2025年11月3日月曜日

20251102 記憶と文章作成との距離について

 当記事を含めて、残り4記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。他方、ここ最近はスランプ気味であり、文章作成への意欲が湧きにくい状態が続いています。それでも、目標まであと数記事であることを考慮すれば、やはりここは、新たに作成・投稿を重ねる方が良いと云えます…。

 さて、ここ数か月内に投稿した記事の中には、継続的に(当ブログとしては)比較的多くの方々に閲覧されているものがいくつかあることに気が付きました。また、それら記事はいずれも、多少、時間を掛けて作成したものであったことに気が付きました。そしてそこから、一つの文章作成手法を思い付きました。すなわち、ChatGPTを援用し、ブログ記事の断片となるような数百字程度の文章を、気軽にいくつか作成しておき、それら文章に日々気が付いた時に少しずつ加筆修正を行い、時間を掛けて推敲し、文量を適度なところまで増やしたうえで、全体を見直して再び加筆修正を行うという手法です。

 この手法の肝心なところは、「時間を掛けて推敲する」その時間の長さにあります。半ば忘れるほどの期間をおき、いわば「寝かせた」文章を記憶が少し薄らいだ頃に改めて読み返すと、不思議なことに、そこからスムーズに加筆修正が進み、意外にも早く、一旦の完成に至ることが多いのです。さらに、投稿後も数日間は時折開いて文章を読み返し、何度か加筆修正を行いますと、何といいますか、それなりに文章として整ってくるように思われます。

 こうして作成した記事が、継続的に(当ブログとしては)比較的多くの方々に読んで頂いていることは、作成者である私にとって喜ばしいことであり、端的に、今回の記事作成へとつながっています。また同時に、ここ最近の投稿記事では、開始当初から文章化したいと考えていることに、少しずつ、にじり寄っているようにも感じられます。換言しますと、作成記事の内容が、当ブログのいわば「源泉の感情」に徐々に近くなっているのだと思われます。

 しかし、不思議なことに、そうした内容をブログ記事として文章化・投稿した後には、何故か強い疲労感を覚えます。さらに、その当時の嬉しくない記憶も想起され、しばらく落ち込み気味になってしまうのですが、それも数日経つと概ね回復して、再び新たな文章作成に取り掛かることができます。そこから考えますと、ブログ記事の題材とする自らの経験の時期は、ある程度、時間的に離れつつも、比較的明晰に眺められる時期こそが、あまり疲労を伴わずにスムーズに文章化することが出来るのではないかと思われます。

 私の場合、具体的にそうした時期を考えてみますと、それは2000年代後半あたりであると思われます。この頃の私の特徴は、読書量が急激に増えたことでした。書籍を読むことと、文章化できる記憶を持つことの関係が、どのようなものであるか、現時点の私には科学的に説明することはできませんが、経験的に、何らかの関係があると思われます。

 また、それらを表わす文字に目を向けてみますと、記憶とはすなわち歴史のことであり、古くは「史」と書いて「ふみ」と読みました。一方で、文章の「文」も同様に「ふみ」と読みます。つまり古では、記憶としての歴史も、それを記した文章も、同じ呼称「ふみ」であったのではないかと思わます。このことは以前にも当ブログで述べたことではありますが、先述した「記憶の文章化に伴う疲労感」を通じて、あらためて、その意味を実感しました。

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2025年10月31日金曜日

20251030 株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」 pp.134-136より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀・阿部卓也・石田英軽・ イ・アレックス・テックァン・暦本純一 等編著「ゲンロン17」
pp.134-136より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188552
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188559

暦本純一: AI研究は時間の流れが速い。そのまま本にすると情報が古くなってしまうので、年末にあらためて対談を行いました。

落合陽一:「最新」を伝えてもどうせすぐに古くなる。むしろ一種のエスノグラフィーを目指しました。

清水亮:おっしゃるとおりAI研究の状況が日々目まぐるしく変わるなかで、あの対談はタイトルのとおり、とても普遍的な議論がなされているものでした。

暦本:要は「2023年ごろの人類はなにを考えていたのか」を残そうとしたわけです。ぼくも落合くんも。来年にはぜんぜんちがう考え方やアイデアを持っているかもしれません。それくらいAIの世界は日進月歩です。その意味で、この五月にハワイで開催されたCHI(Conference on Human Factors in Computing System)という国際学会は象徴的でした。ほんらいはグラフィックスや入出力デバイスを中心に、人間とコンピュータの関係をあつかう学会です。VRやマウス、キーボードのように、手や身体を使ってリアルタイムに操作するもののイメージですね。そんな身体的なインタラクションの牙城とも言える学会に、AI研究が突然大量に入り込んできたんです。

