斎の議論」のようにも機能します。理系の分野では「研究補助」としての活用が今や当たり前になりつつありますが、人文学の研究者にとっても、おそらく、これは決して遠い話ではないと考えます。むしろ、深い読書と思索を土台とされる年長の研究者の方々にとってこそ、ChatGPTなどの生成AIは、刺激的な議論の相手となる可能性を秘めていると云えます。

 さらに、これまでの研究を社会に発信しようとする際にも役立ちます。専門的な議論をより分かり易くに伝えるためには工夫が要りますが、ここに生成AIを効果的に用いますと、専門性を保ちつつも、読み易い文章へと調整することが出来ます。つまり、社会へ広く知識を伝える際にも活用出来るのです。

 とはいえ、もちろん、生成AIは万能ではありません。誤りもあり、判断の最終責任は使用者各々にあります。しかしだからこそ、深い知識と批判的な視座を持たれる年長の研究者の方々こそ、これを正しく使いこなすことが出来るのではないかと考えます。生成AIが出す案をそのまま受け入れるのではなく、自分の経験と学識で吟味して、さらにそこに意味を与えることが出来るのは、長年、学問的訓練を積んだ方々ならではの強みであると考えます。

 また、若い世代が主に効率性を求めて生成AIを用いるのと比べると、むしろ年長の研究者の方が、生成AIを「知的な遊び道具」として面白く活かせているようにも見受けられます。理系の世界で先に普及が進み、人文系でも着実に広がりつつある現在であるからこそ、その運用を試みますと、独自の成果を引き出すことが出来るのではないかと考えます。端的に生成AIは、新たな時代の「書斎の友」として、あるいは「研究の補助」にもなり得ると云えます。

