2025年12月30日火曜日

20251229 ベートーベン:交響曲第9番の思想的射程と現代的意義について

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンによる交響曲第9番ニ短調、作品125は、音楽史において独特の地位を占める作品であり、その最大の特徴は、終楽章に声楽を導入した点にあります。器楽を基盤として発展してきた交響曲の形式に、声楽を組み込むという試みは、当時の交響曲の様式からは逸脱するものでした。そして、その独自の構造ゆえに、本交響曲は音楽史における一つの転換点として位置づけられていると云えます。

本交響曲の構想は1818年頃から始まり、実際の執筆は1822年末から1824年初頭にかけて行われました。先述の終楽章にある声楽の歌詞には、フリードリッヒ・フォン・シラーが1785年に著した頌歌「歓喜に寄す」が採用されています。この詩を音楽化することは、ベートーヴェンにとって長年の願いであり、それが最後の交響曲において結実しました。

1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場で行われた初演では、ミヒャエル・ウムラウフが実質的な指揮を執り、聴力を喪失していたベートーヴェンはテンポを指示する役割で舞台に立ちました。終演後、聴衆の反応を認識できなかったベートーヴェンに対し、独唱者が客席の方へ向き直るよう促したことで、彼が初めて大喝采を認識したという記録が残されています。

また、本交響曲の背景には、当時の政治状況が深く関与しています。シラーが「歓喜に寄す」を執筆したのはフランス革命直前の啓蒙主義的な時代(1785年)でしたが、本交響曲が初演された1824年は、ナポレオン失脚後のウィーン体制下、宰相メッテルニヒによる保守反動的な政治体制が欧州を覆っていた時代でした。

こうした背景において、本交響曲は純粋な祝祭音楽とは異なる思想的性格を持ちます。終楽章冒頭において、先行する楽章の回想がバリトンの独唱によって否定される構成は、それまでの器楽的文脈を一度遮断し、新たな方向性を模索する転換点として機能しています。これは、既存の社会秩序や価値体系が限界に達した地点から、普遍的な共同性を再構築しようとする試みであるとも解釈出来ます。

また、当交響曲の作品構造は、内的苦悩から人類的な歓喜への移行を表現しています。第一楽章の不安定な導入、第二楽章の律動、第三楽章の瞑想を経て、第四楽章において初めて「歓喜」が言葉として提示されます。

このプロセスは、歓喜が最初から与えられたものではなく、分裂や葛藤を通過した後にのみ到達し得るものであることを示しています。つまり、ここで描かれているのは、楽観的な調和ではなく、厳しい現実を前提とした上での生の肯定であると云えます。

後世、ニーチェがその処女作『悲劇の誕生』において本交響曲を論じたことは、第九の思想的解釈を深める一助となりました。ニーチェは同著の第1節において、ベートーヴェンの「歓喜に寄す」を、個の境界が崩壊し万物が根源的な一体感へと回帰する「ディオニュソス的陶酔」の象徴として引き合に出しています。彼にとって当交響曲の終楽章は、苦悩や混沌を否定するのではなく、それらを包含した上で生を全肯定する力を具現するものでした。構築された形式の中で、情念と理性、個と全体が均衡を保つその姿は、きわめて高度な精神的営為であると云えます。

そして、この視座は現在の分断され、不安定化した世界情勢においても有効な示唆を与えてくれます。国家間の対立や価値観の相違などが顕在化している現在、当交響曲が提示する「歓喜」は、既に完成された調和を謳歌するものではなく、むしろ、世界が分断され、不安定化している地点から、それでもなお共存の可能性を構想し得るかという問いとして機能するのではないかと考えます。

さらに、当交響曲が初演から200年以上経た現在も世界各地で演奏され続ける理由は、当交響曲が安定した世界の祝祭音楽的なものではなく、不安定な世界においてこそ参照されるべき思想的課題を我々人類に提示し続けているからであると考えます。救いが保証され得ない厳しい状況から、いかにして我々は歓喜を見出し得るのか。その問いは、今もなお現代社会に対する解決が困難な問題(アポリア)として提示され続けていると云えるのではないでしょうか?

Beethoven: The Ideological Scope and Contemporary Significance of Symphony No. 9

Ludwig van Beethoven’s Symphony No. 9 in D minor, Op. 125 occupies a unique place in the history of music. Its most striking feature is the introduction of vocal music in the final movement. To incorporate voices into a form that had developed as purely instrumental was a clear departure from the conventions of the symphony at the time. For this reason, the Ninth Symphony is widely regarded as a turning point in the history of Western music.

