2023年12月31日日曜日
20231231 株式会社講談社刊 池内紀著「悪魔の話」pp.64-67より抜粋
ISBN-10 : 4061490397
ISBN-13 : 978-4061490390
白人種といったものがフィクションであることは、言葉が正確に示している。白は元来、晴れた日の雲や、神が棲む雪をいただいた山をいうための色だった。父なる神のための聖なる色であって、白馬が神を選び、白衣の神官が祭儀を司る。
聖なる白は無垢の純潔の色となったが、せいぜいが象徴的な用い方にとどまって、それが「実用化」にいたったのは意外に新しい。聖職者たちは、とりたてて白にこだわらなかった。激しい戒律の修道会ですら、どちらかというと自分たちをアピールするための色の特徴を重んじた。ロジーナ・ピゼスキーの「モードのイタリア史」によると、中世のカルメル会修道士は七つの布切れを縫い合わせた衣服を着ていたが、それは白4、赤3の割合いのおそろしく派手なもので、そのため「かささぎ会士」などとからかわれた。
今日はすっかりおなじみの白い花嫁衣裳にしても、ようやく二十世紀の産物である。これについてはピゼスキー女史がイタリアの例で述べているが、リュリー女史のいうアメリカの場合でみると、一九二〇年代以前は、花嫁は自分に似合う色なら何でもよく、新品のイヴニング・ドレスでありさえすればよかった。白はもとより、ピンク、黄色、ブルー、グリーンと何色でも可。婚礼のあともずっとそのドレスは彼女のとっておきのパーティ・ドレスとして使われた。
純白のドレスに白いヴェールというおなじみの花嫁衣裳は、もしかすると、無垢と純潔が下り坂になったころに急速にひろがっていったのかもしれない。不足を補うための「制服」の効用であって、悪魔の発明品の一つである。それは花嫁のそれまでのいろいろな体験をいっさい帳消しにして、ともかく無垢の人として聖なる祭壇へとおくり出す。
ついでながら、近ごろは白い花婿衣装が大はやりらしい。これは悪魔の発明品というよりも道化の衣装を思わせる。大英帝国はなやかなりしころ、植民地司令官の大佐などが白いスーツに白ズボン、頭には王冠のような白いヘルメットをのせてカッポしていた。蛮地にやってきた新しい王であり、「聖なる人種」というつもりだったのだろう。力を背にしてせっせと搾取にはげむ一方で、ひとりよがりの正義と信仰をおしつけた。その度しがたいまでの生態については歴史の本にくわしい。私には賢明な今日の女性たちが、どうしてあのコッケイな男性のいでたちを見すごしているのか理解できない。それとも力を背にして搾取にはげむ一方で、ひとりよがりの人生観と生活哲学をおしつけてくる〈植民地司令官〉が、もんざらでもないというのだろうか。
悪魔は、ときおり死や異端者と関連して鉛色だったり青白かったりするが、通例は黒く、暗い。ふつうは裸であるが、腰衣をつけているだけ。ひどく痩せている。なぜか肥っちょの悪魔というのはいないようだ。ともあれ、どんな姿にでも返信することができる。
髪の毛が逆立っていて、先端が針のように尖っている。地獄の炎の名残りらしいが、別の説によると、髪を油で天を突く形に固めて敵をこわがらせようとした辺境民族の風習をとどめるものだという。
長く垂れた鉤鼻。この特徴は、ユダヤ人が悪魔視される過程で、しばしば引き合いに出される。
蹄、あるいは鉤爪をもち、山羊の脚として描かれた。責苦を与える道具として三叉の鉾やフォーク、鉤などをかかえている。ラッセルの本に引かれているものから、その中のとびきりの大物をひとりー十一世紀に生まれた「タンデールの幻」という地獄見聞記によると、信じられないほど巨大なけものであって、カラスのように黒く、体は人間そっくりだが尾があり、手が無数にあった。
指の爪は騎士の槍より長く、足の指の爪も同様だった。また長くて厚いくちばしと、長く鋭い尾をもち、尾には釘が生えていて、それで亡者の霊魂を傷つけるのである。このおそろしい怪物は、デーモンの大群が風を送って燃やしている石炭の上の格子にうつぶせに寝ていた。・・・
息をするたび亡者の霊魂を吐き出し、息をするたびにまた吸いこんで噛み砕いた。これがルシファーで、神が造った「最初の被造物」だという。
もっとも、これもまたいまだ中世の悪魔であって、以後、しだいに変わっていく。黒い天使として多様化し、美しく、かつは知的に洗練されていった。
2023年12月25日月曜日
20231225 株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」pp.36‐37より抜粋
ISBN-13 : 978-4623092260
クリミア戦争(一八五三~五六年)-「ヨーロッパ協調」の転換点
十六世紀初頭に地中海世界を席巻し、ヨーロッパ大陸を恐怖におとしめたオスマン帝国も、十九世紀半ばまでには「ヨーロッパの瀕死の病人」とまで呼ばれるほどに衰退した。このためギリシャの独立(一八三〇年)や、二度のシリア戦争を経た後のエジプトの事実上の独立(一八四一年)など、かつての支配地が次々と自立していった。
これに目をつけたのが、地中海への南下を狙うロシアであった。フランス皇帝ナポレオン三世が聖地イェルサレムの管理権をめぐってオスマン皇帝と折り合いを付けたことに、ロシア皇帝が抗議した。ロシアとオスマン帝国との関係が日増しに悪化し、ウィーンでの四大国(イギリス・フランス・オーストリア・プロイセン)による調停も失敗に終わり、一八五三年一一月までにはロシアとオスマンは戦闘状態に突入する。
2展 開
強力なロシア陸軍によりオスマン軍は押され、バルカン半島の主要部がロシアに占領された。地中海を通っての「インドへの道」を保持したいイギリスは、同じくロシアの南下に脅威を抱いたフランスと提携し、ここにロシアに対して宣戦布告した。(一八五四年三月)。
こののち戦争は、黒海に面するロシア最南端のクリミア半島をめぐって長期化・泥沼化した。一八五五年三月、各国で厭戦気分が高まるなか、ウィーンで会議が開かれたが、英仏露三国の調整は失敗に終わった。この間に、イギリスではパーマストン子爵が首相に就任し、陸海軍の強化が図られた。
一八五五年九月、黒海最強のセヴァストポリ要塞が陥落し、パーマストンはこれを機に本格的な遠征に乗り出すつもりであった。しかし同盟国のフランスはすでに戦闘意欲を失っており、ロシア側でも皇帝に即位したばかりのアレクサンドル二世が停戦へと動いた。
一八六五年二月下旬から、ナポレオン三世のフランスが主催国となり、パリで講和会議が開かれた。本来は紛争当事国の一つだったフランスが会議を開催できたのは、同盟国イギリスを「裏切る」形で、敵国ロシアに譲歩を示したからである。三月に締結されたパリ条約では、オスマン帝国の領土が列強により保障され、ロシアが占領した地域が変換されるとともに、黒海の非武装・中立化も盛り込まれた。ロシアによる南下政策は阻止されたが、セヴァストポリを落とされたロシアの被害も最小限で済んだ。
3意 義
クリミア戦争が、ウィーン体制下のヨーロッパ国際政治に与えた影響は甚大であった。まずは、それまでの鉄の絆を誇ってきた北方三列強の同盟関係を瓦解させた。ロシアが英仏二国と交戦状態に入ったにもかかわらず、地中海に権益を持たないプロイセンは見て見ぬふりをし、バルカン半島に利害を持つオーストリアに至っては、いつでも対露参戦できるよう英仏と密約を結んでいた。これにより、こののちはバルカン問題をめぐってロシアとオーストリアの対立が表面化していくとともに、ドイツ統一問題をめぐりオーストリアとプロイセンの確執を仲介する存在(それまではロシア)がいなくなってしまった。
さらに、パリ講和会議で外向的な成果を収めたナポレオン三世治下のフランスが、これ以降はヨーロッパでの地域紛争を「パリ会議」で収めていくとともに、さらなる領土的な野心も高めていく、そして、この戦争ではイギリス陸海軍(特に陸軍)の弱点が露呈し、イギリスはそれまでのような強力な調整役にはなりえなくなった。
その意味でも、クリミア戦争はウィーン体制と「ヨーロッパ協調」が崩壊していく転換点となったのである。
参考文献
2023年12月24日日曜日
20231223 株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.49-53より抜粋
ISBN-10 : 4106039044
ISBN-13 : 978-4106039041
当時、西欧で流行った社会的ダーウィン主義について触れておく必要があります。ダーウィンの「種の起源」が1859年に刊行されて以来、それが実際の社会現象を説明するとき、人々の間で「適者生存」の法則として流布します。告白すると私は「種の起源」を読んだことはありません。皆さんも読んだことがない人がほとんどではないでしょうか。問題はまさにそこにあります。ダーウィンの難解な自然選択説は、あらゆる種はだんだんと進化して今に至っているというシンプルな趣旨にまとめられ、それが様々な事例に当て嵌められました。
19世紀後半、誰もが本を読めるようになり、新聞や雑誌が大量に発行されるようになります。それは大変結構なことですが、「種の起源」を読まなくても、それについての記事の中で辻褄の合わないところ、矛盾点も意識しつつ「自然選択」という仮説を導きました。しかし、そんな考察は全部はしょって、俗流ダーウィニズム的考え方が欧米だけでなく日本でも取り上げられるようになりました。なぜなら、大衆が社会の主役となり始めた19世紀末、「生存競争」と「適者生存」の二つは人々の間で生じる葛藤や軋轢、貧富の拡大をうまく説明しているように感じられる。便利な言葉だったからです。
当然のことながら、それは国家間の関係にも適用されます。国と国との間の競争も「線存競争」だから、みんな頑張れ、というものですが、国民を一つにまもめるのに都合がいい話です。戦争は、国家間の「適者生存」が行われる究極の「生存競争」ということになります。19世紀末から20世紀初めにイギリスで出版された。「ナィンティーン・センチュリー」という季刊誌がありました。それを紐解くと、100年前の人間が戦争をどのようなイメージで捉えていたかがわかります。
