2024年12月18日水曜日

20241218 権力と制度が社会に与える影響:三つの著作から1218後日加筆修正を行う予定

ジョージ・オーウェル著の①『動物農場』、ジョセフ・コンラッドの②『闇の奥』、そしてダロン・アセモグルとジェームズ・A・ロビンソンによる③『国家はなぜ衰退するのか』は、それぞれ異なるジャンルの著作ですが、共通して、社会の本質や権力構造について鋭い洞察を示しています。そして、これら三著作を比較することで、制度が社会や国家に与える影響を考える手掛かりが得られるものと考えます。

①『動物農場』では、寓話形式を用い、革命後の理想に向かうはずな社会が、どのようにして腐敗して、強権的な独裁体制へと変質していくかを描いています。②『闇の奥』では、19世紀末のアフリカ大陸での、列強による植民地支配下で、権力がどのようにして理性ある人間を堕落させるかを示し、倫理的な制御をなくした権力の危険性を描いています。そして③『国家はなぜ衰退するのか』では、歴史学と経済学を視座として、世界各地の包括的制度と収奪的制度とを比較して、国家の盛衰のメカニズムを考察しています。

これら三著作の相違は、アプローチの手法と云えます。①『動物農場』では、寓話的に権力が腐敗する様相を描き、②『闇の奥』では、独特な文学的表現により、19世紀末の植民地支配の実態を描いています。そして『国家はなぜ衰退するのか』では、学術的考察に基づき、制度が社会へ与える影響を帰納法的に論じています。しかし、いずれの著作も、権力の腐敗および、その制度への作用をひとつのテーマとしている点では共通していると云えます。

これら三著作では、権力の腐敗がどのようにして生じ、そして制度が、それを助長あるいは制御するかを描いています。①『動物農場』では、平等を目指した革命が豚のナポレオンによって独裁に変わる様子を描き、制度が権力を制御できない場合、腐敗が避けられないことを警告しています。

『闇の奥』では、植民地支配による人間を堕落させる様子を描きます。主人公クルツの変貌は、社会制度としての倫理を失ったとき、人間の内なる暴力性がいかに引き出されるかを象徴的に示しています。

『国家はなぜ衰退するのか』は、腐敗した権力の根源を制度的視点から分析します。収奪的制度は権力者による富や資源の独占を助長し、社会全体を搾取する構造を形成します。この分析は、『動物農場』や『闇の奥』が描く個別の事例を体系的に理解する枠組みを提供します。

これら三著作が示すのは、制度が人間の行動や社会全体に与える影響の大きさです。『動物農場』は、理想の実現には制度を監視し続ける必要があることを寓話的に伝え、『闇の奥』は制度がいかにして人間を堕落させるかを文学的に描きます。一方、『国家はなぜ衰退するのか』は、包摂的制度が社会の繁栄を促進し、収奪的制度が国家を衰退に導くことを実証的に論じています。

現代社会においても、権力の腐敗や制度の設計はきわめて重要な課題です。これら三著作は、それぞれが異なるアプローチで同じ普遍的な問題に光を当て、制度の健全性が社会の持続可能性に不可欠であることを示しています。権力の制御と制度の透明性を維持する努力は、過去から現在に至るまで普遍的な課題であり続けると云えます。

2024年12月14日土曜日

20241214 口と腸が紡ぐ健康の鍵:フローラバランスの重要性

 我々の体内には約500〜1,000種類、総数で500兆〜1,000兆個の細菌が存在し、その総重量は約2kgに達するとされています。これらの細菌の多くは「腸内フローラ」や「口腔内フローラ」として機能し、栄養吸収や免疫機能の調整、さらには全身の健康に大きな影響を及ぼします。細菌は主に善玉菌、悪玉菌、日和見菌の3種類に分類され、善玉菌は健康維持に貢献し、悪玉菌は健康に害を及ぼすことがあります。日和見菌は通常無害ですが、体調が悪化すると悪玉菌と同調し、健康に悪影響を与える場合があります。このため、体内の細菌バランスを整えることは健康維持の基盤といえます。

 腸内フローラは免疫機能の約7割を担う重要な存在であり、そのバランスが崩れると、大腸がん、糖尿病、肥満、アレルギー、自己免疫疾患、さらにはうつ病など、さまざまな病気のリスクが高まります。同様に、口腔内フローラのバランスが崩れると、虫歯や歯周病だけでなく、心臓病や脳梗塞、糖尿病など全身疾患に影響を及ぼすことが知られています。さらに、口腔内の細菌が血流を通じて全身に広がり、肺炎や胃潰瘍、胃がんを引き起こすリスクもあります。口と腸は一つの消化管でつながっているため、口腔内フローラと腸内フローラは互いに影響を及ぼし合います。このため、どちらか一方のバランスが崩れると、全身の健康にも悪影響が及ぶ可能性があります。

 現代社会では、食品添加物や抗生物質の過剰使用、環境汚染、そして母乳育児の減少が腸内フローラのバランスを崩す要因となっています。特に母乳に含まれる善玉菌であるロイテリ菌は、赤ちゃんの腸内環境を整える役割を持っています。しかし、人工ミルクにはロイテリ菌が含まれていないため、母乳育児の減少は免疫力低下のリスクを伴います。また、母乳自体にロイテリ菌が含まれないケースも増えており、十分な善玉菌が供給されない問題も指摘されています。

 腸内フローラの状態は食生活や生活習慣に大きく影響されます。日本人の腸内細菌には、海藻類の食物繊維を分解する能力や、肥満抑制に寄与する菌が多いことが判明しています。これは日本特有の食文化によるものですが、近年では食生活の欧米化や抗生物質の乱用が腸内細菌のバランスを崩す要因となっています。腸内細菌は「第二のゲノム」として注目され、そのDNA総数はヒトの遺伝子数をはるかに上回ります。また、腸内細菌が生成する物質は生活習慣病や精神疾患、がん治療にも関与していることが明らかになっています。

 さらに、腸内細菌の研究は遺伝子解析技術の進歩により大きく進展しており、「メタゲノム解析」を通じて腸内細菌の構成が国や地域ごとに異なることも分かっています。日本人の腸内細菌は炭水化物を効率的に利用する菌が多い一方、他国で一般的な古細菌が少ないことが特徴的です。これらの違いは食文化だけでなく、薬剤の使用や環境要因とも関連している可能性があります。

 口腔内フローラと腸内フローラを健康に保つには、日々の口腔衛生管理とバランスの取れた食事が不可欠です。歯磨きや定期的な歯科検診は口腔内フローラのバランスを整え、腸内フローラにも良い影響を与えます。一方、腸内フローラを改善するためには、食物繊維やオリゴ糖を多く含む食品を摂取し、善玉菌の働きを促進することが重要です。

 結論として、口腔内フローラと腸内フローラは相互に関連し、全身の健康維持に欠かせない要素です。現代の生活環境では細菌バランスが乱れやすいため、意識的に口腔衛生と腸内環境を整えることが健康を守る鍵となります。最新の研究を参考にしながら適切な生活習慣を取り入れることで、全身の健康を維持し、病気を予防することが可能です。

そして最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年12月10日火曜日

和歌山での対話:試製20241218(後日さらに加筆修正の予定)

A:「先日の勉強会以来ですので、あまりお久しぶりではありませんが、今日は是非先生のご意見を伺いたく思い、訪問させて頂きました。ご多忙のなか、お時間取って頂きどうもありがとうございます。」

B:「ええ、構いませんよ。ただ、メールでもお伝えしましたように午後二時から外せない会議がありますので、それまでになりますが、大丈夫ですか?」

A:「はい、大丈夫です。では、早速本題に入らせて頂きますが、つい先日、***大学****学部の開設10周年の記念講演会がありまして、これに出席させて頂いたのですが、その登壇者の先生方が揃って「現在の世界は大きな変化の時代であり混乱している。」との見解を述べられていました。このこと自体は、私はかねてより思ってきたことでしたので、特に驚くことはなかったのですが、しかし同時に、それがある程度共有されている見解であることを実感しました。そこから「では、現在の混乱して大きく変化している世界情勢のなかで、我が国は、どのように処することにより、来るべき時代のなかで発展し続けることが出来るのだろうか?」と思ったのです…。というのも、昨今の我が国は「失われた30年」といったコトバがよく聞かれ、そして実際、低迷し続けていることは、おそらく先生も納得されると思うのですが、こうした状況から、より良い方向への変化をもたらすヒントを人文系研究者であるB先生からお聞きすることが出来ればと思い、今回訪問させて頂いた次第です。」

