2025年2月21日金曜日
20260220 有田川流域の歴史と文化について(0303加筆)
このように考えてみると、有田川流域は興味深い地域と云える。その理由は、上流部に真言密教本山の高野山があり、その流れが当地域の豊かな自然環境を流れ、ぶどう山椒(ミカン科)や蜜柑といった独特の香気を持つ植物・果実を育み、そして、その最下流部には椒古墳と呼ばれる古墳があることである。言語化は未だ困難であるものの、そこには何らかの深遠な思想があるのではないかとも思われる...。
ともあれ、話を戻すと、古墳時代以降も有田川流域にはさまざまな変動出来事があり、以降それらについて時系列的に述べていく。
縄文時代
有田川流域における縄文時代の遺跡は、主に陸地からごく近い島嶼や有田川沿いの丘陵上に分布しており、縄文草創期から晩期にわたる長期間にわたる土器片などの出土物が確認されている。代表的なものとして鷹島遺跡(有田郡広川町)や地ノ島遺跡(有田市初島町)が挙げられる。また、下流域には縄文時代の土器片や石棒が出土した野田地区遺跡、そして、近くの藤並遺跡からは、縄文草創期から古墳時代以降に至るまでの各時代の遺物が多数発出土している。縄文時代のものとしては磨製石斧や石鏃を含む石器・土器片などであるが、そこから、当地域(野田・藤並)が複数の時代にわたり中核的な集落として機能していたことが推察される。そして、紀ノ川下流域での、これと類する遺跡としては、太田黒田遺跡が挙げられると考える。
くわえて、これら縄文時代の遺跡からシカやイノシシの骨も頻繁に出土しており、そこから当時、狩猟において弓矢が使用されていたものと考えられる。また、それらの骨や角を加工した骨角器も複数出土していることから漁労にも活用していた可能性が高い。さらに、貝塚も発見されており、海や河川からの資源も重要な食糧源となっていたことが推察される。これらの知見から、当時の有田川流域の人々が自然資源を巧みに活用して生活を営んでいたことが理解出来る。
さらに、自然資源の活用の興味深い一例として、さきに述べた流域の縄文遺跡からは黒曜石製の石器も出土している。黒曜石は火山活動で形成される天然のガラス質の石であり、縄文時代は石器の素材として珍重されていた。しかし、有田川流域には黒曜石の産地が存在しないことから、遠隔地(近くでは奈良県二上山)からもたらされたと考えられることから、当時、有田川流域の人々が広域な交易ネットワークを持っていたことが示唆される。
そこから、有田川流域の縄文時代における人々は、地域の自然環境を活用しつつ、地域間の交易活動も活発に展開していたことが理解出来る。また、鷹島遺跡や藤並遺跡などの遺跡が、それぞれ異なった資源利用や交流の様相を示している点も特徴的と云える。このように、有田川流域の縄文文化は、地広域な交易ネットワークを持ちつつ、地域内でも独自の生活文化を形成していたことが出土物から理解出来る。
弥生時代
紀元前300年頃より有田川流域においても水稲耕作を基盤とした社会が形成されていたことが複数の遺跡や、出土遺物によって裏付けられている。先述の縄文時代以来の藤並遺跡は、弥生時代も地域の代表的な集落跡でもあり、ここでは、整備された水田跡や木製の農具、土器などが多数出土している。一方、有田川下流北岸、有田サンブリッジ北詰周辺に位置する新堂遺跡からは1932年(昭和7年)出土の「大峯銅鐸(新堂銅鐸)」が知られている。約40cmと32cmの2口の銅鐸は、扁平鈕式であり比較的古段階に属し、地域の祭祀に用いられていたものと考えられる。くわえて、当地域での出土青銅器で大変興味深いものは有田市山地(旧有田郡箕島町)で1916年(大正5年)に大阪湾型(近畿型)銅戈6口が、鋒と内側が交互に3口ずつ重ねられ、何やら儀礼的な埋納形態で出土した。また同遺跡からは約27cmの銅鐸も出土しているが、銅鐸と銅戈が同一遺跡で発見されるのは珍しく、他には兵庫県神戸市の桜ケ丘遺跡から14口の銅鐸と7口の銅戈が出土した事例と2007年に長野県中野市の柳沢遺跡にて銅鐸1口と銅戈7口が出土した事例のみである。また、当地で出土した大阪湾型(近畿型)銅戈は近畿地方南端の出土例であり、これに、同地域の旧吉備中学校校庭遺跡から発見された青銅鏡が弥生時代のものとしては近畿最南端の出土例であったことを加味すると、弥生時代のある時期においては、この有田川流域が銅戈や銅鏡を祀る文化圏の最南端いわば「文化果つるところ」であったと推察できる。さらに1877年(明治10年)有田市千田・野井で約43cmの銅鐸が出土したことが伝わっている。そして、これらの当地域で出土した一連の青銅器から、当地には、先述の紀ノ川下流域でのそれはまた様相が異なる青銅器祭祀文化があったことが理解できる。以上のように、有田川流域の弥生時代は、水稲耕作を基軸として展開を見せた農耕社会としてだけでなく、銅鐸や銅戈を用いた独特な祭祀文化を形成し、特に大阪湾沿岸地域との交流により独自のマージナルな文化圏を築いており、換言すると、有田川流域が弥生時代の近畿交易圏の最南端であり且つ重要な地域であったことが推察される。
