2025年5月25日日曜日

20250524 総投稿記事が2340を超えていたことから思ったこと

 さきほど見たところ、当ブログの現時点での総投稿記事数は2341となっていました。そうしますと、二つ前の投稿により、ある程度キリの良い2340記事に到達していたことになります。また、以前であれば、そうした節目を題材として記事を作成していたものですが、あるいは、投稿記事数への関心は波があるのかもしれませんが、ここ最近はあまり気にしていませんでしたので、冒頭のようになったのだと云えます。とはいえ、来る6月22日には、当ブログ開始から丸10年になりますので、それまでには、もう少しキリの良い2350記事には到達したいと考えています。

 また、総閲覧者数は、現在のところ累計で93万人を少し超えた程度となっています。これについても、日常的に特に注意を払っているわけではありませんが、10年近くという継続期間で93万人と捉えてみますと、単純計算では、年間で約9万3000人、月間でおよそ7800人、そして1日では250人程度の方々に閲覧されていることになります。もちろん、閲覧者数は日毎で偏差があり、1日で1000人を超える日もあれば、他方で、更新を行わずブログ自体を開かない日などは、一桁に留まることもあります。そして、それらすべてを統合した平均が250人となっています。

 この数値が、ブログとして相対的にどの程度の水準であるのかも、ここ最近はとくに関心を持ってはいませんでしたが、私見としては、個人運営のブログとしては、そこまで悪くはないと考えています。また、2015年に開始して、2025年までの10年近く、更新しつつ継続しているブログというのも、そう多くはないと思われますので、内容の良し悪しはさておき、その継続自体が、ある種の個性にはなっているのではないかと思われます。

 前述のとおり、10年近く(どうにか)継続してきたことにより、このブログそのものが、私の思考や志向の変遷や歩みを示すものとなっており、また、それを文章として記録する営みは、年を重ねるごとに、自らの中での意味を徐々に深めているように感じられます。

 とくに2020年以降は、コロナ禍、第二次宇露戦争、ガザ紛争など、国際情勢も徐々に混乱の度合いを強めて現在に至っており、それらの様相を自分なりに理解するため、書籍を読み、情報収集しているうちに、これまで知らなかったいくつかの分野に関しての知見も得ることができました。それもまた、ブログの継続という基盤があったからこそ可能になったのではないかと考えます。

 また、2020年1月からはエックス(旧Twitter)も開始し、それ以来、当ブログとの連携も続けています。これにより、新たな閲覧者層を得ることができたと云えます。実際、ブログ閲覧者数の増加が見られるようになったのも、同時期からであり、そこから、SNSとの連携が一定の効果を持ち得るのだと云えます。

 しかし他方で、エックス(旧Twitter)などのSNSという媒体は、全般的に思考を深めるというよりも、感情的な反応が先行しやすい性質があると思われます。この視点から、ブログという形式が持つ「遅さ」や「長さ」は、依然として有効なものであると、むしろ以前よりも強く考えるようになりました。そして、閲覧者との距離を考慮しつつ、自らの考えを文章化し、さらに掘り下げていくという行為には、それがたとえ不完全なものであったとしても、蓄積されるだけの価値はあるのではないかと考えています。

 そして今後、2350記事、10年間の継続を達成できたとしても、ある程度長い期間の休止はするにしても、ブログ自体を止めることは考えていません。むしろ、その先に、どのような変化があるのかを観察してみたいと考えています。

そして今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

2025年5月20日火曜日

20250519 歯科理工学と文系ネタの融合について:私見として

 直近、5/17投稿分の記事は、投稿2日目としては比較的多くの方々に読んで頂けていました。当記事を読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。また、鹿児島や和歌山など、具体的な地域をブログ記事題材としますと、閲覧者数が伸びやすい傾向も認められました。

 さて、直近投稿記事の文末にて触れた「さらに続き…」を題材として今回は進めます。すでに述べたとおり、私には少々“文系ネタ”に拘るクセがあります。そのクセに対して、当時周囲におられたた方々からは概ね真面目そして鷹揚に対応して頂いたことは現在においても感謝しています。振り返ってみますと、師匠が退職された2010年末頃から始めた英論文のひとり音読が契機あるいは転機となり、その後の変化が生じたと云えます。もちろん、そこに至るまでの過程は大変苦しかったものの結果的には、現在においては、最低限の挽回はできたのではないかとも考えています…。

 また、当時の専攻であった歯科理工学と、英論文の音読や文系などを随時、行き来するような態度は、当時の私にとっって不可欠な呼吸法のようなものであり、歯科理工学のみを掘り下げても行き詰まるなかで、他分野での何らかの活動をすることによってアイデアが湧いたり、思考を拡げてくれたと思われることが度々ありました。

 もっとも、2010年秋に師匠が退職されて、2013年夏の学位取得に至るまでの約3年間は、私にとっては人生の非常事態と云える期間でした。そこでの精神的な消耗や疲労は、現在にも影響を及ぼしていると考えます。くわえて昨今ではSNSなどでの情報の洪水も重なり、睡眠の質まで蝕まれているようにも思われます…。とはいえ、大抵、どの分野の院生でも、学位取得前に何らかの精神的危機を経験すると聞き及びますし、そしてまた、その辛さの相対的な比較は困難であろうと考えます。

 2010年の教授(師匠)退職の翌年、2011年に准教授の先生も定年退職となり、先輩院生の先生方も次々と修了されて、研究室の人員が一気に減少しました。そして、その穴埋めの役割もありつつ迎えた2012年の歯科理工学実習では、毎回かなりの疲労感を覚えた一方で、自分の裁量が増したことにより、実習工程の説明やその雑談などに文系ネタを(ふんだんに)織り交ぜることも出来ました。しかしもちろん、本題である実習項目の各解説は例年通り、国内外のテキストや関連論文を読み込み、準備しておりましたので、質自体に問題はなかったと考えます。また文系ネタの多用についても、事前に研究室の先生方からご了承を頂いていたため、学位が取れようが取れまいが、この実習を「人生最大の見せ場」として発奮していた記憶があります…(笑)。

 さて、以上、鹿児島の度量の広さと鷹揚さへの感謝から始まり、実習での文系ネタ多用を正当化するような文章になってしまいました…(苦笑)。しかしながら、そうした行為をするためにも、ある程度の下調べと準備が不可欠です。そうしたことから、この時期(非常事態)は、現在では私を支える重要な要素になっているとも云えます。そして、私にとって当ブログを作成することは、そこで培ったものを維持そして発展させるための行為であるとも云えます。さらにまた、今回の当記事も、その延長線上にあると云えます。それ故、これからもしばらく、自らの経験を基礎として、新たな視点や見解を提示しつつ継続することが出来れば良いと考えておりますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。また今回も、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

2025年5月18日日曜日

20250517 過日の投稿記事から思ったこと:鹿児島の地域性?