B:「…なるほど、それは責任重大ですね…。それで、具体的にAさんはどのようなことをお聞きになりたいのですか?」

A:「はい、では、さきの「失われた30年」といった状況から、より良い方向へ漸進的に、そしてまた根本から変えていくための手段は、やはり教育以外にないと思うのです…。とはいえ、いきなり教育制度を大きく変えても、それはそれで社会にとって大きなストレスとなり、後々悪しき影響が出てくるのではないかと思われます…。そういえば、先生、今年のノーベル経済学賞を受賞されたのは、マサチューセッツ工科大学のダロン・アセモグル教授とサイモン・ジョンソン教授、そしてシカゴ大学のジェームズ・ロビンソン教授の3人で、その受賞理由は「社会制度がどのようにして形成され、そして、それが国家の盛衰にどのような影響を与えるかについての画期的な研究」であったことはご存じであると思いますが、そこで私も彼等の著作「国家はなぜ衰退するのか」に興味を持ち、立ち読みしたところ、これが大変面白く、購入して現在読み進めていえうところです。...あ、すみません、前振りが長くなってしまいましたが、それで、この「国家はなぜ衰退するのか」では、国の政治体制や社会構造が、その国の興亡や盛衰に、どのようなメカニズムで影響を及ぼすのかについて、さまざまな具体例を挙げて述べているわけですが、これまでに読んだところでの、かなり大雑把な要旨は、中央集権体制は、その後の社会発展のためには重要ではあるのですが、それがさらに進み、収奪的あるいは専制的な傾向が強くなると、そうした社会では「出る杭は打たれる」方式で技術革新やイノベーションが生じなくなって衰退に向かっていくということなのです。そして、この指摘には、我が国の「失われた30年」にも通底する要素があるのではないかと思われるのですが、この点について、いかがお考えになりますでしょうか?」

B:「…なるほど、発言の最後の方に出てきた「技術革新やイノベーション」は、先日の勉強会で度々出てきたシュンペーターの「創造的破壊」やベルクソンの「創造的進化」とも関連性がありますからね…。そして、Aさんがその時に我が国でイノベーションや技術革新が自然に生じるようになるためには科学(Science)・技術(Technology)・工学(Engineering)・数学(Mathematics)などの論理的思考力を重視した所謂「STEM教育」が重要であると述べられましたが、それは私も「なるほど」と思い、その後、関連する文献や資料などをあたってみたところ、直近の国際的な認識では「STEM」を構成する4つの分野だけでは不十分であり、これに芸術分野(Art)の頭文字である「A」を追加した「STEAM」教育の重要性が指摘されています。この芸術分野(Art)の本来の語義は、絵画や彫刻や音楽などの、いわゆる一般的に云われるところの「芸術」だけではなく、古くからの人文系も含まれています。そして、この「STEM」にArtの「A」を追加することによって、はじめて、その人の知識体系全体が統合されて、創造性が駆動を始め、さらに、そうした方々が増えることによって、やがて、社会を変えるようなイノベーションや技術革新が生じるといった考えであると云えます。」

A:「STEM」に人文系を含むArtの「A」を追加することにより、個人や社会での創造性が駆動し始めるということですか…。なるほど、それは初耳ながら大変興味深い見解ですね。もう少し続きを伺ってよろしいでしょうか?」

B:「ええ、これが重要なところなのですが、人文系を含むアートを取り入れることによって、創造性や感性を育み、理論や理屈だけでは解決できない複雑な問題に対して適切に対応出来る感覚を養うことがその大きな目的と云えます。そして、こうした現象はルネサンス期のヨーロッパともよく似ていると思うのですが如何ですか?」

A:「ルネサンス…文芸復興ですか…?確かに、当時は中世以来のキリスト教的な道徳に縛られない、新たな文化芸術が勃興した時代でしたよね…。」

B:「ええ、そうです。ルネサンスは、単なる新しい文化芸術の発展ではありませんでした。それはAさんもご存知のウンベルト・エーコの「薔薇の名前」からも分かるように、当時は古代ギリシャ・ローマあるいは、それ以前からのさまざまな知識を再発見して、それらを融合させることで創造性を高めていった時代であったのです。そしてまた、現代のSTEAM教育も、社会における創造性の復興を目指しているのだと云えます。」

A:「なるほど…しかし、正直に直言いますと、現在の我が国では、文化や芸術の復興というよりもアニメやマンガあるいはアイドルやゲームといった、所謂サブカルチャーばかりが目立っているようにも見受けられるのですが…。」

B:「ええ、その点については深刻な問題があると私は考えています...。さきほどのアニメやマンガ、あるいはY本のお笑い芸人や*ャニーズのアイドルの方々が、我が国のさまざまな場面で席巻している状態は、たしかに一見すると多様な文化の象徴のようにも見えますが、実際のところそれは、社会全体の創造性を搾取している側面があるのではないかと考えています。」

A:「…それはどういう意味ですか?アニメやマンガやお笑いやアイドルなどのサブカルチャーが社会の創造性を搾取しているということですか...?」

B:「ええ、端的にマンガやアニメをはじめサブカルチャー全般は、より多くの人々から受容されるために直感的且つ単純で理解し易いコンテンツとなってしまう傾向が強く、現実に即した難解なテーマや長期的あるいは多角的な視点を持つ思考を省略しがちであると考えます。また、お笑いに関しても同様に、即物的と云うのか、瞬発力のある笑いを重視する傾向が強く、それが社会問題への真剣な議論や熟考された洞察を後回しにしてしまうといった傾向があるのだと考えます。」

A:「...ええ、たしかにそうですね。サブカルチャー全般は、あまり考えなくても享受できるような「楽しさ」を(過度に)重視しているようにも見受けられますね…。そして、それを継続することによって、人々から能動的な探究心や熟考する力を奪っているということですか?」

B:「ええ、そうです。そうした刺激を受動的に享受し続けていますと、徐々に、その人が本来持っている能動性や、そこから派生する思考や創造性といったものを減衰させてしまうのではないかと考えています…。もちろん、それはさきのサブカルチャー全般だけでなく、今やネット上に溢れている二次元・三次元を問わないポルノ・コンテンツも同様であり、そして、それらのコンテンツが社会に浸透すればするほど、それに伴い、その社会全体の創造性が蝕まれていくのだと考えています。また、そうしたいわば安易な楽しみを重視する刺激の危険性に対して警鐘を鳴らしても、多くの方々は、そうした刺激をもたらす文化事物を「文化の多様性」や「表現の自由」などを盾として、そうした警告めいた主張を「古めかしい家父長制時代の残滓」として断じ、逆に論難してくるのは、前世紀のマンガ文化が勃興しつつあった時代の様相と概ね同様ではないでしょうか…?」

A:「…たしかにそうですね。また、そうした様子は、敗戦などの大規模な挫折があった国や地域においては、比較的多く見られるのではないかと思われますが、その意味において、おそらく、現在の我が国を席捲あるいは代表しているとも云える、さきの一連の文化事物の多くも、その淵源は敗戦直後のドサクサ期に力をつけてきたものが多いようですからね…。そして、それが社会に主要な娯楽文化として定着したのは我が国の復興目指しい時代でしたから…まあ「国も順調に栄えつつあるのだから、そうした文化などに、いちいち目くじらを立てなくとも良いのではないか?」といった余裕もあったのでしょうが、しかし、その後、その娯楽文化が、さらに広汎に社会に認知されて人気を博するようになりますと、我が国の経済的な力が衰えてきて、やがて、前世紀末頃からは、今なお続く「失われた30年」が始まりましたので、見方によれば、そうした娯楽文化の多くは、新たな文化様式の創造に寄与することが出来なかった、あるいは寄与する性質を持っていなかったのではないかとも思われますね…。」

B:「ええ、今Aさんが仰った歴史的経緯の読みに私も同意します。かつてのヨーロッパでのルネサンスが古代以来の知識の再発見を通じて創造性を駆動させて社会を変化させたのに対して、現代の我が国では、娯楽文化化したサブカルチャーをイタズラに称賛、そして消費することで、未来に生じるかもしれない創造性が浪費されてしまったのではないかと考えます。そしてまた「このままだと我が国はマズいことになるのではなか?」といった危惧も抱かせます。」

A:「そして、その対策として、さきほどのSTEAM教育があるといった認識で良いのでしょうか?」

B:「ええ、そうです。STEAM教育は、若い世代に能動的に探究心と創造性を育み、取り戻させるための取り組みと云えます。そして、それによってサブカルチャーに頼らない、文化的教養によって、もう一度、我が国の社会に活力や創造性を取り戻すことができるのではないかと考えています。」

A:「確かに、それが実現できれば、もっと広い視野で物事を考えられる人材が育ちそうです。ただ、制度を変えるには時間がかかりますよね。もっと短期的にできる取り組みとして、どのようなものが考えられますか?」

B:「短期的には、教育現場での『横断型プロジェクト』を導入することが効果的だと思います。例えば、学生が複数の分野の知識を組み合わせて社会課題を解決するような課題に取り組む場を設けることです。これにより、自然に分野間のつながりや創造性の重要性に気付くことができます。また、企業や自治体との連携によるインターンシップやフィールドワークも良いでしょう。実社会において分野の垣根を越えて活動することの意義を体感できるはずです。」

A:「なるほど、現場レベルから変化を促す取り組みですね。それは現実的で効果がありそうです。ところで、先生ご自身は、これまでのご経験や研究を通じて、特に重要だと感じる創造性の要素は何だと思われますか?」

B:「そうですね…。創造性の本質は、多様性と好奇心にあると考えています。異なる背景や考え方を持つ人々と接することで新しい視点が得られ、それが創造の種となります。また、自分が興味を持ったことに対して深く掘り下げる好奇心は、その種を育てる肥料のようなものです。ですから、多様性を尊重し、好奇心を刺激する環境をいかに整えるかが、創造性を育む鍵になるでしょう。」