「戦争における勝利は、道徳的美徳を持った者に与えられる王冠である。」
「戦争とは、一国が他国と戦争して、最も物理的に優れた者が生き残る場である」
「現代においては、最も効率を高める者が生き残る」
「戦争は、何か神の意思にかなっているかということを決める、裁きの場である」
最近ではまずお目にかかれない、力みまくった言葉が並んでいます。
フランスやドイツも、似たようなものだったでしょう。こういうのもあります。
「もちろん戦争は犠牲を必要とする。しかし、人間は犠牲を好んでする動物だから、自然界で生き残ってきた。ある世代の人間がどのように犠牲を払うかによって、次世代の運命が決まってくるのだ」
読んでいると、私も子供時分に同じような話を聞きましたから、三分の一くらいそうかもしれないという気分になってきます。それでもさすがにひどいと思うのは、たとえば、1898年にアメリカがフィリピンで戦争したとき、
「殺せ、殺せ、もっと殺せ、そうしたら、もっと良い世の中が現れるだろう。」
「戦争は、その国家の線存競争として、優秀な者が生き残るテストの場所である」
とあります。こういう雰囲気だと、軍人でなくても、戦争に勝たないといけない。という気分になります。ダーウィンに罪がある訳ではありませんが、彼の理論は曲解され、国家側の「適者生存」と「生存競争」に勝ち抜くのが戦争だ、ということになって、結果的に見なひどい目にあったのが、第一次世界大戦なのです。
冷徹な第二次大戦の指導者
第一次大戦前のかわいらしい政治家の時代から様変わりして、四半世紀後、第二次大戦では権力意志の強い政治家が自ら戦争を指導しました。唯一の例外は日本です。チャーチル、ルーズベルト、スターリンはみな立派な政治家ですが、冷徹な打算で動いているようなタイプの人間です。
彼らは、戦争を軍人たちにまかせませんでした。その点で、第一次大戦のドイツのように、軍事作成が政治に優越してしまうことはなかった。
ルーズベルトなんて相当に人が悪い。日本が攻めてくるのを知っていながら、先に手を出させたようなところがあります。それくらい度胸が据わっていないと、世界戦争などできないのかもしれません。チャーチルも軍部を掌握するため、正しい戦略を主張してくる軍人のアドバイスには従うのですが、作成が成功したらあっさり首を切ります、そんなドライで冷淡な感覚が政治をやる上で必要ですが、お友達にはなりたくない。
第一次大戦と比較して、第二次大戦では防禦能力より、攻撃能力で決着がつきました。簡単に言うと、軍事力に優っていた方が力ずくで相手をねじ伏せたようなところがあります。しかしながら、第二次世界大戦が終わる頃から、それと矛盾するような動きもでてくる。たとえば、ルーズベルトは、政治家として軍事作戦を指導したにもかかわらず、ソ連に対して甘すぎるのです。ソ連がポーランドを支配下に置くのを認めてしまう。あるいは、無条件降伏を求めなければ、日独も態度を軟化したかもしれませんでしたが、最後までそれで押し通した。イギリスはバルカン半島から東ヨーロッパに攻め上がろうと提案しますが、ともかくドイツを負かす方が先だとそれを却下しました。その結果、冷戦期、東欧はソ連の影響下に置かれてしまいますが、このような非合理的な判断の事例をみると、ルーズベルトが、戦後どんな国際秩序を形作るべきか考えていたとは、思えないのです。
合理性を欠いていたのには、いくつかの理由があります。一つは大衆の時代に大戦争という妙なことをするためには、人々の頭を狂わさなければいけない。ビスマルクのように勢力均衡ばかりしていたら、誰も熱狂しません。「侵略的な黄色い猿は、叩き潰さなければいけない」というような、日本に対する人種的偏見に満ちたアメリカの宣伝を読み返すと、震えがきます。そんな奴らには、無条件降伏でも突きつけるしかないということなのでしょうが、これくらい激しい口調でないと、大衆社会の主役である国民は付いてこなかったのです。
このように、大衆社会においては戦争を合理的に指導することは不可能になりました。さらに、世界全体を相手にするので、どんなに冷静沈着な指導者でも作戦が立てられません。そして、極め付けが最後に現れた原子爆弾でした。これは人類がコントロールしようがない兵器が誕生したことを示しました。そこから遡ってみると、第一次世界大戦の政治家や軍人の誤りも、やむを得なかったと思わないわけでもない。軍事力が増大する中、政治家が弱気に、軍人が強気になったとしても、人間の過ちとしては十分ありうることではないでしょうか。
2023年12月21日木曜日
20231221 中央公論新社刊 高坂正堯著「海洋国家日本の構想」 pp.167-170より抜粋
ISBN-10 : 4121601017
ISBN-13 : 978-4121601018
たしかに、国際政治において発言力を持つためには国力を持つことが必要である。しかし、いまやその国力の内容が変りつつあるのだ。それは経済力と知的能力を中心としたものに変化しつつある。何故なら、この二つの能力こそ、世界の人々の基本的欲求を満たすものだからである。力とは結局、人間の基本的欲求を満たす能力なのだ。
軍事力もかつては人々の基本的欲求を満たす重要な手段であった。戦争はどこからともなく起ったから、それに対して安全を保障することはもっとも基本的な欲求であった。より重要でさえあることは、それは自己主張のためのもっとも有効な手段であった。しかし、軍事力が過度に発展した結果、軍事力のこの二つの機能は、きわめて疑わしいものとなってきたのである。
ただ、われわれは軍事力を抜き去った場合、国際関係をいかにして処理するかをまだ知っていない。われわれは他の力を推進力として外交をおこない、国家利益を守り、自己を主張する方法をまだ十分に発展させていないのだ。しかし、経済力が今後の二十年間において、人間の欲望を満たす基本的な手段である以上、力の核心がそちらの方向に移って行くことは、必然的ということができるであろう。
そしてこの場合、経済力の核心を構成するものは知的能力という言葉で総称されうるものであることが忘れられてはならない。何故なら、現在われわれが直面しつつある問題はこの知的能力にかかわる問題だからである。知的能力とは、たんに科学技術や基礎科学だけでなく、それを社会のなかで生かすために必要な社会工学を含む複合物であるが、それは現在二重の挑戦を受けているのだ。第一は先進国がすでに持っている知的能力をいかにして低開発諸国に伝えるかということであり、第二は、先進国自身が、高度工業国家に必要な新しい知的能力を発展させることである。現在先進工業国は、第三の産業革命と呼ばれるオートメーションの出現による変化の時代に入りつつあるのだ。
第一の問題、すなわち低開発諸国開発問題の核心が、いかにして知的能力という伝えがたいものを伝えるかにあるかということは、ようやく最近になって、理解されてきた。資本を投下し、工場を建てるだけでは低開発国の経済は少しも良くならない。しかし、知的能力を他人に押しつけることもできないのである。それはこの仕事にたずさわる人間の献身的態度と、根気のいる説得とを必要とする。ケネディが平和部隊を考えたのは、まさにこの点に注目したからであった。
第二の問題の重要性は、いまや先進工業国においてより明白に認められている。
この意味で、もっともしずかな事件であった英国労働党の勝利は、もっとも重要な意味を持っている。ウィルソンはイギリスが世界において次第に発言力を失いつつあることを指摘し、その理由を保守党の科学技術政策の失敗に求めた。保守党はイギリスの伝統的な大学制度にとらわれて科学技術教育をおろそかにしてきた。科学者は優遇されず、アメリカに流出している。ここにこそイギリスが世界政治のおいて発言力を失いつつある基本的な理由がある、とウィルソンは主張した。彼のこの発言がイギリス人の心を捉えたからこそ、労働党は保守党を破って政権を取ることができたのである。
実際、ウィルソンとケネディは、国民の知的能力を生かすことの重要性を認め、そしてその手がかりを知識人に求めたことにおいていちじるしい共通性を示している。ケネディは大学に集められた知的能力がいかに重要な点火剤となるかを知って、これを尊重した。彼は大学教授の協力を求めるとともに、平和部隊を創設した。それは先進国が受けつつある二重の試練に対するひとつの回答であった。ウィルソンはいま、同じ番組に取り組もうとしている。
この二重の挑戦に立ち向うことができたとき、そこには大きな変化が起るだろう。異なった国家が生まれ、異なった力が出現し、異なった国際関係が生れるだろう。われわれは今からその変化のすべてを知ることはできないが、この変化に対処するために要求されるのが知的能力であることは疑いない。
だから、日本の政治家に見られる知的な問題に対する関心の欠如は、実に由々しいことなのである。かれらは、これから起ろうとしている、知的能力を推進力とした変化に対処する用意を持っていないように思われる。われわれは経済復興と建設にめざましい成功を示した。しかし、つねに成功は失敗と同じくらいおそろしい。われわれはこれまでと同じ努力をくり返しておこなうことによって、より豊かな社会を作ることができると思いがちである。しかし、実は要求される努力の質が変化しつつあるのだ。われわれはこの新しい仕事に正面から取り組まなくてはならない。ひとつの時代が終り、新しい時代が始まらなくてはならないのだ。
2023年12月20日水曜日
20231219 2100記事に到達して
さて、これまで8年以上にわたり(どうにか)ブログ記事の作成を継続してきましたが、開始当初から現在に至るまでの投稿記事を眺めていますと、開始当初の頃に作成した記事については、やはり恥ずかしいものが少なからずあると云えます・・(苦笑)。
しかし同時に、そこから文章や文体などの変遷の過程もまた感覚的にではあれ、理解することが出来るとも云えます。とはいえ、この理解とは、あくまでも感覚的なものであり、いまだにそれを明晰にすべてを言語化することは困難と云えます。他方で、こうしたことも以前と比べますと、徐々に言語化あるいは表現することが出来るようにはなってきたとも思われますので、この先も今しばらく、具体的には2200記事までは継続するのが良いと考えます。