古墳時代
有田川流域は、紀伊半島西部に位置し、古墳時代には紀伊水道に面する交通・交易の要衝として栄えた。この地域は、弥生時代以来の農耕発展を背景に豪族が台頭し、古墳時代に入ると権力を象徴する多様な古墳が築造された。これらの古墳群は、単なる埋葬施設にとどまらず、有田川流域が畿内や東北アジア、さらには四国とも活発な文化交流を行っていたことを示している。なかでも椒古墳(椒浜古墳)、箕島古墳群、天満1号墳、宮原古墳などは、それぞれの地域的特色を反映しつつ、流域全体の社会構造や文化的特徴を明らかにする重要な遺跡である。
椒古墳
有田市初島町浜地区に位置する椒古墳(椒浜古墳)は、有田川流域を代表する前方後円墳である。5世紀中頃から後半に築造され、後円部は直径約20メートル、前方部は幅約8メートル、長さ約5メートルと推定されている。埋葬施設は、近畿圏においても最初期に属する横穴式石室であり、それまで主流であった竪穴式石室からの移行を示す点で、時代の変革を象徴する存在といえる。
副葬品としては、虺竜文鏡(銅鏡)、石枕、直刀、甲冑、管玉、六弁花形金銅製飾金具などが出土しているが、なかでも特筆すべきは、日本列島では奈良県五條市の猫塚古墳と本古墳の二例しか確認されていない蒙古鉢冑の存在である。この冑は東北アジアの騎馬民族に起源を持ち、同じく紀の川下流域北岸の大谷古墳で出土した馬冑とも類似している。これらの遺物は、椒古墳の被葬者が東北アジアの影響を強く受け、軍事的にも高度な文化交流を行っていたことを物語っている。
椒古墳周辺にはかつて複数の古墳が存在していたが、1940年(昭和15年)以降の石油精製工場建設の過程で、その多くが失われた。奇跡的に椒古墳のみが現存し、工業地帯に変貌した今もなお、その歴史的存在を伝えている。また、地元にはこの古墳の被葬者を奈良時代の皇族長屋王とする伝承があり、1914年(大正3年)には墳丘上に「長屋王霊蹟之碑」が建立された。現在も地域住民による例祭が行われ、歴史と信仰が交錯する場所となっている。
箕島古墳群
有田市箕島地区には、箕島古墳群が存在する。箕島の北西部、東西に延びる丘陵の南斜面に築かれ、1925年(大正14年)の蜜柑畑開墾中に発見された。この古墳群は、地域の支配者層が有田川流域の東部を治め、紀の川地域と文化的に密接な関係を築いていたことを示している。現存する1号墳は、標高約10メートルの丘陵先端部に位置する円墳で、玄室の長さ約2メートル、幅約1.5メートル、高さ約2メートルの横穴式石室を持つ。石室の築造技法は、和歌山市の岩橋古墳群と共通する持ち送り積みの方式であり、かつて埴輪が周囲に巡らされていたと考えられる。このことから、箕島古墳群の被葬者は紀の川地域との結びつきが強く、畿内の影響を受けながら地域を支配した豪族であった可能性が高い。
天満1号墳
和歌山県有田川町の藤並神社境内に位置する天満1号墳(泣沢女の古墳)は、直径約21~24メートルの円墳で、周囲には幅約3メートルの周溝が巡らされている。埋葬施設は南向きの両袖型横穴式石室で、全長約7.6メートル、玄室の長さ約3.6メートル、幅・高さともに約2.4メートルを測る。石室内からは耳環、ガラス玉、鉄釘、土師器、須恵器などが出土しているが、特に注目されるのは12歳前後の少女のものと推定される歯の発見である。歯の成長段階や摩耗の程度を分析した結果、被葬者が若年の女性であった可能性が極めて高いとされる。一般的に、古墳時代の首長墓では成人男性が葬られることが多いが、天満1号墳のように少女が埋葬された事例は極めて珍しい。このことは、当時の社会構造や身分制度、埋葬の在り方を考える上で重要な手がかりとなる。この古墳は7世紀前半に築造されたと推定され、1958年(昭和33年)には和歌山県指定史跡となった。また、天満1号墳の周辺にも複数の古墳が確認されており、この一帯が当時の有力者層の墓域であったことがうかがえる。