 過日の投稿記事にて、鹿児島在住時代、私が在籍した研究室周辺におられた方々の鷹揚さには少なからず助けられたと述べましたが、その後、しばらく考えてみますと、この鷹揚さは、地域性の発露の一種であるのではないかと考えるに至りました。九州のなかでも、とりわけ熊本と鹿児島は、未だ女性蔑視的な文化が残存していると、しばしば聞かれますが、そうした女性を蔑視する差別的な感覚と、さきの鷹揚さが、どのようにして併存しているのかと考えてみますと、それなりに興味深く、また、自らが実際にその地域で住んでみますと、その実相をよく理解出来るようになるのではないかと考えます。そして、地域に住み、経験を積み、その実相を理解出来たと思った時には、おそらく多くの場合、そうした性質、地域性をわざわざ言語化して論うことに抵抗を覚えるようになっているのではないかと考えます…。
 私は鹿児島のことを比類なく素晴らしい場所であるとか、逆に、信じられないほど野蛮で危険きわまりない場所であると述べたいわけではありません…。鹿児島は、その歴史が示すように、鎌倉時代の下司職(げししき)そして地頭職(じとうしき)からはじまり、19世紀後半の近現代まで、700年ほど一領主家によって統治されたという、我が国でも珍しい歴史を持つ地域であり、そして、そうした地域の社会では、過去の残渣とも云えるような、封建的あるいは権威主義的な面も少なからずあり、私もそれを度々経験したと云えますが、しかしまた他方では、たしかに前述した鷹揚さもまた、少なからずあったとも云えるのです…。この鹿児島の地域性とも云える鷹揚さについては、以前に引用記事を作成していましたので、以下にその記述をコピペします。

このように薩摩藩が琉球固有の文化を残したのは、あくまでも政治上の思惑であり、琉球の文化に高い敬意を払ったからではなかった。琉球からみれば薩摩藩は憎むべき侵略者そのものだ。その点を踏まえたうえでなお、薩摩藩には多様な文化が並立して存在することを良しとする、度量の広さがあったーそう言っても差し支えないのではないか。

 引用文中の「度量の広さ」こそが、さきの「鷹揚」とほぼ同じものを示していると考えます。そう、おそらく、彼等彼女等は意識的に、あるいは良心的に振る舞おうとして、度量が広かったり、鷹揚であったりするのではなく、むしろ、ごく自然に振る舞っていて、他地域の人々の尺度からは、度量が広いであるとか、鷹揚であると感じさせる性質があるのだと考えます。この性質については、私の記憶に比較的強く残っているものがあります。それは、大学院2年目の2010年秋に師匠が退職されて、意気阻喪としていた研究室でしたが、実験や英論文読みなど、やらなければならないことは幾つもあり、そして、そうしたイヤな気分を紛らわすためもあって、実験の空いた時間に英論文を音読していましたが、当初、その音読の音量は周囲への遠慮や配慮もあり、控えめに呟くように読んでいましたが、のちに控えていた国際学会での初の口頭発表に向けて、より実践的なものにしようと、通常の音量、さらに出来るだけ抑揚をつけて情感を込めて読むようにしましたが、それをしばらく続けていても、研究室の先生方、あるいは隣の研究室の先生方から苦情や苦言が届くことは一度もありませんでした。その後、この実験室での英論文の音読の習慣は、翌2011年も継続して、その年の暮れには、師匠門下の最年長で、当時他講座の助教をされていた先生から「歯科衛生士の専門学校で英語の講義をしてみないか?」との打診を頂き、翌2012年春からその講義をさせて頂くことになりました。これはおそらく、さきの習慣を知りつつ打診されたと考えられますので、それは、私の経験としては有益に作用したと云い得ます。そしてまた、たとえ意図せずとも、私のそうした性質を引き出してくださったのは、鹿児島の地域性と云える「鷹揚さ」や「度量の広さ」であると考えることから、さきに述べたように印象深いものとなっているのです。また、これにつきましては、さらに続きがあるのですが、それにつきましては、また別の機会に述べたいと思います。ともあれ、丸10年の継続に近づいたことから、もう少しやる気を出すために、本日も何やら書き始めた次第ですが、思いのほかに筆が乗り、文量も増えました。5月病とも云われるほどに、本格的に春めいて暖かくなりますと、人の精神は浮ついて不安定になるのかも知れず、私の方もあまりブログ記事作成に意欲が湧きませんでしたが、ここに来て、まだ、このくらいの時間で、この程度の文量を作成出来ることが出来ることが自覚されましたので、今しばらく、これを維持そして継続して、来る6月22日の当ブログ開始丸10年を迎えることが出来ればと考えています。
 そして今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

2025年5月16日金曜日

20250515 継続による変化について思ったこと

 来る6月22日で、当ブログは開始からちょうど丸10年になります。その節目に向けて、ここ最近は多少、ブログの更新に重点を置き、現状としては当記事を含めて、あと2記事、追加で投稿することにより、総投稿記事数は2340に達し、さらに10記事を追加すれば、節目となる丸10年になるまでに2350に到達出来ます。

 さて、2015年6月22日から2025年6月22日までの全日数は3652日になります。そして、その期間での2350記事の投稿となりますと、単純計算で、約3日で2回の更新を継続してきたことになり、異言しますと、10年間の全日数のうち6割以上の日にブログを更新してきたことになります。

 如上のように、3日で2回ほど、継続的に文章(ブログ記事)を作成した場合、それが何らかの有意な変化をもたらすのではないか―そう考えることも時にはあります。しかし実際には、これまでの「丸8年」「丸9年」の節目においても、とくに明確な変化を感じた記憶はありません。そのため、今回の「丸10年」で、たとえ桁が増えるとはいえ、急激に有意な変化が生じるとは考えていません。

 とはいえ、10年という区切りから、何らかの中・長期的な影響を及ぼす可能性があるとも考えています。というのも、私自身、それ以前には「公表を前提とする文章の作成を、10年にわたり継続した」という経験を持っていませんでした。そのため、この点からは、多少の達成感や自信に繋がる部分もあるように思われます。

 もっとも、世の中には私などよりも長期間、多くの読者の方々を得つつ、ブログを継続されている方々も少なからずおられます。それ故、たとえ10年間続けられたとしても、それにより得られる自信や達成感は、絶対的なものではなく、あくまでも、ささやかで相対的なものになると思われます。