清水:AIはエージェントですから、人間が直接操作するものではありませんよね。

暦本:そうです。同じ学会の発表内容が、たった一年でここまで変わることはかつてなかったと思います。

落合:ぼくも参加しましたが、今年はLLM関連の発表ばかりでしたね。ただ困ったことに、採録は23年の9月だったので、実際に発表されるときにはどれも賞味期限が切れてしまっていました。

清水:なるほど、半年以上もまえの研究だからもう古くなっていたんだ。

暦本:たとえば「なぜLLMは‘‘Knowledge Navigator‘‘を作れないのか」という趣旨の発表がありました。「knowledge Navigator」は1987年にAppleが制作した映像作品で、そこではタブレット端末に搭載されたAIのエージェントが、ユーザーと流暢に会話する様子が描かれています。

清水:あの映像はとてもおもしろいですよね。約40年前の映像作品とは思えないほど未来を先取りしている。「なぜLLMは‘‘Knowledge Navigator‘‘を作れないのか」とはつまり「なぜAIはふつうに会話できないのか」ということですね。

暦本:そのとおりです。たしかに発表が採録された2023年の段階では、AIは「knowledge Navigator」ほど自然に会話できませんでした。しかし奇しくも当の発表の前日、2024年5月13日にChatGPT-40が公開されてしまった。あまりに自然に会話ができるので、みな衝撃を受けました。その翌日に「なぜAIはふつつに会話できないのか」という発表を聞くのは、なかなか気まずい体験でした。

落合:今回の工学系の発表は退屈でしたね。むしろ人間に焦点を当てた研究のほうがおもしろかった。「ロボット掃除機にあだ名をつけてしまうのはなぜか」とか「VRで飲み会をやるとふだんより酔いやすい」とか(笑)。

暦本:CHIはわりとなんでもありなので、そういうおもしろい発表もできます。地方で研究の対象や分野がきっちり決まっている学会が、このゲームチェンジに対応するのが大変かもしれません。

落合:もはや学会の存在意義そのものが謎ですよね。論文の発表を中心とするいまの学会のあり方は、19世紀に形成されたフォーマットです。しかしもはや、学会はほんらい行うべき知の交換と、根本的にスピード感があっていない。AIをめぐる現状はそれを可視化したように思います。

暦本:すぐれた研究は「arXiv」などでプレプリントをさきに読むから、学会はたんなる答え合わせの場になっていますよね。

清水:たしかに、ぼくもあの学会のあり方は疑問で、とくに査読がそうですね。いわゆるWorld-wide web論文や、ChatGPTを支える深層学習モデル「Transformer」を提案したAttention論文といった、重要な論文が査読で落とされた事例は少なくない。議論があまりにも先駆的だと、内容が正しいかどうかの判断がむずかしいですから。

落合:新しい情報やアイディアの交換はもうすべてX(旧Twitter)で済ませればいいんじゃないですかね。

暦本:もちろんそのほうがスピード感は出ますが、発表の場がウェブだけになると、発信力の強いプレイヤーだけが生き残ってしまう懸念もあります。まったく無名のひとがいい研究を発表しても、同時期に同じような内容をGoogleやMetaが公開してしまったら、そのひとの研究成果は埋もれてしまう。学会とは、どんな無名のひとでも研究の内容そのものを適切に評価しようとする、例外的なコミュニティです。とはいえ、非効率性や査読の正確性といった問題があるのはそのとおりなので、よしあしは慎重に検討しなければいけませんが。

清水:これからは自由で雑多な研究をテンポよく共有できるような、新しい学会のフォーマットが必要なのかもしれませんね。

2025年10月29日水曜日

20251028 創造の源泉と歴史的視座について

 当記事を含めて、残り6記事の投稿により、当面の目標としている2400記事に到達します。また、当ブログは2015年に開始し、その5年後に新型コロナ禍が世界を覆い、さらにその2年後には、現在の混乱している世界情勢の要因となった第二次宇露戦争が勃発しました。