A:「多様性と好奇心…。それは、教育だけでなく職場や社会全体でも意識されるべき視点ですね。本日は本当に多くの示唆を頂き、感謝いたします。このお話をぜひ他の方々にも共有したいと思います。」

B:「そう言っていただけると嬉しいです。お役に立てたのなら何よりです。どうぞ、また何かあればいつでもお尋ねください。」






B:「確かにその意見も一理ありますが、私はむしろ、マンガやアニメといった娯楽文化を高等教育からは一定の距離を置くべきではないかと考えています。これらのメディアは大衆文化としての役割を果たしていますが、それを高等教育に組み込むことは、本来の学問の厳密性や深みを薄めてしまう可能性があるのではないでしょうか。」

A:「なるほど。つまり、安易に娯楽文化を高等教育に組み込むことで学問の本質が損なわれてしまう可能性がある、ということですね…。では、その主張にはどのような背景があるのですか?」

B:「まず、マンガやアニメは、その性質上、簡略化された表現やストーリーで大衆にアピールすることを目的としています。一方、高等教育は、深い洞察や厳密な論理、そして複雑な現象を捉える力を育む場です。マンガやアニメを教育に組み込むと、学生が物事を表層的に捉え、安易に満足してしまうリスクが高まります。」

A:「確かに、それは一理ありますね。特に、マンガやアニメが感情に訴える要素が強い分、冷静で論理的な思考が後回しになりがちかもしれません。」

B:「そうなんです。さらに、これらのメディアは、瞬間的な感情の高まりや娯楽性に重きを置いており、長期的な視点や批判的思考を育てるには不向きです。高等教育においては、物事を長期的かつ多角的に分析する力を養うべきであり、それを阻害する可能性のある要素は排除すべきだと思います。」



B:「確かに、それらが初等教育や中等教育において興味を引き出すためのツールとして使われることには一定の効果があるでしょう。しかし、高等教育の場では、それ以上に高度で深い議論や研究が求められます。そのため、マンガやアニメを持ち込むことは、むしろ学生の知的成長を妨げる可能性が高いのです。」

A:「具体的には、どういった点が学生の知的成長を妨げるとお考えですか?」

B:「例えば、一次資料や原典に触れる機会を増やすことです。学生には、自分の手で資料を読み解き、考察する経験を積ませるべきです。また、討論やディベートのような場を設けて、学生同士が互いの意見を深め合う環境を作ることも有効です。」

A:「確かにそれは重要ですね。ただ、マンガやアニメが提供する娯楽文化そのものが日本の重要な産業である点についてはどうお考えですか?」

B:「その点については、経済的な価値を否定するつもりはありません。しかし、それはあくまで娯楽としての価値であり、教育の場にそのまま持ち込むべきではありません。高等教育が目指すのは、知識や技術の高度な習得だけでなく、それを支える深い思索や批判的な視点の育成です。これらは、娯楽文化とは根本的に異なる方向性を持っています。」

A:「つまり、高等教育は独自の役割を果たすべきであり、娯楽文化とは分離されるべきということですね。その一方で、学生たちが学びに対する意欲を失わないようにするための工夫も必要ではないでしょうか?」

B:「もちろんです。そのためには、教育の中身をより充実させることが求められます。例えば、学問的なテーマをより身近な事例と結びつけたり、フィールドワークやプロジェクト学習を通じて実践的な学びを提供したりすることが有効です。」

A:「実践的な学びを重視することで、娯楽文化に頼らずとも学生の興味を引きつけることが可能になる、ということですね。ところで、近年ではデジタル技術の活用も進んでいますが、その点についてはどうお考えですか?」

B:「デジタル技術は教育において大きな可能性を秘めています。特に、高度なシミュレーションやデータ分析を通じて、学生が理論と実践を結びつける経験を積むことができます。しかし、ここでも注意が必要なのは、あくまで教育の質を高める手段として技術を使うべきであり、単に興味を引くための娯楽的な要素に偏らないことです。」

A:「そのバランスが重要なのですね。では、先生が考える理想的な高等教育の形とはどのようなものでしょうか?」

B:「私が理想とする高等教育とは、学生が自ら考え、行動し、社会に貢献する力を養う場です。そのためには、深い学びと実践が不可欠です。知識をただ受動的に得るのではなく、それを活用して課題を解決する力を育てることが重要です。そして、そのような力を育む環境を整えることが、高等教育の使命だと思います。」

A:「確かにその通りですね。本日のお話は大変勉強になりました。私自身も、高等教育における娯楽文化の影響について改めて考えるきっかけになりました。本当にありがとうございました。」

B:「こちらこそ、非常に有意義な議論でした。また何かあればいつでもご相談ください。」

2024年12月9日月曜日

20241209 クリミア戦争について

クリミア戦争は、19世紀中盤の欧州において、ナポレオン戦争以来の大きな転換点となった出来事と云える。この戦争は、単にロシアとオスマン帝国の間の対立だけではなく、列強諸国の複雑な利害と戦略が絡み合った国際的な衝突であった。

戦争の大きな背景には、衰退するオスマン帝国と、それを利用して南下を狙うロシアの野心がある。また、バルカン半島での民族主義運動は、ロシアにとって、同胞スラヴ民族を保護・支援する名目でオスマン帝国領土に介入する好機と考えた。そして、こうした一連のロシアの動向の先には地中海への進出という大きな戦略的野望があった。しかし、それは西欧列強であるフランスや英国からの強い警戒を招くものであり、特に第二帝政時代のフランスのナポレオン3世は、国内での支持を集めるためロシアとの対立を選び、英国はインドへの航路の安全確保のため地中海の安定を最優先とした。こうした背景からフランス・英国共にロシアの更なる南下を阻止するためオスマン帝国側で参戦した。

1853年7月にロシアがオスマン帝国領内に軍を派遣し、バルカン半島への進攻を開始したことで戦争は始まった。当時の西欧列強は、1815年のナポレオン戦争以来のウィーン体制を維持しようと試みたが、この戦争の勃発により、この体制は崩壊した。ロシアの行動は欧州全体の平和を脅かすものとされ、列強間との対立が一気に表面化した。そこで、外交交渉が試みられましたが、ロシアはこれを拒否して戦争へと突き進んだ。

戦場の中心はクリミア半島であった。特にセヴァストポリ攻防戦は、近代的な兵器や塹壕戦が初めて大規模に使用されたことで、新たな戦争の様相を示した。そして、この戦争では70万人以上が命を落とし、また、戦場の不衛生な環境による感染症での戦病死者数も多く、そうした様子は、写真を掲載した新聞によって速やかに本国に知らされ、近代的な戦争の残酷さが浮き彫りになった。フローレンス・ナイチンゲールは、この戦争を通じて看護活動の重要性を世界に示し、後の近代的な医療制度の基礎を築いた。

1856年、パリ条約によって戦争は終結した。この条約によりロシアは黒海での軍事力を制限され、領土の割譲を強いられた。結果とし欧州諸国の勢力均衡は再編されて、ロシアの影響力は一時的に後退した。一方で、英国とフランスが中心となる、新たなパワーバランスが形成された。

クリミア戦争は近代化された戦争を象徴する出来事であり、同時に国際社会のパワー・バランスを変えた。この戦争からの教訓は、工業化を経た近代の戦争がいかに破壊的であり、また、医療体制がいかに重要かを示している。さらに、国際関係では、列強諸国が新たな勢力均衡を模索するきっかけにもなった。そして、この戦争による影響は、現在なおも続いている第二次宇露戦争の経緯や帰趨を考えるする上においても重要であると云える。

そして最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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20241208 「文明開化の光と影:日本社会の発展と文化的アイデンティティ」開戦の日に寄せて

 明治維新による西洋近代化の影響は、現代の我が国の社会に深く根付いていると云えるが、我々の多くは、この影響の元である明治以降の西洋近代化について、あまり多くは理解していないのが現状と云える。そこから、現代の我が国社会にも影響を与えている西洋近代化、即ち「文明開化」について考え、その本質を理解することは、今後の社会を考えるうえで重要であると考える。

 「文明開化」を考えるに際しては、ある程度、明瞭な定義を付与するのが適切と云える。しかしながら、定義があまりにも厳密であると、現実での変化に定義の方が対応し難くなり、たとえば、円を「中心から円周上の任意の点までの距離が等しい図形」と定義しても、現実世界の円とは常に完璧な形状ではない。そこから、定義に対する柔軟性の重要さは、我々の活力の発現の仕方にも通じるものがあり、時には活力が節約され、あるいはまた別の時には、好んで消費されるといった様相をがあると云える。

 このことをもう少し述べると、活力には、効率を求めエネルギーを節約する性質と、楽しみや快楽を追求して積極的に消耗するといった性質がある。そして、これらの性質が相互に作用し合い、競争が激化したり、生活が複雑化してきたが、概して、我々の社会は進化発展を遂げてきたと云い得る。

 我が国の文明開化とは、19世紀当時の西欧列強からの圧力による外発的な社会変化の典型例であると云える。そして、急激な外圧による影響を受ける過程で、我が国の社会は、それまで自然に行ってきた自らの国・地域の文化伝統を十分に時間を掛けて吸収するだけの余裕を失い、さらに続く西洋からの影響を受容するために、以前からの文化伝統をも放棄せざるを得ない場面が多くなり、そのたびに不安や虚無感を覚え、やがて、ものごとを深くから理解しようとする内発性が徐々に削がれていった。