天満1号墳は、有田川流域における政治的中心地の象徴であると同時に、埋葬された人物の年齢や性別の特異性から、当時の社会制度や価値観を探る上で極めて貴重な遺跡である。天満1号墳の周辺には、古墳時代の集落跡である藤並遺跡と新堂遺跡が存在し、これらは当時の有田川流域の政治・経済活動を考察する上で重要な役割を果たしている。藤並遺跡では、須恵器、鉄器、銅鐸、農具などが出土しており、ここが単なる集落ではなく官衙的(行政機関的)機能を持つ地域であった可能性が高い。一方で、新堂遺跡では海上交易の拠点としての性格が明確に示される遺物が出土している。有田川河口部に位置するこの遺跡は、当時の物流の中心地であり、外部地域との交易を管理する役割を担っていたと考えられる。これら遺跡の存在からは、有田川流域が単なる地方豪族の支配地ではなく、政治・交易・行政が密接に結びついた多層的な社会構造を持っていたことが読み取れる。特に、椒古墳の被葬者がこの交易を掌握していた可能性もあり、海上交易の利権が地域支配の重要な要素であったことがうかがえる。
宮原古墳
有田市宮原町滝に位置する宮原古墳は、JR紀勢線紀伊宮原駅の西北方、標高約90メートルのミカン畑の中に存在する。墳丘は失われ、現在は石室の天井石が露出している。かつてこの周辺には3基の古墳があったとされるが、現在確認されているのは2基のみである。宮原古墳の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、紀の川流域に広がる岩瀬千塚古墳群に近い特徴を持つ。特に、玄室の前壁と奥壁が上段にいくにつれて強くせり出し、その上に天井石を架構する方式が採用されており、これは有田川流域以南の地域に見られる特異な造営法である。さらに、この造営法は、紀伊水道を挟んだ徳島県吉野川中流域(吉野川市山川町・美馬市)の古墳とも類似しており、有田川流域が紀伊半島内のみならず、四国、とも文化的なつながりを持っていたことを示唆される。そこから、宮原古墳の造営技法は、紀伊水道を越えた文化交流の痕跡を残している。
中世の有田川流域の歴史文化
古墳時代以降も有田川流域は政治・宗教・経済の要所として発展し続けてきた。7世紀には全国的な評制の施行により、紀伊国の一部として「あで郡(安諦・阿氐・阿提)」が成立した。しかし、大同元年(806年)平城天皇(安殿親王)の諱(いみな)に類似していることを憚り「在田郡」と改称された。これにより行政の枠組みが整えられ、そして当地域は、さらなる中央との結びつきの強化をはかった。
平安時代
弘仁7年(816年)、空海(弘法大師)が真言密教の本山を高野山を置くと、有田川流域はその参詣道「高野七口」の一つとして重視されるようになった。特に上流域の蘭島(あらぎ島)周辺は、高野山へ向かう修行僧や参詣者の往来が多かった。また、平安時代の仏教文化が地域に根付き、清水地区には当時の仏像が多く残されている。特に仏像彫刻の技法には都との文化交流の影響が見られる。また、堂鳴海山(どうなるみやま)には10世紀初頭以降建立の寺院の遺構が確認されている。このように、有田川流域は、高野山との関係を基軸として仏教文化が栄えた地域でもあり、その影響は鎌倉時代以降も続いていくこととなる。
鎌倉時代
10世紀末には、有田川流域には石垣荘(上荘・下荘)が成立し、清水地区は上荘に属した。そして12世紀以降、本家の円満院(近江の三井寺)、領家の寂楽寺(白川喜多院)、そして地頭の湯浅党によって統治する「阿弖河荘(あてがわのしょう)」が成立した。特に地頭である湯浅党の影響は大きく、鎌倉幕府成立後、この一族は源頼朝の側近として活躍し、紀伊国の有力武士団としての地位を確立した。彼らは有田川流域の治安維持や荘園経営を行い、地域の発展に寄与したものと考えられる。しかし、鎌倉時代後期になると統治が揺らぎ、有田川流域でも土地を巡る争いが生じた。特に、高野山は「弘法大師御手印縁起」に記された範囲を本来の寺領であると主張し、近隣の荘園と領有権を巡る対立を深めていった。また、史料には「阿弖河荘上村百姓等片仮名書申状」という訴状が残されており、地元の百姓たちが地頭の湯浅党による暴虐を訴えている。このことから、当時の荘園支配は必ずしも安定していなかったと云える。