こうした振り返りから、書籍を読んだり、あるいは自らで文章を作成することの一つの大きな意味とは、自らが知覚したことを文字、文章を用いて表現出来るようになることであると考えます。
そしてまた、その表現は自らの経験や、学び読んだ文章が蓄積することにより徐々に変化して、また何らかの契機によって、精神にある種の相変態的な変化が生じ、その内容全体がそれまでとは異なった相へと至るのではないかと思われるのです。
具体例としては、思想家の持つ思想が生涯を通じて変化することは多々見られることですが、その背景には、おそらく先述の読み書きそして表現による精神の相変態的な変化があるのではないかと考えます。
こうした内面での相変態的な変化は、おそらく多くの方々に生じていると思われますが、同時に、そうした内面での有意な変化とは、さきの「読み書き」といった活動によってスムーズに生じ易くなるのではないかと考えます。また、これを詳説しますと、我々の多くは若い頃は感受性がまだ瑞々しいため、内面での相変態的な変化も生じ易いのでしょうが、ある程度の年齢になると思考や嗜好が固定化されてきて、内面での大きな変化は生じ難くなり、それが所謂「頭が固くなる」ということであると考えますが、これに対してさきの活動を継続していますと、この「頭が固くなる」程度を抑えることが出来るのではないかと思われるのです。
そして、ここで重要と思われることは、その「読み書き」を自然に能動的に自らの行為として行うことであると考えます。つまり無理やり、嫌々ながら同様の行動をしても、あまり効果は見込めないということです。
そこから、より多くの人々の内面に相変態的な変化が生じて、さらに、それらが反応し合ってイノベーションが生じるのであり、そしてその背景には、その社会全般での能動的な「読み書き」の文化があるものと考えます。
本日の記事投稿により、総投稿記事数が2100に達しました。以前に年内での到達目標を2100と述べていましたので、この記事により、その目標が達成されます。さる5月末に2000記事に到達し、その後7カ月(約210日)かけて100記事を新規投稿しましたが、2000記事到達前の投稿頻度と比較すると、鈍ったように感じられますが、これは2000記事到達後の休止期間が比較的長かったためです。私見としては、「まあ、妥当なところ」であったと考えます。
これまで8年以上にわたりブログ記事の作成を続けてきました。初期の記事を見ると、やはり恥ずかしいものがいくつかあります。しかし、同時に文章や文体の変遷も感覚的に理解できます。この理解は感覚的なものであり、まだ明確に言語化するのは難しいですが、以前と比べると徐々に表現できるようになってきたと感じます。今後も2200記事まで継続する予定です。
振り返ると、書籍を読んだり文章を作成することの大きな意味は、自らが経験したことを言葉や文章で表現できるようになることです。表現は経験や学びから変化し、何かの契機で精神的な変化が生じ、全体の内容が異なるものになる可能性があります。例えば、思想家の思想は生涯を通じて変化することがありますが、これには読み書きや表現による精神的な変化が影響していると考えます。
この内面での変化は多くの人に起こるものであり、特に「読み書き」などの活動があるとスムーズに生じやすいと思います。若い頃は感受性が豊かで変化しやすいですが、一定の年齢に達すると思考や嗜好が固定化され、大きな変化が難しくなります。しかし、「読み書き」を続けることで、この固定化を抑えることができると考えます。重要なのは、これを自然で能動的な行為として行うことです。無理に行っても効果は期待できないでしょう。
結局、多くの人々の内面で相変態的な変化が生じ、それが反応し合ってイノベーションが生まれる背景には、社会での能動的な「読み書き」の文化があるのではないかと思います。
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2023年12月18日月曜日
20231217 引用記事作成の継続から思ったこと
引用記事の題材は、以前にも述べましたが、まだしばらくはありますので、その中で、その日に相応しいと思われる記述を選択することが、ここ最近こだわってきたことであり、これを意識的にさらに継続しますと、これまでとは異なった新たな変化もまた、生じるのではないかとも思われます。
最近、引用記事の作成をしていて気が付いたことは、まず、引用記事の題材となる興味深い記述は大抵角折れ(犬耳)をしているのですが、その角折れが比較的多い著作を機会を見つけて、頁を開き少しずつカタログなどを閲覧するようにパラパラと斜め読みしていますと、不図「これはあの出来事に通じる何かがあるのでは?」とひらめき、それが自分なりにではあれ、いくらか評価出来るものであると、夜半にブログ記事とすべく、作成に用いるPC前に置いておくのですが、これが徐々に蓄積しているのが現状と云えます・・(苦笑)。ともあれ、それ故に題材は「まだしばらく」はあると云えるわけです・・。
当ブログ開設当初の時期は、自らの文章を作成することが困難であり、苦肉の策として、書籍からの引用記事を多く作成しましたが、それら引用記事で投稿したばかりの頃は、印象深いものの、その記述の何処が印象深いものであったのかは明瞭なものでなく、それを自分なりに明晰化して理解するために、引用記事にある語句をウィキペディアなどで検索してリンクさせたり、重要であると思われる記述のテキストの色を変えたりしてきましたが、現在になり振り返ってみますと、これらの行為はそれなりに意味があったようにも思われます。
そしてまた、そうした記事を数年後、特にエックス(当時はツイッター)にて連携することを続けていますと、大変面白いもので、その引用記事とした記述の内容が以前よりも、機に応じてスムーズに想起することが出来るようになり、あるいは、その記述内容がより抽象化(この場合、感覚としてはコンパクト化とも云えます。)されて、他の何かとの関連性などを看取し易くなったと云えます。
こうしたことは、文章作成能力の向上とは異なり、自身の感覚としてある程度判然と知覚出来る性質であることから、これまで8年以上、当ブログを継続してきたことは、今のところ自らの市場価値や経済的有用性を増したわけではありませんが、それなりに意味はあったのではないかと思われるのです。そしてまた、こうしたことを継続出来ることが、以前の投稿ブログにて述べました「自分が比較的得意なこと」につながるのではないかと思われますが、こちらにつきましては、また別の機会であらためて述べてみたいと思います。
*そして今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2023年12月17日日曜日
20231216 サイマル出版会刊 村上兵衛著「国家なき日本―戦争と平和の検証」pp.217-220より抜粋
ISBN-10 : 4377310712
ISBN-13 : 978-4377310719
日本海軍の中枢は、むろん陸軍のそれも、この十中十死の攻撃方法を、当然のことながら長くためらっていた。
そして航空戦の圧倒的な不利に焦燥を感じた大本営(陸軍省・参謀本部)の作戦中枢にあった人びとが、航空総監部を訪ね、「必殺体当たり戦法」の採用についての最初の諮問を行ったのは昭和十九年の春(三月二十四日)とされている。後宮淳航空総監をはじめ、お偉方は何も発言しなかった。末席にいた内藤進少佐は堪りかねて、戦果が挙がらないのは第一線がだらしないのではなく装備と用兵の問題、と激しく反対論を述べた。つづいて同期の石川泰知少佐が立ち「全然同意」と言った。会議は白け「この会議はなかったことにせよ。他言無用」で流れた、という。
しかし戦局はいっそう悪化し、サイパンが陥落するころ(昭和十九年七月)になると、大本営の中枢では「特攻戦法やむなし」は一般の空気となっていた。それをチェックしていたのは「天皇」であった。むろん天皇じしんの意見というのではなく、大元帥の名による必死必殺の戦法は、天皇の御威徳を汚す、というためらいであった。
しかし、そこが「官僚の智慧」というものだろう。特攻作戦は、天皇の裁可を得た「大陸令」あるいは参謀総長の指示「大陸指」よりも下のランクの「陸亜密」という、日常業務の通達のような形で出ている。「特殊任務人員」(資材)を第一線兵団に増加配属(装備)の件達」が唯一の根拠となった。
あの十中十死の特攻命令が、どこできめられ、いかに編成されたかーそれは特攻の生き残りを含めて、私たちが無限の痛恨を懐きつつ疑問としてきたところだが、つい最近になって私は、陸軍における以上の経緯を最近まとめられた「陸士五七期航空誌」によって知った。
航空士官学校における私たちの同期生は、同校の課程がようやく仕上り、さらに操縦学校や教導隊にいた昭和十九年秋から翌年春にかけて、特攻戦法の説明と志願の意志を問われている。そのアンケートは「①熱烈志願、②志願、③志願せず」の三段階だった、という。
個人的回想の中には「熱烈志願はしたくないが、さりとて志願せずも恥ずかしい。それで②とした」という記述もまじるが、右の記録の編集者の総括では、陸士出身者の場合は、多くが①であったろう、としている。関大尉が、海軍兵学校出身者の名において、上官の「相談」を断り切れなかったように、陸軍航空士官学校の名誉が、重く彼らを捉えたであろうということは、私にも容易に想像できる。そしてこの志願の「熱意」の厚簿と実際の「編成」の間には、まったく関連が見られない、という
一度そのタブーが破られると、日本軍のアメリカ艦隊に対する航空攻撃は、急速にカミカゼを主たるものに変化した。第一線の航空部隊でも、随時、特攻隊を編成、突入を命ずるようになった。そしてそれは沖縄に迫った米艦隊に対するものへと連なっていく。
たしかに日本軍のパイロットの一般的な伎倆はベテランのあいつぐ損耗によって(海軍ではマリアナ海戦における完敗以後)急速に落ちていた。いたずらに海上に撃墜されるより、未熟なパイロットたちに対しても、名誉ある死処を与えるーという「思想」が、大西中将の発想のなかに含まれていたともされる。