 とはいえ、継続からは、たとえ可視的な成果や変容の自覚が乏しくとも、おそらく我々の無意識の層においては、確かに、何らかの変化を生じさせていると考えます。それは、たとえ自覚に乏しくとも、文章の作成という行為そのものに、自らの思考や視点を明晰にする効果があると考えるためです。

 10年近く、当ブログを作成し続けてきましたのは、端的に読んで頂いている方々への発信であると同時に、自分自身との対話でもありました。今後、どのような頻度で更新していくかは定かではありませんが、できれば、もうしばらく継続したいと考えています。ともあれ、多くの場合、変化とは、体感出来るほど急激に生じるようなものではなく、継続された時間のなかに含まれており、ある機会などで振り返ることで、不図、気が付くといったものではないかと思われます。

そして今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

2025年5月14日水曜日

20250513 異分野でのリテラシーについて(道なき道を行くために…)

 以前より私は文系ネタになりますと、少し拘るクセがあり、それは歯系院在籍時においても同様でした。そして、現在、大変運が良かったと思われることは、歯系院にて周囲におられた方々は総じて、私の文系に拘るクセを否定せずに、鷹揚に構え、さらには、そうした話題をこちらに振ってこられたことです。考えられるその理由は、以前にも当ブログにて述べましたが、私が在籍した歯科理工学研究室とは、国内全ての歯科大学・大学歯学部にある基礎系の研究室の一つであるのですが、臨床系の研究室とは異なり、研究室の長である教授が臨床資格を有する歯科医師(あるいは医師)でないことも少なからずあり、そして、私が在籍した研究室の教授(師匠)も歯科医師ではなく、歯学と工学で博士号を取得された所謂ダブル・ドクターの研究者でした。それ故にか、研究室での駄弁り交じりの会話の内容も多岐にわたるものでした。そうしたなかに、文系ネタに拘る私を入れますと、やはり当初は、色々と波風が立った記憶がありましたが、研究室の長である教授自らが、さまざまな話題の会話を好まれ、また、それらの見解についても、その確からしさの概要は見抜き、あるいは説明しますと、対話により、その概要を理解される、まさに優れたリテラシーの研究者であり、その門下の先生方もまた、ある一つの比較的狭い分野での研究で一生を過ごされるようなタイプの方々はいなく、総じて、それぞれの道なき道を進むようなタイプであると云えます。そのため、納得して頂くまでは本当に大変でしたが、一度納得をされると「なるほど…」と割とアッサリと理解される方々でした。これを端的に云いますと「理屈が通じる」場所であったのです。また私も、先生方に対し、文系ネタで煙に巻こうとはせず、手持ちで最も信憑性のある見解や知見を提供し続けました。そして、これが出来たのは、現在になって考えてみますと、やはり大学という環境があり、そして当時の私に専門(歯科理工学)以外の著作を読む習慣があったからであると云えます。そのように考えてみますと、その当時から、その後も現在に至るまで、おそらく私もまた自らの道なき道を行っているのではないかとも思われてきます。そして近年(特に20年代以降)、世界情勢をはじめ我が国の状況もまた、混乱の様相が強まりつつあるなかでは、私は分かりませんが、こうした道なき道を行くタイプの方々が、本領や真価を発揮されていくようになるのではないかと思われましたが、さて、どうなっていくのでしょうか?
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!

【加筆修正後】
 以前より私は文系的な話題になると少し拘るクセがあり、それは歯系院在籍時においても同様でした。現在、振り返り、きわめて運が良かったと思われることは、その歯系院において、私の文系についての拘りを特に否定せず、むしろ鷹揚に受け止められ、さらには、その文系ネタで、逆にこちらに質問されるような方々が周囲に少なからずおられたことです。

 その理由と考えられることは、以前、当ブログにて述べましたが、私が在籍した歯科理工学研究室とは、国内すべての歯科大学・大学歯学部に設置されている基礎系の研究室の一つであり、そこは臨床系の研究室とは異なり、研究室の長である教授が、歯科医師(あるいは医師)などの臨床資格を有していないことも少なくなく、私が在籍した研究室の教授(師匠)もまた、歯科医師や医師ではなく、歯学と工学の両分野で博士号を取得された、いわゆるダブル・ドクターの研究者であったことです。

 そのためか、研究室での会話の内容も多岐にわたり、そこに、私のように文系ネタに拘る人間が加わると、やはり当初は、多少、波風が立った記憶があります。しかしながら、研究室の長である教授自身が、さまざまな話題を好まれ、また、そこで出た見解についても、その確からしさの程度を見抜かれたり、あるいは追加説明により、さらなる対話を通じて理解されるといった優れたリテラシーから、特に険悪な雰囲気になることはありませんでした。

 そして、その門下の先生方もまた総じて、比較的狭い分野に専心して研究されるようなタイプの方々ではなく、いずれも、それぞれの「道なき道」を進むようなスタイルを持たれた先生方であると云えます。それ故、当初こちらが述べる知見や見解を納得して頂くまでは本当に大変でしたが、しかし一度納得されると、「なるほど、そういうものか……」と、意外なほど、あっさり理解してくださるといった、まさに「理屈が通じる」先生方であると云えます。

 他方、私の方も、先生方に対し、文系ネタで煙に巻くようなことはせず、自身の知り得る最も信頼性の高い見解や知見を提供し続けていました。そして、それができたのは、そこが大学という環境であったこと、そして当時の私に、専門(歯科理工学)以外の著作を読む習慣があったことによるのではないかと考えます。

 斯様に振り返ってみますと、当時から現在に至るまで、私自身もまた「道なき道」を歩んでいるのではないかという思いが、ふと湧いてきます…。近年、特に2020年代以降は、世界情勢をはじめ我が国の状況も混迷の度合いを深めつつありますが、こうした時代においてこそ、私は別としても、道なき道を行くタイプの方々のが本領や真価を発揮されるようになるのではないか――といった予感も不図、抱かれましたが、果たしてこれからどうなっていくのでしょうか。