また、鎌倉時代の有田川流域にて重要な人物の一人が明恵上人(みょうえしょうにん)である。明恵は1173年(承安3年)、紀伊国石垣荘(現在の有田川町歓喜寺)に生まれた。父は平重国、母は湯浅宗重の娘であったが、幼くして両親を失い、湯浅党の他門である崎山良貞のもとで育てられた。その後、叔父の上覚を頼り、京都の神護寺に入り、華厳宗や真言宗の教えを学んだ。明恵は生涯を通じて厳しい修行を重んじ悟りを追求した僧侶であり「紀伊の法然」「紀伊の親鸞」とも称される。明恵の思想は、華厳宗の復興に大きく貢献し1206年(建永元年)には京都の高山寺を再興した。明恵は仏教の戒律を厳守する一方で、夢を通じて仏の教えを受けたとして『夢記(ゆめのき)』を著し、仏道修行の精神を後世に伝えた。また、有田川流域にも、たびたび訪れて修行を行ったとされており、草庵を営んだ場所は「明恵上人紀州八所遺跡」として現在も遺っている。これらの遺跡は、有田市・有田川町・湯浅町に点在して修行の足跡を伝えている。また、彼の弟子である喜海は、これらに木製の卒塔婆を建立し、後に1344年(康永3年)、弁迂(べんう)によって石造の卒塔婆へと建て替えられた。これらの多くは現在も遺り「明恵紀州遺跡卒塔婆」として国史跡に指定されている。さらに、明恵の生誕地とされる吉原遺跡周辺では13世紀中頃の掘立柱建物跡が発見されており、当時の集落構造が明らかになっている。また前述の縄文・弥生・古墳時代の記述にもある藤並地区では、13世紀中期、藤並荘の地頭であった藤並氏の居館跡が発掘されており、築造された土塁や堀の遺構が確認されている。そこから、藤並氏も有田川流域において一定の勢力を持っていたことが分かる。こうして、鎌倉時代の有田川流域は、明恵上人による仏教思想の復興と、湯浅党・藤並氏などの武士団による政治支配が交錯する地となった。その後の南北朝・室町時代には、これらの勢力が戦乱に巻き込まれ、地域の社会構造が変化していくことになる。
室町・戦国時代
室町・戦国時代の紀伊は、険しい山々と海に囲まれた地形により、外部勢力による侵攻が困難である一方、紀伊国内では国人・寺社勢力がそれぞれの権力を保持していることから、統一が進みにくい状であった。有田川流域も例外ではなく、室町時代から紀伊国守護を務めた畠山氏をはじめ湯河氏や玉置氏といった国人勢力、さらには高野山や根来寺などの寺社勢力が複雑に絡み合いつつ支配権をめぐる争いが繰り広げられた。
この時期、紀伊国守護であった畠山氏は有田川流域にも勢力拡大を試みた。しかしやがて、室町幕府の権威が衰退しはじめて、守護である畠山氏に内紛が生じると、紀伊国内では在地勢力が自立性を強めていった。特に紀北では寺社勢力が強く、中紀・南紀では国人勢力が勢力を拡大していった。
こうした時代背景の有田川流域では、畠山氏による名目上の支配が続いていたものの、実際には湯河(川)氏や玉置氏といった国人領主が独自の勢力を築いていた。湯河(川)・玉置両氏は幕府直属の奉公衆としての地位を有し、守護である畠山氏の影響を受けつつも一定の独立性を保っていた。奉公衆とは、室町幕府の将軍直属の編成された武士団のことであり、湯河(川)氏は日高郡小松原(現御坊市)を本拠地(出自は道湯川:現田辺市)として、玉置氏は日高郡江川(現日高郡日高川町)を本拠地としていた。また、守護畠山氏の庶流で幕府奉公衆でもあった畠山氏も有田郡宮原(現有田市宮原町)を本拠地とした国人領主であり、戦国時代を生き延びた。これら有力な国人領主の存在は、守護である畠山氏の勢力拡大を阻む要因であった。さらに、先述したが紀伊では、これら国人勢力だけでなく、寺社勢力も強大な影響力を保持していた。高野山、粉河寺、根来寺、熊野三山などの寺社は、広大な荘園を有し、独自の武力を抱えていた。1418年には守護畠山氏と熊野三山の軍が田辺の支配をめぐって衝突して守護方が大敗している。また、1460年には、同畠山氏と根来寺が灌漑用水の使用をめぐる争いが生じたが、この戦いでも守護方は敗北している。このように紀伊国では在地の国人勢力だけでなく、寺社勢力もまた、戦国期での勢力争いの主要なアクターであった。
やがて16世紀に入ると、有田川流域の勢力争いでは、国人勢力の湯河(川)直光が、復権をはかる守護、畠山尚順が拠点とした高城城(広城)を急襲して落城させるという事件が生じた。このように地域の勢力図は変転としており、紀伊国内のみならず各国で、このような争いが続いていた。