 そして、我が国で文明開化が進行するほど、我々の生活は競争が激化して、困難を伴うものとなり、他方で幸福度はあまり向上せずに矛盾した様相を示すようになった。そこから、この「文明開化」は一見すると、その後の我々の社会に便利さや繁栄をもたらしたとは云えるが、その反面で、急速な変化への適応によって内的葛藤を強いている。競争が激化し、生活が複雑化する一方で、生存に対する不安や努力の本質といったものは、時代を超えて変わらない点は注目すべきことである。

 こうした状況下で、我が国の文明開化では「外発的な刺激による急速な変化」を特徴とする一方で、内発的な変化に伴う自然な感覚や、その持続性を欠いていたことから、我々は常に文化的な変化のさなかに自らのアイデンティティ(自己同一性)を模索し続けなければならなかった。こうした外発的な変化が与える心理的負担は、現代においてもなお継続しており、それが我が国国民多くの抱える精神的な困難の根源であると考える。

 文明開化により形成され、現在までも続く我が国の社会は、西洋技術による効率化などの恩恵を享受しながらも、文化的アイデンティティ(自己同一性)の喪失などに不安や戸惑いを覚えている。これらを踏まえると、さきの文開化を再評価して、社会が持続可能な発展を実現するためには、一方的に外部からの影響を受容するだけではなく、内発的な文化の成熟を育む努力が必要であるのではないかと考える。

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2024年12月2日月曜日

20241201 読書に関連する記憶と時代精神の変化

 昨日の投稿記事は少し異なりましたが、ここ直近数回は、現在も読み進めているダロン・アセモグルおよびジェームズ・ロビンソンによる「国家はなぜ衰退するのか」を基軸としたブログ記事を作成して、その興味深い点についても述べましたが、後になり、またいくつか思い出すことがあったため、本日はそれについて書きます。

 先日投稿のブログ記事にて、さきの「国家はなぜ衰退するのか」と関連性が認められるものとして、近年特に名高いユヴァル・ノア・ハラリによる一連の著作、そしてジャレド・ダイアモンドによる「銃・病原菌・鉄」をはじめとする一連の著作そして、それらに加えて、宮崎市定や会田雄次、司馬遼太郎などの一部の著作、そしてフレーザーによる「金枝篇」などを挙げましたが、さらに追加して、先日の和歌山訪問による影響であるのか、人文系院生当時、受けていた上野皓司先生による講義のテキストとして朝日新聞出版刊 クライブ・ポンティングによる「緑の世界史」上下巻が指定されて、購入して読んでみたところ、大変興味深く感じられたことが思い出されました。

 そして当時、よく議論をしていた周囲の方々に「緑の世界史」について話したところ「そういった内容であればジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」に近いのではないか?」とのご意見を頂き、さらに「近代経済学や会計学以外の専攻分野の経済学の修士院生であれば「銃・病原菌・鉄」ぐらいの著作は普通は学部時代に読んでいますよ。」とも云われ、当時私はその著作を読んでいなかったことから、負けん気と羞恥心から「いや、しかし私はサミュエル・ハンティントンの「文明の衝突」やポール・ケネディの「大国の興亡」は社会人時代に読みましたが、それらの著作は読んでいますか?」と訊ね返しました…。

 すると、彼らはそれらの書名は知っていたものの、読んではいなかったことから、その裏を取るように議論を続けていると、納得されたのか、険悪な雰囲気にはならずに「じゃあ続きはまた…」といったカタチで終わり、そしてその後も、たびたびこうした議論が為されたことは、当ブログにて何度か述べました。

 しかし、そうしたことを現在進行中の読書から新たな記憶が想起されたことは、これまでに何度か経験しましたが、それでも、なかなか興味深いものがあり「記憶」の面白さについて考えさせられます。そして、そうしたことを考えてみますと、さらに、関連することとして想起されたのは、さきに挙げたジェームズ・ロビンソンとジャレド・ダイアモンドが編著、そしてダロン・アセモグルが分担執筆した慶應義塾大学出版会刊「歴史は実験できるのか」を購入した時のことです。

 当著作は2019年の徳島在住時に購入した記憶がありますが、当時の私は、そのうちの二人の著者が5年後にノーベル経済学賞を受賞することは知らず、ただ、立ち読みをして興味深いと思われたことから購入したわけですが、しかし同時に、現在思い返してみますと、当時既に、さきに挙げたジャレド・ダイアモンドやユヴァル・ノア・ハラリによる著作が書店で平積みされており、そこから出版物を介して、ある種の時代精神のようなものが看取され得たのではないかとも思われます。そして、その後、当著作の執筆者たちがノーベル経済学賞を受賞されたことは、私にとっては興味深いことであると云えます。

 くわえて、直近以外でのノーベル経済学賞受賞の研究は、その多くが数学的なアプローチによるものであり、私にとっては理解が困難な研究テーマばかりでしたが、その意味において2024年のノーベル経済学賞の受賞には、同年の物理学・化学賞の受賞テーマが人工知能についての研究であったことにも通底するレジーム・チェンジあるいは時代精神の変化があったのではないかと思われました。そして、そうした変化があったのであれば、おそらく、その大きな要因は、近年の世界規模でのコロナ禍、第二次宇露戦争、そして昨年からの中東での紛争やさらに不安定化しつつある東アジア情勢といったものがあるのではないかと思われました。
 
 あるいは経済学賞だけについて考えてみますと、端的に、これまでの西洋文明に属する欧米諸国を中心とした国際秩序、異言しますと、16世紀以降からの西力東漸の延長にある国際秩序が以前よりも通用しなくなってきた世界の状況を反映しているのではないかとも思われました。

そして最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年12月1日日曜日

20241130 情報過多の時代で歴史を学ぶ意味について

 現代の社会では、膨大な情報がインターネット上に溢れていますが、個人が、それら全ての情報を閲覧して理解することは、実質的に不可能と云えます。そこで、個人に求められるのは、単に多くの情報を集めることではなく、それらの意味や背景を理解して、重要なものを選択できることにくわえ、それら部分・断片的な情報から対象の全体像を把握することは困難であることから、選択された複数の情報を関連付けて総合化する能力と云えます。そして、そうした能力を得る方法として「歴史を学ぶこと」がきわめて有効であると考えます。

歴史とは、単なる過去の出来事の記録ではなく、ある程度長い期間を通じた社会における、さまざまな事物の変化の様相を理解するための重要な手掛かりであると云えます。歴史を学ぶことで、こうした、さまざまな変化の流れを理解して、そのうえではじめて自らが生きる社会での、さまざまな課題や問題を、より広い視野から認識して考えることが出来るようになるのではないかと考えます。

次に、歴史を学び知ることにより、さまざまな国・地域・時代に対する理解を深め、その視野も広がります。そしてその結果、現在の自らの即自的な価値観のみが絶対ではないことに気がつくようになり、自らのものとは異なる他の文化をも尊重して、柔軟な対応が自然に出来るようになり、そして、こうした行為態度とは、おそらく国際間での対話や活動においても、少なからず良い効果を齎すものと考えます。

また、歴史を学ぶことは、批判的思考力を鍛える訓練にもなります。一つの出来事に対しても解釈が異なる場合があります。そのため、歴史の学習では多角的な視点で資料を検証し、あまり情緒を介さず、客観的な判断をくだす必要があります。この過程によって情報を鵜呑みにせず、分析的に考える力が養われると考えます。そこから、歴史を学ぶ意味や価値とは、さまざまな情報の背景を理解し、それを自らが生きる現在に応用する力を磨くことが出来るようになる点にあると考えます。

現在のような情報過多の時代にあっては、ただ情報を得るだけでなく、それをいかに活用するかが問われます。歴史についての知識は、情報を整理し、ある局面において必要な知恵を引き出すうえで、きわめて効果的であり、そこから過去の出来事(歴史)から敷衍して考える能力とは不可欠であると云い得ます。歴史を学ぶことで、我々はただの情報の受け手ではなく、情報をより本質から理解し、さらには、それを基に発信して、未来をも創造する能力を手に入れることも出来るのではないかと考えます。そして、この能力こそが、これまでの我が国では等閑視され続けてきましたが、国内外共に混乱が続く現在の社会をより深くから理解・認識して、適切な対応をするために不可欠なものであると考えます。最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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2024年11月28日木曜日