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2025年9月7日日曜日

20250906 空回りの時期と当ブログの開始に至るまで③

 振り返ってみますと、2013年9月に(どうにか)学位を取得してから2015年6月に当ブログを開始するまでの2年近くの期間、私は諸事、空回りをしていました。そしてそれは、自らの年齢やキャリアを考慮するあまり、焦燥感に囚われていたいたからであると思われます。とはいえ、こうした焦燥感や葛藤といったものは、発散されないと、そのまま保持されるか、あるいは、さらに悪化するとも思われることから、さきの空回りの期間とは、避けられないものであったと思われます。
 やがて、落ち着きを取り戻し、再びネットや公共職業安定所などで求人情報に目を通すようになり、しばらく経った頃、見つけたのは、首都圏を中心として、多数の分院展開をする比較的大きな医療法人の「訪問歯科診療コーディネーター」職種の求人でした。そこで、応募書類一式を作成、投函してから数日後、法人事務局からご連絡を頂き、面接日時を定め、数日後、都内、東急東横線沿線に立地する法人本部を訪ねました。面接では、履歴概要について尋ねられてから、少し打ち解けた雰囲気になり、しばし会話の後、法人理事から「当法人は色々な職種がありますが、まずは訪問診療のコーディネーターから始めてください。」と云う流れで採用となりました。
 訪問診療コーディネーターとは、一言で云いますと、訪問診療を行う歯科医師や歯科衛生士が、居宅や施設といった外来診療とは異なる環境であっても円滑に診療が出来る様に支援全般を行う職種です。その具体的な内容は、診療スケジュールの調整、ポータブルユニットなどの機材準備や運搬、診療中の各種補助、クレーム対応、会計業務や居宅介護支援事業所・地域包括センター・訪問看護ステーションなどへの周知活動と云う営業までも含まれており、まさに、マルチタスクが要求される職種であったと云えます。また、同法人での私以外の訪問診療コーディネーターの方々の多くは、営業畑の御出身であり、経験を積み、場数を踏んできただけに、それぞれ優れた交渉力やコミュニケーション能力を持たれていましたが、私の方と云えば、以前、5年間のホテル勤務の際にそれらしきことを少し行った経験がある程度であり、それ以外で、営業経験はほぼありませんでした。とはいえ「歯科医療業界を知っている人材」として期待され、採用されたことから、自分なりに頑張ってはみたものの、その割には成果が上がらずに苦労した記憶があります。
 とはいえ、この訪問診療コーディネーター業務の経験は決して無駄なものではなく、社会の高齢化が進行している我が国において、今後、否応なく、さらに重要となる訪問診療という領域を、現場の裏方として近くで見ることが出来たことは貴重な経験であったと云えます。他方、元来、マルチタスクが苦手である私は、訪問診療コーディネーターの業務全般に速やかに慣れることは困難であり、周囲の先輩同僚の方々に、ご迷惑を掛けてしまうことも度々ありました。そして、法人本部の方も、そうしたことに気が付いていたのか、入社後半年程経った頃、法人本部が新たに設立した、医療介護人材に特化した求人求職サイトを運営する一般社団法人へと異動となり、そこでサイトの運営業務全般を行うことになりました。
 この業務は、端的に、さまざまな機関の医療介護職の求人情報を集め、それらをサイトに掲載し、それと同時に、より多くの求職者の登録をはかるといったものでした。当然と云えば当然ですが、こうしたサイトとは、求人情報がより多く掲載されている方が有利であるため、私は、はじめに実家クリニックの求人情報をサイトにアップし、続いて、以前から見知っている医療・歯科医療機関さまにお願いをして、出来るだけ多くの求人情報を頂けるように努力し、さらにテレアポなども試みましたが、結果的に、それなりに多くの求人情報を得ることが出来たのではないかと思われます。そして、そこで集めた情報をサイトにアップし続けました。
 このサイト運営業務は簡潔に文章で述べますと、上記の通りではあるのですが、同時にまた、それなりにストレスも多く、胃が痛くなることも度々ありましたが、この業務は私以外に担当者はおらず、ほとんど全ての求人情報は、私が入手したものでした。
 ともあれ、サイト運営がそれなりに稼働するようになりますと、それは成果であると見做されたのか、法人本部側の対応も変化して、勤務する歯科医師、歯科衛生士向けの法人内勉強会の管理運営業務なども担当させて頂くようになりました。この業務では、法人勤務の歯科医師や歯科衛生士の方々と話す機会が多くありましたが、そのなかで、比較的多く私に話し掛けてきてくださったのは、本院勤務の女性歯科医師であり、お二人の息子さんの子育てを一通り終えられてから臨床に復帰された先生でした。こちらの先生は熱心に訪問診療に取り組まれており、時折、コーディネーターが受ける急患への対応も快く応じてくださり、また、ご高齢で摂食嚥下機能が不自由な方々に対してのリハビリテーションに強い関心を持たれていました。
 そしてある日、こちらの先生から「摂食嚥下機能のリハビリで定評がある東京歯科大学のS教授の研究室に、大学時代からの友人歯科医師数人で見学に行きたいのですが、セッティングをお願い出来ますか?」とのご相談を頂きました。そこで私は歯科理工学の師匠に連絡を取らせて頂き、上記旨を説明いたしますと、師匠は「ワシの門下だと云えば繋がるはずや!」とのことでした。そのため、恐る恐るではありながらも意を決してS教授の研究室にお電話を掛けたところ、比較的速やかにS教授ご本人までつながり、そしてあっさりと見学のご了承まで頂くことが出来ました。後日、こちらの見学は、複数先生方のご協力も頂き、無事に終えることが出来ました。そして数日後、こちらの先生は「研究室見学をさせて頂いたS教授から日本老年歯科医学会学術大会での学会発表を勧めてくださった。」として「折角の機会なので学会発表をしてみたい。」とのことで、そこからS教授研究室の若手教員の先生や、大学勤務のご友人などのご助力などによって、学会発表にまで至ることが出来ました。
 学会発表の成功を先生は大変喜んでくださいましたが、良い出来事のあとには悪い出来事が生じるのか、それを快く思わない法人内の主流派歯科医師・歯科衛生士の方々から、先生そして私も何かと責められるようになり、さらに法人本部に対して事実無根の告げ口などもされて、徐々に居心地が悪くなっていきました。この状況には強く怒りを覚えましたが、反論しても得るものはないと思われ、最終的には、こちらが諦めざるを得ませんでした。
 しかし一方、私は、この学会発表準備の時期と前後して、先述サイトの営業活動や情報収集活動の一環として、大学発の新技術説明会や公的機関主催のイベントにも積極的に参加するようになっていました。その意味で、博士号は、無意味、役に立たないものとして、度々あるいは散々に揶揄され続けましたが、こうした公的あるいは学術的な場に参加する際には、むしろ有効であり、どのイベントでも、そこまで敷居の高さを感じることなく参加することが出来ました。さらに、これらイベントでは、東京ということもあり、普段、なかなかお目に掛かることのない研究者や企業経営者や公的機関の方々のご意見や議論に触れることが出来、そして、その中で興味深い見解を述べられる方については、背景を調べて(当時、手取りが20万円以下であったにも関わらず)所属機関をご支援したり、神保町にて洋書の古書を購入し、通勤電車で読むようにもなりました。
 こうした知的刺激が重なってきますと、不思議と良い出来事が生じるように感じられるようになりました。先述の学会やイベントへの参加をきっかけに得た知見や見解は、自らの新たな学びや機会への希望を惹起させ、より充実したものになったと云えます。一方、当時は既に当ブログも作成しており、睡眠不足による疲労や内面での葛藤は続いていましたが、それでも、何と云いますか、世界が広がっていくような感覚がありました。現在、振り返ってみますと、この時期での経験や出会い、そして理不尽で不愉快な出来事もまた、良くも悪くも、今日の私の礎になっているように思われます。

