みすず書房刊 ロバート・グレーヴス著 多田満智子・赤井敏夫訳「この私、クラウディウス」pp.9‐11より抜粋
ISBN-10 : 462204806XISBN-13 : 978-4622048060
この序論の巻を終える前に、シビュラとその予言について、いささか付け加えておきたい。クマエでは、一人のシビュラが死ぬと他の巫女が跡目を襲うが、有名なシビュラもあれば、無名のシビュラもある、と私は述べておいた。きわめて名高い一人はデモフィレといい、アエネアスが冥界へ降る前に宣託を伺った巫女である。時代が下ってヘロフィレというのが有名だが、彼女はタルクィニウス王のもとに来て、彼が払う気がせぬほど法外な高額で予言集を買い取るようにすすめた。王が拒むとー話によればー彼女はその一部を焼きすて、残り部分に同じ高値をつけた。今度という今度は、王は好奇心にかられてそれを支払った、という。ヘロフィレの持参した神託は二種類ある。すなわち、未来に関わる警告、あるいは明るい見通しの予言と、かくかくしかじかの前兆が起ったら、神意を宥めるために捧げるべき生贄についての指示と。その後時の経過とともに、何であれ顕著な、真実と証明された、私人への託宣がこれに付け加えられた。ローマが何か異様な前兆や災禍に脅かされるような時には必ず、元老院は「シビュラの書」を管理している神祇官たちに、それを参照するよう命じる。するとつねに対策が見つかるのである。その書は火災のために二度も一部消失したが、失われた神託は担当責任者の神祇官たちの共同の記憶によって復元された。その記憶は多くの場合きわめて誤りの多いものであり、だからこそ、アウグストゥスは、明らかに霊感によらない挿入や復元を排して、予言集の権威ある定本を作る事業に着手したのである。かれはまた、権威に乏しいすべての個人的シビュラ神託集を、他の入手可能な公けの予言集と共に集められるだけ集めて破棄した。その数は二千を超えた。かれは「シビュラの書」を校訂本を、パラティヌス丘の自分の宮殿近くに建立したアポロ神殿の神像の台座の下の、鍵のかかる戸棚におさめた。アウグストゥス個人の歴史関係の蔵書から、一つの稀書が、かれの死後しばらくして私の所有に帰した。「原典のうちに含まれながら、アポロの神祇官に偽作っとして斥けらるる神託を集めしゆえに、シビュラの珍本」と称せられるものである。神託の韻文は、アウグストゥス自身の美しい筆跡で書写され、かれ独特の誤った字の綴りが見られる。はじめは無知からの間違いだったのに、その綴りに長年固執して、しまいにはそれを誇りとしていたほどであった。それらの文章の大部分は、恍惚状態だろうと醒めた状態だろうと、決してシビュラが述べたものではなく、無責任な連中が自分や自分の名誉を高めようとして、あるいは敵対者の家を呪うために、自家製のでたらめな予言を神の託宣と称しているにすぎない。クラウディウス家はこの手の偽作にとりわけ熱心であったようだ。とはいえ一つか二つの託宣は十分に古雅な言葉で述べられ、その霊感は神に由来すると思われた。その明白で驚愕すべき意味内容のゆえにアウグストゥスはーかれの言葉はアポロの神祇官にとって掟であったー正典の中に編入させぬ決意をしたに違いない。この小さな書はもう私の手許にない。しかし真正の予言と思われるそれらの託宣のうち、もっとも忘れがたいものを、ほとんど一字一句あやまたず想い起こすことが出来る。この神託はギリシャ語で記され、(正典の中の初期の大方の神託がそうであるように)おおざっぱなラテン語の韻文訳がそえてあった。
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