20241127 読書とブログ記事作成の効果について

 昨日投稿のブログ記事にて「関東南部は既にして初冬終盤の気配がある」と述べましたが、翌11月27日(水)は、どうしたわけか日中は比較的温暖で過ごし易かったです。また、さきほどまでの読書も進み、先日より読み進めているダロン・アセモグルおよびジェームズ・ロビンソンによる早川書房刊「国家はなぜ衰退するのか」の上巻を読了しました。こうした文庫本は持ち運びには上着などのポケットにも入ることから大変便利ではあるのですが、その反面、文字サイズが小さく、最近では、文字にピントが合い安定して読み進めるに至るまでに、数分程度掛かることもありますが、自分が面白いと感じ、能動的に読んでいる著作については、こうしたピントを合わせる時間が大きく短縮されることがあることを知りました。そして、その著作がさきの「国家はなぜ衰退するのか」上巻でした。続いて、下巻も読み進めていますが、こちらも感覚としては、さきに読了した上巻と同程度の興味を持ちつつ読み進めることが出来ると感じられました。さらに、その後、さきの活字にピントを合わせる時間の検証も兼ねて、書店にて興味深いと思われた著作を手に取り、立ち読みをしてみますと、これもまたすぐにピントが合ったことから、SNSで知り得た情報から入手した著作と、こうした偶然に任せて書店を徘徊して面白い著作を探すことの間には、思いのほかに大きな溝があるのではないかと思われた次第です。しかし、SNSにて知り得た著作も少なからず、自分にとっては興味深いものであり、それ故、大抵は読了まで至っているのですが、しかし、そうしたいわば受動的とも云える書籍選択の仕方一辺倒になってしまいますと、徐々に読書全般に対する能動性も減衰するおそれもあることから、書籍を選ぶ際には、自分にとってある種「課題」的なものと、純粋に自分の読みたいものといった、二つの基準を用いるのが良いのではないかと思われました。そしてまた、ここまで作成した内容もまた、さきに挙げた「国家はなぜ衰退するのか」の主題と関連があるように思われたことから、その時に読んでいる書籍の内容といったものは、同時期に作成する自分の文章にも、浸透して影響を及ぼすこともあるのだと実感しました。とはいえ(どうにか)9年以上当ブログを継続していますが、その背景や基層にある自分の習慣について考えてみますと、それは以前にも何度か当ブログにて述べたことがあると思われますが、やはり読書の習慣であると云えます。しかし、これまでに述べたその見解は、引用記事を別にすれば、あくまでも状況証拠的なものであり、記事作成の時点と同時期に読み進めている書籍の内容が、作成しているブログ記事に影響を与えるといったことは、これまでに意識したことがないことから、何やら新鮮に感じられた次第です。そして、そのように考えてみますと、こうした自分にとって新しい感覚が生じた背景には、これまで比較的長期間にわたり作成してきた当ブログでの引用記事による効果があるのではないかと思われました。引用記事を作成していた期間の最後の方では、さきと似て「自分の文章作成に対する能動性が減衰してしまったのではないか」といったおそれから、引用記事の作成を止めて、現在のような独白形式の文章での作成を始めましたが、しかし、この形式での記事作成を継続していますと、今度は「あの著作のあの部分で引用記事を作成したいな…」などと、また思いつくようになり、現在になりますと、読んで頂いている諸兄姉におかれましては、どうであるか分かりかねますが、自分としては「あれはあれでよいもので、今後も興味深いと感じる記述に出会ったり、あるいは何らかの機会に想起したのであれば、それで引用記事を作成するのは、よいことであるのではないか。」と考えるようになり、そこから、また今後、特に興味深いと思われた記述については、引用記事を作成することにしました。そして最後に、さきに述べた自分にとっての課題図書と自由図書のような感覚について、現在読み進めている自由図書の方は中公新書であり、それなりに読み応えはあるはずなのですが、こちらについては、自分にとって比較的馴染みのある分野(近現代史)でもあることからか、読み進める速度がさきの「国家はなぜ衰退するのか」と比較して、かなり異なることが大変印象的でした。また、そうした感覚を憶えますと、何と云いますか、自らの目や体力などの衰えについての感覚が、そこまで全体的に及んでいるものではないことが実感されて、何と云いますか、諦めや諦念の対極にある「やる気」が湧いてくるのだと思われます…。そこから、複数の分野で、ある程度専門的な書籍を読めるようにしておくことは、そこまで悪いことではないと思われた次第です。
最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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2024年11月27日水曜日

20241126 先日の投稿記事に続いて、読書について

 ここ数週間で急に冬めいて寒くなり、現在は既にして初冬の終盤といった趣すら、ここ関東南部ではあるように感じられます。また、当ブログについても、去る20日以来、新規での記事作成を行ってきませんでしたが、ここ最近の寒さとは関係はないと思われます。しかしながら、たしかに、いつもよりも記事作成に対する熱意は乏しくなってきたとは云えます。とはいえ、これはおそらく一過性のものであり、またしばらく経つと、記事作成をはじめるのだとは思いますが、そうではあっても、このあたりで自らを奮い立たせて作成しておいた方が良いとも、これまでの経験は語ることから、本日、こうして新たな記事作成を試みている次第です…。そして、こうした前口上のようなもので、このあたりまで作成することが出来れば、あとは、主題へと展開する流れになるのですが、この「主題」は、これまでに少なからず作成したブログ記事の骨子となるものであり、それは概ね日中での思いつきや小さな発見などですが、本日については、先日の投稿記事に続き、また現在読み進めているダロン・アセモグルおよびジェームズ・ロビンソンによる早川書房刊「国家はなぜ衰退するのか」についてを主題にしたいと考えています。さて、先日投稿の作成記事にて、さきの著作「国家はなぜ衰退するのか」を「歴史の推移の様相を複数示して、それらから抽出される見解を述べるスタイル」と述べ、そして、それに続き、類似した書きぶりがあると思われる研究者・著述家を数名挙げましたが、後になり、そこに重要な著作を入れ忘れたことが思い出されました。それは、これまでにも当ブログにて何度か取り挙げたことのあるJ・G・フレーザーによる「金枝篇」です。この著作は、以前、修士論文の作成の際にいくつかの版で読みましたが、当著作の書きぶりが、歴史の様相とまではいかないものの、古今東西のさまざまな風習の様子や、それらの起源などについての概説を述べると云った書きぶりであり、そして、そこから、ある種の見解を抽出しようとする、以前に述べた、モザイクのピースのように並べたさまざまな風習から、ある大きな意味を見出そうとする、そのスタイルは、前出の「国家はなぜ衰退するのか」および、その系譜にある諸著作とも通底するものがあると考えるのです。さらに言い換えますと、こうした複数の具体例を並べ、それらから共通する見解を見出そうとする手法を「帰納法」というのですが、この帰納法では、一般的に参照されたデータの数、情報量が多い方が精確さが高くなると云えますが、他方で効率よく情報の収集をする場合には、あまり適した方法とは云えません。つまり、帰納法による見解の抽出とは、その見解がある程度の水準にあると云えるようになるまでには、対象とする分野や課題にもよるのでしょうが、比較的長い時間を要するのではないかと思われます。そしてまた、我々が一般的に用いている「学び」や「学ぶ」とは、概ね、こうした情報の蓄積が身体化されたことを指すと考えますが、この段階において、技術・手技が付随するのが、医療系や多くの自然科学系系分野での「学び」であると云えますが、そうした事情から、これら分野においては、そこで使われるコトバと、それが指し示す実体との関係が比較的確固としたものであると云えますが、これがおそらく人文系であると、そうした確固とした、コトバとモノの関係を身体感覚として実感することが困難であることから、それが重なって、現在の混乱しつつある我が国のようになっているのではないかと思われるのです…。また、このことは過日の和歌山訪問の際においても話題になったことでもあることから、また少し書きぶりを変えて、このことについても少し述べたいと考えています。また、これは蛇足的な私見になりますが、さきの、さまざまなものごとの推移の様相を帰納法的な視座から認識されたものこそが柳田国男が述べた「予言力」に近いものであり、また同時に、橋川文三が述べる「歴史意識」にも同様に近いものであるのではないかと考えます。そして、こうしたものを徹底的に排除してきたさきに、インターネットによって情報化された社会に姿を現しつつあるのが「ポピュリズム」であるということは、やはり悲劇的なことであるのではないかと私には思われます…。
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2024年11月21日木曜日

20241120 最近読んでいる著作とその系譜および、ここ一週間について

 過日のノーベル経済学賞受賞で、さらに広く知られるようになったマサチューセッツ工科大学のダロン・アセモグル教授とシカゴ大学のジェームズ・ロビンソン教授による早川書房刊「国家はなぜ衰退するのか」を先日購入し、現在、上巻の四分の三程度まで読み進みましたが、こうした、さまざまな歴史の推移の具体的なケースを示す書きぶりは大変興味深いものがあり、また、その系譜にはユヴァル・ノア・ハラリによる「サピエンス全史」をはじめとする複数の著書、あるいは現在となっては往年の名著とも云い得るジャレド・ダイアモンドによる「銃・病原菌・鉄」をはじめとする同様の複数の著作があると考えますが、これらの著作については、これまで当ブログをお読み頂いた方々はお分かりと思いますが、少なからず、それらから引用記事を作成しており、またそれらの元著は大抵読了まで至っていますので、私は少なくとも数年前より、こうしたモザイク式に歴史の推移の具体例を並べ、それらから何らかの見解を抽出するような書きぶりに興味を持っていたことが分かります。しかし、そのように考えてみますと、こうした書きぶりは、専門である西洋ルネサンス史を基軸として、我が国のさまざまな時代の出来事や様相との対比を書いた会田雄次や、東洋史の視点から我が国の歴史や特徴などについて述べた宮崎市定や、主に小説以外での司馬遼太郎の諸著作などとも通底する要素があるようにも思われ、また同時に、それら著作は、さきの「数年前」から、さらに以前より好んで読んできたと云えますので、そうした人文学におけるスタイルがノーベル経済学賞を受賞したこともまた、個人的には興味深いと考えています。