今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。





2025年9月6日土曜日

20250905 株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」 pp.144-148より抜粋

株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」
pp.144-148より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4044007632
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4044007638

私たちは、全国のどの神社へいっても、規模の大小や建築様式や付帯施設のいかんにかかわらず、それを神社と認識できる。建物も鳥居もない、道端の小さなほこらですら、それが神社と同じ神の世界に連なるもの、神が居るところ、すなわち宮居だと、私たちには見てとれる。なぜそうできるかというと、大神社も、道端のほこらも、宮居はすべて基本的な構造や要素を共有しているからだ。基本形とは、奥の空間に正面がついた形。もっと具体的にいえば、「空間のなかの神に人が向き合う」という認識と行為の表現だ。要素とは。その基本形をかざるさまざまな材料で、建物やほこらのスタイル、意匠、鳥居や玉垣などの付帯施設、さらにはそれをいろどる神器や榊などである。要素には、時代・地域・規模や、あるいは個々の宮居で細やかな違いがあるし、すべての要素がそろっていない場合も多い。そんなあいまいなことでも、私たちは、宮居を宮居としてきっちり認識するのである。
 まつられる神の名は、宮居ごとに定められている。大きな宮居には、その社会でそれだけの価値をあたえられた神がまつられているだろうし、村のほこらには、もっと近しいところに置かれた神がおさまっているだろう。しかし、ここで重要なのは、そのような神の名や格づけが、いちいち、宮居の様式や意匠や付帯施設の品目などによって厳密に表現されているわけではないことだ。様式や意匠や施設を見たところで、神の名や神格はいえないのである。
 当時に人びとの古墳に対する認識や、古墳の形や要素が意味したところも、同様ではないだろうか。古墳の基本形とは「亡き人を高く埋めてあおぐ」という認識と行為の表現だ。そして基本形をかざる要素とは、墳丘の大きさや形、葺石や埴輪などの付帯施設、さらにはそこに埋められた遺骸をいろどる棺・室および副葬品などである。神社の場合と同じように、これらの要素には地域や個々の古墳で違いがあるし、すべての要素がそろわないことのほうがむしろ多い。
 しかし、基本形が守られ、それをいろどるわずかな要素があるだけで、それは宮居らしくみえる。この「らしくみえる」という認知こそが、もののカテゴリー化のうえできわめて重要だ。この認知によって、当時の人びとも、大きな前方後円墳から村の小方墳までを、同じカテゴリーに属する。一連のものととらえていただろう。大神社から村のほこらまでを、私たちがそうとらえるように。