そして、たしかに特別攻撃隊の効果も現実にはなかったわけではない。レイテ沖に現れた最初のカミカゼの三機のうち二機は護衛空母サンティおよびスワニーの甲板に命中し(二時間後、火災は鎮火)、つづく五機のうち関大尉の一番機は、同じく護衛空母セント・ローに命中、大爆発とともに空母は二つに折れて沈没した。護衛空母カリニン・ベイにも二機が命中、しかし素早い消火活動によって沈没を免れている。
米軍によるレイテ上陸が行われて間もない十月三十日、大型空母ワスプで健康診断が行われた記録が残っているが、そのほとんど全員がカミカゼ・ノイローゼに陥り、三十名を除いて「過労のため休養を要す」と診断された、という。
明治以後において日本人の創りあげた「文化」として海外、とりわけ西洋社会に広まったものは、何ひとつなかった。禅、茶道、華道、浮世絵、柔道、その他もろもろの武道ーそれらはすべて江戸期以前の日本人が、歴史の中で創りあげてきた文化であった。とりわけ「倫理」に関する文化としては、岡倉天心の「茶の本」、新渡戸稲造の「武士道」を除いて、何があったと世界にむかって言えるだろうか。現代の日本人は、精神世界における「日本人らしさ」として、何を紡ぎ出しただろうか。
幸か不幸か、あの戦争中の日本人が、精神世界の出来事として世界を驚かせ、今日なお合理主義からくる一種の軽蔑と、そして同時に古代からの人間存在としてのある種の畏怖とをもって、彼らに語られているのは、カミカゼしかないのである。それは武士道ーサムライの末裔が、民族の興亡に遭遇し、あるいは遭遇したと信じて発揮した自己犠牲の極致であった(その「精神」が、ベトナム戦争におけるベトナムの人びとに伝わったことは、すでに触れた)。
2023年12月15日金曜日
20231215 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 宇野重規著「トクヴィル 平等と不平等の理論家」 pp.87-89より抜粋
pp.87-89より抜粋
ISBN-10 : 4065157110
ISBN-13 : 978-4065157114
このことを考えるにあたっては、トクヴィルのいう「個人主義」のもつ二面性に着目する必要があるのだろう。トクヴィルの考える個人は、自分の内なる世界においては至上の存在である。この個人は自分が他のいかなる個人とも同等の権利を持つと考え、他の誰にも自分に優る権威を認めず、そのことに強い誇りを持っている。ところが、この個人は、いったん自分を外から見つめるやいなや、まったくの無力に陥る。というのも、他の個人と同等であるということは、逆にいえば、他の人間と同等の存在でしかないということも意味するからである。個人は他の誰にも自分を優越する権利を認めないが、このことは同時に、自分が他の人間に優越すると主張するなんらの権利も持っていないことをも意味する。自分はその他大勢に過ぎない、か弱い存在である。このアンバランスこそが、平等社会における個人の自意識の最大の特徴となるのである。
そこで問題になるのが、すでに指摘した、権威の問題である。「デモクラシー」社会に生きる個人は、自分の周りの誰にも特別の知的権威を認めない。この個人はすべてを自分で判断したいと思う。しかしながら、トクヴィルに言わせれば、すべてを自分で一から考え直すことなど、人間には不可能である。人はすべてを疑うわけにはいかない。人は自覚的・無自覚的に、つねに一定の事柄を前提に、その権威に頼ってものを考えているからである。自らの哲学の出発点に懐疑を据えたデカルト自身は、このことを十分に承知していた。だからこそ彼は、すべてを懐疑するためにも、実社会生活においてはあえて一定の常識的事柄を懐疑の対象から除外したのである。それらの常識的事柄を確保することで、はじめてそれ以外のことについて会議することも可能になるというのが、彼の確信であった。
しかしながら、トクヴィルのいう平等社会の個人は、それほど自覚的ではない。彼らは無意識のうちに、何らかのものを権威として仰ぐようになる。それが、すでに触れた、自分の「同等者の総体」であった。一人ひとりの人間は特別な権威を持ちえない。しかしながら、自分と同等の個人が「巨大な全体」としてイメージされたとき、人はその権威に抗うことはできない。トクヴィルは、この「多数者の意見」こそが、平等化社会における最大の知的権威であるとした。「平等の時代には人々はみな同じだから、お互いに誰かを信用するということが決してない。だが、みな同じだからこそ、人々は公衆の判断にほとんど無限の信用をおくことになる。なぜなら、誰もが似たような知識水準である以上、真理が最大多数の側にないとは思えないからである」。トクヴィルは、このような多数者の圧倒的な知的影響力、およびそのことによる少数者への圧迫を指して「多数の暴政」と呼び、「デモクラシー」の社会における最大の問題の一つであると見なしたのである。
2023年12月14日木曜日
20231214 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学 増補版」pp.386‐388より抜粋
ISBN-10 : 4907188498
ISBN-13 : 978-4907188498
それでも最後にひとつ論点を示しておこう。スクリーンの時代から触視的平面の時代への移行にしたがい、人文系知識人のありかたは大きく変わるはずだと思われる。
第七章でも紹介したことだが、二〇世紀の学問では「同一化」が熱心に論じられた。ひとは、父(いまとなってはジェンダー的に問題があるが、なぜか当時は父の話ばかりがされていた)やその代理の人物に同一化して大人になるのであり、その過程で失敗するとさまざまな病が生じると考えられた。
そして奇妙なことに、精神分析が構想した人間の理論と映画批評の言説のあいだには構造的な類似性があった。精神分析の理論によれば、ひとは目のまえの父(見えるもの)に同一化するだけでは不十分で、その背後にある象徴的な価値(見えないもの)に同一化することになっていた。そのような二重化がうまく動かないと、ひとは成熟しない。同じように映画批評においても、観客はスクリーンに登場する俳優(見えるもの)に同一化するだけではなく、それぞれの場面を撮影する監督=カメラの視線(見えないもの)に注目しなければ、作品の価値は十分にわからないということになっていた。「見えるもの」を乗り越え、「見えないもの」に向かうことで、ひとははじめて大人になり、本当の知を手に入れることができる。二〇世紀の知識人は、そのような前提のもとで、ひとは目のまえの「見えるもの」にすぐ騙される、だから「見えないもの」について語ることで世の中をよくしようと行動してきた。そこではスクリーンというメディアの構造と同時代の人間観が深く共振している。
だとすれば逆に、スクリーンが触視的平面に置き換えられることで、そのような人間観も変わるだろう。それは政治や社会についての言説も変えるはずだ。具体的には、いま記したような「見えるもの」と「見えないもの」の対立に基づく行動原理、すなわち、ひとは「見えるもの」にすぐ騙される、だから「見えないもの」について語ろうという指針そのものの有効性が失われていくのではないか。
実際、そのような現象はいまやあちこちで観察されるように思われる。たとえば本書初版出版の数カ月まえ、アメリカではドナルド・トランプが大統領になった。トランプはポピュリストで、発言には性差別的で人種差別的なものが多く、政策も場当たり的で批判も多い。にもかかわらず彼は二〇一六年には勝利を収めたし、二〇二〇年の大統領選で敗北したあとも大きな影響力を持っている。
二〇一六年のトランプ旋風は専門家にとっても予想外の現象だった。リベラルの多くは当初、トランプの支持者はセレブで大金持ちという煌びやかなイメージ(見えるもの)に騙されているだけであり、支離滅裂な実態(見えないもの)を暴けば影響力も下がるだろうと考えた。けれどもそううまくはいかなかった。支持者の多くはいくら真実を示されても嘘のほうを信じ続けたし(フェイクニュース)、リベラルの執拗な批判は、逆に支持者たちの側に悪質な陰謀論の流行を引き起こすことになった。トランプは「にせもの」にすぎず、見えないところにこそ「ほんもの」があるという知識人のキャンペーンは、一方では「にせもの」でなにが悪いという開きなおりを引き出し、他方ではおれたちはおれたちの「ほんもの」があるのだという独自の世界観を生み出す結果にしかならなかったのである。
触視的平面の時代においては、ひとは「にせもの」の彼方に「ほんもの」があるはずだと考えない。現代は、「にせもの」が「にせもの」として触られ、操作され、加工され、多くのひとがその操作そのものに快楽を覚える時代であり、また「にせもの」を触っているだけでもいつか「ほんもの」に届くはずだと信じられる時代なのだ。すべてが見え、触ることができるはずの時代においては、見えないものについて語る人々はむしろ信頼を失う。そんな時代に知識人がなにを行動原理にすべきなのか、なかなか悩ましい問題だ。
2023年12月12日火曜日
20231214 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
ISBN-10 : 4121601610
ISBN-13 : 978-4121601612
合衆国において宗教が政治に及ぼす直接の作用については、いま(前節で)述べたばかりである。その間接の作用のほうがはるかに強力なように見える。宗教が自由について語らないときこそ、アメリカの人々に自由である術を最もよく教えるのである。
合衆国には数えきれないほど宗派がある。そのすべてが人間連帯の義務については一致している。各宗派は、それぞれの仕方で神を崇めるが、すべての宗派が神のみ名において同一の道徳を説く。個人としての人間に、各自の宗教が真実であるということは意義が大きいとしても、社会にとっては問題にならない。社会は来世を恐れもしなければ、来世に望みもかけない。社会にとって最も重要なのは、すべての構成員が真の宗教を奉ずることではなく、一つの宗教をもてはよいのである。そして、合衆国のすべての宗派はキリスト教という大きな単一体に属し、キリスト教の道徳はどこでも同じである。