 このような世界的出来事が立て続けに起こるなか、世界規模で情報は飛び交い、私もまた、それらの情報を得るために海外の報道機関の動画やサイトを視聴・閲覧する習慣が身につきました。それ以前であれば、こうした必要性を考えることはなかったと思われます。

 そして、2015年から始めた当ブログにて、文章を書き続けていたことにより、21世紀に起こったこれら世界史的出来事および、それらの推移について、後追い的ではあっても理解を深めることが出来ているのだと考えます。

 しかし一方、近年の社会では、膨大な情報が絶え間なく流通しています。PCを開きインターネット画面を見れば、瞬時に世界の何処かで生じた出来事が目に入り、さらに、そこに次々と他者の意見や主張が押し寄せています。

 こうした情報の氾濫の中に身を置きながらも、我々はむしろ「何が本質であるのか分からない」という感覚を強めているのではないでしょうか?情報は増え続けているにも関わらず、それらを意味付けて未来への指針とする統合力がなければ、情報や思考は断片のままに留まり、統合化からはじまる創造活動全般は停滞してしまいます。

 では、この統合力はどのようにすれば見出すことが出来るのでしょうか。私はその答えの一つを、歴史に見出しています。歴史とは、単なる過去の出来事の記録の集積ではありません。それは、さまざまな過去の出来事を統合し、現在の事象がどのような文脈の上にあるのかを理解するため、あるいは今後の社会の方向性をある程度見通すための枠組みであると云えます。

 歴史を学ぶことにより、我々は、眼前の出来事を偶然によるものとしてではなく、一定の連続性やパターンの中にあるものとして認識することが出来るようになります。そして、視野を拡げれば、現代社会のさまざまな課題や問題もまた、一時的な現象ではなく、連綿とした過去の文脈の流れとして理解されるようになるのではないかと考えます。つまり、歴史を学ぶということは、過去からの連続性を見通す視座を持つことであり、それを得た時、初めて、我々は現在の大小さまざまな事象を理解することが出来るようになると云うことです。

 こうした認識を踏まえて、これまで10年間、ブログを継続してきたことを振返りますと、それは、現代の複雑な情報環境の中で、自らの知的立脚点を確認し続ける行為であり、また、歴史的な視座から現在の事象を読み解く試みでもあったのだと云えます。

 しかしながら、こうした営みは決して容易ではありません。たとえブログ記事であっても、実名で公開する文章を作成するには、ある程度の集中力と、それに伴う疲労があります。また、文章の作成とは創造的な行為であり、そこには必然的に孤独が伴います。

 それでも私が当ブログを止めなかったのは、実名で公表する文章の作成が単なる発信ではなく、大袈裟に聞こえるかもしれませんが「歴史的文脈の中に自らを位置づける営み」であると漠然とながら考えていたからです。

 では、なぜ自らを歴史的文脈に位置付けようとする営みを続けたのか、その根底には「他者の存在」を意識していたことがあると云えます。

 私を含め多くの人々は、誰かに理解されたい、承認されたいという欲求を持っています。とりわけ男性にとって、女性からの共感や応援は、生の根源的衝動と結びついた力として顕在化することが数多くあります。つまり、男性の創造活動の背後には、しばしば「女性という他者のまなざし」が存在しているのだと云えます。

 こうして始まった創造活動は、単なる恋愛感情を超え、「自分の存在がこの世界に受け入れられているのか」という深層の問いにまで至ることも多々あります。近年の我が国での世知辛くなってしまった男女関係のなかで、こうした構造は語られることが少なくなりましたが、人間の精神の深層には、今なお「創造とは他者との関係性の中で生まれる営みである」という本質が脈打っています。

 継続的な創造とは、孤独な営みであると同時に、他者から評価され、共感される可能性を信じるからこそ成立します。そして、その「他者」への理解を深め、対象を統合する力を養う手段こそが、歴史への学びであると考えます。

 現在のさまざまな事象を歴史的文脈を通して理解したとき、初めて我々は、自らの創造がどこから来て、どこへ向かうのかという道筋を、ある程度見定めることが出来るのだと考えます。したがって、歴史を学ぶことは過去を懐かしむための行為ではなく、現在の視野を明晰に認識し、その先に未来をも見通すための知的行為であると云えます。

 そして創造とは、他者との関係性の中で生まれる、人間固有の根源的な営みであり、その営みを支えているのは、自らの存在を誰かに受け入れられたいという欲求であると考えます。この欲求を否定するのではなく、むしろ、その力を理解し、創造へと昇華させる時、我々は初めて、さらなる精神の自由を獲得し、創造的活動の主体になることが出来るのではないかと思われますが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?