 とはいえ、冒頭で挙げた現在読み進めている「国家はなぜ衰退するのか」の内容は、決して楽観的なものではなく、逆に、現代を生きる我々に迫ってくる、過去の愚かでいたましい歴史の推移が羅列されているようで、読んでいますと徐々に気が滅入ってくるような感覚もあります。そして、この「気が滅入ってくる」とも関連があると云えますが、当著作を読みつつ、さらに現在の先が見通せない世界情勢について考えてみますと、去る9月12日の和歌山での勉強会においても、そうしたことがことが話題になっていたことが思い出され、そこから、この勉強会を主催され、長年お世話になっている人文系研究者の先生に、この「現在の我が国を含む世界の不安定な状況」についての、さらなる見解をお聞きしたいと考え、問い合わせたところ、ご多忙のなか面談時間を頂くことが出来たことから、早速訪問し、対談させて頂きました。そこから、以前より少し観念的な視界がクリアになった感がありましたが同時にまた、その視界とは、未だ精確にピントは合っていないながらも、概観としては、必ずしも楽観視出来るようなものではないことから、昨今の不安定化する世界情勢に対する懸念や不安は少しも減ずることはありません。そして、こうした状況においては何故か、私にブログ記事作成を促すことはなく、数日間なかば呆然としていましたが、その後、いくつかの先日の対談に基づいた対談形式の文章を作ってみたものの、いずれも完成に至っていないのが、ここ直近の一週間であったと云えます。しかしやはり、このあたりでひとつブログ記事を作成した方が良いと思い、考えたのが今回の記事と云えますが、こうして作成してみますと、その時に思い、考えていることを多少は考慮して、出来るだけ正直に述べることが、こうしたブログをオリジナルの文章によって継続する方法であったことが、今さらながらに思い出され、少し恥ずかしく思いました…。

 そして、今後も先述した未完成の対談形式の文章に手を加えて、出来るだけ速やかに投稿の予定です。最後に、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年11月17日日曜日

20241117 過剰な砂糖の摂取について

 過剰な砂糖の摂取が健康に悪影響を与えることは広く知られていますが、特に問題視されるのは食品や飲料に人工的に加えられた「添加糖」です。添加糖は、肥満や2型糖尿病・高血圧など多くの慢性疾患のリスクを高めることが数々の研究で示されています。さらに、妊娠期から子どもが2歳になるまでの「最初の1000日間」における砂糖の摂取が、子どもの将来的な健康に影響を及ぼすことが近年の研究で明らかになっています。

 学術誌「サイエンス」に掲載された研究によると、妊娠期から幼少期にかけての1000日間に砂糖の摂取量を減らすと、子どもの成人後に2型糖尿病のリスクが約35%、高血圧のリスクが約20%減少する可能性があると報告されています。また、2型糖尿病の発症を平均で4年、高血圧は2年遅らせる効果もあるとされています。この研究は、英国で第2次世界大戦中に導入された砂糖やお菓子の配給制度が1953年9月に終了した時期のデータを用いており、配給制度の影響を受けた妊婦や幼児の後の健康状態を追跡調査しました。

 戦時中の配給制により、当時の英国では成人の1日あたりの砂糖摂取量が40グラム程度に制限されていましたが、配給制が終了するとほぼ倍の80グラムに倍増しました。研究者たちは配給制終了前後に生まれた6万人以上のデータを分析した結果、配給中に妊娠や出産を迎えた乳児は肥満のリスクが約30%低下し、配給制終了後に生まれた乳児は2型糖尿病や高血圧のリスクが増加する傾向があることを確認しました。さらに、妊娠期や幼少期の砂糖制限は、子どもが生涯にわたって甘いものを好む傾向を抑える効果があることも示されています。

 テネシー大学のマーク・コーキンス教授によれば、人間は生まれつき、甘味に対する好みを持っているが、過剰な砂糖摂取は代謝に悪影響を与え、体が糖を脂肪として蓄えやすくなると指摘しています。人類は古来より果物など自然の糖を摂取していましたが、精製された砂糖は非常に濃縮されており、現代ではチョコレートケーキなどの甘味が簡単に手に入るため、ほとんどの人が無意識のうちに過剰摂取しているのです。このような環境により、体は飢餓に備えて糖を脂肪として蓄えようとする一方で、実際には摂取過剰が原因で肥満や生活習慣病のリスクが高まっています。

 現代の食生活においては、加工食品や清涼飲料の消費が増えており、これが過剰な砂糖摂取の主な要因です。例えば500mlのソフトドリンクには20~40グラムの砂糖が含まれており、これだけで1日の摂取目安量を超える場合があります。WHO(世界保健機関)は1日のカロリー摂取のうち砂糖を10%未満、できれば5%未満に抑えることを推奨していますが、実際には多くの人がこれを超えています。また、米国の食事ガイドラインでは、2歳以上の人々が1日あたりの砂糖摂取量を総カロリーの10%未満にすることが求められていますが、特に妊娠中や授乳中の女性は1日80グラムを超える添加糖を摂取しており、推奨量の3倍以上に達しています。

 こうした砂糖の過剰摂取を防ぐため、さまざまな対策が求められています。まず、食品パッケージの栄養成分表示を改善し、消費者が糖分の含有量を一目で確認できるようにすることが重要です。糖分表示が明確になることで、消費者が自分で適量を意識して選ぶ手助けとなるでしょう。また、学校や家庭での栄養教育も重要です。砂糖が過剰に体に入るとどのような影響があるかを広く理解してもらうことで、子どもが早い段階から健康的な食習慣を身につけ、将来の健康リスクを軽減できるようになります。

 さらに、砂糖を多く含む食品に対する課税や規制を導入することも、効果的な対策とされています。こうした政策によって、消費者が無意識のうちに低糖食品を選びやすくなるだけでなく、食品メーカーも砂糖控えめの製品開発に取り組むようになります。飲食業界もまた、健康的なメニューや砂糖控えめのオプションを提供することで、消費者が自然にバランスの取れた食生活を選択できる環境づくりに貢献できるでしょう。

 個人レベルでも、甘い飲み物やお菓子を控え、糖分の少ない食品を選ぶ意識が重要です。また、購入する食品のラベルを確認し、添加糖の摂取量を把握することで、将来的な健康リスクを管理することが可能です。こうした食生活の工夫は、個人の健康を守るだけでなく、家族や次世代の健康を守るためにも大きな意味を持ちます。

 砂糖は体に必要なエネルギー源ですが、過剰摂取は慢性疾患のリスクを高める原因となります。特に妊娠期から子どもが2歳になるまでの1000日間は、子どもの将来の健康に影響を与える重要な時期であり、この期間の砂糖摂取量を適切に管理することが推奨されます。政府や食品業界、そして私たち消費者が一体となり、適切な砂糖摂取を実現するための環境を整えることは、より健康的な社会の実現に向けた第一歩です。

2024年11月12日火曜日

20241112 次亜塩素酸水について

 次亜塩素酸水は、次亜塩素酸(HClO)を主成分とする水溶液であり、医療や介護、食品加工、家庭など、さまざまな場面での消毒に用いられています。次亜塩素酸は、人体の免疫システムにおいても生成されるものであり、それが細菌やウイルスを除去する働きがあることから、人体に対して安全であり、安心して消毒に用いることができます。

 次亜塩素酸水は、塩化ナトリウム(食塩)や塩酸を電気分解することで生成されます。また、次亜塩素酸ナトリウムを希釈する方法もありますが、この方法で生成されたものは消毒効果が不十分であり、さらに有害な残留物が残る危険性があるため、正しく生成されたものを選択することが重要です。

 さて、次亜塩素酸水は、pH値と有効塩素濃度によって「強酸性」「弱酸性」「微酸性」の3種類に分けられ、それぞれ用途に応じた使用方法が求められます。

①強酸性次亜塩素酸水(pH 2.7以下)は、短時間で多くの病原体を殺菌する力があり、医療機器や施設の消毒に使われます。ただし、酸性度が高いため取り扱いには注意が必要です。

②弱酸性次亜塩素酸水(pH 2.7〜5.0)は、食品加工や厨房の消毒に適しており、安全性が高く扱いやすい点が特長です。

③微酸性次亜塩素酸水(pH 5.0〜6.5)は、ほぼ中性に近く、食品や農産物の洗浄に適しており、日常的な消毒にも安心して使用できます。また、人体や環境に優しいことから、家庭での使用にも適しています。

 次亜塩素酸水の高い消毒力は、細菌やウイルスの細胞膜に直接作用して、酸化反応により、タンパク質や脂質を破壊するためです。その効果は、短時間でほとんどの病原体を死滅させることが可能であり、さらに耐性が強いとされる芽胞菌やカビに対しても効果的であることから、先述のように医療現場をはじめ、各分野にて消毒・感染症対策として多く用いられています。また、次亜塩素酸水は使用後には塩、酸素、水に分解されて、食品や器具に残留物が残らず、安全性も極めて高く、実際、微酸性次亜塩素酸水を使って処理した野菜や果物は、栄養価や風味にほとんど影響がないことが確認されていることから、食品の安全管理の場面においても多く用いられています。

