20190210 P・F・ドラッカー著 小林 宏治監訳 上田 惇生・佐々木実智雄訳 ダイヤモンド社刊『イノベーションと企業家精神』pp.50‐53より抜粋引用
ISBN-10: 4478370176
ISBN-13: 978-4478370179
『社会的なイノベーションとその重要性に関して、最も興味ある例は日本である。日本は1867年の明治維新以来、1894年の日清戦争や、1905年の日露戦争の勝利、あるいは真珠湾の勝利、さらには、1970年代における経済大国、最強の競争相手としての台頭にもかかわらず、アメリカやヨーロッパからは、つねに低く評価されてきた。
その最大の原因、おそらくは唯一最大の原因は、イノベーションとは物に関するものであり、科学や技術に関するものでなければならないという、アメリカやヨーロッパの側における誤った通念にあった。そのため、日本はイノベータ―ではなくイミテーター、模倣者と見られてしまったのである。その結果、日本人自身でさえ、そのように考えるにいたっている。日本は科学的あるいは技術的な特筆すべきイノベーションを行っていないからである。
もちろん日本の成功はイノベーションによってもたらされたものである。ただしそれは科学的・技術的なイノベーションではなく、社会的なイノベーションである。
日本がいやいやながらも開国に踏み切ったのは、かつてのインドや19世紀の中国の轍を踏みたくなかったからである。属国化したり植民地化されたくなかったからであり、西洋化されたくなかったからである。日本の目指したものは、柔道の真髄ともいうべきものであった。すなわち西洋の侵入を食い止め、日本が日本であり続けるために、西洋の武器を使うことであった。
ということは、日本にとって社会的なイノベーションのほうが、蒸気機関車や電報の発明よりもはるかに重要であったということである。そしてもちろん、政府機関や教育機関や労使関係なその発展すなわち社会的なイノベーションの方が、蒸気機関車や電報の発明よりも、はるかに難しいものであった。ロンドンからリバプールへ列車を引く蒸気機関車は、そのまま東京から大阪へ列車を引くっことが出来る。しかし社会の仕組みは、近代的であると同時に日本的であらねばならない。技術は安いコストで、しかもほとんど文化的なリスク抜きに輸入することが出来る。これに対して社会的な仕組みは、それを発展させるためには、文化的に根付かせなければならない。
このような理由で、日本は100年前、その資源を社会的なイノベーションに集中することとし、技術的なイノベーションは模倣し、輸入し、応用するという決断を行った。そして見事に成功をおさめた。この方針は、今日にいたるまでも十分通用するものといってよい。なぜならば、時に冷やかし的にいわれている創造的模倣なるものこそ、後に17章で見るように、企業家的戦略としてきわめて成功の確率の高いものだからである。
また、もしかりに、日本が他の国の技術の輸入や応用以上のことをしなければならないとし、自ら純粋に技術的イノベーションの行わなければならなくなっていると仮定した場合においても、日本を過小評価してはならない。
そもそも研究開発というものが、人類史上ごく最近における社会的なイノベーションの一つなのであり、日本は過去の例からも明らかなように、社会的なイノベーションには、とくに長じているからである。また日本は、とくに企業家的な戦略にも長じているからである。
かくしてイノベーションは、技術というよりは経済や社会にかかわる用語である。J・Bセイは、企業家精神をもって、資源の価値を変えるものと規定した。イノベーションについても、同じ文脈でとらえるべきものである。近代経済学者のように、イノベーションとは、消費者が資源から得るところの価値や満足を変えるものと規定すべきである。
ただしイノベーションは、需要と供給のいずれの側でも起こる。鉄鉱石ではなく、鉄屑を原料として鉄鋼製品をつくるということは、供給にかかわるイノベーションである。コンテナー船の発明も、供給にかかわるイノベーションである。いずれも、最終製品や、その使用目的や、消費者は変わらない。
しかし、テープレコーダーやビデオの発明は、技術的なイノベーションではあるが、消費者の価値観や欲求という需要側のイノベーションとしてとらえるべきである。1920年代にヘンリー・ルースによって創刊された「タイム」、「ライフ」、「フォーチュン」などのニュース雑誌や、1970年代後半から80年代前半にかけて発展をみたマネー・マーケット・ファンドなどの社会的なイノベーションもまた、需要にかかわるイノベーションである。』
0 件のコメント:
コメントを投稿