Beethoven began to conceive the work around 1818, and he composed it between late 1822 and early 1824. The text sung in the final movement is drawn from Friedrich von Schiller’s 1785 ode “An die Freude” (“Ode to Joy”). Setting this poem to music had been one of Beethoven’s long-held ambitions, and it was in his final symphony that this aspiration was finally realized.

The premiere took place on May 7, 1824, at the Kärntnertor Theater in Vienna. Michael Umlauf effectively conducted the performance, while Beethoven—by then profoundly deaf—stood on stage giving tempo indications. When the music ended, Beethoven was unable to perceive the audience’s reaction. According to contemporary accounts, one of the soloists turned him toward the audience so that he could see the overwhelming applause.

The political background of the work is also significant. Schiller wrote “Ode to Joy” in the intellectual climate of the Enlightenment, shortly before the French Revolution. By contrast, the symphony was premiered in 1824 during the post-Napoleonic era, when Europe was dominated by the conservative order enforced under the leadership of Metternich.

In this context, the Ninth Symphony cannot be understood as simple celebratory music. At the opening of the final movement, motifs from the preceding movements are recalled and then rejected by a baritone soloist. This gesture interrupts the established instrumental narrative and marks a decisive break, opening the way toward a new direction. It can be interpreted as an attempt to reconstruct a form of universal human community at a moment when existing social orders and value systems had reached their limits.

The overall structure of the symphony traces a movement from inner struggle toward a vision of human joy. The uneasy opening of the first movement, the surging vitality of the second, and the meditative character of the third all precede the final movement, in which “joy” is articulated for the first time through words. Joy is not presented as something given from the outset, but as something that can be reached only after passing through division and conflict.

What is affirmed here is therefore not an easy or optimistic harmony, but a form of affirmation grounded in harsh reality. Joy emerges not through the denial of suffering, but through its inclusion.

The later reception of the work was deepened by Friedrich Nietzsche, who discussed the Ninth Symphony in his first book, The Birth of Tragedy. Nietzsche refers to “Ode to Joy” as an expression of Dionysian ecstasy, in which the boundaries of the individual dissolve and all beings return to a fundamental unity. For Nietzsche, the final movement does not negate suffering or chaos, but gives form to a force that affirms life by embracing them. Within a carefully constructed musical form, passion and reason, the individual and the whole, are held in tension and balance. This represents an exceptionally high level of spiritual achievement.

This perspective remains relevant in today’s divided and unstable world. At a time when conflicts between states and clashes of values are increasingly visible, the “joy” presented in the Ninth Symphony does not celebrate a harmony already achieved. Rather, it functions as a question: whether it is still possible to imagine coexistence from a point of fragmentation and instability.

The fact that this symphony continues to be performed worldwide more than two centuries after its premiere suggests that it is not music for a stable and settled world. Instead, it persistently confronts humanity with a set of intellectual and ethical challenges that become most urgent precisely in times of uncertainty. From conditions in which no redemption is guaranteed, how are we to find joy? This question continues to confront modern society as an unresolved aporia.

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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2025年12月24日水曜日

20251223 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」 pp.56‐59より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー②「私の中の日本軍」
pp.56‐59より抜粋
ISBN-10 : 4163646205
ISBN-13 : 978-4163646206

 一般社会の人間は全部盲目だ、そう考えない限り、彼らは社会の自分たちへの仕打ちを許せない。しかしそれは結局、社会のすべての価値判断を拒否して、これと断絶し、軍隊内だけの自己評価と、互いの間だけで通用する相互評価の中だけで生きていくことになる。だが、この評価は日本の社会にも世界にも通用しない。触れれば、すぐにくずれてしまう。そこでさらに断絶はひどくなり、ついには自分の集団内だけで通用する特別の言葉を使い、それによって社会とも世界とも一切の接触を断っていく。これは当然の帰結であった。

 しかし、その彼ら(将校)より、さらに不安定な位置にいる人びとがいた。下士官である。最低のサラリーマンとはいえ、将校は、一つの「職業人」としての社会的地位はもっていた。しかし、将校の社会的地位の急激な低下を皺よせされた下士官は、その社会的地位に関する限り、もう絶対的で救いがたい状態であった。社会は彼らを「職業人」とすら認めなかった。

 日本という学歴社会およびそこから生み出されたインテリは、口では何といおうと、実際には労働者や農民を蔑視している。彼らが口にし尊重する「労働者・農民」は、一種の集合名詞乃至は抽象名詞にすぎない。これは昔もおなじで、当時の新聞や御用評論家がいかに「軍」や「軍人」をもちあげようと、それは「軍」「軍人」という一種の集合名詞・抽象名詞に拝跪しているのであって、この軍という膨大な組織の最末端に現実に存在する最下級の「職業軍人」すなわち下士官は、現実には、徹底的に無視され嫌悪され差別され軽蔑されていた。