そして今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

2025年5月12日月曜日

20250511 惰性と習慣の間にあるもの:丸10年に近くなって思うこと

 ここ数日間、また新規でのブログの更新はしませんでしたが、それ以外の公開を前提とする文章は幾つか作成しており、また書籍の方は、かねてより読み進めている著作数冊もさらに頁は進みましたが、新規でのブログ記事の作成とまでは至りませんでした。とはいえ、考えてみますと、私の場合、当ブログを継続してきたことから、今現在、必ずしも恵まれているわけではありませんが、どうにか、生きていることが出来ていると云えますので、やはり、その基礎の更新は出来るだけ行った方が良いと云えます。しかし、このように文章を作成している現在の状況とは、さきのように考え、それを実行していると云うよりも、どちらかと云うと惰性に近いと云えます。あるいは、定位置でのブログ記事作成が、惰性のように習慣づいていることから、しばらく作成をしないであいると落ち着かなくなってしまうのかもしれません…。思い返してみますと、当ブログ開始以前では、能動的な文章の作成が習慣となっていた時期はありませんでしたので、その意味で、さすがに9年10カ月程度ブログ記事の作成を継続しますと、ある程度は習慣づくと云えるのかもしれません…。しかし、当ブログ開始当初は、その文章作成で多少悩み、人文系院時代の研究から気になっていた銅鐸について、自分の更なる理解を深める意味もあり、いくつかブログ記事として作成しましたが、その後、関連著作での重要と思われる記述、あるいは以前に読んで興味深いとした記述などで引用記事を作成していますと、次第に、対話形式の記事の作成が出来るようになり、次いで一人称での文体の記事作成も出来るようになり、そしてそこからは、何度かスランプの波はありましたが、これまでどうにか継続することが出来ました。そして、その先にある現在において、何故か、ブログ記事の作成意欲が湧かないのです。とはいえ、一度作成を決意しますと、このあたりまでは、そこまでは苦労せずに作成出来るようにはなりましたので、先日の投稿ブログにおいても述べましたが、ここで多少無理をしてでも、より多くの記事を作成することよりも、後になり、また自然に訪れるであろう文章作成への意欲を待っていた方が良いのではないかと考えるのです。もちろん、このように定期的にはブログを更新しますが、それは以前のように、投稿記事数の増加のために投稿頻度に重点を置くのではなく、ここは内心にしたがいつつ作成するのが良いと考えます。そして、そのようなスタンスで、たとえば今後何年要するか分かりませんが、3000記事あたりまで(どうにか)到達することが出来れば、おそらくその時の私は、現在の私とはまた少し異なっていると思われます。近年では人工知能の普及と高度化により、それらしい文章を比較的容易に生成・作成することが出来るようにはなりましたが、しかし、そうした技術水準に至ってもなお、それを応用しつつも、自らで文章を作成し続けようとする自分を、これまでのブログ記事作成で培ったと云えますので、今後の展開はいまだ不明ではありますが、ともあれ、ブログ開始から丸10年となる、きたる6月22日までは、今しばらく継続したいと考えていますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


加筆修正後
 ここ数日間、ブログ更新はしませんでしたが、それ以外の、公開を前提とする文章はいくつか作成して、また、かねてより読み進めている著作数冊は、さらに頁が進みました。しかしながら、新規でのブログ記事の作成には至りませんでした。

 とはいえ、改めて考えてみますと、私の場合、当ブログを継続してきたことにより、今現在、必ずしも恵まれているとは云えませんが、どうにか生きているとも云えますので、やはり、その基礎としてのブログの更新は、出来るだけ行った方が良いようにも思われます。

 しかし、こうしてブログ記事の文章を作成している現在の状況とは、先述のように考え、それを意識的に実行しているというよりも、惰性に近いようにも思われます。あるいは、こうした状況とは、定位置(PC前)でのブログ記事作成が習慣づいて、無意識的な惰性のようになっていることから、しばらく作成しないでいると、逆に落ち着かなくなってしまっているのかもしれません…(苦笑)。

 思い返せば、当ブログ以前には、能動的に、そして継続的に、文章を作成する習慣はなく、そこから、その後、9年10カ月ほど継続してブログ記事を作成したのであれば、それは、ある程度は習慣と評し得るものと考えます。

 さらに思い返せば、当ブログ開始当初は、どうしたわけか文章の作成が困難な状態にあり、そこで、周囲のご助言にしたがい、以前、修士課程院生時代に地域性を検討するための一つの基軸とした銅鐸について、自らの理解を深める意味もあり、いくつか記事を作成することにしました。その後、以前に読み、興味深いと考えた記述による引用記事も作成するようになり、やがて次第に、対話形式の文章が書けるようになっていきました。さらにその後、対話形式から一人称文体での文章も作成することが出来るようになり、そして幾度かのスランプの波はあったものの、今現在まで、どうにか継続することが出来ています。

 さて、そこで最近、どうしたわけか、以前ほどブログ記事の作成意欲が湧かなくなっています。しかし、一度作成を決意すれば、この程度の文量は、自らの文体で、それほど労せずに書けるようにはなっていますので、過日の投稿記事にて述べましたように、ここで多少無理をして徒に記事数を増やすよりも、いずれ自然に湧いてくるであろう意欲を待つ方が良いのではないかと考えています。

 もちろん、今後も定期的に当ブログは更新していくつもりではありますが、以前のように投稿頻度や記事数の増加に拘らず、囚われずに、できるかぎり内心にしたがい作成するのが良いのではないかと考えています。

 そして、このようなスタンスで、今後どれだけの年月を要するかは分かりませんが、どうにか3,000記事あたりまで到達することができれば、おそらくその時の私は、現在の私とは、また少し異なっているのではないかと考えます。

 近年では、人工知能の普及と、更なる高度化により、それらしい文章を比較的容易に生成できるようになりましたが、そうした技術の進化発展があってもなお、それを応用しつつ、自らの手で文章を作成し続けようとする、その態度は、これまで継続したブログ記事の作成によって培われたものであると云えます。

 ともあれ、今後の展開は未だ不明ながらも、当ブログ開始から丸10年となる、来たる6月22日までは、しばらく継続していきたいと考えておりますので、引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

2025年5月7日水曜日

20250507 地域の「自然の薫り」と「歴史の厚み」から

 直近の投稿記事にて地域の「自然の薫り」と「歴史の厚み」が徐々に歴史意識を生成させるのではないかと述べましたが、これも自らの経験に基づいており、その意味で今世紀初頭の頃の南紀一帯は、いまだ古いものが少なからず残っていたと云えます。それは口承や祭祀などの伝統行事、そして、それらを包括する生活の場、全体を通じて、そうであったと云えます。これら地域の古くからのものを看取する経緯とは、たとえば、釣りの話をしていて、地域にある野池に大物がいるかと話していると「その野池は地下で川と繋がっており、そこのヌシはたしかに大物だが、滅多に釣り上がることはない。」であるとか「あそこの野池に木の枝を入れて池の水をかき混ぜると雨が降る」といったものであり、さらには地域の神社の祭礼などで、よく陽に焼けた地元の方々が、おそらくは古くから用いてきたと思しき、古めかしく少々色あせた水干か狩衣を着け、頭巾(ときん)か烏帽子などを被り、産土神の祭礼に、ぎこちない感じはありつつも参加されている様子からは、近年の時代もののドラマや映画などからは看取することが困難な、「ああ、実際の往時の祭礼では、神職の社家や宮座の方々も、普段は農業や漁業などに従事されていたのであろうから、このような感じであったのだろう…。」といった認識を比較的明瞭に得ることが出来ると云えます。さらに、そうした日常的な様相にまで近づいた往時での方々のいで立ちに、さらに別日の白良浜の清掃の際に見た、長柄の紀州鉈を持たれていた植木職人の方々の自然ないで立ちとを統合してみますと、おそらくは大和朝廷が支配していた頃の役人の実際のいで立ち、様相が、比較的鮮明に結像し得ると考えます。そして、こうした経験を何度か重ねるうちに、徐々に、その地域での歴史の変遷の様相も理解出来てくるのではないかと思われますが、その契機となるものが、冒頭に述べた地域の「自然の薫り」と「歴史の厚み」といったものであると考えます。さらに、おそらく、こうしたものは、相性のようなものがあるのではないかとも思われました。