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2025年10月28日火曜日

20251027 目標とする2400記事まで到達出来たら…

 当記事を含めて、残り7記事の投稿により、当面の目標として掲げている2400記事に到達します。また、これまでの当ブログの継続期間は10年4カ月となり、これは、私の全活動でも、最も長く続いている営みと云えます。くわえて、先日、これまでの総閲覧者数が100万人に達しました。これら数値は、マスコミや商業的なブログや拡散性の高い動画配信などと比較すれば、微々たるものではありますが、個人が特に営利目的でなく運営する、あまり多くの閲覧者数を見込むことが困難なブログとしては、我が事ながら、それなりに努力の痕跡を認めることが出来るのではないかと考えます。また、いくつかのネット情報を参照したところ、当ブログのような営利目的でない個人運営のブログが継続する期間は2~3年とのことであり、その意味で、10年以上継続して、2000本以上の記事投稿があるブログは、それなりに珍しいのではないかと思われます。そこから、規模の数値の大小よりも継続期間の長さと、投稿記事数により、当ブログは特徴付けられているのだと云えます。

 しかし一方、目標とする2400記事への到達が目前と云える現況であっても、数年前のような
積極的なブログ記事作成への意欲は乏しいと云えます。むしろ、ここ最近は、以前にも述べましたように凪のような状態にあると云えます。これは、能動性や情熱の減衰と云うよりも、当ブログの継続について、漠然とながら考えているのではないかと思われます。

 この10年の継続期間には、転職や転居など、生活環境の変化が幾度かありました。そのたびに、当ブログの継続が困難になる場面もありましたが、それでも、継続したことは、表層的な意欲や感情のさらに深くに、継続を試みる理由があったのだと考えられます。振り返ってみますと、当ブログ開始当初は、伯父の死や職場での挫折など精神的に大きな打撃を受ける出来事が重なっていました。そして、日常生活では気力が著しく減衰して、考えが支離滅裂になることもあり、その状態を放置しておけば、やがて、心身が崩れてしまうと云う危機感がありました。また、そうした状態を当時、周囲におられた何人の方々は、おそらく気付かれて「何か文章を書いてみては?」とアドヴァイスしてくださったのだと思われます。そこで、その時点で作成出来る文章を投稿したのが当ブログの始まりと云えますが、これにより、自分の弱っていた精神状態を整え、崩れかけた精神も、どうにか立ち直ることが出来たのではないかと思われます…。そうしましと、私にとって当ブログとは、単に自らの文章を発信するための場ではなく、弱った精神状態や気分の落ち込みなどを、あまり感情的にならずに、適切に言語化して発信することにより内面を整える機能も持っていたのだと云えます。

 そこから、今後、2400記事まで到達出来ましたら、それは、目標の達成だけではなく、ある段階にまで寛解出来たと認識することであるとも云えます。そしてまた、到達後に内面から、どのような反応や感覚が生じるのかを、ある程度の期間を掛けて観察、検討することが重要になるのではないかと考えます。もしも、また文章が自然に浮かぶのであれば、おそらく私はまたブログを継続すると思われます。一方、そこでも前述の凪の様な状態が続くのであれば、一度、当ブログを止めることも自然な選択肢であると云えます。つまり、2400記事への到達は、当ブログの次の展開を思案するための地点であるのだとも云えます。

 それ故、今後の当ブログについて予め定まった結論を述べるつもりはありません。むしろ、到達してから湧き上がる思いこそ、自らの指針としたいと思います。継続するにしても、止めるにしても、その判断は、外的な基準ではなく「文章がなおも出て来るか」という内的な現象により為されるものです。私は、ブログの更新を2400記事に向けて今しばらく続けます。そして2400記事という節目を迎えてから、どのような見解が生じるのか?それが、次の一歩の方向を定めるのだと云えます。