 これがいかに彼らを異常な心理状態にしたか!下士官を象徴する「軍曹」という言葉は、軍隊内ですらウラでは一種の蔑称であった。「モモクリ三年カキ八年、低能軍曹は十三年」であって、彼らはあらゆる劣等感にさいなまれつづけていた。集合体としても個人としても、同じように扱われれば、すなわち「軍」も「下士官」も同じように扱われるのならば、たとえ低く扱われても、それはそれなりの安定がある。戦後の自衛隊はそういう状態に安定しているのかも知れない。しかし「軍」という名で極端に賞揚され、「下士官」という名で極端におとしめられるーこれをやられると、どんな人間でもある程度は精神が異常になってくる。私は当時の軍人の精神状態は、下士官に一番はっきりと露呈していたと思う。そしてのその精神状態は、結局は、下級将校も同じなのである。

「社会が悪い」といえる点があるなら、この点であろう。集団へのリップサービスでは最高の敬意を払い、その個々の構成員は、一個の社会人としてすら認めないほど蔑視し、最低の報酬した払わず、最低の待遇しかしない。これが一番ひどい扱いだと私は思う。最低の待遇しかしないなら、最高の敬意などは、むしろ払わねばよいのである。

 だが、一般社会には、彼らを蔑視しているという意識さえなかったのである。またそれによって、彼らが(そしてまた将校も)屈辱的な社会的地位の低下と徒らなる賞揚に異常な精神状態になっていようなどとは、だれも夢にも考えなかった。それは戦後に書かれた、横暴で無知な下士官の描写によく表れている。そのほとんどの場合、書いている本人が、自分が内心どれだけ下士官を蔑視していたかを忘れているーというより、今でも全然そのことが念頭にないのである。日本のインテリ特有の一種の鈍感さである。

 下士官は、このことをいわば肌で知っており、この点では異常なほど敏感ーというより一種の対「社会アレルギー」という状態になっていた。従って、お世辞はもちろんのこと、好意にすら耐えられず、自分に向っての何気ない微笑すら容赦できなかった。「バカヤローッ、軍隊には愛嬌はイラネーンダ、ナレナレしいよ、このヤロー」。彼らは、本心から自分に好意をもち、本心から自分という人間を対等に扱ってくれる人がいるなどとは、絶対に信じなかった。そして軍隊内だけでしか通用しない自己評価と相互評価だけで生きていた。そしてその評価のうらづけは、現実には将校の位置である。彼らは内心では将校を軽蔑しつつも、これを半神のように扱うよう兵に要求した。これも、将校より下士官が嫌われた一因であろう。そしてそれがかもし出す一種の雰囲気、たえずイライラしたような緊張感は、全軍隊を一種異様な精神状態にしていった。

 一般社会から実際には無視される。すると今度は、彼らが一般の社会人を人間と認めなくなる。これが面白いことに、新聞などで報ぜられる大学騒動のときの先進的な助手や大学院生の言葉と非常に似た感じになってくる。岡本公三の長兄のことが雑誌に出ていたが、相手のほおをてのひらで軽くヒタヒタと叩くというその姿は、あのころの最も冷酷な下士官を髣髴とさせる。また、「ガスが爆発すると人は死にます、機動隊とは限りません。しゃーないやないすか、そんなもの」という滝田修の言葉は、内容だけでなく、表現まで下士官そっくりである。

 結局これは、社会の彼らへの扱いの裏返しである。「軍」で賞揚され「下士官」で蔑視される。すると「お国のため」と「お国」」を賞揚して、そのお国を構成する国民の一人一人は人間とは扱わない。同じように、「人民のため」と「人民」は賞揚しながら、その人民を構成する個々の人間は「そんなもの」になってしまう。

 こういう状態で生きていれば、結局は一種の根源主義者にならざるを得ない。彼らが何もかも否定し、社会全部を「めしい」考えることによって彼らだけの自己評価に生きるなら、その評価が依拠する根元は「絶対」であらねばならない。ここに「天皇制ラディカル」ともいうべき「国体明徴」問題も起れば、彼らの自己評価のみに基づく行動も起る。