墳形があらわすもの
 そうだとすれば、さきに注目してきた墳丘の形は、どのように認識されていたのだろうか。「亡き人を高く埋めてあおぐ」基本形をいろどるさまざまな要素のうち、墳丘の形はその一つにすぎない。神社でいえば、建物の形『様式」がこれにあたる。
 全国的にみて、参拝者がどっと押し寄せるような大神社の大きな社殿は、入母屋造を基本とする様式で建てられることが多い。春日造や流造の社殿も広くみられるが、由緒はともかく、建物は小さい。神明造も全国に点在するが小規模だ。いっぽう、出雲地方の大社造のように、ある地方に特徴的に広がる様式もある。岡山県北部の中山造や、隠岐島の隠岐造などは、ごく限られた地域のローカルな様式だ。これらの分布のしかたは、前方後円墳(入母屋造)、前方後方墳(春日造や流造)、方墳(大社造)といった古墳の形の分布のありかたに、アナロジーとして似ているところがある。
 重要なのは、こうした社殿の形が、そこにまつられた神の名、神格、祭儀の流派の違いなどと対応しているわけではないことだ。社殿は、神社のなかでもっともよく目にとらえられるものであるにもかかわらず、その形の意味は、さほど明確でも厳密でもないのである。
 古墳の墳丘の形も同様だった可能性がある。さきに述べたように、前方後円墳と前方後方墳とで、そのほかの要素には違いがまったく見いだせない。出雲の大型方墳についても同じだ。この事実は、そこでおこなわれた行為の本質屋主人公の性質と墳丘の形のあいだに、有為の相関関係がなかったことを示している。
 むろん、墳丘の形に何の意味もなかったということではない。出雲の大型方墳は、大社造と同じように、地域独自のアイデンティティや伝統を、そこの人びとやよそからきた人びとにも感じさせただろう。だが、その内実である棺や石室、供えられた品々、そこでおこなわれた祭儀は同じものである。方墳の墳丘は、内実でなく、あくまでも外形にあらわれた意匠上の伝統だったのだ。だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている。
 古墳の形と規模が、畿内との政治的関係で決まる局面も、ときにはあっただろう。しかし、それがすべてだったとは考えられない。神社の建物の形と同じように、地域の技術や伝統の継承だったこともあれば、地域内部の競争や相互牽制、いうなれば「空気を読んで」墳丘の形や規模を決める局面なども、大いにあったとみるべきだ。

2025年9月5日金曜日

20250904 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 上 人間のネットワーク」 pp.192-194より抜粋 

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 上 人間のネットワーク」
pp.192-194より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229430