アメリカの人々の中には、確信に従うというより、慣習によって神を崇める人が相当あると考えてよい。さらに合衆国では主導者(人民)が宗教的であり、その結果、一般に宗教的であるふりをせざるをえない。しかしアメリカはいまなお、世界中でキリスト教が人間の魂を動かす力を最も強く保っているところである。また、それが人間にいかに有益であり自然であるかを最もよく示している。今日、その力が人間に最も強く及んでいる国は、最も開明的であるとともに、最も自由であるからである。
すでに述べたことであるが、アメリカの聖職者は市民的自由(の原理)に対して一般に賛成である。信教の自由を断じて認めない人々さえ例外でなない。しかし、特定の政治体制を支持することはない。聖職者は現実の問題に巻きこまれないように注意し、政党政派に介入しない。合衆国において、宗教が立法にも政治的な意見の細部にも影響を及ぼすとはいえないが、習俗を指導するのである。家庭を規制することによって、国家の規制にはたらく。
合衆国に見られる習俗の厳正さは、信仰に第一の源をもっている。これを私は瞬時も疑わない。ここでも、富がさし出す無数の誘惑から男性を守るのに、宗教はしばしば無力である。男の、金持になりたいという熱望をすべてが刺激する。これらを和らげることは宗教にできまい。しかし、女性の魂にとって宗教は至上の権威をもっている。そして、習俗をつくるのは女なのである。まさしくアメリカは、婚姻の絆が世界で最も尊重される国であり、結婚の幸福について最も高く正しい観念が保たれている国である。
ヨーロッパでは、社会のすべての混乱は家庭と夫婦関係とをめぐって生じる。男性が自然の絆と正統な楽しみを軽視し、秩序の乱れに味をしめ、心が落ち着かず、欲望にも不安定を来すのは、ここにおいてである。自分の住居にしばしば紛糾があり、その激情に動かされるので、ヨーロッパの人々は国家の立法権に服するのが難儀になる。アメリカ人は政治の喧騒から離れて家庭に帰ると、秩序と平和との姿に接する。家庭では、すべての楽しみが簡素、自然であり、喜びには罪がなく、穏やかである。規則正しい生活によって幸福がもたらされるので、意見も趣味も(正常に)抑えておく習性ができやすい。ヨーロッパの人が社会を騒がせて家庭の悩みから逃れようとするのに対し、アメリカ人は家庭から秩序への愛を汲みとり、次いでそれを国事にもたらす。
20231212 中央公論新社刊 藤野裕子著 「民衆暴力」― 一揆・暴動・虐殺の日本近代 pp.24‐26より抜粋
ISBN-13 : 978-4121026057
興味深いのは、村の遊び日を研究した古川も、通俗道徳を論じた安丸も、遊興に流れる民衆の解放願望が、幕末のええじゃないかや世直し一揆につながると言及している点である。
ええじゃないかは、幕末期に東海地方から近畿地方にかけて幅広く見られた、民衆が乱舞する現象である。暴力的な一揆が起らなかったとされる畿内でも、この現象が起きている点は興味深い。日本近世史家の西垣晴次は、ええじゃないかの共通点を次のようにまとめている(「ええじゃないか」)。
ええじゃないかが始まるきっかけは、神社のお札が降ってきたことによる。降ってきたお札が祀られ、その後数日間にわたって祝宴が開かれるようになる。その宴から、ええじゃないかと歌いながら多くの人が踊り始めた。
つまり、お札という異世界の要素が生活世界に持ち込まれたことをきっかけに、熱狂的な乱舞が始まったのである。歌は地域によってさまざまであるが、次のようなものもあった(同前)。
御陰でヨイジャナイカ 何ンデモ ヨイジャナイカ ヨイジャナイカ ヨイジャナイカ おまこ紙張れ へげたら又はれ ヨイジャナイカ
このように、ええじゃないかでは性的な要素を含んだ歌が歌われた。女性は男装し、男性は女装するといった異性装も見られた。乱舞するなかで、人びとは勢いにまかせて、豪農の家へと押し寄せて、酒肴を強要することもあった。また、年貢の減免を要求したケースもあった(安丸「日本の近代化と民衆思想」)。
ええじゃないかとは、現実とは異なる幻想的な世界を求める、世直し的な要素を持った踊りであり、集団的な熱狂の力を借りて、人びとは日常では不可能な要求を行ったのである。
古川は、村の遊び日や若者組の祭礼行動の「極限的な到達点」が、一八六七年(慶応元)のええじゃないかであると述べている。願い遊び日のうち、かなりの部分が、ええじゃないかであったともいう。
幕末特有の社会不安、すなわち、この世がユートピア的な世界になるか、あるいはたたりのような災厄が訪れるのかわからない不安が、ええじゃないかという現象の根底にあった。そして、同様の衝動や願望が、世直し一揆における打ちこわしというかたちでの爆発的な暴力行使にもつながったのだと安丸はいう。
20231213 株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会 pp.35-38より抜粋
ISBN-10 : 4061495755
ISBN-13 : 978-4061495753
この欲望のメカニズムは理解しやすい。日本の文化的な伝統は、明治維新と敗戦で二度断ち切られている。加えて戦後は、明治維新から敗戦までの記憶は政治的に大きな抑圧を受けている。したがって、八〇年代のナルシスティックな日本が、もし敗戦を忘れ、アメリカの影響を忘れようとするのならば、江戸時代のイメージにまで戻るのがもっともたやすい。大塚や岡田のオタク論に限らず、江戸時代がじつはポストモダンを先取りしていたというような議論が頻出する背景には、そのような集団心理が存在する。
したがってそこで見出された「江戸」もまた、現実の江戸ではなく、アメリカの影響から抜け出そうとして作り出された一種の虚構であることが多い。「セイバーJ」が描くジャポネスは、まさに、そのようなポストモダニスト=オタクたちの江戸的な想像力のいかがわしさを体現している(図2)。超近代的な科学技術と前近代的な生活習慣を混ぜ合わせて設定されたその光景は、まったくリアリティを欠いている。TVアニメという性格上、登場人物は強いデフォルメでデザインされ、過剰に非現実的な感情表現をする。ジャポネス城は変形してロボットになるし、マリオネットたちの衣装もまた和服に似せてはいるものの、セクシュアル・アピールを強調するため随所に変形が加えられた結果、まるでイメクラのコスチュームのようになっている。低予算で作られたアニメのせいか、映像的にもセルの使い回しが多く、主人公以外の男性たちは、数人を除きほとんど描き分けられることがない。おまけに物語の多くはドタバタコメディであり、シリアスな設定と齟齬を起こしている。物語的にも映像的にも、ここにはいかなる深さもなく、いかなる一貫性もない。しかしそれはある意味で、オタク的な疑似日本の戯画であり、また、現代日本の文化状況の戯画でもある。制作者たちがそのようなメッセージを自覚的に込めたとは思わないが、筆者は以上の点で、「セイバーJ」は、オタク系文化の特徴をきれいに反映した隠れた佳作だと考えている。
オタク系文化の重要性
ここまでの議論でも明らかなように、オタク系文化についての検討は、この国では決して単なるサブカルチャーの記述には止まらない。そこにはじつは、日本の戦後処理の、アメリカからの文化的侵略の、近代化とポストモダンの問題とも深く関係している。たとえば、冷戦崩壊後のこの一二年間、小林よしのりや福田和也から鳥肌実にいたるまで、日本の右翼的言説は一般にサブカルチャー化しフェイク化しオタク化することで生き残ってきたとも言える。
したがって彼らが支持されてきた理由は、サブカルチャーの歴史を理解せず、主張だけを追っていたのでは決して捉えることができない。筆者はこの問題にも強い関心を抱いており、いつか機会があれば主観的に論じてみたいと考えている。
2023年12月11日月曜日
20231211 株式会社幻冬舎刊 野口悠紀雄著「2040年の日本」 pp.140-145より抜粋
pp.140-145より抜粋
ISBN-10 : 4344986830
ISBN-13 : 978-4344986831
未来の医療技術の第一の柱は、ナノマシーンだ。これは、10万分の1メートル程度の大きさの機械である(これは細菌や細胞よりもひとまわり小さいウィルスのサイズである。なお、「ナノ」とは10のマイナス9乗を意味する言葉)。
これにより、血液の状態、ウィルスやHIVやガン細胞を検知する。そして、周囲には影響を与えずに、それらを殺したり、血栓を除去したりする。こうして、外科手術なしに治療が可能になる。また、目や耳の神経を入れ替えることも可能になる。
「細胞療法」で皮膚、骨、臓器を再生
未来の医療技術の第二の柱は、PSC(Pluripotent Stem Cell:多能性幹細胞)を用いる「細胞療法」だ。これが2030年頃から、一般の患者でも利用可能になると予測されている。
再生医療は、肝細胞薬を使うことで、疾患治療における新たな革命になっている。幹細胞薬とは、特定の疾患の薬として使用される生きた幹細胞ベースの製品だ。
幹細胞技術を使用すると、欠陥のある細胞や損傷・病気によって失われた細胞を置き換えるためのヒト細胞を提供することができる。つまり「細胞療法」であり、皮膚、骨、臓器などの身体の失われた部分を再生するのだ。
再生医療は、慢性肝疾患、糖尿病、神経変性疾患の治療などに活用できる。パーキンソン病、アルツハイマー病、虚血性脳障害、脊髄損傷、心不全、腎不全、糖尿病、黄斑変性症など、多くの病変の治療に応用できると期待されている。これが、従来の組織療法(tissue therapies)に取って代る。
前記の文献は、バイオプリンティング(bioprinting)が利用できるようになる夢のような未来の治療法を描いている。バイオプリンティングとは、人体の組織や臓器を製造することだ。
生きた細胞や生の生体材料を用い、コンピュータ支援の3次元プリンティング技術を利用することによって、複雑な3次元構造を製造ずるのだ。
こうなると人々は、病院に行ってDNAサンプル(口腔粘膜細胞から抽出できるのだろう)を示すだけでよい。そして、即座に、その人の遺伝子に合った細胞を入手できるようになる。これは、その人が必要とする用途に使える。例えば、腎臓、皮膚移植などだ。