 二・二六の将校、特にその推進者は、一言にしていえば中隊付将校、すなわち「ヤリクリ中尉」であり、その社会的な地位は、はたちを少し越えた最下級の貧乏サラリーマン、それと最末端の管理職、課長というより係長ともいうべき「ヤットコ大尉」である。しかし「幼年学校」出の彼らの自己評価においては、天皇制ラディカルとして日本の根元を問い、それに依拠して一大革新を行うべき、自己否定に徹した革命家であった。だがその中の典型とも言うべき中橋基明中尉の言動を見ると、異常に高い自己評価と異常に低い社会的評価との間の恐るべきギャップが、このエリート意識の強い一青年を狂わしたとしか、私には思えない。

 

2025年12月16日火曜日

20251215 師匠の講演前夜での予演および駄弁りと、当ブログの備忘録的性質について

 昨日投稿の記事は、これまでブログ記事作成を休止していた反動によるものであるのか、比較的一気呵成に作成することが出来たと云えます。また、ブログ休止中であっても、記事のネタになりそうな現実の出来事はそれなりにありますので、それらについても忘れないように、何処かに書き記しておく必要があると思われます。しかし現在、ブログを休止していますと、当ブログ副題で述べた通りの「主に面白いと思った記述、考えたことを記します。自身の備忘録的な目的もあります。」という一文が、実際にそのままの意味であったことに、改めて気が付かされます。

 つまり、さきのような現実の出来事を、ある程度抽象化して文章にすること自体が、その出来事を忘れないための手段であったことに、今さらながら思い至るのです。

 さて、ここまで文章を作成していて思い出された記憶は、去る12月6日(土)に関与させて頂いた学会に関するものです。こちらの学会は比較的新しい歯科医学分野の学会であり、その学術大会は、今回で第11回目を迎えます。そして、この学術大会では、以前より、歯科理工学分野の師匠を教育講演講師としてお呼び頂いていますが、今回も師匠は新たにネタを仕込み、スライドを作成され、講演前日の夕方には会場近くのホテルに入られていました。
 
 そしてその日、学術大会の用務を終えた私と、診療を終えた都内で開業されている門下の先生(私の兄弟子にあたります)を呼び出し、宿泊先のホテルで、作成したスライドを予演のように我々に聞かせるのです。その後、我々の意見を聞き、それが議論を通じて妥当であると判断されますと、スライドに加筆修正をしたり、画像データを差し替えたりされます。そうした様子を見ていますと、師匠は既に70歳をとうに過ぎているにもかかわらず、他者からの見解を度々求め、ご自身の作成スライドに躊躇なく手を加えることが出来ることに毎回のように感心させられます。

 実際、そのことを師匠に尋ねてみますと、概ね次のように返答されました。

「最近はだいぶ普及してきた云うてもやな、まだまだジルコニアは分かってへんことも多いんや。それでな、一番アカンのは、よう分からンままに、科学的な根拠もない憶測みたいなンが、業界やら学会やらに、割と広う出回ってしもてることや…。
せやからな、この学会で教育講演やらせてもらえるンは、ワシにとってはホンマに有難い機会なんや。
それでや、お前らみたいに気ぃ使わんでエエ連中に、いっぺん作ってきたスライドの内容を聞かせて、その反応を見てな、これはイケる、これはアカン、云うてもろて、それをまたスライドに落とし込む。まあ、そういう作業がな、ワシにとっては結構大事なンや。」

さらに、体力や学会などでの立ち振る舞いについては、次のようにも述べられていました。

「ワシもな、前に比べたら、体力は確実に落ちてきとる。せやけどな、まだ60分や90分くらいの講義や講演やったらイケる。ただな、元の体力が落ちとる分、余計なとこで消耗したくないンや。

学会のパーティ云うたら、エライ先生もようけ来てはるやろ。それに、よう知らん先生にも、それなりに気ぃ使わなアカン。

そんなンするくらいやったらやな、お前らみたいに、気ぃ使わんでエエ連中相手に、いろいろ喋っとる方が、よっぽど楽やし、その分、講演の方にも気持ちがちゃんと向くんや。」

この師匠のスタンスは以前と変わらないものであると云えますが、学会発表であれ、講義や招待講演や教育講演であれ、自らの知見に基づき、科学的に妥当と考えられる見解を、出来るだけ分り易く伝えようとする、その一貫した行為態度には、私自身も多少なりとも学ぶところがあったのではないかとも思われます。あるいは、それが少しでも根付いたからこそ、当ブログは、なんとか10年以上継続することが出来たのではないかとも思われます。