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2025年10月26日日曜日

20251026 株式会社新潮社刊 北岡伸一著「明治維新の意味」 pp.19-22より抜粋

株式会社新潮社刊 北岡伸一著「明治維新の意味」
pp.19-22より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4106038536
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106038532

 講座派は明治維新について、不徹底な革命という見方をしていた。革命とはある階級を他の階級が打倒することであり、徹底した流血を伴うものでなければならない。明治維新のように流血が少なく、敗者に寛大な変革は革命ではないという人が少なくなかった。しかも維新前も維新後も、支配者は武士であって、階級的変化はなかったという人が多かった。

 しかし、流血が少ないことは、それ自体好ましいことである。明治維新の犠牲者の数は、西南戦争まで含めて三万人あまりだと思われるが、フランス革命はナポレオン戦争を含めればその100倍、ロシア革命に至っては、スターリン独裁下の恐怖政治を含めれば、ロシア革命を優に上回る数の犠牲が出たことは間違いない。多大な流血と破壊を伴う変革はしばしば巨大な反動をもたらす。また、巨大な破壊後に生じた体制を維持するためには、恐怖政治が必要となる。それがいかにおぞましいものであるか、あらためて言うまでもないだろう。

 もう一つ、維新についてのシニカルなコメントに。維新の前も後も所詮武士の支配だったというものがある。いわゆる民衆史観から見ればそのとおりだが、維新前の支配者は上士であり、維新後の変革の主力は下級武士であった。のちに述べるように、両者の間には決定的な差があることを、この見方は見逃していた。

 アメリカを中心として主に1960年代に登場した近代化論者と言われた人々、たとえばエドウィン・ライシャワー(Edwin O. Reischauer. 1910-1990)やマリウス・ジェンセン(Marius B. Jansen. 1922-2000)は、このような明治維新のプラスの側面を強調した。また、経済学者からは、ケネス・ボールディング(Kenneth E. Boulding. 1910-1993)のように、コストが小さくて持続的な成長をもたらした、つまりもっとも成功した革命は、アメリカ独立革命と明治維新であるという見方も提示され、今では多数派となっていると言ってよいだろう。(Boulding. Kenneth. A Primeron social Dynamics: Hsitory as Dialectics and Development. Free Press, 1970)。

 スターリン体制の実態が知られ、中国の文化大革命に対する失望が広がるとともに。大きな革命がよいことだとする考えは、徐々になくなっていった。

 しかし、マルクス主義の影響力が地に落ちた今でも、講座派的な発想はなくなっていない。それは、歴史を少数の(邪悪な)権力者と多数の(善良な)民衆の対立から考える発想がまだ続いているからではないかと、私は考えている。

 アメリカでもノーマンのあとにジョン・ダワー(John W. Dower.1938-)が登場し、日本でも左派の歴史学者や政治学者は依然として多数存在している。

 たしかに、世界のどこでも、権力者は少数だが強力であり、被治者は多数だが無力である。しかし、国家は国際関係の中に存在する。世界のなかで、よくその国の舵取りを行う有能な権力者と、そうでない権力者がいる。またその国家をよりよく発展させる権力と、そうでない権力とがある。こうした権力の質を論じることが、実は政治史研究の中心的課題である。それは、権力は下部構造によって基本的に規定されるとするマルクス主義と対極にある考え方である。現実的内在的政治史分析が、階級史観を基礎とする講座派やマルクス主義と対極的な明治維新論を生み出すのは当然のことなのである。

 もう一つ、戦後に明治維新に対する否定的な評価が生き延びた理由の一つは、戦後の平和主義にある。敗戦後の日本において全ての戦争は否定されるようになった。たしかにいかなる戦争も悲惨であり、できるだけ避けるべきものである。しかし、世の中にはよりマシな戦争、より止むを得ない戦争というものもある。1930年代の中国にとって、日本の侵略に対して、戦うほかはなかった。したがって中国は英雄的な自衛のための戦いがありうるとしている。それは世界の大多数の国で、同様であった。日本のようにすべての戦争に対して否定的な見方をする国は、ほとんどない。すべての戦争が悪であるとする考えは、実は、たとえば日本の侵略と中国の抵抗も同じように悪いとする、危険な議論である。