「ゲノム編集」でアルツハイマー病に対処
未来の医療技術の第三の柱は、「ゲノム編集」(Gene editing)だ。
2012年に重要な発見がなされた。それまでの「遺伝子組み換え」ではなく、遺伝子を「編集する」という新しい技術が開発されたのだ。
これによって、ゲノム編集が可能となった。これは、生物が持つゲノムDNA上の特定の塩基配列を狙って変化させる技術だ(「ゲノム:genome」とは、生物の持つ遺伝子geneの全体。これはDNAという物質で構成されている)。ゲノム編集技術の基礎研究を行った科学者2人は、2020年にノーベル化学賞を受賞した。
「遺伝子組み換え」とは、別の生物から取り出した遺伝子を導入することにより、細胞に新たな形質をつけ加える技術だった。
それに対して、「ゲノム編集」では、遺伝子を切ったりつなげたりする。狙った性質の遺伝子だけを編集することができるため、優れた特徴を持つ品種に新たな性質をピンポイントで追加できるようになった。
「遺伝子組み換え」では、外来の遺伝子を細胞に導入して新しい軽質をつけ加えるのだが、「ゲノム編集」では、細胞が元々持っている性質を細胞内部で変化させる。今後数十年の間に、この技術を用いたさまざまな医療の開発が期待されている。
遺伝性心疾患を、根本的に遺伝子から治すための遺伝子治療法への応用がある。血液ガンを対象とした「CAR-T療法(T細胞療法)」という治療法が、日本でも保険適応となった。白血病をはじめとする各種ガンの新規治療法にも期待が高まっている。
ゲノム編集を用いた治験は、アメリカた中国で多数行われている。いくつかの遺伝性疾患に対して治験も始まっている。そのほとんどが、ガンや感染症に対するものだ。
今後は、視力や聴力を失った人、アルツハイマー病、パーキンソン病の治療も可能になるのではないかと期待されている。
AIの活用で病変の見落としを防ぐ
未来の医療技術の第四の柱は、医療分野でのAIの利用だ。
医療の現場にはCTスキャン画像、MRI(磁気共鳴画像装置)画像、レントゲン画像などさまざまな画像がある。ところが、検査数に対して、読影医が不足している。したがって、AIに期待されるところが大きい。AIの画像認識が用いられるようになれば、素早く、低コストで診断できる。
また、医師によって読影判定にバラツキが起こることもあって、正しい判断がされていない可能性もある。AIによる自動診断は医師の負担を減らし、病変の見落としも防げる。
正常な状態との差異を判別できる画像認識技術によって、病気を判別できる。とりわけ、ガンの発見に威力を発揮する。ビッグデータを扱ったAI利用は、医師の目や耳、脳の能力を拡張できるとされる。
20231210 株式会社新潮社刊 新潮選書 鶴岡路人著「欧州戦争としてのウクライナ侵攻」pp.226‐229より抜粋
ISBN-10 : 4106038951
ISBN-13 : 978-4106038952
2023年12月9日土曜日
20231209 一般財団法人 東京大学出版会 辻惟雄著「日本美術の歴史」補訂版 PP.142-144より抜粋
ISBN-10 : 4130820915
ISBN-13 : 978-4130820912
さらに永保元年(1081)には、高さ推定二七丈(80メートル)ある奇抜な八角九重塔が建てられた。かつての四天王寺式伽藍配置さながらに諸堂が一直線に並んだこの寺を、林屋辰三郎は「国家的な強大な意識」に基づくものであったとし
三十三間堂、足利義満の相国寺の大塔、織田信長の安土城など、権力の生み出す奇抜な建造物の系譜の上に法勝寺を置く。白河院はほかにも尊勝寺、最勝寺、円勝寺などを造営し、一代での造像は五四七〇余体、うち丈六仏は六〇〇以上あったと記録される。
後白河院もまた仏法に熱心だった。往復に一カ月かかる熊野詣でを生涯に三四度行ったという。当時の流行歌である今様に凝って、それを集めた「梁塵秘抄」(一一六九)をつくっている。好奇心のかたまりである院は、ある日突然町中の蒔絵師の仕事場を見に行き周囲を当惑させたり、平清盛に招かれ福原まで宋人えお見に行ったりしている。三十三間堂の前身である蓮華王院の宝蔵は、院の集めたさまざななコレクションを収める建物で、そこは、年中行事絵巻約六〇巻、六道絵など絵巻の宝庫でもあった。
これら、個性的で奔放な院の行状は象徴するように、院政時代の文化は、古代の幕を引き中世の開始を告げる過渡期にふさわしい変化に富んだ様相を示している。それは第一に、鴨長明(一一五五~一二一六)の「方丈記」に要約されているような、末世到来を嘆く隠遁思想の流行する時代であった。第二に、受領大江匡房が、「永長の大田楽」(一〇九六)の仮装を見て、「その装束、美を尽くし善を尽くし、彫るが如く磨くが如し、金繍を以て衣となし、金銀をもって飾となす」と評したように、遊戯とかざりの時代であった。第三に、美の時代であり、美形を追究した時代であった。仏の相好には美形が求められ、検非違使の資格にも美形が求められた。美麗の反対が疎荒である。第四に、激動する過渡期の現実に揺れ動く不安の心は六道絵に代表されるような、美とうらはらの醜への関心=リアリズムを生んだ。
「財産の惜しみない濫費、行楽と寺院の濫立」、「古代国家の歴史にその比をみない悪徳と腐敗が支配層を風靡するにいたった」と、石母田正はこの時代を評する。だが、そのような道徳的な視点を離れて美術に主眼を置けば、美への傾倒の一方で、病や餓鬼、地獄のいうな醜とグロテスクの世界からも目をそむけることのなかった院生時代の文化と美術は、奥行きがあり、稀に見る多産で創造性に富んだものということができる。
全体的にみて、院政時代の美は、前期と後期とで多少性格を異にしている。前記は藤原美術をより繊細化し耽美化したといえるような時期であり、「源氏物語絵巻」、「平家納経」、「三十六人家集」などがこの時期の産物である。後期になると、これと異なる粗削りな要素を持った「信貴山縁起絵巻」、「伴大納言絵巻」などがあらわれ、運慶もこの中に入れてよいかもしれない。後白河院の行状に見られるような、異常なもの奇矯なものへの興味が「六道絵」や「病草紙」に見られ、民衆的なものへの興味もそこに示されている。絵仏師の宮廷画家化により、その表現力が宮廷美術に影響を与えた点も指摘できる。宋美術の輸入にともなう影響があらわれ始めたのもこの時期である。
2023年12月8日金曜日
20231207 日本放送出版協会刊 山折哲雄著「日本人の顔ー図像から文化を読む」pp.106-108より抜粋
ISBN-13 : 978-4140015018
ところで、さきの義朝や重成が登場する「平治物語」は「保元物語」と同様、早くから琵琶法師によって語られたが、そのうちとくに「平治物語」の場合は「平治物語絵巻」がのこされ、鎌倉時代の姿をそのまま伝えている。画風は十三世紀半ばにさかのぼるといわれ、かなりの数のものが各所に分散して伝えられてきた。これらの絵巻は、合戦場面における人間の姿を躍動するような筆致で活写し、軽快なリズムと華麗な色彩によって戦闘の悲惨な修羅場を描き切っている。それは戦争描写の傑作の一つといっていいものであるが、そのいくつかの合戦場面をみていて気づかされるのは、武士たちの頭頂部や顔の圧倒的な量感と、かれらの変化に富む表情のたくましさである。眼光の鋭さはもとよりのこと、大きな口許が決死の勢いで真一文字にひきしめられ、また裂けんばかりに大きく咆哮している。
が、そのなかでもとくに私の目を奪うのは、その鼻の表現である。ここでは、六波羅の邸から出陣する平清盛を描いた場面(個人蔵)をみてみよう。とくにその清盛と、かれらを取り囲む武将たちの顔面の中央に描かれている鼻の躍動感はどうであろう。高く盛りあがった鼻、口許まで垂れ下がるような長いずんぐりした鼻、両翼を広げて大きな鼻孔をつけた鼻・・。ここに描かれている武将たちの鼻は、あえて誇張したいい方をすれば、その顔の中央部を広々と占拠し、顔そのものの象徴物と化しているような印象を見るものに与えずにおかないのである。そのような鼻は、前代までの貴族たちの顔のうえにはけっしてあらわれることのなかった鼻である。
そのことを確かめるために、ここで「平治物語絵巻」からもう一枚の絵を掲げてみることにしよう。「六波羅行幸の巻」(国宝、東京国立博物館蔵)がそれであるが、これは女装して御所を脱出する二条天皇と、それを源氏の兵士たちが見とがめている場面である。牛車のスダレをあげてのぞきこんでいる兵士たち。その兵士たちを制止して、車のなかにいるものはけっして怪しい者ではないといっているらしくみえる一人の貴族。かれはおそらく天皇の近侍をつとめる者なのであろう。その貴族にたいして疑いのまなざしを向け、いまや剣を抜こうとしている兵士、そしてもう一人弓をつがえようとしている兵士がいる。この切迫した一瞬の場面に目を近づけてみよう。あい対する貴族と雑兵の顔の顔の中央部を注視してみよう。剣を抜こうとしている兵士の鼻が高く鋭く突き出るように描かれ、弓矢をもつもののそれが団子鼻の形で盛りあがってみえるのにたいして、貴族の鼻はうっすらと軽いタッチで小さく描かれているにすぎない。貴族の方の表情のつくりが、いわゆる「源氏物語絵巻」の登場人物にならって「引目鉤鼻」の手法をうけつぐ形で処理されていることはいうまでもないだろう。その様式的な鉤鼻が、雑兵たちの鼻の個性的な変化とみごとな対照をみせているのである。貴族の白面が全体としてもうろうとした雰囲気のなかで、あたかもあるかなきかの目鼻立ちで点じられているのにたいして、雑兵の褐色の顔面はすべて、意志と感情をむき出しにするくっきりした輪郭線によってとらえられている。そしてその輪郭線に一つのまとまりを与えている部分がその巨大な鼻なのである。このような傾向は、このほかの合戦絵巻にもみられ、そこに登場する武士たちの場合にも大なり小なりあてはまることはいうまでもない。