 次亜塩素酸水は、さまざまな場面で使用されており、たとえば、嘔吐物の処理やトイレ掃除などには、500〜400ppmの原液をそのままスプレーすることで、菌やカビ、嫌な臭いを防ぐことができます。ただし、金属に用いる場合は、金属の腐食を防ぐため、スプレー後に水道水ですすぐことを忘れないようにしましょう。また、キッチンでは100〜200ppmに希釈した次亜塩素酸水を、まな板やスポンジ、ボウルなどの除菌に活用することができます。三角コーナーにスプレーしておけば、生ゴミの嫌な臭いを抑える効果もあります。テーブルやドアノブの除菌にも役立ちますが、色落ちのリスクがあるため、最初に目立たない場所で試しに用いてから使用するのが安全です。

 さらに、50ppm程度に薄めた次亜塩素酸水は、加湿器に入れて噴霧することで、室内の空間除菌と消臭を手軽に行うことができます。携帯用スプレーボトルに入れて持ち歩けば、外出先でも手軽に除菌・消臭が可能です。また、口腔ケアとしてもうがいや鼻うがいに使用することができ、虫歯や歯周病、口臭予防にもとても効果的です。

 次亜塩素酸水は、感染症対策にも非常に効果的です。ノロウイルスは感染力が強く、家族内で感染が広がるリスクがありますが、次亜塩素酸水は同じ濃度の次亜塩素酸ナトリウムと比べて数十倍の効果があることが確認されています。また、次亜塩素酸ナトリウムのように漂白作用が強くないため、衣類やカーペットにも安心して使用できます。ただし、次亜塩素酸水は有機物と接触するとすぐに反応して効果が落ちるため、ノロウイルス感染者の嘔吐物や排泄物には、まず汚物を取り除き水拭きをした後に、次亜塩素酸水で仕上げの除菌をするのが効果的です。この際、手袋とマスクを着用し、使用後の雑巾は廃棄するか、再度次亜塩素酸水で除菌することが推奨されます。

 また、インフルエンザ対策としても次亜塩素酸水は有効です。消毒用エタノールは手荒れの原因になることがあり、次亜塩素酸ナトリウムは皮膚に使用できませんが、次亜塩素酸水は皮膚に優しく、手やドアノブの消毒に安心して使えます。さらに、超音波式の噴霧器を用いて室内に散布すれば、空間全体の除菌が可能です。

 次亜塩素酸水は光や温度の影響を受けやすく、劣化しやすい性質があります。そのため、冷暗所にて密閉容器で保存することが推奨されます。特に日光にさらされると、効果が低減するため、遮光性のある容器で保管するのが理想的です。また、使用する際は、用途によって適切な濃度を確認して製品を選ぶことで効果を最大限に発揮できます。

 このように、次亜塩素酸水は、その高い除菌力と安全性から、さまざまな場面において有益です。環境に優しく、残留物が少ないため、持続可能な消毒方法として、今後、さらに多くの分野での活用が期待されています。正しい知識を持ち使うことで我々の生活を清潔に保ち、感染症の予防にも効果を発揮するでしょう。

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2024年11月11日月曜日

20241110 内部衝迫や葛藤の昇華・善用がブログ記事の作成?

 これまでの総投稿記事数は2,287記事に達しており、年内もこのペースに記事作成をすれば2,300記事への到達はそれほど困難ではないと云えます。そのため、年内の目標総投稿記事数は20記事を足して、2,320記事にしたいと考えます。

 さて、ここ1週間は引用記事ではなく、自分の文章でブログ記事を作成してきましたが、始めてみますと、それほど難しくはないように感じられました。しかし、これを毎日続けるとなると、やはり状況は変わってくるかもしれません…。そういえば、当ブログをはじめた2015年から2018年にかけての約3年間は、ほぼ毎日記事を作成していたことが思い出されます。また、当時は常に眠気と戦っていた記憶もあり、おそらく平均睡眠時間は現在よりも短かったと思われます。さらに、平日は営業活動で日中は動き回っており、身体の疲労もそれなりにありました。

 そうした状況で、ほぼ毎日ブログ記事を作成していたという事実を現在振り返ると、それは、純粋な能動性からの行動というよりも、何か強い内部衝迫に突き動かされていたように感じられます。言い換えれば、「ブログ記事を書かなければ自分が消えてしまうのではないか」という一種の恐怖感が私を駆り立てていたのでしょう。しかし、その感覚も記事作成を継続するうちに徐々に薄れていき、現在では、あまり意識されることもなくなりました。ただ、数日間記事作成をしていないと、不図、その感覚が甦ります。おそらく、内心では「もう2,000記事以上も書いたのだから...」といった思いが強まっているのかもしれません。しかし、それでもなお、この
内部衝迫や葛藤は完全に消え去ることはなく、今なお私をブログ記事の作成に駆り立てています…。

 こうした内面での葛藤が私の中に根付いたのは、鹿児島に在住していた期間であったと思われます。それ以前の実家や北海道、和歌山での生活では、同様の葛藤はあったものの、それが表面化して能動的な行動に結びつくことはありませんでした。つまり、鹿児島での生活が私に何らかの変化をもたらし、約2年かけて内面での衝動が強化され、2015年に当ブログを始めるに至ったのだと云えます。また、その直接的なきっかけは、以前にも当ブログにて述べたとおり、同時期に複数の周囲の方々から「何か文章を書いてみてはどうか」と勧められたことではありますが、その背景・基層には、先述の鹿児島在住時に埋め込まれた葛藤があります。

 その葛藤とは、具体的には2009年に兄が亡くなり、2010年に指導教員が退職したことが大きく、主たるものであり、もし、これらの出来事がなければ、私の博士課程院生時代はもっと平穏であり、あるいは、もしかすると、その後の人生も同様であったのではないかとも思われます。しかし、現実にはさきのような出来事があり、そして学位取得までの過程では、これらの嫌な出来事に押し潰されないように、自分の生命の燃焼程度を強くして、何とか乗り切ることが出来ました。しかし、その後は、いわゆる「燃え尽き症候群」のような状態に陥り、そして、そこから逃れるために周囲の勧めもあり、当ブログを始めたのだと云えます。

 そこから、これまでの当ブログでの一連の記事作成は、内面の葛藤と向き合うための手段であり、また同時に自分自身を救う道であったとも云えます。そして今後、
開始の2015年から10年に達する程度まで当ブログを継続することにより、新たな内面での良い変化や発見があるのではないかとも思われます。そしてまた同時に、程度はどうであれ、これまでとは異なった種類の自己実現に至ることが出来れば、それはそれで僥倖と云えると考えています…。

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2024年11月8日金曜日

20241107 内心の文章化と自己同一性について

 直近二回の投稿記事は人工知能(ChatGPT)も用いずに久々に作成したものですが、その後両記事共に、思いのほかに多くの方々に読んで頂き、その数は、引用記事の平均よりも多く、また、先日の宣言もあり、今しばらく自らの文章による記事作成を続ける意欲が湧きました。これらの記事を読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。

 また、両記事ともに即興にて作成したものではあるのですが、同時にそれらは、以前から薄々と考えていたことでもあり、おそらく、以前にも当ブログにて類似したことを述べていたとは考えますが、こうした内心で考えていることの(できるだけ適切な)言語化とは、意識化して記憶に留めると云う意味において、何かしら良い効果があるのではないかと思われました。

 そして、その視座から、昨今の引用記事を主としたブログ記事作成は、それはそれで、良い効果があったと考えますが、書籍の記述といった抽象的なものでなく、自らの直接の経験に基づいた文章の作成は、その過程で記憶が励起されて、さらに、それに付随した記憶が想起されることも多く、これにつきましては、先日久々に経験して我がことながら驚かされました…(笑)。ヒトの記憶とは面白いものです。

 また、ここで興味深いことは、そこで当初の記憶の文章化に付随して新たに想起された記憶もまた、当初の記憶と同程度に、そこに疑念がないことです。そして、このことは思いのほかに重要であり、おそらく、こうした感覚(記憶への信頼)があるからこそ、我々は個人であれ、あるいはさらに大きく地域や国などの集団であれ「自己同一性」を保つことが出来るのだと考えます。そして、この自己同一性とは、ある一時の状況を指すものではなく、意識の時間的な連続によって担保される性質があると考えます。つまり、ある種「モノガタリ」のような性質を持ちつつも同時に、それを持つ個人・地域・社会が、そこに拠って立つ根拠となるものだと云えます。

 それ故、国同士の歴史認識をめぐる問題とは、その認識の仕方によっては、あるいは、それまでの自らが紡いできた歴史が変えられてしまい、国としての自己同一性が損なわれてしまうこともあることから、多くの場合、当事国同士合意に至ることが難しいのだと思われます。また、これは個人においても同様であると考えますが、個人であれば、自己同一性を巡る認識の問題とは、まだ柔軟に解決できることが多いと思われますので、それよりも自己内部における問題として葛藤が続くといったことの方が多いのではないかと思われます。