そして16世紀も後半に入ると、紀伊国の戦国時代に大きな転機が訪れる。織田信長・豊臣秀吉による紀州侵攻である。1577年には織田信長が雑賀攻めを行い、鉄砲を駆使する雑賀衆と激突。さらに1585年には豊臣秀吉が紀州征伐を行い根来寺や雑賀衆を壊滅させた。この過程で、有田川流域の国人勢力にも大きな変化が生じて、多くが秀吉に降伏した。こうした戦国時代を通じた支配構造の変転により、有田川流域の城郭は軍事的な要素を強めていったものの、二度にわたる紀州侵攻の結果、紀伊は豊臣政権の直轄地となり、それまでの在地土着の国人・寺社勢力は再編されて、その独立性はほぼ失われた。そして、その後の江戸時代において、紀州藩による統治のもとで有田川流域は新たな時代を迎えた。
2025年2月14日金曜日
20250213 紀伊半島の河川が紡ぐ歴史と文化①
はじめに
紀伊半島は列島内でも特に山がちで嶮しく平野が少ない。そして、半島を走る紀伊山地西麓からはじまる複数の河川は、単に自然の地形に沿った流れというものではなく、それら河川流域に住む人々に、時代を通じて、多大な影響を与えてきた。特に水稲耕作が本格的にはじまった弥生時代以降、それぞれの下流域沖積平野には、比較的大きな集落が営まれていたことが、さまざまな遺跡等から確認でき、また、
当時の社会構造や周辺地域との交易関係なども推察できる。
当記事では、紀伊半島を流れる河川について、北から①紀ノ川、②有田川、③日高川、④南部川、⑤富田川と、それぞれの地理的特徴および歴史・文化的な背景を述べる。
①紀ノ川流域について
地理と概要
紀ノ川は、特に降水量が多いことで知られる奈良県の大台ヶ原山を水源として、和歌山県北部を横断して紀伊水道へ注ぐ全長約136キロメートルの河川である。また、古くから大和(奈良)と紀伊(和歌山)とを結ぶ重要な水路であったことから、大和(奈良)に首府が置かれた時代はもとより、それ以前の水稲耕作がはじまった弥生時代より、その流域は栄えてきた。
弥生時代と銅鐸の出土
古代より紀ノ川流域は交通の要衝であり、また特に可耕面積が広い下流域は弥生時代より栄えていた。そして、同時代に用いられ、近畿地方・西日本各地で数多く出土する青銅製祭器である銅鐸もまた紀ノ川流域から複数出土しており、その様相はさまざまであるが、紀ノ川以南の富田川までの銅鐸出土例がある主要河川下流域と比較すると、総じて後期大型の銅鐸は、平野部の紀ノ川のごく近く、あるいは中洲などから出土し、対して、初期・中期の比較的小型(~50㎝程度)のものは、集落跡、丘陵地といった平野内陸部から出土する傾向がある。また、これを先述した他の河川流域での出土様相と比較すると「三国志」内「魏志倭人伝」に記述がある「倭国大乱」(2世紀後半)との関連性も検討され得るが、ここでは扱わない。
ともあれ、一つ興味深い事例を挙げると、弥生時代の紀ノ川下流域にて拠点的な集落であったと考えられる太田黒田遺跡(JR和歌山駅近く、戦国末期、織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの際の抵抗する紀州勢の主要拠点であった太田城の跡も近い)からの出土銅鐸は、当地(紀ノ川南岸)特産の緑泥片岩(紀伊青石)による舌を鐸内部に伴い出土し、またそれは、島根県加茂岩倉遺跡出土の銅鐸(加茂岩倉4号・7号・19号・22号鐸)と同笵(同一の鋳型で作成)であった。そこから、弥生時代の紀ノ川下流域の社会とは、同時代の出雲地域と、何らかの祭祀文化を共有する関係であったことが示唆され、また、そこから、出雲神話にある大国主(オオナムヂ・大穴牟遅神)が、八十神達からの再度の襲撃を逃れるため、木国(紀伊国)の大屋毘古神(イタケルノミコト・五十猛神)のもとに避難したという話が想起される。
その後、3世紀代、古墳時代に入ると、紀ノ川下流域においても銅鐸による祭祀は廃され、代わって当時代を代表する古墳が造営されるようになった。また、紀ノ川下流域において造営された古墳において特徴的であるのは、6世紀代(古墳時代後期)以降、我が国にて普及した朝鮮半島あるいは大陸渡来の墓制、横穴式石室を用いた比較的小型ものが圧倒的に多く、また、それらが平野丘陵部に集中し墓域を形成し、いわゆる群集墳となっていることである。そして、この群集墳の盟主的存在が当時、当地の国造であった紀氏であると考えられている。しかし、この紀州での紀氏とは、当群集墳の系だけでなく、同下流域北岸の大谷古墳の被葬者もまた、そうであったと考えられている。大谷古墳は副葬品に、国内で3例のみ出土例がある大陸的要素が強い馬冑があったことで知られ、そこから、当古墳の被葬者が、当時、5世紀代に半島でのヤマト朝廷の軍事活動に従事した人物であったことが示唆される。その他にも同下流域には、特徴的な遺物が出土した古墳があるが、それらの事例から、古代ヤマト朝廷が外征などを行っていた時代の紀ノ川下流域とは、大和盆地から外に進出する際の要衝であったことから、国内外の文物が蓄積し易い環境であったものと考えられる。さらに、この視座は、次の有田川下流域について述べる際にも有用と考える。そしてまた、これまでの記述から、以下に示すコンラッドによる「闇の奥」冒頭部近くの記述を模したブログ記事の作成を試みたのか、ご理解して頂けるのではないかと考える。