ポピュリストは、人民の意思とされるものを、客観的な真実の名の下に退ける機関を胡散臭く思う。真実というものは、エリートたちが不法な権力を強引に手に入れるのを隠す名目にすぎないと、ポピュラリストは見がちだ。そのせいで彼らは、真実の追求には疑いを抱き、プロローグで見たように、「力こそが唯一の現実だ」と主張する。そのため、自分たちに反対するかもしれないような独立した機関の権威を損なったり横取りしたりしようとする。その結果生まれるのが、この世の中は弱肉強食のジャングルであり、人間は権力だけで頭がいっぱいの生き物だという、暗くシニカルな見方だ。社会的なかかわり合いはすべて権力闘争と見なされ、あらゆる機関が部内者の利益を増大させる派閥として描き出される。ポピュリストの想像の世界では、裁判所は心底から正義に関心を抱いてはいない。裁判官たちの特権を守っているだけだ。たしかに裁判官は正義について多く語るが、それらは自らが権力を奪取するための策略にすぎない。新聞は事実には関心がない。フェイクニュースを広めて人々を欺き、ジャーナリスや彼らに資金を提供する陰謀段に利益をもたらそうとする。科学の機関さえもが、真実の探求に専念していない。生物学者や気候学者、疫学者、経済学者、歴史学者、数学者すらも、人民を犠牲にして私腹を肥やそうとする利益団体にほかならない。
 全体に、これは人類についての見方としてはかなり卑しむべきものだが、それでも二つの点で多くの人を惹きつける。第一に、この見方はあらゆる社会的なかかわり合いを権力闘争に矮小化するので、現実が単純化され、戦争や経済危機や自然災害のような出来事が理解しやすくなる。パンデミックさえも含めて、世の中で起こることはすべて、エリートたちによる権力追求の表れというわけだ。第二に、このポピュリストの見方が魅力的なのは、正しいこともあるからだ。人間のどんな機関も現に可謬であり、ある程度の腐敗を免れない。本当に賄賂を受け取る裁判官もいる。一般大衆を意図的に欺くジャーナリストもいる。どの学問分野でも、ときおり偏見や縁故者贔屓が見られる。だから、あらゆる機関に自己修正メカニズムが必要なのだ。だが、ポピュリストは力こそが唯一の現実だと確信しているので、裁判所や報道機関や学術機関が、真実や正義といった価値観に突き動かされて自らを正すなどということは、けっして受け容れられない。
 多くの人が、ポピュリストは人間の現実を率直に捉えていると考えて信奉するのに対して、強権的な指導者がポピュリズムに惹かれるのには別の理由がある。ポピュリズムは彼らに、民主主義のふりをしながら独裁者になるためにイデオロギー上の基礎を与えてくれるのだ。強権的な指導者が民主主義の自己修正メカニズムを無力化したり横取りしたりしようとするときに、ポピュリズムはとりわけ役に立つ。ポピュリズムによれば、裁判官もジャーナリストも大学教授も、真実ではなくむしろ政治的な利益を追求しているわけだから、人民の擁護者たつ強権的な指導者は、裁判官やジャーナリストや大学教授の地位を支配し、それが人民の敵の手に落ちるのを許さないようにするべきであるということになる。同様に、選挙を運営し、結果を公表する担当の役人たちさえもが極悪非道な陰謀に加担しているかもしれないので、彼らも強権的な指導者に忠誠を誓う人々によって取って代れるべきであることになる。
 円滑に機能している民主社会では、国民は選挙の結果や裁判所の判決、報道機関の記事、科学の分野の発見を信頼する。なぜなら、それらの機関が真実の追求に献身的に取り組んでいると信じているからだ。ところが、人々は力こそが唯一の現実であるといったん考え始めると、選挙や裁判、報道、科学などへの信頼を失い、民主主義が崩壊し、強権的な指導者があらゆる権力を奪うことが可能になる。

2025年9月4日木曜日

20250903 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.97‐99より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.97‐99より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

三島 伝統の問題があるな。

安部 伝統はよそうや。

三島 安部公房のような伝統否定と、おれのような伝統主義者とが、どういうふうに喧嘩するかということは、面白いよ。

安部 おれも科学的伝統は幾分守っているからな。

三島 でも科学には、前の学説が否定されたら、どうやってやる。

安部 方法だよ。

三島 メトーデの伝統か。

安部 そうそう、事実というものはだね、科学のなかでは非常にもろいものだよね。だから好きなんだ。あおれは、科学は。

三島 日本の伝統は、メトーデが絶対にないことを特色とする。

安部 それが伝統か。困ったな。

三島 それはそうだよ。絶対そう思う。日本では、伝承というものにメトーデが介在しないのだ。それがいちばんの日本の伝統の特徴だよ。たとえば秘伝というものがあるだろう。お能で、秘伝を先生が弟子に譲る場合ね、入門者だって秘伝書を読めばいいようなものの、先生の戸棚から盗んで入門者が読んでも、なんにも解りはしない。それから20年くらいお能を勉強するのだ。そうしないとなんだか知らないけれども、一所懸命口移しに覚えて、30年か40年か50年かたって、なんか曖昧模糊としたことを書いてある巻き物をくれるだろう。月がどうだとか、日輪がどうだとか。それを読むとアッとわかるのだね。わかるそれは秘伝だから、ほかの人には言えない。言ったってほんとうはしようがないのだね。そうしてメトーデがないところで伝承していくのが日本の伝統だよ。