あえて極端ないい方をするならば、中世に新興の勢力として時代の前面に押し出してきた武士集団は、その顔面の中央部を占める鼻の大胆な造型において、前代の貴族の時代から明確に区別される存在として意味づけられねばならぬ、と私は思う。むろん多くの合戦絵巻に登場する武士たちの姿といえども、前代の貴族たちのそれのように、いまだ様式的な表現世界から脱けでてはいなかった。そこには、近代的な意味における写実の枠組からだけでは律しきれない法則がはたらいてもいる。しかしながら、そのことを認めたうえでのことであるが、それでもない貴族たちの鼻の描法と武士たちのそれとのあいだには、越えがたい大きな溝がつくられていたというほかないのである。貴族と武士についての認識の尺度に重要な径庭が存しているのである。
2023年12月7日木曜日
20231206 株式会社藤原書店 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」pp.303-305より抜粋
ISBN-13 : 978-4894349063
竹山道雄は一九三七(昭和十二)年七月「思想」のために「将軍達と「理性の詭計」という一文を寄稿した。日支事変勃発の直前である。その中にこんな軍人たちの生な印象が記されている。「以前」とは昭和九年三月、岡田良平の葬儀の時にちがいない。
以前A将軍をすぐ傍で見たことがあった。将軍は威厳が頂上にあって、市中いたるところに彼の肖像が貼り出してある頃だった。青山斎場の天幕の中に、現在は外地の総督であるM大将と並んで入って来た。このM将軍は顔に酒焼けの桃色の斑がしみ出していて肥満した身体をもてあますように、一歩一歩よろけながら歩いていた。いかつく張りだした肩の太い喉に頤を埋めて、苦しそうに喘いでいた。どこか威厳と狡智がでたらめに溢れでている人だった。A将軍の方は反対に痩せていた。小さな目が三角に垂れ下がった目蓋の下からぎらぎら光っていた。条目のきちんとした清潔な服を着て、あたりを見廻しながら悠々と歩いていた。この二人が軍服に金色を燦かして入って来たときは、周囲は動揺した。礼服を着た人々は傍にしりぞいた。二人の将軍は大勢の中にできた空地に立って、四方から視線を浴びながら、二人丈で低い声で話していた。
ことにA将軍の方は一見して異常な印象をあたえる人だった。躯幹は見窄らしい方で、長いあいだ病床にいた人のような蒼白い顔色をしていた。有名な髭はむしろ疎だった。ただその筋ばった身体全体に、どことなく病的なデーモニッシュな、鬼気といったようなものがあった。
一人の外交官らしい背の高い西洋人がA将軍の前に立って挨拶した。彼の栄養のいい顔にはみちたりて生活を楽しむ人のような表情があった。将軍は白い手袋をはめた手をさしだして握手した。すこしも感情も交らない直線的な挙止だったが、また意外にものなれた外交的なところもあった。かたく手を握られると、西洋人はなぜか急にどぎまぎした。彼が私の前を通ったとき、美しい顔には恟えたような困惑の色が浮かんでいた。彼は弁解するように口の中で呟きながら、足早にそこを去って行った。
将軍は私がじっと見つめているのに気がついて、はじめてちらと横目で私の方を見たが、そのうち色の変った歯並をあらわにしてにやりと笑った、皺の多い微笑はほとんど醜かった。そうして、その中に真率、狂信、奸譎、決意、そんなものの混った複雑な感じがあった。
一読してA将軍が荒木貞夫陸軍大将であるとわかる。荒木は一九三一(昭和六)年、犬養内閣の陸相に就任、観念的・精神主義的な革新論と反ソ反共論を説いて人気があった。皇道派の首領として勢威をふるった。一九三六(昭和十一)年、二・二六事件で反乱軍に同情的態度をとり、予備役に編入されたが、竹山は執筆の昭和十二年の時点で三年前の荒木を振返り、その肖像(ポルトレ)を描いたのである。三十歳前後の竹山の観察だが、鋭く大胆な人間把握である。「現在は外地の総督であるM大将」が南次郎将軍であることも一読してそれとわかるが、二・二六事件後、予備役に編入された。陸軍大将ともあろう人が肥満して「一歩一歩よろけながら歩いていた。いかつく張りだした肩の太い喉に頤を埋めて、苦しそうに喘いでいた」と外面描写されたら、それがありのままの姿であろうとも、こう描かれては軍人の体面にかかわるだろう。まして「どこか威力と狡智がでたらめに溢れでている」という内面描写にいたっては「でたらめ」の語が効き過ぎている。しかもこの文章は昭和十一年、代々木原の横を歩いていた竹山に誰かが小声で「あのバラックの中に・・・入れられているのですぜ」と囁く場面から始まる。代々木原とはいまNHKがある辺りの原っぱで当時は軍の練兵場として使用されており、代々木八幡から原宿に通じる道はなく、一般人は入れもせず通り抜けできなかった。竹山は代々木大山の家から渋谷へ歩いて行くときは、この代々木原の練兵場の裏手に沿って歩いたのだろう。その柵の向うの丘のバラックに二・二六事件の首謀者が収容され死刑を待っていたのである。
将軍達と「理性の詭計」
竹山は荒木について「悲劇的な最後をしそうな人だなあ」と思った。「破壊的なエレメンタルな力を蔵した一つの観物だ」そんな気がして眺めていた。「この人は、満州で事変が起ってしかも世の中が自由主義で唯物的だった頃、一方の勢力の輿望を負って九州から上京して、陸軍大臣になった。そうして歴史の動きを変えるほどの権勢を振るった。しかしその後に、彼自身のまきおこしたーあるいは彼を動かしたー力のゆきすぎた行動のために失脚した」。個々の人間、個々の勢力は、かれらの特殊目的を果たそうと努めるが、実はかれらのあずかりしらざる超個人的な力の手段であり、道具であるにすぎぬ。これをヘーゲルと共に「理性の詭計」というが、竹山は皇道派の将軍のペリペティ(筋の逆転)を「理性の詭計」だと観察した。
2023年12月6日水曜日
20231205 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳『オーウェル評論集』pp.321-323より抜粋
ISBN-10 : 4003226216
ISBN-13 : 978-4003226216
現実逃避 ナショナリストはすべて、そっくりの事実をいくつ見ても、それら相互の類似性を認めないという特技を持っている。英国の保守党員は、ヨーロッパでの民族自決主義なら擁護するくせに、インドのそれに反対して、これを矛盾だとは思わない。行為の善悪を判定する基準はその行為自体の功罪ではなく、誰がやったかという点であって、拷問、人質、強制労働、強制的集団移住、裁判なしの投獄、文書偽造、暗殺、非戦闘員にたいする無差別爆撃ーこうしたいかなる無法きわまる行為でも、それをやったのが「味方」だとなれば、まずたいていのばあいは道徳的な意味が微妙に変わってしまうのだ。自由党系の「ニューズ・クロニクル」が、恐るべき残虐行為だとして、ドイツ人によって絞首刑にされたロシア人の写真を掲載したことがあったが、その一、二年後にこれとほとんど同じ、ロシア人の手で絞首刑にされたドイツ人の写真を掲載したときには、熱烈に称賛したのだった。歴史上の事件についても同じである。歴史は、多分にナショナリスチックな観点から見られているのだ。異端審問所とか、星法院(一四八七-六一の、英国の高等裁判所、陪審がなかった)による拷問とか、英国の海賊の手柄(例えばサー・フランシス・ドレイクは、スペイン人の捕虜を生きているまま海中に投じたと言われる)とか、フランス革命における恐怖時代だとか、何百人というインド人を大砲につめてぶっ放した、ベンガルの反乱(1857-58)鎮圧の英雄たちとか、アイルランドの女たちの顔を剃刀で切ったクロムウェルの兵士たちとかーこんなことも、「正義」のためだったということにさえなってしまう。過去二十五年をふりかえってみると、世界のどこかで残虐行為の行われた報道がなかった日は、ほとんど一日もない。ところがスペインで、ソヴィエトで、中国で、ハンガリーで、メキシコで、インドのアムリツァールで、トルコのスミルナで行われた残虐行為のうち、一つでも英国の知識人が一致してその事実を認め、かつ非難した事件はなかったのである。こういう行為が非難すべきものかどうか、それどころかそもそもそれが事実だったのかどうかということさえ、いつも政治的偏向にもとづいて制定されたのであった。
*〔原注〕『ニューズ・クロニクル』誌は、処刑の全貌がクローズアップで見られるニュース映画を見に行くことを読者にすすめた。『スター』紙は対独協力者の女性が全裸にちかい姿でパリの暴徒にいじめられている写真を、まるでこの行為を称賛しているかのように掲載した。これらの写真は、ナチスが発表した、ベルリンの暴徒にいじめられているユダヤ人の写真と酷似していた。
ナショナリストは、味方の残虐行為となると非難しないだけではなく、耳にも入らないというすばらしい才能を持っている。英国におけるヒットラー崇拝者たちは、六年ものあいだ、ダッハウやブッヘンヴァルトの存在に耳をふさいできた。そしてドイツの強制収容所をもっとも声高に弾劾いた人びとのほうは、ソヴィエトにも強制収容所があることはぜんぜん知らないか、知っていてもごくぼんやりした知識しかないことが珍しくないのだ、何百万という餓死者が出た一九三三年のウクライナの飢饉のような大事件でさえ、驚いたことに英国のソヴィエトびいきたちは、大部分が気づかなかったのである。こんどの大戦中におこなわれたドイツ、ポーランドのユダヤ人の絶滅策について、ほとんど何も聞いていない英国人はいくらでもいる。彼ら自身にユダヤ人差別意識があるからこそ、この大犯罪も意識にひっかからなかったのだ。ナショナリストの考え方の中には、真実なのに嘘、知っているのに知らないことになっているという事実が、いろいろある。知っている事実でも、認めるのに耐えられないというので脇へ押しのけられたまま、意識的に論理的思考から外されてしまうことがあるかと思えば、綿密に検討されたにもかかわらず、自分一人の心の中でさえ、事実であることをぜったいに認めないといったことが起こるのだ。
2023年12月5日火曜日
20231204 朝日新聞出版刊 朝日新書 東浩紀著「訂正する力」 pp.116-118より抜粋
ISBN-13 : 978-4022952387
もう少し学問的に表現するならば、自然科学と人文学の違いは反証可能性と訂正可能性の違いだということができます。