そして今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

2025年5月6日火曜日

20250505 先日の海開きから、南紀および紀伊田辺について

 ここ何回か、引用記事を作成・投稿したところ、また自らの文章を作成したいと考えるに至り、つい先ほどから作成を始めました。さて、ここ最近はさらに春めいて、南紀白浜では早くも去る3日㈯に海開きがされたとのことです。これは本州では最も早い海開きであり、また実感としても、この時季の南紀白浜は、たしかに泳いでも大丈夫そうな陽気であったと記憶しています。そしてまた、この時期からの田辺も含めた南紀一帯は秋の終わり頃まで、自然の薫りが濃厚であり、そして、その自然の薫りから、その地域が持つ歴史文化への興味が生じたと云えます。これは、これまでにも何度か、当ブログにて述べてきたことではありますが、私は南紀白浜での在住期間のなかで、土俗的なものをも含めたホンモノの地域社会に接することにより、また、それらの地域が持つ、現在でも伝わっている伝説や伝承を何らかの会話の機会で知ることにより、その背景にある歴史の流れなどにも多少興味を持つようになり、書籍などを隣町の紀伊田辺の書店で立ち読みして、何冊か購入するよになりました。ちなみに、当時(2001~2003年)の紀伊田辺には、比較的大規模な書店が複数あり、街の規模と比べ、その数が多いのではないかと思われましたが、しかし、紀伊田辺は、古くから地域の拠点として栄え、江戸時代には紀州徳川家の御附家老であった安藤家が治め、近代化以降も南紀の拠点として、海運や漁業などで栄えてきた都市であり、在住当時はまだ、何と云いますか諸事に「歴史の厚み」がありました。また、自らの文化にも自信があり、さらに、受容性もあったあったことから、南方熊楠が後半生に、この地で研究を続けることが出来たのだと思われます。つまり、当時の紀伊田辺には、街並みも含めて、何らかの日本独特と感じられるような「品」がありました。そして、その背景にある文化も、東日本のそれとは大分異なるもの、やはり良いと感じられるものであったことから、以降、私は紀伊田辺そしてそれに隣接する南紀白浜町を含む西牟婁郡一帯には勉強させて頂き、大変お世話になったと云えます。そして、その始まりが、当記事冒頭近くで述べた「南紀での自然の薫り」であったのですが、これに、さきに述べた地域の「歴史の厚み」が加味されますと、そこまで歴史意識に優れていない方でも、その意識を得るための、もとの感覚は得ることが出来るのではないかと考えます。つまり私は南紀での経験を通じて我が国に、また少しは世界に、そしてまた歯科理工学に対しても能動的な興味を持つことが出来るようになったのだと云えます。あるいは言い換えますと、日本史の年表などに記載のある人物や出来事としてしか知らなかったものに地域の伝承とのつながりから興味が生じ、結果、その当時の時代全般についての新たな興味が生じるといった具合です。ともあれ、その興味は自らの経験に根差していたのだと云えます。そうしますと、私の場合はいくら継続すると云えますので、その最初の経験が南紀であったことは、やはり、ありがたかったと云えます。そしてまた、ここまで書いて不図、平安時代後期、世の中にまた争乱が増えてきてから、南紀に位置する熊野三山への参詣、所謂、三熊野詣が盛んになってきたのかは、当時、熊野が浄土と見られていたからである、とされますが、それよりも、熊野を含む南紀の大気、自然の薫りが、そこを訪れた人々の精神に活性を与えることを人々が感じ取ったからであるのではないかと思われました。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2025年5月4日日曜日

20250504 株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻

株式会社早川書房刊 ダロン・アセモグル&ジェイムズ・ロビンソン著 鬼澤忍訳「国家はなぜ衰退するのか」ー権力・繁栄・貧困の起源ー上巻
pp.203-205より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4150504644
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4150504649

19世紀に日本がたどった制度発展の道筋からまたも明らかになるのは、決定的な岐路と、制度的浮動の小さな相違の生む小さな相違との相互作用だ。日本は中国と同じく絶対主義に支配されていた。徳川家はやはり国際貿易を禁じる封建体制を17世紀初頭に引き継ぎ、維持していた。日本もまた、西洋の干渉によって生じた決定的な岐路に直面した。1853年7月、マシュー・C・ペリー率いる四隻のアメリカ軍艦が江戸湾に入港し、アヘン戦争の際にイングランドが中国から勝ち取ったような貿易特権を要求した。だが、この決定的な岐路は日本ではまったく異なる役割を演じた。日本と中国は距離的に近く、頻繁な交流があったにもかかわらず、19世紀までに両国の制度はすでに隔たっていたのだ。

 日本における徳川家の統治は絶対主義的で収奪的だったが、有力な藩主に対する支配力はわずかしかなく、挑戦を受けやすかった。中国では、農民の反乱や内戦があったにせよ、絶対主義はもっと強力だったし、敵対勢力の組織化や自治の程度は低かった。中国には藩主に当たる存在、つまり皇帝の絶対主義的支配に挑戦し、代わりとなる制度を推進できる者はいなかった。こうした制度上の相違は、中国や日本を西欧と分かつ相違と比べれば、多くの面で小さなものだった。しかし、イングランドや合衆国の武力を伴う出現によって生じた決定的な岐路に際しては、きわめて重要な影響力を持っていた。中国がアヘン戦争のあとも絶対主義の道を歩みつづけたのに対し、日本では合衆国の脅威のせいど徳川家の統治に対する反抗勢力が結束し、第10章で述べるように、明治維新という政治革命を引き起こしたのだ。