安部 だから日本でスパイ小説が発達しないのだな(笑)。

三島 盗んだってしようがないから、ぜんぜん。

安部 せいぜい忍者で止まったということか。

日本ではよく巻き物を盗んだりするが、盗んでもしょうがないのだ。

安部 嘘なんだな。

三島 嘘なんだ。そうして文学もそうだけれども、舞台芸術、武道なんかに象徴的にあらわれていると思うけれども、伝承という考えは、西洋でも、つまり鍛冶屋に弟子に入って、徒弟時代、遍歴時代、それからマスターになるね。それはメトーデを教わるのだよ。メトーデをだんだんマスターから教わって、マスターピースを作ってマスターになるのだよね。だけどそれは、西洋の歴史はメトーデの伝承の歴史だね。日本はそうではない。秘伝だろう。秘伝というのは、じつは伝という言葉のなかにはメトーデは絶対にないと思う。いわば日本の伝統の形というのは、ずっと結晶体が並んでいるようなものだ。横にずっと流れていくものは、なんにもないのだ。そうして個体というのは、伝承される。至上の観念に到達するための過渡的なものであるというふうに、考えていいのだろうと思う。

 そうするとだね、僕という人間が生きているのは、なんのためかというと、僕は伝承するために生きている。どうやって伝承したらいいかというと、僕は伝承すべき至上理念に向って無意識に成長する。無意識に。しかしたえず訓練して成長する。僕が最高度に達したときになにかつかむ。そうして僕は死んじゃう。次にあらわれてくるやつは、まだなんにもわからないわけだ。それが訓練し、鍛錬し、教わる。教わっても、メトーデは教わらないのだから、結局、お尻を叩かれ、一所懸命ただ訓練するほかない。なんにもメトーデがないところで模索して、最後に、死ぬ前にパッとつかむ。パッとつかんだもの自体は、歴史全体に見ると、結晶体の上の一点から、ずっとつながっているかも知れないが、しかし絶対流れていない。

2025年9月3日水曜日

20250902 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.140-144より抜粋

中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.140-144より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121601610
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121601612

アメリカには、これまで著名な作家がごく少数しか出なかった。偉大な歴史家もいなかったし、詩人もなかった。住民は、いわゆる文学を、一種の不信の眼をもって見る。ヨーロッパには、第三級の町で、毎年、連邦24州を合わせたよりも多い文学作品を刊行するところがある。アメリカ人の精神は普遍的な観念から遠ざかる。理論的な発見には決して向かわない。政治さえも、また産業と同じ傾向にある。合衆国では、立法は絶えず行われるが、法の一般原理を探求する偉大な著作家はいまだない。アメリカ(の人々)には、法律家や解説者はあるが、経世の書を著すものはいない。政治において、世界に例を示すほうが、教えを垂れるよりむしろ多い。機械の技術についても同様である。アメリカでは、ヨーロッパの発明の応用には鋭敏で、それを完全なものにしてのち、自国の必要に見事に適応させる。人々は器用ではあるが、工学の理論を培おうとはしない。よい職人はいるが、発明家は少ない。フルトンは、その天才を長いこと諸外国(人のところ)に売り歩いたのち、はじめて自国に捧げうるようになったのである。

 イギリス系アメリカ人の文明の状態を知りたいと思う人は、この問題を二つの異なった相の下に見ることになる。有識者のみに注目すれば、その少ないのに驚かされ、文盲を数えれば、アメリカの人民は地上で最も開明されているように見える。国民全体はこの両極端の間にある。これは他のところでもすでに述べた。

 ニューイングランドでは、各市民が人間の知識の規範的な諸観念を授けられる。その他、宗教の教えと証しとを学ぶ。祖国の歴史と憲法の要綱も教わる。コネティカットとマサチュセッツとでは、これらを不完全にしか知らないものはごくまれである。全く知らないものがいたら、いわば珍事である。