 そうした戦後的な価値観からすれば、台湾出兵も日清戦争も日露戦争も、ひとしく悪いものであったことになる。それは戦争の性格を見極めないことになってしまう。

 明治維新におけるリアリズムを評価するためには、戦争に対するリアリスティックな評価が不可欠である。戦後の平和主義が、彫りの深い明治維新論を生み出し得なかった理由の一つはそこにある。

2025年10月23日木曜日

20251022 文章作成による自己変容の試みについて

 これまで当ブログにて何度か述べてきたことではありますが、こうした文章の作成とは、語句を積み重ねる作業をひたすら続けるようなものではなく、おそらくは、自らの内部の文章が流れている層に意識をチューニングして、大体は自動的に文章が湧き出る状態にしてから、それをキーボード上の指で記録して作成するものであると考えています。おそらく、その方が語句を重ねるよりも効率的であり、短時間で作成出来ると思われますので、少なくとも私はこの方法を主に用いてブログ記事を作成してきました。そして、この意識をチューニングすることは、読書によって可能になっていると云えます。つまり、読書時の精神状態と文章作成のために自らをチューニングしている時のそれは、同一ではないにしても、本質的に類似していることから、それが出来ていれば、そこまで時間を要することなく、記事作成に移ることが出来ると考えています。

 一方、昨今は、これまた当ブログにて述べてきたことではありますがChatGPTを援用したブログ記事の作成も行っています。とはいえ、この手法はいまだ確立されてはおらず、コンスタントに作成出来るわけではありません。そこから「下書き」ばかりが随分と貯まり、現時点で300記事近くあります。また、これらの「下書き」も出来具合はピンキリであり、喩えるならば、鋳造で鋳型から掘り出したばかりのものから、掘り出してからサンドブラストあるいは研磨作業まである程度進んだものまで、といった様相です。

 また、以前にChatGPTを援用した文章の作成とは鋳造に似ていると述べましたが、昨今ではその見解は多少変化して、ChatGPTを用い、複数の文章を生成し、それらをさらに統合することで新たな文章を生み出せると知ったことから、いわば鋳造体に熱処理(焼きなまし)を施し、可鍛鋳鉄としてさらに加工を行う工程・手法があることを知ったようなものであると云えます。

 ともあれ、上述のように、新たな文章作成の手法を試みているわけですが、これを振り返ってみますと、社会人になってからマイクロソフト社のワードやエクセルを覚え、大学院生になってからパワー・ポイントを覚えた時の感覚に近いようにも思われてきます。しかし、ChatGPTの場合は操作を覚えることがメインではありません。ワードやエクセルを用いる場合、最終的な目的は「既定形式の中で、いかに効率よく情報を処理するか」という点にありました。ところがChatGPTは、その起点そのもの、つまり「何を作るのか」「どのような視座で書くのか」「何を問いとし、何を価値と見なすのか」という形式以前の段階にまで関与してきます。

 換言しますと、ChatGPTは道具であると同時に作成者の思考や意図を反映するものであり、さらに、新たな思考を惹起させる対話相手でもあります。それ故、その習熟とは、ある機能を習うというようなものではなく、むしろ、自らの思考の構造そのものを再編成し、言語化(文章化)の仕組みを更新する過程であると云えます。その意味において、ChatGPTは20年以上前に経験したワードやエクセルでの習熟とは異なるものであり、むしろ、読書や対話を通じて思考の層を掘り下げ、新たな概念の枠組みを形成していく過程に近いのではないかと思われるのです。

 我々は読書によって著者の意識に触れ、そして文章の背後にある世界認識を追体験しつつ、自らの意識をチューニングしていきます。同様に、ChatGPTとの対話によって内面にある文章をより滑らかに引き出し、具現化させて、それ(ら)を、さらに別の文章と統合させることで、新たな認識へと至る手法を見出そうとしています。それ故、ChatGPTを用いた文章作成とは、単なる技術の習得ではなく、いわば「思考様式の変容」であり、さらに云えば、それは自らの精神の可塑性をどこまで維持できるのかという、ある種マゾヒスティックな鍛錬であるとも云えます…。ある程度年齢を重ねた現在、若い頃のように新たなことを覚えていくことは容易ではありませんが、それでもなお私はこの新たな人工知能(ChatGPT)を通じて、思考の柔軟性を出来るだけ維持しつつ、新たな創造を試みています。そして、この行為自体が、単に文章を生産するための新たな手段というよりも「文章作成により自己の内面を変えてゆく行為」へと変化しているのではないかといった感覚を覚えます。