 そして、そのことは、まさしく私が当ブログを始めて、そして現在に至るまで(どうにか)継続している主な要因であると云えることから、さきに述べた内心の考えの(出来るだけ率直な)言語化とは、葛藤を燃料としつつ、さらにそれを昇華させるような作用があるのだと思われますが、その先については今のところよく分かりません。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

ChatGPTによる加筆修正を加筆修正したもの
 ここ最近、引用記事や人工知能(ChatGPT)を用いず、久しぶりに自らの文章にて数記事作成しました。結果、思いのほか多くの方々に読んで頂けました。その閲覧者数は、これまで多く投稿してきた引用記事の平均よりも多く、くわえて、先日「自分の言葉で書き続ける」とブログにて宣言したこともあり、今しばらくオリジナル記事作成の意欲が湧いてきました。当記事を読んでくださった皆さまどうもありがとうございます。

 さて、昨日の投稿記事は、即興にて作成したものでしたが、それと同時に以前からぼんやりと考えていたテーマでもありました。あるいはまた、以前に作成した記事でも同様の内容を述べていたかもしれません。しかし、いずれにせよ、できるだけ精確に内心を言語化することは、言語化により記録されて記憶に刻まれると云う意味で精神に良い効果があると考えます。

 また、ここ最近は引用記事を主として作成・投稿してきましたが、それらは基本的に書籍内の記述です。一方、自分の経験をもとに記事を作成していますと、その過程で思いがけず過去の記憶が想起され、さらに、それに付随する他の記憶も想起されてくるのです。そして先日は、久しぶりにそれを実体験して、我がことながら少し驚かされました(笑)。ともあれ、人の記憶というものは、本当に不思議なものです。

 そして、それと同時に大変興味深いことは、こうした記憶を文章化する過程で新たに思い出された記憶が、最初の記憶と同様にそこに疑念がないことです。このことは大変重要であり、こうした記憶への信頼があるからこそ、私たちは個人として、あるいは集団として、自己同一性を保つことができるのだと思います。自己同一性とは、一瞬の状況だけでなく、時間を通じて意識が連続することで成り立つものです。いわば「物語」のようなものが、その人や地域、社会にとっての存在の拠り所になります。

 だからこそ、国同士の歴史認識をめぐる問題は、それが単に過去の事実の理解に留まらず、それぞれの国が紡いできた歴史に基づく自己同一性に大きく関与することから合意に達するのが難しいのだと思われます。これは個人の場合でも概ね同様であるのですが、個人である場合は、まだ柔軟に解決できる余地があるため、対外的な対立よりも内面的な葛藤として現れることが多いように思います。

 そして、このような内面の葛藤こそが、私がブログを始め、現在も続けている理由の一つです。先ほど述べたように、自分の内心をできるだけ率直に言葉にして表現することには、葛藤をエネルギー源として、それを昇華させる効果があると考えますが、その先に何があるのかについては、正直なところ、今の時点ではよくわかりません。ともあれ、今しばらくは当ブログを続けます。

そして今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年11月6日水曜日

20241105 読む書籍が変ると、意識もまた変わることについて(途中から対話形式)

 現在もいくつかの書籍を読み進めていますが、考えてみますと、2022年2月に勃発した第二次宇露戦争以降、購入する書籍をエックス(旧ツイッター)上にて見つけることが多くなりました。それ以前であれば、周囲のご意見から、あるいは、感覚的な立ち読みなどで見つけていましたが、4年前の新型コロナ禍に続く第二次宇露戦争、そして今なお戦闘・緊張状態が続いている中東、アフリカ、中南米の国々といった国際情勢は、大げさでなく、第二次世界大戦終結以降、最も混乱している状況と云えます。そして、そうした状況を出来るだけ精確に知るためには、海外報道機関による情報は、とても有益であり、それらの報道動画を視聴し、そこで述べられていた情報と関連する、我が国のアカデミアやシンクタンクなどの調査研究機関が運営するサイトの動画を視聴して、そこで納得出来る見解を示す研究者が著した著作が紹介されていますと、後日の書店訪問の際には、やはり、立ち読みして購入に至ることも多く、これが、冒頭で述べた「購入する書籍をエックス(旧ツイッター)上にて見つけることが多くなった」背景にある主たる事情と云えます。そして、そうしたことから、自然と読む書籍の分野は国際関係論や近現代史関連が多くなりましたが、先日、不図、気になったた谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡」を読んでみますと、さきの国際関係論や近現代史などの著作で述べられている文章とは異なった深度で文章について考えるようになり、また、おそらく、その深度での考えが、本来の我が国の言葉での「考える」を意味したのではないかとも思われるのです。そして、そこでの語彙からは、どうしたわけか、自然と和歌山や鹿児島での古くからの地名や、当地の郷音での話し言葉のイントネーションが想起されるのです。また、そうしたことを文章としていますと、今年の春に鹿児島へ訪問した際のことが想起されました。それは鹿児島での歯科理工学会が開催された日の晩の歯系院時代にお世話になった先輩の先生との会話です。そして、その会話を再現したものを以下に示します。

私「**先輩、それじゃあ今日は早めに医院を閉めて天文館までいらしたのですか?」

先輩「いや、早くには閉めれんよ…。閉めてから大急ぎで準備して来たのです。あとは照国の会館にちょっと用事があって、それも済ませてきました。そういえば、**さん(私のこと)は、あそこの歯科技工専門学校に**先生と一緒に歯科理工学の実習を教えに行ってましたね。あ、あそこの歯科衛生専門学校にも求人票を出さないと…。」

私「…開業医の先生ともなると色々と大変ですね…。あと**先生によると先輩の歯科医院は歯科衛生学校の臨床研修先になっているとお聞きしましたが...。」

先輩「そうなんよ、まったくかなわんよ…。でも、歯科衛生学校といっても、さっきの照国の方じゃなくて、もう一つの方の学校で、あそこは**さん(私のこと)が院生だった頃、**先生の代わりで1年間、歯科英語の講義したことがあったでしょう。」

私「ええ、そうです。あれは2012年でしたね。しかし、あれから12年も経つと、先輩の医院がそこの臨床研修機関になるのですね…(笑)。でも、私があそこで歯科英語の講義をさせて頂いた時、学生さんは皆、年頃らしく快活で元気でしたから、おそらく、あの子達はその後、良い歯科衛生士になったと思いますよ。」

先輩「うん、少し前までは照国の学校を出た衛生士さんの方が優秀だと云われていたけど、最近は、こっちの学校を出た衛生士さんも優れているってよく聞きますので、まあ両方の学校が共に良くなってくれれば、こちらとすれば云うことなしですよ(笑)。」

私「ああ、そうですね。そういえば、今のお話を聞いていて思い出したのですが、以前、私が歯科英語の講義をしていた頃、桜ケ丘から原付で朝に行っていましたが、講義室に入ると宿題か何かをされている学生さんが多数いて、そのなかで、近くにいた学生が何をやっているのかと、開いたノートを見たところ、そこに短歌らしきものが数首書かれていたため、驚いて「何、君は短歌を作るのですか?」と訊ねたところ、その学生さんは「いえ講義の課題で作りました。」と返答されました。どのような講義であるか分かりませんが、しかし、その学生さんはたしか徳之島か奄美大島かの御出身で、高校の同期が照国の技工専門学校におられました。お二人とものびのびとした立派な体格でしたが、そうした学生さんが短歌を作って、そしてまた歯科英語も、まあ普通に出来ましたね、ただ面白かったのは、私が講義の際によく行っていた、私が教科書の英文を音読して、続いて、その部分を学生さんが繰り返し音読してから和訳を述べて頂く流れのなかで、その課題の短歌を作っていた学生さんに当ててみますと、英文を音読した後に、しばらく間をおいてから、おもむろに音読した漢字を何文字か述べるのです。しかも、その漢字はたしかに、その英文の主な意味を示すものであったことから、少し驚いて「すごいな、英文を漢文に訳す講義であれば、それは正解かもしれないけれど、それを日本語で云うとどんな感じですか?」と問うたところ、それらしい和訳を述べられましたので、まあ、それで良かったのですが、しかし、そうした言葉の用い方について、沖縄や島も含めて、ここ九州の特に南の方では、何だか独特なものがあると思うのです。そして、実際、そうしたことを意見として述べていた谷川健一という熊本出身の民俗学者がいましたが、そのなかで、万葉集などの日本の古代の謡(うたい)の原型は九州南部や沖縄などの南島歌謡にあると述べているのです。そして、そうした見解を介して、私が経験したさきの歯科英語の講義でのことを考えてみますと、何だか深いものがあるようにも思えてくるのです…。」

といった意味のことを私が述べると、その先輩は肘を卓上に置き、もう片方の手でロックの芋焼酎が入ったグラスを口元に当て、舐めるように少しづつ飲みながら、真面目な様子で聞かれていました。

 こちらの先輩は、鹿児島の男性らしく、普段は至極陽気な方であるのですが、時折、私がこうした話をする時は、それが当地の気風であるのか、真面目に聞いてくださることが多く、また内容も分かって、あとで質問もされるのですが、それは自らの文化や風土などが部外者からどのように見られ、考えられているかを知る良い機会と捉えているのかもしれませんが、そのあたりについては今のところよく分かりません…。

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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