中央公論新社刊 中公クラシックス トクヴィル著 岩永健吉郎訳「アメリカにおけるデモクラシーについて」
pp.29-31より抜粋
ISBN-10 : 4121601610
ISBN-13 : 978-4121601612
祖国愛というものがある。それは主として、反省のない、利害を離れた、定めがたい感情に発し、人の心を出生の地に結びつける。この本能的な愛情は、旧い風習の味わい、祖先に対する崇拝、過去の記憶と融合する。その持ち主にとって国を愛することは親の家を愛するかのようである。そこで楽しめる静けさを快く思う。また、しばしばこの祖国愛は宗教的な熱誠によって高められ、人に目を見張るようなことをさせる。それ自身が一個の宗教であり、論議を排し、ただ信念、感情、行動だけがあるのである。諸国民の中には祖国を擬人化し、君主にその体現を見るものがある。愛国の感情の一部を彼に転化し、その勝利を誇りとし、その力強さを自慢する。旧君主制の下で、フランス人が何ら顧慮するところなく君主の恣意に身を委ねて一種の喜びを味わい、「われわれは世界で最も強い王の治下に生きている」と誇らしげに語った時代もあった。
すべての無反省な情熱と同様、この祖国愛も一時は人を動かして大きな力を発揮するが、それによって持続的な努力をさせることはあまり望めない。危機に臨んで国家を救った後には、平和のうちにしばしば衰えてしまいます。国民がまだ習俗も淡白で、信仰に篤く、社会が旧い秩序の下で安らかに憩い、その正統性が少しも疑われないときには、この本能的な祖国愛の支配するのが見られる。
このような(本能的な)祖国愛よりも合理的な愛国心が他にある。それは勇敢さにおいて、またおそらく情熱においても劣るのであろうが、より豊かで持続的である。この心は知性の発達から生まれ、法制に助けられて発展し、権利の行使によって伸長し、ついには、いわば個人的な利益と融合するようになる。個人は国家の安泰が自分自身の福祉に及ぼす影響を理解する。法が国家の安泰に寄与する機会を与えることを知り、最初は(受け身に)自分に役立つこととして、次いで(積極的に)自分の仕事として、国家の繁栄に関心を持つのである。
しかしときおり諸国民の生涯に次のような事態が起こる。旧い習慣は変わり、習俗は破壊され、信仰は揺らぎ、過去の輝かしい思い出は消え、しかも啓蒙は不完全で、参政権は保障されず、あるいは制限されている。このようなときには、祖国は光輝がうすれ、疑惑の目をもって見られる。国土は生なきものと映るようになる。祖先伝来の慣行も桎梏と見られるようになり、宗教も疑わしくなる。法律も自分のつくったものではなく、立法者は恐れられ、また一面では蔑視される。いずれも拠りどころにはならぬ。どこにも祖国は見えない。固有のものはといって見当たらないし、他に特色もない。それで人々は退いて、狭量で盲目的な利己主義に陥る。この人々は偏見からは解放されたが、(この世に)理性の支配すべきことを認識していない。彼らには君主国にある本能的な愛国心もなく、共和国の批判的な愛国心もない。混乱と悲惨のうちに、両者の間に立ちすくんでしまうのである。
このような状況にあって何をなすべきか。退却か、しかし、諸国民はその若き日の熱情にはもはや立ち帰らない。それは個人が幼時の無邪気さに帰れないのに等しい。国のありし日を惜しむことはできても、その再生は不可能である。まさに前進し、いそいで国民に個人の利益と国家利益とが一致しうることを、まざまざと示さなければならぬ。利害を離れた祖国愛は去って帰らないからである。
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