2023年2月14日火曜日

20230214 岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳 『オーウェル評論集』pp.318-321より抜粋

岩波書店刊 ジョージ・オーウェル著 小野寺 健訳
『オーウェル評論集』pp.318-321より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003226216
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003226216

不安定。ナショナリストの忠誠心は、どれほど強烈なものであっても、その対象がかんたんに変わることがある。第一に、これはすでに指摘したことだが、対象は外国であってもさしつかえなく、事実そういう場合がいくらもあるのだ。偉大な国家的指導者や民族主義運動の創始者が、彼らの賛美する国の国民でさえないばあいもけっして珍しくない。まったくの外国人であるばあいもあるし、国籍もはっきりしない辺境出身者のばあいとなればさらに多い。スターリン、ヒットラー、ナポレオン、デ・ヴァレラ、ディズレーリ、ポアンカレ、ビーヴァ―ブルックなどは、すべてこういう辺境の出身である。汎ゲルマン運動は、なかば、英国人ヒューストン・チェンバレンの創始によるものであった。文学的知識人のあいだでは、過去五十年か百年のあいだに忠誠心を変えるものが続出した。ラフカディオ・ハーンのばあいは日本へ、カーライルをはじめその当時の多くの人びとはドイツへ、忠誠心の対象を移したし、今日ではたいていソヴィエトを対象に選んでいる。だがとくに興味ぶかいのは、この対象が再変更されるばあいもある、ということである。長年にわたって崇拝してきたある国家あるいはその他の組織がとつぜん嫌悪の対象となって、ほとんど間髪を入れず別の愛情の対象がこれにとって代る。H・Gウェルズの「世界史体系」の初版やほど同時期の彼の著作では、今日ソヴィエトが共産主義者にたたえられているのにも劣らないくらい。異常なまでにアメリカがたたえられているのだが、この無批判の賛美は、それから数年もしないうちに敵意に変わったのだった。数週間、いや数日のうちに、頑固な共産主義者が同じように頑固なトロツキストに変わるというのは、珍しいことでもない。ヨーロッパ大陸でのファシスト運動には大量の共産主義者が参加したが、ここ数年のうちにその逆の現象が起こったとしても、すこしも不思議ではない。ナショナリストにあって終始かわらないのはその精神状態だけであって、感情の対象そのものは変わることもあるし、架空のものであってもさしつかえないのだ。

 だが、知識人のばあい、忠誠の対象を変えるということは、すでにチェスタトンをめぐってかんたんに触れたとおり、重大な影響を受けるのである。すなわち、その結果、自分の祖国あるいはその他、自分がほんとうによく知っている組織のために発言するばあいなら考えられないくらい、はるかにナショナリスチックになってしまうのだ。つまり、はるかに卑俗で、愚かしく、意地悪く、不誠実になってしまうのである。相当の知性があり感受性にも富む人びとがスターリンとか赤軍といったものについて卑屈な、あるいは得意そうなたわごとを並べているのを見れば、これはぜったいに何か錯覚しているせいだと考えざるをえない。現代英国のような社会では、知識人といえるような人間が自分の祖国に深い愛着をいだくことは、まず考えられない。世間がーと言っても、知識人としてのその人物が意識している一部の世間ということにすぎないのだがーそれを許さないのである。周囲にいつのがたいてい懐疑的で不満を持っている人間ばかりとなれば、その真似をするか、要するにそれに反対する勇気がないというだけの理由から、自分も同じ態度をとってしまう。そうなると、ではほんとうの国際的視野を持とうとするかと言えばそうはせず、単にもっとも手近な型のナショナリズムも放棄するというだけに終わるだろう。しかしやはり何か「祖国」は欲しい。そうなれば、これを国外に求めるのは自然な成り行きである。そしてひとびとたびそれが見つかれば、自分ではとうに脱却したつもりでいる。神とか、国王とか、帝国とか、ユニオン・ジャックといったものにつながる愛情に身をゆだねて平然、という思いがけない結果になる。こういう、とうに覆されたはずのさまざまな偶像がふたたび名前を変えて現われ、その正体を認識できないまま、良心のとがめもなく崇拝するということになるのだ。忠誠心の対象を移し変えたナショナリズムというのは、犠牲の山羊(スケープ・ゴート)を使うのと同じで、みずからの行いは改めないまま救いを得る、一つの方法なのである。

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