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2025年10月21日火曜日

20251020 総閲覧者数100万人と10年間の継続から思ったこと

 当面の目標としている2400記事の到達まで、当記事を含めて残り10記事の投稿となりました。また、開始からこれまでの期間は約10年4カ月となり、これは私の人生のなかでの継続的な活動の期間としては、最長の部類に入ります。さらに、つい先日、これまでの期間での総閲覧者数が100万人を超えました。この「100万人」という数は、これまでの私の全活動のなかでも経験したことのない規模であることから、それなりに大きな節目ではあると云えます。しかし面白いことに、この人数を確認した時、嬉しいとは思いつつも、高揚感や達成感は不思議なほどにありませんでした。その点では、むしろ現実感の乏しさの方が強かったのだと云えます。

 しかし、そもそも当ブログは、多くの方々に向けて発信することを目指して始めたものではありませんでした。日々、浮かんできた考えや、読書で見つけた興味深い記述や、そこへの感想を記述するといった備忘録として始めたのがその始まりです。それ故、開始当初の頃は、あまり閲覧者数を意識することはなく、また、そうした余裕もありませんでした。そしてまた、投稿記事数が増えることも、あまり重視していませんでした。しかし、継続期間の延伸に伴い投稿記事数は自然と増加して、また、それと随伴して閲覧者数も徐々に増え、やがて冒頭で述べたような状況に至っていました。

 他方、記事数や総閲覧数が増えたからといって、当ブログを起点として、私に大きな変化や出来事が生じることはありませんでした。いや、むしろ、そうした大きな変化や出来事が生じると、当ブログを作成している私の内面に何らかの変化が生じて、その結果、当ブログの継続といった、至極地味な活動を継続することが困難になってしまうのではないかといった危惧さえあります…。そこから、当ブログを継続するうえでの私の本音とは、あまり注目を集めることはなく、また、当ブログを起点とする反応からは、今しばらくの当ブログの継続といった観点から、出来るだけ距離を置きたいと考えています。

 とはいえ、こうした現在の姿勢に至るまでには、決して健全な動機のみで当ブログを始めたわけではありません。開始当初には、ネット上で目にする「アルファブロガー」や「ブログで人生が変わる」といった言葉に少なからず影響を受け、また、率直に云えば「モテたい」という下心も少なからずあったと云えます。新たなことを始める際、多くの場合、その背景には、ある種の虚栄心や憧れと云った、決して理性的とは云えない衝動が働くのだと思われます。確かに、当ブログを始めた直接の契機は、以前にも述べましたように、ほぼ同時期に、周囲の方々(それぞれ異分野)から、何らかの文章の作成を勧められたことでしたが、それを聞く私の内面では、それに加えて、先述の欲望の層が堆積して、それがある閾値を超えた時にようやく「始める」に至ったのだと今振り返れば理解することが出来ます。

 さて、そこから10年以上が経過した現在、当初抱いていた憧れなどは、ほとんど影を潜めて、その代わりに、日々思い付いた考えを言語化する営みの場として当ブログが定着してきました。これは、大きな変化や出来事が生じなかったことにより、かえってブログ自体が私にとっての安定した「思考の道具」として機能し続けることを可能にしたとも云えます。そしてその継続により、思索や言語の精度といった内面の層は徐々に変化してきたのだと思われます。

 そこから、総閲覧者数100万人や継続期間10年以上と云ってみても、それらはいずれも通過点に過ぎないのだと云えます。むしろ、これらの背後にある本質は「どうにか継続してきた事実」そのものにあると考えます。大きな変化や出来事を求めず、また反応からは一歩身を引いて、何らかの文章を作成し続けることが、現在の私にとっての表現であり、また自己を保つ方法でもあります。今後も、あまり変化や出来事を期待するのではなく、日々思い付いた考えなどを、出来るだけ精確に言語化することは継続したいと考えています。

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