2021年12月31日金曜日

20211230 株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」 pp.186-189より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ウンベルト・エーコ著 和田 忠彦監訳 石田 聖子・小久保 真理江・柴田 瑞枝・高田和弘・横田さやか 訳「ウンベルト・エーコの世界文明講義」
pp.186-189より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309207529
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309207520

ヒトラーとアンナ・カレーニナが存在論的に異なる状態にある二つの異なる実体であることを合理的に否定できる者はいない。

一方で、歴史についての命題もまたしばしば(言表)であると認めざるを得ない。小説の登場人物についての命題と同じことだ。たとえば、現代史にかんして、学生がヒトラーはベルリンの地下壕で自殺したと書いても、それは直接の経験によって知っていることを述べているのではなく、自分たちの歴史の教科書にそう書いてあるとただ認めているだけだ。

 言い換えれば、自分の直接の経験による判断(いま雨が降っているなど)は別として、わたしのあらゆる判断はわたし自身の文化的知識を根拠になされるのであり、百科事典に記載されている情報にもとづいているのだ。

その百科事典から、わたしは地球から太陽までの距離や、ヒトラーがベルリンの地下壕で死んだという事実を学んでいる。それが真実かどうかを量るにはわたしはその場に居合わせなかったので、百科事典の情報を信頼する。太陽についての情報にしても、ヒトラーについての情報にしても、わたしがそれらを専門とする研究者に委任したからだ。

 さらには百科事典にあるあらゆる真実は、どれも再検討の可能性に開かれている。わたしたちが学術的に開かれた意識をもっているなら、新たな資料がいつか発見されることへの心構えが必要だ。新たな資料によれば、ヒトラーは地下壕で死んでおらず、アルゼンチンに逃亡し、地下壕で発見された焼死体はかれのものではなく、自殺説はプロパガンダを目的としたロシア人の創作であると、あるいはそもそも地下壕など存在していないと明らかされるかもしれない。事実、地下壕のあった場所にチャーチルが腰を下した写真があっても、その場所には疑いの余地があると主張する者もいるのだ。その一方で、アンナ・カレーニナが線路に身を投げ自殺したことに疑いの余地は絶対にない。

 架空の人物は、歴史上の人物に対してもうひとつ特権をもっている。史実としては、鉄仮面やカスパー・ハウザーの正体についてわたしたちはいまだに確信をもっていないし、アナスタシア・ニコラエヴナ・ロマノヴァがロシアの皇族一家もろとも殺されたのか、あるいは生き延びて魅力的な婚約者としてイングリッド・バーグマン(「追想」1956)に演じられるに至ったのかもたしかではない。それとは対照的に、アーサー・コナン・ドイルを読んでいるとき、シャーロック・ホームズがワトソンについて言及すれば、それはいつでもひとりの人物を指していると、わたしたちは確信しているし、ロンドンに同じ名前で同じ特性の人はひとりだけであることも、どの作品中でその言及されている人物があの「緋色の研究」でスタンフォードという名の人からはじめてワトスンとよばれた人物であることも確信している。ドイルの未発表作品があり、そこには、ワトスンがアフガン戦争のさなかマイワインドの戦いで負傷しただとか医学の学士号をもっていることなどと言っていたのは嘘だった、とドイルが書いている可能性だってある。しかし、たとえそうだとしても詐欺師として正体を暴かれる人物は、やはり「緋色の研究」でスタンフォードからワトスンとよばれたその人であることに変わりない。

 架空の人物の強固なアイデンティティにまつわるこうした問題は非常に重要だ。

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