 ギリシャ、ローマの共和政とアメリカの共和政とを比較すると、前者には(少数の)手書きの本の図書館と無知の人民とがあり、後者には数多くの定期刊行物があり、開明された人民が住んでいる。(とても比較にはならない。)次いで、アメリカを判断するのにギリシャ、ローマの(歴史の)助けをかり、二千年前のことを研究して現代の事態の推移を予見しようと、あらゆる努力がなされているのに思い至る。そうすると、このように新しい社会状態には新しい観念だけが適用されるべきだと考えられて、(古代との比較の空しさを悟って)私は自分の蔵書を焼きたい気になる。

 また、ニューイングランドに関する私の叙述を無差別に連邦全体に及ぼしてはならぬ。西方、南方に進むにつれ、人民の教育は低下する。メキシコ湾に面する諸州では、われわれのところ(フランス)と同様に、初等の知識ももたない人が相当にいる。しかし、合衆国では、全く無学の状態にある地域は探しても見あたらない。その理由は簡単である。ヨーロッパの諸国民は未開と野蛮から出て、文明、開化を志した。その進歩は均等ではなく、あるものは駆け足で、他は、いわば並み足であり、停止しているものもあれば、また途上で眠っているものもある。

 合衆国の状況は全然ちがっている。イギリス系アメリカ人の祖先は文明のすべてに浴して、この地に着いた。もはや何も学ぶものがなく、ただ忘れないようにすればよかった。そして、このアメリカ人の子孫が、年々、荒野に居を移すとともに、既得の知識と学問に対する尊敬の念とをもっていったのである。教育が文明の効用を感じさせ、この文明を子供たちに伝えるようにした。合衆国においては、社会は幼年期をもたず、成年期に生れた。

 アメリカの人々は田舎者という言葉を全く使わない。そんな観念がないからである。未開時代の無知、田園的な簡素さ、村落の質朴さは、彼らの間に全く維持されていない。また、生成途上の文明のもつつよさも、悪さも、粗野な慣習も、素直な優しさも、彼らの頭にはない。

 連合した諸州のきわみ、社会が果て、荒野のはじまるところに大胆な冒険屋がいる。彼らは親のもとにいれば貧困な境涯に甘んじなければならないので、それを逃れるためにアメリカ大陸の孤独な環境に踏み入り、そこに新しい祖国を求めるのをものともしない。住居となるべき地点に着くや否や、開拓者は急いで幾本かの木を伐り倒し、葉陰に丸木小屋を建てる。この人里から離れた住居ほど哀れに見えるものはない。旅行者が夕刻そこに近づくと、板壁を通して、炉の火の輝きが遠くから見える。夜、風が立つと、森の木々の中で木の葉ぶきに屋根がざわめくのが聞こえる。このすばらしいい小屋には野卑と無知とがひそんでいるにちがいない。と思わないものがあろうか(誰でもそう思うであろう)。しかし、開拓者とその住みかとを連関させて(考えて)はならない。周囲はすべて野蛮、未開であるが、彼は18世紀間の労働と経験との成果である。彼は都会の服を着、都会の言葉を話す。過去を知り、未来に好奇の念をもち、現在について議論する。彼は非常に開花された人間であり、ただしばらく身を屈して森の中に住み、また、新世界の広野に、聖書と斧と新聞とをもって、踏み入るのである。

 思想が広野のさなかを流布する信じられないほどの速さを頭に浮べるのは困難である。このような大きな知的運動は、フランスで最も開け人口も最も多い地方にさえ、起こるとは信じられない。

 疑いもなく、合衆国においては、人民の教育が民主的共和制の維持に強く貢献している。精神を啓蒙する知育と、習俗を規制する徳育とを分離しないところでは、どこでもそうであろうと思う。しかしながら、私はこの利点を誇張しようとは少しも思わぬ。まして、ヨーロッパの多数の人々のように、読み書きを教えれば、すぐによい市民がつくれるとは信じえない。真の文明は主として経験から生まれる。アメリカの人々を徐々に自治に慣れさせなかったならば、彼らのもつ、書物から得た知識が、今日その自治の成功に大きな助けとなることは決してなかったであろう。