『僕は大昔のこと、我が国の初代天皇(大王)に率いられた一団がここにやってきた頃のことを考えていたんだ・・ついこの間のことのようにね・・。
そしてあとの時代、この紀ノ川の河口から髪を角髪(みずら)に結い、胡服に身を包み、直刀を杖立てた連中にはじまり、鎧兜姿に太刀を履いた連中がそれぞれ船団を組んでこの港、当時は雄ノ湊とか徳勒津とか云ったらしいけれども、そこからさまざまな事情を背負いつつ出立して行ったわけだが、それはね、青々とした水田、畑を走る一陣の風あるいは一瞬の稲妻のようなものなんだ・・。
われわれ人間の生なんてはかないものだーせいぜいこの古ぼけた地球が回り続けるかぎり、それが続くことを祈ろうじゃないか。
しかし、我々が今でも知り得ない世界はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ・・。
まあ想像してもごらんよ、九州の東海岸にいた航海術に長けた連中が・・そうそう、そういえば当時の我が国には、外洋航海を目的とするような構造船はなくて、大型の丸木舟に舷側板を立てたような船だけであったらしいけれども、そうした船で瀬戸内海を東に抜けて今の大阪か奈良あたりに向かうと決まった時の気持ちをね・・。
それはいわば、自分達とは全く違う不可解な形をした青銅祭器を祀っているような連中の間を抜けて・・いや、そうした連中の真っ只中に行くわけなんだが、それでもこの当時九州東海岸にいた連中はとても勇ましかったようで、ものの本などによると、古代有数の軍事部族であった大伴氏や佐伯氏などは、ここに出自を持っているらしいのだがね・・。
ともあれ、彼等がこのあまり堅牢とはいえない、まあ準構造船とでも云えるような船に兵糧・武器その他あれこれを積んで、どうにか瀬戸内海を抜け、そうだな当時の大阪、河内平野一帯に広がっていた潟湖である河内湖に入り、その流れ込みの淀川のデルタ地帯に上陸したところあたりを想像してみたまえ・・。
砂州、沼沢、故地とは違った植生の森林、自分達とは異なるイントネーションの言語、衣服・・それまで自分達が慣れ親しんだ文化が見当たらなく、陸に上がっても狡猾な罠があったり、毒矢で射られたりして、この航海で見知った仲間達が日を追って減っていったに違いない・・。
こうした環境では、水、森林、草原、藪のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
だが、もちろんそれでも彼等は特に思い惑うこともなく上陸地点を慎重に選定しながら、時には敵対部族とも戦いながら、更なる航海を続け、また上陸後は上陸後で険しい山道を通り抜け、どうにか目的地に達することが出来たのであろう・・。
彼等こそがこうしたまったく見知らぬ土地に立ち向かうに十分な強さを備えた連中だったのだ。
そして、もし、この一連の長く続く航海、在来部族との諍い、そして、この慣れない気候風土を生き抜いたあかつきには、この航海の目的地でもあり、そして、いずれは此処が己が居地ともなることもあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ・・。』
今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
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2025年2月11日火曜日
20250210 歴史の記号接地について ~建国記念の日に寄せて~
たとえば、源義経は兄頼朝に追われ奥州に逃れた後、攻められて自害したとされている。しかしながら、義経が生き延びて大陸に渡りチンギス・ハーンになったという伝説もまた根強い。このように、歴史的に事実とされることは、新たな発見により覆る可能性がある。他方、夏目漱石による『吾輩は猫である』の主人公の猫が最後に溺死するという結末は、いかなる新資料が発見されたとしても変わることはない。つまり、歴史は新たな発見によって変化する可能性を持つが、フィクションの内部においては、事実は物語の枠組みの中で確定されていると云えよう。
