pp.79‐82より抜粋
ISBN-10 : 9784151200533
ISBN-13 : 978-4151200533
「辞典の進行状況はどんな具合なんだ?」ウィンストンはそのしゃべり声に負けまいと声を張り上げた。
「時間がかかるね」」とサイムが答える。「形容詞を担当しているんだが、実に面白い」彼はニュースピークの話が出たとたんに顔を輝かせた。シチュー皿を脇にどけ、華奢な手の一方で厚切りパンを、もう一方で角切りチーズを取り、怒鳴らなくても済むようにテーブルの上に身体を乗り出す。
「第十一版は決定版になる」彼は言った。「ニュースピークを最終的な形に仕上げようとしているんだー誰もがニュースピーク以外話さなくなったときの形にね。それが完成した暁には、君のような仕事をしている人間は、きっともう一度すっかり学び直さなくてはならなくなる。おそらく君はわれわれの主たる職務が新語の発明だと思っているだろう。ところがどっこい、我々はことばを破壊しているんだー何十、何百という単語を、毎日のようにね。ニュースピークをぎりぎりまで切り詰めようとしている。第十一版には、2050年までに死語となるような単語は一つとして収録されないだろう。」
彼は貪るようにパンをかじり、二度ほど口一杯に頬張って飲み込むと、衒学者の情熱とでも呼ぶべきものに突き動かされたように話を続けた。細面の浅黒い顔には生気がみなぎり、目からは嘲笑の色が消えていて、ほとんど夢見るような眼差しに変わっている。
「麗しいことなんだよ、単語を破壊するというのは。言うまでもなく最大の無駄が見られるのは動詞と形容詞だが、名詞にも抹消すべきものが何百かはあるね。無駄なのは同義語ばかりじゃない。反義語だって無駄だ。つまるところ、ある単語の反対の意味を持つだけの単語にどんな存在意義があるというんだ。一つの単語にはそれ自体に反対概念が含まれているのだ。良い例が〈良い〉だ。〈良い〉という単語がありさえすれば、〈悪い〉という単語の必要がどこにある?〈非良い〉で十分間に合うーいや、かえってこの方がました。〈悪い〉がいささか曖昧なのに比べて、まさしく正反対の意味になるのだからね。或いはまた〈良い〉の意味を強めたい場合を考えてみても、〈素晴らしい〉とか〈申し分のない〉といった語をはじめとして山ほどある曖昧で役立たずの単語など存在するだけで無駄だろう。そうした意味は〈超良い〉で表現できるし、もっと強調したいなら〈倍超良い〉を使えばいいわけだからね。もちろんわれわれはすでにこうした新方式の用語を使っているが、ニュースピークの最終版では、これ以外の語はなくなるだろう。最後には良し悪しの全概念は六つの語ー実のところ、一つの語ーで表現されることになる。どうだい、美しいと思わないか、ウィンストン?むろん元々はB・Bのアイデアだがね」彼は後から思いついたように最後のことばを付け足した。
〈ビッグ・ブラザー〉の名を耳にしたとき、熱意の醒めたような表情がウィンストンの顔をほんの一瞬だけよぎった。それでもサイムはすぐに相手の意気込みが萎えたのを見抜くのだった。
「ニュースピークの真価を理解していないな、ウィンストン」彼の口調はほとんど悲しげだった。「君はニュースピークで書いていても、まだオールドスピークで考えているんだ。君が《タイムズ》に時折書いているものはいくつか読ませてもらっている。なかなかいいと思うよ。だがあれは翻訳なんだ。心の中ではオールドスピークをあくまでも守りたいと思っている。その曖昧さや意味の無駄なニュアンスなんてものを含めてね。ことばの破壊が持っている美しさが分かっていない。ニュースピークが年ごとに語彙を減らしている世界で唯一の言語であることを知っているかい?」
ウィンストンはもちろん知っていた。彼は共感を滲ませるように微笑んだが、何かを口にする度胸はなかった。サイムは黒っぽい色をしたパンをもう一口かじり、少し噛んだだけで話を続けた。
「分かるだろう、ニュースピークの目的は挙げて思考の範囲を狭めることにあるんだ。最終的には〈思考犯罪〉が文字通り不可能になるはずだ。何しろ思考を表現することばがなくなるわけだから。必要とされるであろう概念はそれぞれたった一語で表現される。その語の意味は厳密に定義されて、そこにまとわりついていた副次的な意味はすべてそぎ落とされた挙句、忘れられることになるだろう。すでに第十一版で、そうした局面からほど遠からぬところまで来ている。しかしこの作業は君やぼくが死んでからもずっと長く続くだろうな。年ごとに語数が減っていくから、意識の範囲は絶えず少しづつ縮まっていく、今だってもちろん、〈思考犯罪〉をおかす理由も口実もありはしない。それは単に自己鍛錬、〈現実コントロール〉の問題だからね。
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