株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」
pp.144-148より抜粋
ISBN-10 : 4044007632
ISBN-13 : 978-4044007638
私たちは、全国のどの神社へいっても、規模の大小や建築様式や付帯施設のいかんにかかわらず、それを神社と認識できる。建物も鳥居もない、道端の小さなほこらですら、それが神社と同じ神の世界に連なるもの、神が居るところ、すなわち宮居だと、私たちには見てとれる。なぜそうできるかというと、大神社も、道端のほこらも、宮居はすべて基本的な構造や要素を共有しているからだ。基本形とは、奥の空間に正面がついた形。もっと具体的にいえば、「空間のなかの神に人が向き合う」という認識と行為の表現だ。要素とは。その基本形をかざるさまざまな材料で、建物やほこらのスタイル、意匠、鳥居や玉垣などの付帯施設、さらにはそれをいろどる神器や榊などである。要素には、時代・地域・規模や、あるいは個々の宮居で細やかな違いがあるし、すべての要素がそろっていない場合も多い。そんなあいまいなことでも、私たちは、宮居を宮居としてきっちり認識するのである。
まつられる神の名は、宮居ごとに定められている。大きな宮居には、その社会でそれだけの価値をあたえられた神がまつられているだろうし、村のほこらには、もっと近しいところに置かれた神がおさまっているだろう。しかし、ここで重要なのは、そのような神の名や格づけが、いちいち、宮居の様式や意匠や付帯施設の品目などによって厳密に表現されているわけではないことだ。様式や意匠や施設を見たところで、神の名や神格はいえないのである。
当時に人びとの古墳に対する認識や、古墳の形や要素が意味したところも、同様ではないだろうか。古墳の基本形とは「亡き人を高く埋めてあおぐ」という認識と行為の表現だ。そして基本形をかざる要素とは、墳丘の大きさや形、葺石や埴輪などの付帯施設、さらにはそこに埋められた遺骸をいろどる棺・室および副葬品などである。神社の場合と同じように、これらの要素には地域や個々の古墳で違いがあるし、すべての要素がそろわないことのほうがむしろ多い。
しかし、基本形が守られ、それをいろどるわずかな要素があるだけで、それは宮居らしくみえる。この「らしくみえる」という認知こそが、もののカテゴリー化のうえできわめて重要だ。この認知によって、当時の人びとも、大きな前方後円墳から村の小方墳までを、同じカテゴリーに属する。一連のものととらえていただろう。大神社から村のほこらまでを、私たちがそうとらえるように。
墳形があらわすもの
そうだとすれば、さきに注目してきた墳丘の形は、どのように認識されていたのだろうか。「亡き人を高く埋めてあおぐ」基本形をいろどるさまざまな要素のうち、墳丘の形はその一つにすぎない。神社でいえば、建物の形『様式」がこれにあたる。
全国的にみて、参拝者がどっと押し寄せるような大神社の大きな社殿は、入母屋造を基本とする様式で建てられることが多い。春日造や流造の社殿も広くみられるが、由緒はともかく、建物は小さい。神明造も全国に点在するが小規模だ。いっぽう、出雲地方の大社造のように、ある地方に特徴的に広がる様式もある。岡山県北部の中山造や、隠岐島の隠岐造などは、ごく限られた地域のローカルな様式だ。これらの分布のしかたは、前方後円墳(入母屋造)、前方後方墳(春日造や流造)、方墳(大社造)といった古墳の形の分布のありかたに、アナロジーとして似ているところがある。
重要なのは、こうした社殿の形が、そこにまつられた神の名、神格、祭儀の流派の違いなどと対応しているわけではないことだ。社殿は、神社のなかでもっともよく目にとらえられるものであるにもかかわらず、その形の意味は、さほど明確でも厳密でもないのである。
古墳の墳丘の形も同様だった可能性がある。さきに述べたように、前方後円墳と前方後方墳とで、そのほかの要素には違いがまったく見いだせない。出雲の大型方墳についても同じだ。この事実は、そこでおこなわれた行為の本質屋主人公の性質と墳丘の形のあいだに、有為の相関関係がなかったことを示している。
むろん、墳丘の形に何の意味もなかったということではない。出雲の大型方墳は、大社造と同じように、地域独自のアイデンティティや伝統を、そこの人びとやよそからきた人びとにも感じさせただろう。だが、その内実である棺や石室、供えられた品々、そこでおこなわれた祭儀は同じものである。方墳の墳丘は、内実でなく、あくまでも外形にあらわれた意匠上の伝統だったのだ。だから、今日の古墳研究の主流のように、墳丘の形と規模とを相当に厳密な政治的身分の表示と解釈し、そこから畿内勢力と各地域との政治的関係やその変化をよみとって古墳時代史を叙述していく手法には、すこし行きすぎたところがあるのではないかと筆者は考えている。
古墳の形と規模が、畿内との政治的関係で決まる局面も、ときにはあっただろう。しかし、それがすべてだったとは考えられない。神社の建物の形と同じように、地域の技術や伝統の継承だったこともあれば、地域内部の競争や相互牽制、いうなれば「空気を読んで」墳丘の形や規模を決める局面なども、大いにあったとみるべきだ。
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