 こうした政治革命のおかげで、日本では包括的な政治制度とさらに包括的な経済制度のもとで衰弱していったのである。

 日本は根本的な制度改革のプロセスを始めることで、合衆国の軍艦による脅威に立ち向った。このことが、われわれを取り巻く情勢のもう一つの側面、つまり停滞から急成長への移行の理解を助けてくれる。韓国、台湾、最後に中国が、第二次世界大戦後に日本と同じような道をたどって猛スピードで経済成長を成し遂げた。これらのケースのいずれにおいても、成長に先立って各国の経済制度に歴史的な変化が起こっていたのだーもっとも、中国のケースで際立つように、必ずしも政治制度は変化しなかったのだが。

 急成長の期間が突如として終わりを告げ、逆に衰退が始まるのはどうしてだろうか。そのメカニズムも重要だ。包括的制度への決定的なステップが急速な経済成長に火をつけるのと同じように、包括的制度からの急な離反は経済の停滞につながることがある。だが、急成長の行き詰まりは、アルゼンチンやソ連のケースのように、収奪的な制度のもとでの成長が終わった結果であることが多い。すでに見たように、これが起こる理由は次のどちらかだ。収奪の成果をめぐる内輪もめが政権の崩壊を招くこと、あるいは、収奪的制度のもとではイノヴェーションと創造的破壊が本質的に欠けているため、持続的な成長に限界があること。ソ連がこうした限界にぶつかった様子については、次章でより詳細に論じることにしよう。

20250504 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」 pp.311-315より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」
pp.311-315より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

 1890年、イタリアは列強のなかで最小のメンバーだったが、日本はまだその一員に数えられてもいなかった。何世紀ものあいだ、日本では各地に分立した封建領主(大名)と戦士階級(武士)による少数独裁政治がしかれてきた。天然資源に乏しく山地が多い地形であるために、耕作に適するのは国土のわずか20パーセントで、日本には経済発展に不可欠とされてきた条件がすべて欠けていた。日本語が複雑でほかによく似た言語がないことや、文化的な独自性を強く意識いたために、外の世界と隔絶していた日本は、もっぱら内側に目を向け、外国からの影響をこばみながら19世紀の後半を迎えた。こうしたことを考えると、日本は政治的には未成熟で、経済的にも立ち遅れ、世界の大国のなかで軍事的な重要性をもたない国であることを運命づけられていたようにみえる。しかし、数十年のうちに、日本は極東の国際政治において主役を演じるようになる。

 1868年の明治維新に日本がこの変身をとげたのは、エリートたちが西側による支配と植民地化を避けようと決意していたためであった。そのころのアジアはどこでも西欧によつ植民地化が進んでゐたが、日本はこれに抵抗するために改革を断行し、封建秩序を打ちこわして武士階級の激しい抵抗を受けることも辞さなかった。日本が近代化しなければならなかったのは、個々の企業家が望んだからではなく、「国家」が近代化を必要としたからだったのである。当初の抵抗を粉砕してしまうと、日本はコルベールやフリードリッヒ大王も顔負けの統制経済を断行し、国家主導で近代化を進めた。プロイセン‐ドイツにならって新憲法が制定され、法律制度の改革も行われた。教育制度の大幅な拡充によって日本の識字率は比類のない高さになった。暦も変更された。衣服の習慣も改められた。近代的な銀行制度も発展した。英国海軍から専門家を招いて助言を求め、近代的な艦隊の創設に始まり、プロイセンの参謀将校が陸軍の近代化を手助けした。日本の軍人は西欧の陸軍士官学校や海軍士官学校に留学した。近代的な兵器が輸入されると同時に、国内の軍需産業の育成も行われた。国が先に立って鉄道網、電信、海運業の創設に努力し、台頭しつつあった企業家と力を合わせて鉄、鋼鉄、造船などの重工業を育て、繊維産業の近代化を促進した。政府の補助金は輸出を奨励し、海運業を促進し、新たな工業をつくりあげるために使われた。日本の輸出、とくに絹および繊維製品の輸出は急激に伸びた。こうした発展の陰には、富国強兵というスローガンを建製しようという強力な政治姿勢があった。日本人にとっては、経済力と陸軍力および海軍力は手をたずさえて伸びていくものだったのである。

 だが、それには時間がかかり、いつまでも深刻な障害が残った。都市部の人口は1890年から1913年までに2倍に増えたが、耕作農民の数は変わらなかった。第一次世界大戦の直前でさえ、日本人の6割は農林水産業に従事しており、農業技術にかずかずの改良が加えられたにもかかわらず、山地の多い地形や小規模土地所有のために、たとえばイギリスのような「農業改革」は進まなかった。こうした「腰の重い」農業が基盤になったので、日本の潜在的な工業力や一人当たりの工業化水準は列強の最下位かそれに近かった(第14表、第17表くぉ参照)。1914年までの工業の伸びの大きさは、近代的なエネルギー消費律の急激な伸びと、世界の総生産に占めるシェアの増大にうかがえるか、ほかの領域ではまだ遅れていた。鉄と鉄鋼の産出量は少ないし、輸入への依存がきわめて大きかった。同じく、造船業が拡大していたものの、軍艦の一部は海外に発注していた。また資本の不足も深刻で、外国から多額の資金を借り入れなければならず、それでも工業や産業基盤の整備、軍事力の向上に投資する資金は充分ではなかった。経済的には非西欧諸国としては唯一、帝国主義のさかんな時代に産業革命を行うという奇跡をなしとげたが、それでもイギリス、アメリカ、ドイツとくらべれば工業面でも財政面でも見劣りは免れなかった。

 しかし、さらに二つの要因が働いて、日本は列強の仲間入りをはたし、たとえばイタリアをしのぐほどになる。その第一は地理的に孤立していたことである。すぐ近くの大陸にあるのは滅びかけた帝国たる中国で、ほとんど脅威にはならなかった。そして中国や満州、それに挑戦(朝鮮の植民地化はかなりの不安の種だった)などが他の列強の手に落ちるにしても、日本はどの帝国よりもこれらの地域に近い。ロシアは1904年から5年にかけての戦いで6000マイルにわたる鉄道を利用し、苦心して軍隊に補給品を送ったときにこのことを知ったし、イギリスとアメリカの海軍はそれから数十年後、フィリピン、香港、マラヤに救援軍を送ったとき、平坦問題と取り組んで苦労することになる。東アジアでは日本が着実な成長をとげていたことを考えれば、他の大国が日本の進出を阻止することは至難のわざで、やがて日本がこの地域で支配力をふるうようになるのは当然といえよう。

