A「おかげさまで昨日また1日の閲覧者数が1000人に到達しました。
また、それに加え、精確な数ではありませんが、おそらく現在の時点(投稿総数322記事)で自身の作成したブログ記事が200程度になったのではないかと思われます。
これが300記事となるまでブログ記事作成を継続するかどうかわかりませんが、とりあえずは閲覧者総数が10万人に到達するまでは継続してみようと思います・・。
さて、首都圏では明日から天気が下り坂とのことですが、本日は気温も上がり、さながら夏のような陽気となりました。
そして、このような陽気になりますと、私は和歌山や九州でのことを思い起こします・・。
やはり、あちらは首都圏に比べ相対的に日射量が多く、特に夏の暑さとは、質的にこちらのそれとは大分異なっていたように思います・・。
そのような環境の中でしばらく(数年以上)住むことになりますと、やはり様々な日常感覚、心身に変化が生じるのが自然なのではないかと思われます・・。
そうしたことに関連して、我々日本人とは、こうした場所の変化に伴う、日常感覚、心身における変化というものに対して、どちらかというと鈍感であった(る)のではないかと思います。
それは根本において我々日本人多くの生活文化基層が水稲耕作に基づくものであったからではないかと考えられますが、おそらくこうした鈍感さとは、今後も変わることなく、そして同時に真剣に考えるに値するものとして取り上げられることはない(少ない)と思います・・。
それは結局のところ「狭い日本の国の中での地域、風土の相異なんて大したことはない。」といった、よくわからない同調圧力を基調とした理屈?に押し流されることになるのではないでしょうか・・(苦笑)?
しかし、その一方において、同時に我々日本人は些細な相異に異様なまでにこだわることも多々ありますので、こうした何と言いましょうか理屈の背景にある価値観、感性の使いわけを、その場その場の空気によって(ほぼ無意識に)取捨選択(状況の表面的な操作)していることが多いのではないかと思われるため、結局のところ徹頭徹尾科学的な普遍性に基づく理系学問分野以外においては、どうも新しく創造的、普遍的な考え、およびその体系を生み出すことができないのではないかと思えます・・。
また、そうした我が国の傾向、特徴とは、どうもここ最近の情報化社会の進化発展により、急速に海外に対しても知れ渡っていったようにも思えます・・。
とはいえ、もしかすると、こうした問題は何も我が国だけの問題ではないのかもしれませんが・・。
そして、そういった問題の根源あるいはその周辺に横たわっているものは一体何であろうかと考えた場合、一つにそれは「言語とその意味との精確な対応に基づいた会話、文章といったコトバの軽視」ではなかろうかと考えさせられます・・。
ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」が気になるところです・・。
また、それは異なった視点から見ると中島敦の短編「文字禍」の背景にある考え、観念にも類似していると思います。
また、これと類似した考えは小林秀雄が本居宣長の古事記を研究した際に思ったこととして述べておりました・・。
さらに先日読んでおりました加藤周一著の「日本文学史序説」の中においても、それと類似したことを平安時代の和歌(主に古今集)での記述にて述べておりました。
この部分はこれまでに抜粋引用していないようですので、今後機会を見つけ抜粋引用してみたいと考えております・・。
ともあれ、ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、さる4月の九州・熊本における大地震にて被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその先の復興を祈念しております。」
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