反証可能性というのは、カール・ポパーという哲学者によって100年ほどまえに提唱された概念です。これはとてもおもしろい理論で、ひとことで言うと、自然科学においては絶対に正しい理論などありえないという考えかたです。
自然科学の理論は具体的な予測を伴います。素朴な例で言えば、ある重さのものをある速度である角度で投げると何メートル飛ぶとか、そういうものです。予測があたれば、理論は正しいということになります。
けれども、一回のテストがうまくいっても、条件を変えた別のテストがうまくいくとはかぎりません。いつかまちがいが証明されるかもしれない。だから、自然科学の理論はつねに「反証される可能性」に晒されていて、どんな理論でも厳密には「反証がなされるまでは暫定的に正しい」と言うことしかできない。これが反証可能性の考えかたです。
ちなみにポパーは、ある命題が科学的なものかどうかは、むしろそのような「反証される可能性」の有無で決まると考えていました。この世界には、個別のテストが不可能で、したがって反証も不可能な命題がありますが、それらは科学の範囲に入らない。たとえば「神はいる」といった命題は、正しいかもしれないし誤っているかもしれないけれど、そもそもテストができず、したがって反証もできないので、真偽以前に科学的な主張だと考えることもできない。ポパーはそのような基準で、科学と非化学を分けたわけです。
この反証可能性の考えかたは、本書のテーマである訂正可能性と似たところがありつつ、大事なところえ大きく違います。
自然科学の世界では、いちど反証された理論は打ち捨てられてしまいます。だから学生が学ぶときには最新の教科書だけが必要で、過去の著作は不要なわけです。「いろいろな学者が試行錯誤をしてきたけど、いまのところもっともうまく自然を説明できる理論はこれです。これを勉強してください」となる。
ところが人文学ではそうはいきません。学生もまずは過去を学ぶところから入らなければならない。それは人文学が訂正の学問だからです。哲学にも打ち捨てられ忘れられた理論がたくさんあります。でもそれは完全に忘れるわけにはいかない。いつ「じつは・・・だった」の論理で復活するかわからないからです。ここが、理系と文系ではまったく違うところです。
2023年12月4日月曜日
20231203 中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」 pp.29-31より抜粋
pp.29-31より抜粋
ISBN-10 : 4121601610
ISBN-13 : 978-4121601612
祖国愛というものがある。それは主として、反省のない、利害を離れた、定めがたい感情に発し、人の心を出生の地に結びつける。この本能的な愛情は、旧い風習の味わい、祖先に対する崇拝、過去の記憶と融合する。その持ち主にとって国を愛することは親の家を愛するかのようである。そこで楽しめる静けさを快く思う。また、しばしばこの祖国愛は宗教的な熱誠によって高められ、人に目を見張るようなことをさせる。それ自身が一個の宗教であり、論議を排し、ただ信念、感情、行動だけがあるのである。諸国民の中には祖国を擬人化し、君主にその体現を見るものがある。愛国の感情の一部を彼に転化し、その勝利を誇りとし、その力強さを自慢する。旧君主制の下で、フランス人が何ら顧慮するところなく君主の恣意に身を委ねて一種の喜びを味わい、「われわれは世界で最も強い王の治下に生きている」と誇らしげに語った時代もあった。
すべての無反省な情熱と同様、この祖国愛も一時は人を動かして大きな力を発揮するが、それによって持続的な努力をさせることはあまり望めない。危機に臨んで国家を救った後には、平和のうちにしばしば衰えてしまいます。国民がまだ習俗も淡白で、信仰に篤く、社会が旧い秩序の下で安らかに憩い、その正統性が少しも疑われないときには、この本能的な祖国愛の支配するのが見られる。
このような(本能的な)祖国愛よりも合理的な愛国心が他にある。それは勇敢さにおいて、またおそらく情熱においても劣るのであろうが、より豊かで持続的である。この心は知性の発達から生まれ、法制に助けられて発展し、権利の行使によって伸長し、ついには、いわば個人的な利益と融合するようになる。個人は国家の安泰が自分自身の福祉に及ぼす影響を理解する。法が国家の安泰に寄与する機会を与えることを知り、最初は(受け身に)自分に役立つこととして、次いで(積極的に)自分の仕事として、国家の繁栄に関心を持つのである。
しかしときおり諸国民の生涯に次のような事態が起こる。旧い習慣は変わり、習俗は破壊され、信仰は揺らぎ、過去の輝かしい思い出は消え、しかも啓蒙は不完全で、参政権は保障されず、あるいは制限されている。このようなときには、祖国は光輝がうすれ、疑惑の目をもって見られる。国土は生なきものと映るようになる。祖先伝来の慣行も桎梏と見られるようになり、宗教も疑わしくなる。法律も自分のつくったものではなく、立法者は恐れられ、また一面では蔑視される。いずれも拠りどころにはならぬ。どこにも祖国は見えない。固有のものはといって見当たらないし、他に特色もない。それで人々は退いて、狭量で盲目的な利己主義に陥る。この人々は偏見からは解放されたが、(この世に)理性の支配すべきことを認識していない。彼らには君主国にある本能的な愛国心もなく、共和国の批判的な愛国心もない。混乱と悲惨のうちに、両者の間に立ちすくんでしまうのである。
このような状況にあって何をなすべきか。退却か、しかし、諸国民はその若き日の熱情にはもはや立ち帰らない。それは個人が幼時の無邪気さに帰れないのに等しい。国のありし日を惜しむことはできても、その再生は不可能である。まさに前進し、いそいで国民に個人の利益と国家利益とが一致しうることを、まざまざと示さなければならぬ。利害を離れた祖国愛は去って帰らないからである。
2023年12月2日土曜日
20231201 株式会社講談社刊 講談社学術文庫 宇野重規著「トクヴィル 平等と不平等の理論家」 pp.168-171より抜粋
pp.168-171より抜粋
ISBN-10 : 4065157110
ISBN-13 : 978-4065157114
ちなみにトクヴィルは、過去何度か予言者として注目されている。一例をあげると、「デモクラシー」第一巻の終わりで、トクヴィルは、アメリカとロシアがやがて世界の超大国となることを予言しているが、この予言など、かつて米ソ冷戦が激しかった時期に、さかんに取り上げられたものである。その後も「大衆社会論の先駆者」、「自由民主主義の勝利の予言者」といった呼び名がトクヴィルに与えられてきた。しかしながら、今となってみると、このような持ち上げ方にどこか違和感があるのは、否定しがたいところである。いいにつけ悪いにつけ、トクヴィルには、予言者として持ち上げられやすい傾向がある。が、そのことはトクヴィル理解をめぐり、それぞれの時代のバイアスが読み込まれやすいということも意味している。トクヴィルを読むにあたっては、このことを他の思想家以上に意識する必要があるだろう。
本書では、数あるトクヴィルの予言のうち、もっぱら平等化の予言に議論を集中してきたが、この予言は、彼の同時代人にとって、二重の意味で問題性をはらむものであった。一方で、トクヴィルの家族がそうであったように、フランス革命を歴史の偶発事に過ぎないと考え、人間の本質的不平等を基本とする社会への復帰を願う人々がいた。平等こそが逸脱であると考えるそのような人々にとって、やがて平等化が社会を根底から覆すであろうというトクヴィルの予言は極端なものに思われた。他方において、トクヴィルとほとんそ同時代人と言ってもいいマルクスが鋭く指摘したように、産業化が進むなか、貧富の差が拡大し、新たな階級対立が社会の基本的矛盾となりつつあることは、多くの人々にとってもはや目を背けられない現実であった。そのような人々にとって、むしろ平等化こそが社会の基本的趨勢であるというトクヴィルの予言は、現実を無視するものに思われたのである。本書において時代の文脈を掘り起こす作業を重視したのは、トクヴィルの予言がその時代において持っていたこれらの問題性を浮き彫りにするのであった。
それではなぜトクヴィルは、平等化を歴史の不可逆な方向性であると考えたのだろうか。本書では、トクヴィルの洞察を理解するための補助線として、「赤と黒」や「ボヴァリー夫人」を取り上げた。そのねらいは、トクヴィルが生きた時代のフランス社会のおいて起きた、ある想像力の変容を明らかにうることになった、すなわち、トクヴィルのいう平等化とは、人間の本質的不平等を前提に組み立てられた諸制度が、人々のきづかぬうちに次第に掘り崩され、空洞化していくことに指し示すと同時に、人間と人間とを絶対的に隔てるような想像力の壁が無意味化し、人々がすべての他者を本質的には自分と同類とみなすようになることを意味した。このような想像力の変容は、トクヴィルの同時代においてはけっして自明のものではなかった。というのも、社会の表層を見る限り、古い社会の仕組みはいまだその力を失っていないし、逆に新しい不平等性も目につくようになっていたからである。ところがトクヴィルは、このような表層の下で、社会の象徴秩序が根源的に変化しつつあることを見て取ったのである。
その意味でいえば、トクヴィルの予言は、あまりにも早すぎるものであったのかもしれない。しかしながら、この変容はやがてすべての社会秩序を根底から組み替えていくであろうというトクヴィルの確信は揺らぐことがなかった。このような平等化が極限まで進んだ社会としてトクヴィルはアメリカに着目したが、彼は、同じダイナミズムがヨーロッパ社会においても次第に明らかになっていくと考えたのである。たしかに、このような意味での平等化が進んだ社会においても、不平等は残る。しかしながら、それは不平等を当然とした社会における不平等とはまったく意味を異にする。そのような社会において、不平等はもはや自明視されず、平等への想像力を持ってしまった人々によって、次々に異議申し立てを受けるであろう。そしてそのような異議申し立てによって、今後の歴史のダイナミズムが決定されていくことになるであろう。これが、トクヴィルの予言であった。