 第二の要因は、モラルである。日本人が文化的な独自性を強く意識し、天皇崇拝や国家にたいする畏敬の念が強く、軍人の名誉と尊厳にたいする武士的な気質がゆきわたり、規律と勇気が重視されていたことから、きわめて愛国的で犠牲をものともしない政治的風土が育まれた。それが一つの要因となって、拡張政策を追求して「大東亜共栄圏」を確立し、製品市場と原材料の供給地を確保すると同時に、戦略的な安全保障をはかろうという流れがさらに強まったというのは異論のないところだろう。この姿勢が明確になったのは、1894年に日本の陸海軍の対中国作戦が成功したときである。このとき、両国は朝鮮における権益をめぐって争い、陸と海の両方で、装備にすぐれた日本軍は勝利への意志を固めて突き進んでいった。戦後処理をめぐってロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」の脅威にあって、日本政府はしぶしぶ旅順と遼東半島を返還した。このことで、日本政府は捲土重来の決意をいっそう固めただけだった。林男爵の次のような苦々しい決意に共感しない者は、日本政府のなかにはほとんどいなかったのだ。

 新しい軍艦が必要ならば、われわれはどんな犠牲を払っても建造しなければならない。わが陸軍の組織が不備だというなら、ただちに改善にとりかかなければならない。必要なら軍事制度全体をも変更しなければならぬ…。

 現在、日本は平静を保ち毅然として身を処し、外国から向けられた疑惑を晴らさなければならない。そして、そのあいだに国力の基本を固め、東洋に進出する機会を待つのだ。その機会はきっと到来する。その日がきたとき、日本は国としての運命を決することになるのだ…。(R・ストリィの引用による)

 復讐のときは10年後にやってくる。朝鮮および満州にたいする日本の野心がロシアのツァーリのそれと衝突したのである。海軍の専門家は、東郷提督の艦隊がロシアの艦隊を対馬沖の日本海海戦で破ったことに感歎したが、他の人びとを驚かせたのは日本の行動そのものだった。旅順奇襲(1894年の日清戦争に始まり、1941年にふたたび採用された慣行)を西側は拍手をもって迎え、日本の国家主義者がいかなる犠牲も省みず徹底的な勝利を求める情熱にも感心した。それよりさらに驚異だったのは、旅順要塞の包囲戦と奉天の会戦における日本軍の将兵の戦いぶりだった。何万人もの犠牲を出しながら、地雷原を渡り、鉄条網を越え、機関銃の弾丸を浴びつつ突撃し、ロシアの塹壕を制したのである。サムライ精神を発揮して銃剣をふるえば、大量の武器が投入される近代戦においても勝利を獲得できるかにみえた。当時の軍事専門家が考えたとおり、モラルと規律が国力の充実に欠かせぬ必要条件だとすれば、日本にはこの資源が豊かにあったのである。

 それでも、日本はまだ駆け出しの大国にすぎなかった。日本が戦った相手がさらに遅れた中国やツァーリのロシアだったことは幸運だった。ロシアの軍部は頭でっかちで、しかもペテルブルグと極東をへだてる広大な距離のために不利益をこうむっていたからである。さらに、1902年に日英同盟が締結されていたので、第三国の介入を恐れることなく地元で戦うことができた。日本海軍はイギリスで建造された軍艦が頼りだったし、陸軍ではクルップ製の大砲が主力だったのである。さらに重要なのは、多額の戦費を国内の資金だけではまかなえなかったが、アメリカやイギリスの金融市場で調達できたことだった。事実、1905年末にロシアとの和平交渉を進めていたとき、日本は破産の瀬戸際に立っていたのだ。この事実を、東京の市民は知らず、和平交渉がロシアに比較的有利に終わったと考えて怒りを燃やした。とはいえ、日本の勝利は確定し、軍部は栄光と賛美に包まれ、経済は回復することができた。そして(地域的なものであったにしろ)列強としての地位がどこからも認められるところとなり、日本は一人前になった。極東では、日本の反応を考慮することなくして、どんな行動に出ることもできなかった。だが、日本がさらに拡張政策をとっても、他の列強から横やりが入らないかどうか、それはまだ不明だったのである。

2025年5月2日金曜日

20250501 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.174-176より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.174-176より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

革新派は、伝統や既存の精度や機関を軽視し、より良い社会構造を一から創出する方法を知っていると考える傾向にある。保守派はそれよりも伸長になりがちだ。保守派の主要な見識を言い表した人物として最も有名なのがエドマンド・バーグであり、彼によれば、社会の現実は、革新の擁護者が把握しているよりもはるかに込み入っており、人々はこの世の中を理解して未来を予測するのがあまり得意ではないという。だから、たとえ物事が不当に見えても、あるがままにしておくのが最善であり、もし何らかの変化が避けられないのなら、その変化は限られた範囲でゆっくりと進むべきなのだ。社会は、長い間に試行錯誤を通して積み上げられてきた規則や制度や習慣の複雑な仕組みによって機能する。そうした無数の規則などが、互いにどう結びついているのかは誰にも理解できない。古代からの伝統は馬鹿げていて現状には無関係に見えるかもしれないが、それを廃止すれば、思いがけない問題が生じかねない。逆に、公正で、とうに起こっているべきであるように思えた大変革も、旧来の政治体制が犯したどんな罪よりもはるかに重大な罪につながりうる。ボリシェヴィキが帝政ロシアの多くの不正を改め、完璧な社会を一から創出しようとしたときにどうなったか見てみるといい、というわけだ。

 したがって、これまでは保守派であるというのは、政策よりもペースの問題だった。それか特定の宗教やイデオロギーに傾倒しているから保守派となるわけではない。すでに存在し、それなりに機能してきたものなら何であれ維持することに熱心なのが保守派なのだ。保守的ポーランド人はカトリック信徒、保守的なスウェーデン人はプロテスタント、保守的なインドネシア人はイスラム教徒、保守的なタイ人は仏教徒だ。帝政ロシアでは、保守的であるとは皇帝を支持することを意味した。1980年代のソ連では、保守的であるとは共産主義の伝統を支持し、グラスノスチ(情報公開)やペレストロイカ(改革)や民主化に反対することだった。同時期のアメリカでは、保守的であるとはアメリカの民主主義の伝統を支持し、共産主義や全体主義に反対することだった。