このことを踏まえると、我々が持つ歴史に関する知識とは、直接経験されたものではなく、さまざまな史料や文献を通じて獲得されたものであると云える。そして、この問題は「記号接地問題(Symbol Grounding Problem)」とも深く関連するものであり、歴史に関する知識が現実と、どのように結びついているのか、という根本的な問いを惹起させる。たとえば、人工知能(AI)は「春に桜は咲く」と表現することは可能であるが、それは過去のデータを統計的に分析した結果に過ぎず、AIが実際に桜を見たり、その香りを感じたりした経験を持つわけではない。そして、それと同様に、我々の歴史理解も直接経験に基づくものではなく、過去の研究の知見が積み重ねられた結果として形成されるものであるため、その接地の確実性には常に疑問が残る。
他方で、フィクションにおいては、このような問題は生じない。物語や小説に登場する人物の役回りは一貫しており、揺らぐことがない。たとえば、『桃太郎』に登場する鬼は、どのバージョンであっても、主人公である桃太郎に退治される存在として描かれる。これは、歴史上の事実が新たな発見によって変わり得るのに対し、フィクションの世界における「事実」は一貫しているという興味深い違いを示している。そして、この歴史的事実の可変性とフィクション内における事実の確定性の対比を前提として検討することにより、我々日本人の歴史意識の特徴が理解できるのではないかと考える。
しばしば「日本人は歴史意識が希薄である」と指摘される。しかし一方で、我が国の歴史学は世界的に見ても決して水準の低いものではなく、また、膨大な研究成果が蓄積されている。それにもかかわらず、何故、我々日本人の歴史意識が希薄であると指摘されるのか、それは、学術的な歴史研究とは別の、社会全般における歴史意識のあり方があるのではないかと考える。
つまり、我が国においては、歴史に関する研究はそれなりに盛んであるものの、社会全般においては「歴史を現在の社会や自己の存在と結びつける意識」が希薄と云えるのではないだろうか?
折口信夫は、「日本人は歴史観の上に生きることの強い国民である」と述べたが、これは戦前の教育において、国家から歴史と国家の一体性が強調され、歴史的な枠組みの中で個人の行動や思考を位置づけることが求められたためであると考えられる。しかし、そうした(上からの)価値観が敗戦により崩壊した戦後日本社会では、自らの歴史を「過去のもの」として隔離して、現代社会との結びつきを意識することが少なくなった。そして、この変化こそが「日本人は歴史意識が薄い」と指摘される主な理由であると考えられる。
くわえて、我々日本人の歴史意識には独特な側面もある。それは、歴史的事実よりも「伝承」や「物語」としての歴史が重視されるという点である。源義経の生存説などの事例が示すように、史実の精確さよりも、そこに込められたある種の精神性や象徴性が強調される傾向がある。こうした歴史観は、学問的な歴史とは異なり、「擬歴史意識(Quasi-history)」とも呼び得る。
そこから、我が国における(擬)歴史意識は、学問的な知識としての歴史とは異なる形で、文化や社会に深く根付いているものと云える。あるいは異言すると、歴史を史実の集積の体系として捉えるのではなく、その中に込められた特殊な意味や価値を重視する傾向があるため、新規の発見の有無に係らず、別様の再解釈がされ続ける。こうした現象から、我が国の日常的な(擬)歴史意識においては、体系立った史実よりも、ある出来事や人物に込められた象徴的な意味の方がより重視されることが示されるのではないかと考えられる。
また、我が国では歴史の因果関係を体系的に捉えるよりも、個々の出来事や人物を独立した象徴として扱う傾向もある。たとえば、昨今では異論もあるが、それでも西洋社会では、フランス革命が「社会の変革と進歩の歴史」として語られるのに対し、我が国では「忠臣蔵」が「武士道の美学」として語られるように、歴史を社会変遷のプロセスではなく、精神的あるいは道徳的な教訓として捉える姿勢が見受けられる。
こうして考えると我が国の歴史意識のあり方は、記号接地の観点からも説明することができると考える。我が国において歴史とは、客観的な事実としてではなく、文化的・精神的な象徴として受け入れられる傾向があると云える。これは、事実としての長い因果関係のなかでの出来事よりも、社会の中で意味を持つ「記号」として機能していることを示している
たとえば、織田信長は歴史上で評価が分かれる人物であるにもかかわらず、フィクションの世界では「革新的な英雄」としてのイメージが確立されている。このような現象は、我が国において歴史的人物や出来事が、事実そのものというよりも、文化的な「記号」として機能していることを示唆している。そして、こうした記号の接地とは、歴史学の発展とは別の系で社会的・文化的な文脈の中で維持され続けていると云える。
そして、我々が歴史を学ぶ際には、こうした我が国(特有?)の記号接地のあり方を理解することが重要である。つまり史実そのものを検証するだけでなく、歴史がどのように社会の中で意味づけられ、機能しているのかを問い続けることが求められる。つまり、歴史とは、単なる史実の集積ではなく、それが、我々の文化の中でどのように接(地)されて、どのような価値を持ち続けているのかを考えることもまた、歴史を学ぶ一つの大きな意味であると考える。
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2025年2月7日金曜日
20250206 既投稿記事からの発見と、ブログ記事作成への影響について
ここ1週間は所用のため外に出ることが多く、また本日も外出していたことから、休息をとった実感がありません。他方、当ブログについては、直近の投稿が2月1日であることから、もう新規作成をした方が良いと考え、多少疲れは残っているものの、作成を始めた次第です。さて、直近の投稿記事でChatGPTについて触れ、現在も度々運用していますが、そのなかで、複数の既投稿ブログ記事を加工して、新たなブログ記事の作成を試みており、そして、その加工途中の文章が当ブロガーでの下書きに200記事ほどありますが、これらも多くなってきました…。そのため、時折、それら下書きの一つを開き、目を通してみますと、また作成時とは異なった視座から眺めることが出来て、新たな発見などもありますので、読むにしても、自ら作成するにしても、その文章を何度か、時間をおき、読み返してみるのが良いと考えます。そして、昨今、ブログを継続していて思うことは、当初は作成した自分の文章を読むのがとても嫌いでしたが、ここ最近は、記事の作成頻度を落としたためであるのか、既投稿記事を読むことが、そこまで苦ではなくなってきたことです。そしてまた、面白いことに、かつての投稿記事の稚拙な作成文章から、新たな記事作成のヒントを得ることも度々あったことから、以前では、あまり進んでは開こうとはしなかった過去の投稿記事を開き、さらには、さきに述べたようにChatGPTによる加工も行っています。これはある種、自らの作成した文章を対自化するという意味もあると考えられることから、今後も継続したいです。そして、こうした経緯で、既投稿記事をいくらか開いてみますと、どうしたわけか、それらは紀州和歌山に関連する主題の記事が多く、そこから、当ブログを始めた経緯も和歌山にあったことが思い出されました。和歌山といっても、当初に在住したのは市内ではなく、県南部の西牟婁郡白浜町であり、その初めての南国的とも云える温暖な気候風土のもとで感覚が多少変容して、そこから同県和歌山市にある大学院修士課程に進みましたが、こちらでは、以前にも述べましたが、それまでとは桁違いに、さまざまな書籍を読みました。そうして、読書や文章・資料の作成などをしばらく継続していますと、またやがて感覚に変化が生じ、これまでとは異なる、もう少し内容が緻密そうな著作を読むことが出来るようになったり、あるいは、地域の歴史や文化や民俗などについての著作を読んでいますと、突如、訪れるように、地域の歴史文化を語る際の枠組みが思い付いたりするのですが、そうした枠組みとは、多くの場合、小説など物語での記述がベースにあったと云えます。そして、そのことが比較的強く想起されたのは、過日、20250103作成の「立ち読みと集中力から ~意識の変容について~」を読み返していた時であり、その想起した内容につきましては、また近い別の機会に、ブログ記事として作成・投稿したいと考えています。
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2025年2月2日日曜日
20250201 2312記事に到達して振り返って思うこと
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