 ところが2010年代から20年代の初めには、多くの民主社会で保守政党がドナルド・トランプらの非保守的な指導者にハイジャックされ、過激な革命政党に変えられてしまった。アメリカの現共和党のような新種の保守政党は、既存の制度や伝統を維持するために最善を尽くす代わりに、そうした既存のものに強い不信の目を向ける。たとえば、彼らは科学者や公務員、世の中のために働いているその他エリートたちに対して、これまで払って当然だった敬意を退け、彼らを軽蔑の目で見る。選挙のような民主主義の基本的な制度や伝統も同様に攻撃し、選挙での敗北を認めることも、権力を潔く移譲することも拒む。バークの主張するような保守政策とは違い、トランプの打ち出す政策は、既存の制度を破壊し、社会に大変革を起こすことを訴える。バーク流の保守主義が樹立されたのは、バスティーユ牢獄の襲撃が起こったときであり、バークはぞっとしながらこの事件を見守った。ところが2021年1月6日、多くのトランプ支持者は、連邦議会議事堂の襲撃を熱狂しながら見守った。トランプの支持者は、既存の制度は完全に機能不全に陥っているので、打ち壊してまったく新しい構造を一から築き上げる以外に選択肢はないと説明するかもしれないが。だが、この見方は、正しいかどうかにかかわらず、保守派ではなく典型的な革命主義者のものだ。革新派は保守派の自滅にすっかり不意を衝かれ、アメリカの民主党のような革新派の正当は否応なく、旧来の秩序と規制の制度の守護者になった。

 なぜこんなことが起こっているのか、確かなことは誰にもわからない。テクノロジーの変化のペースが加速し、それに伴って経済も社会も文化も変わっているため、穏健な保守派の政策が非現実的に見えるようになってしまったからというのが、一つの仮説だ。もし既存の伝統や制度や機関を維持するのが絶望的で、何らかの大変革が避けられないようなら、左派による革命を妨げるには、先手を打って人々を煽動し、右派による革命を起こさせるしかない。これが1920年代から30年代にかけての政治のロジックであり、当時、イタリアやドイツ、スペイン、その他の保守勢力は、ソ連型の左派による革命の機先を制するため(と考えて)過激なファシスト革命を後押しした。

2025年5月1日木曜日

20250430 株式会社新潮社刊 竹山道雄著「古都遍歴ー奈良ー」pp.36-39より抜粋

株式会社新潮社刊 竹山道雄著「古都遍歴ー奈良ー」
pp.36-39より抜粋
ASIN ‏ : ‎ B000J93MGQ

  私は奈良にきて、さまざまの古い仏たちを見ながら、そのあまりの多様さに眩惑され混乱して、はっきりとまとめて考えることがなかなかできないでいたが、そのうちにようやく一条の理解の筋道をたてることができた、と思った。これについては後にあららめて考えたいが、おおよそ次のようなことを疑うことができない。
ー日本の彫刻は宗教彫刻であって、その志向するところは精神的な感動をあたえるにあった。肉体はただ精神の宿る場として、このかぎりにおりてのみとりあげられた。肉体を肉体として表現しようという意欲はなかった。呪縛し魅惑する精神がもっとも宿る肉体の部分は、顔と手である。故に、ここが仏教彫刻の焦点である。ただこれをよりよく表現するためにのみ、顔と手には(そしておそらく胸あたりまでは)実在的にも充実した探求がされている。しかし、他の部分はほとんど顔を手を支える台のようなものであり、肉体としての注意の中に入ってこない。こういう部分の迫真的表現は、できなかったのではない。しようとしなかったのである。技能はあっても、その興味がなかったのである。そして、右の精神的感動の表現のためにもっとも用いられた表情は、荘厳な調和ある相貌のほかに、憤怒と微笑だった。また印を結んだ手の形だった。この神秘主義はさまざまのヴァリエーションをなしているが、この原理は他の原理が入ってきた後代にも、ずっと主流となっている。後代の肉感的であるといわれる彫刻ですら、その意図するところは肉感を通じての神秘感にあった。白鳳のあの完全な肉体への志向は、一つの挿話にすぎなかった。日本人は肉体を肉体としてヨーロッパ風に意識したことは、ほとんどなかった。仏像は人体としてではなく、精神的影響をあたえるものとしてつくられ、肉体を独立した存在として四方八方から立体的に眺めるという気持はなかった。いまのわれわれにとって自明な彫刻感は、おそらく大正時代に入ってはじめて確立したものであろう。だから、われわれが古い彫刻を見るときには、レンズを代え、ピントを別に合わせなくてはならぬー。
 この私の臆説は、念裏にすこしづつ醞醸していたのだったが、この釈迦三尊を見たときに決定的なものとなった。
 光背を頂点とする大きな三角形の中の、線の音楽の中から、三尊の顔と手が浮き出している。顔と手以外の部分には、実在を再現しようという意図はまったく見られない。体躯は非情な強靭な線の交錯する塊にすぎない。本尊は小さい台の上に坐っているので、蓮茎の上の脇侍と共に宙に浮いているようであり、そのひろく張りだして垂れた裳は着物というよりもむしろ雲のようである。
 胸にたれ下ったふしぎに象徴的な襟も、肩にかかっている蕨手形の髪も、光背の渦巻も、すべて線による主観の表現であり、現実を遮断している。そして、抽象的な紋様をくりかえすことによって、直観に限定された方向をあたえ、感情にきびしい統制を加て、意識のうつろいやすい感性の領域からひき離して、絶対世界へと強制している。
 本尊の体躯は萎縮して、顔はゴツゴツとして頬骨がつき出て、鼻は平らに、唇はひろく、ほとんどネグロ的な相好である。何となく未開人の呪術師を思わせ、こちらを凝視しながら嘲笑しているようでもある。円満とか慈愛とかいうことからはとおく、むしろ怪奇で醜悪である。
 醜とか悪とかグロテスクとかいうことは、つよい力をもっている。むしろ醜の中にこそ、人の心を貫き圧倒するものがある。額から光を放って人をおそれさせはばからせたカインは、強烈な呪縛力をもっていたのであろう。この像も人の心にしみ入るような凝視と蠱惑をもっている。そして、この手!この手はじつに傑作だと思った。両手共に掌を前にむけて、片方は挙げ片方は垂れ、いかにも人を吸引しながらしかも同時に拒否しているようである。中門の遠望にもこれに似た謎のような感じを味わったけれども。
 この仏像の前に、飛鳥の人はおそれおののいたことであったろう。一光三体の六つの視線に射すくめられて、ひれ伏したことであったろう。かねてから山の霊や木の霊や生や死のもつ呪力はしっていたが、精神が自立して主体となって、このような超人の俤をとってかれらの前に出現したのは、これがはじめてであったろう。
 私にはこの仏像の印象はじつに強烈で、金堂の四天王と共に、暗い神秘主義の絶頂だと思われた。
 ところが写真ではー。この三尊は光線を十分にあてた大きな写真で見ると、いずれも若々しく柔和な微笑をたたえている。古拙で純潔で愛らしい。左右の脇侍は、宝物殿の六観音によく似たあどけない子供の顔をしている。私がじかに見たのとはまったく正反対の表情である。その呪縛は畏怖ではなく、情愛である。見ていて心をとろかすようである。
 どちらがほんとうなのだろう?
 やはり両方がほんとうなのだろう。
 この仏像は二重の表情をもっているにちがいない。