ちなみにこの時、最近刊行された歯科専門雑誌に掲載された師匠の執筆記事について、「お前、読めえ!」と云われ、続いて同席していた先輩からも「俺の記事も読めえ!」と云われました。そこで私は、「分かりました。次の休みに水道橋のシエン社に行って、立ち読みして、面白そうでしたら購入します」と返事をさせて頂きました。そして、去る11日(木)の休日に御茶ノ水駅で下車し、駿河台を下って靖国通りに出て、神保町の古本屋街沿いを九段下方面へ少し歩き、神保町交差点で右折して白山通り沿いに水道橋方面へ進み、JR水道橋駅の高架を過ぎて後楽園方面への交差点を渡る手前で左折すると、マクドナルドやココイチを過ぎた辺りの左手に、歯科系書籍の専門店として界隈では知られているシエン社があります。

そこで、他の歯科系雑誌や書籍をしばし立ち読みした後、件の雑誌を手に取り読んでみますと、やはり面白いと思われましたので、購入させて頂きました。また、購入時に領収書の作成をお願いしたところ、そこからシエン社さまの相談役の方と多少話が盛り上がってしまいましたが、ともあれ、師匠から勧められた書籍は購入し、その後拝読させて頂きました。内容は、師匠が常々述べられている世界規模での歯科医療の様相や、その推移が、材料学あるいは工学的見地から述べられており、特に業界に関与される方々は、興味深く読むことが出来るのものと考えます。

また、ここまで文章を作成していて、さらに思い出されたことがあります。それは、過日、国際関係論や公衆衛生、医療政策分野などに造詣が深い別の先生から、電話口にて自著を勧めて頂いたことです。後日、こちらの著作も購入して拝読させて頂きましたが、これもまた大変興味深い内容が述べられており、いずれ改めて引用記事を作成させて頂く予定です。

このように、ブログ記事のネタとなりそうな現実の出来事は、それなりに生じています。しかし、いざそれらを記述しようとしますと、どうも、この文章のように、何やらゴタゴタした文章になってしまうようです…(苦笑)。後日、改めて加筆修正を行うことになると思われますが、とりあえず、今回はこの辺で区切らせて頂きます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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2025年12月15日月曜日

20251214 2400記事への到達後に思ったこと:1万時間の法則から

去る11月にブログ総投稿記事数が目標としていた2400記事に到達し、そこから自作文章での新たなブログ記事はあまり作成しておらず、また、引用記事はいくつか作成しましたが、それらは10記事もありません。他方、文章を作成する機会はコンスタントにあるため作成していますが、当ブログが目標に到達して一旦休止となったためであるのか、その文章作成も以前ほど身が入らなくなってきた感じが少しあります。しかし、それは恒常的な変化ではなく、またしばらく休止期間を設けることにより、以前よりも、より充実して上達した文章作成が出来るようになるのではないかと思われます。この休止期間の中にあっても、人工知能に頼らずに、時々はこうして文章を作成することは、それなりに重要であると思われるため、こうして新たな記事作成を試みています。また、作成を始めてから、ここに至るまで比較的スムーズに出来たことは、自分としては安心を感じますが、一方で、さらに投稿の頻度を上げた方が良いのではないかと危惧する部分もあります。とはいえ、新規での記事作成を行わないことによって生じる、こびり付くような不快感は、過日の2400記事到達により、ありません。そして、このことが到達前後で最も大きく変わったことであると思われます。

また、そのように考えてみますと、当ブログはもう終えて閉じるべきであるのかとも思われるところですが、それと同時に2500記事程度までは、そこまで大きく苦労をすることなく到達出来るようにも思われるのです。それ故、休息期間は今しばらく継続して、具体的には来年の3月末頃までは基本的に休止し、その間も時々は文章の作成自体を忘れないように、このように新規での作成を心掛けたいと考えています。

そういえば、このブログ記事作成の休止期間に、どうしたわけか「1万時間の法則」という言葉を耳にする機会が何度かありました。そこで、その意味をネット検索で調べてみますと、これは単純に「時間を積み重ねれば熟達する」という意味ではないことが分かりました。むしろ、意味のある練習を長期にわたり継続することで技能や思考が一定の水準に達する、という趣旨での経験則であり、「1万時間」という数字も多分に象徴的な値に過ぎません。それよりも、その本質は、長期的な継続を通してしか得られない変化があるという点にあり、これは多くの領域に通底する考え方であるように思われました。

また、当ブログについて考えてみますと、その価値は論文のように投稿先雑誌毎の評価指標により数値化されるわけでもなく、スポーツのように点数や審査員による判断があるわけでもありません。そのため、特定の記事やブログ全体の意味を、どのように位置づければよいのか分からず、曖昧な不安を覚えることもあります。その点で、この「1万時間の法則」は、明確な指標を持たない営みの価値を測るための、ひとつの座標軸になるのではないかと思われました。

とはいえ、文章表現の熟達は「書けば書くほど上達する」といった直線的なものではなく、むしろ長く継続するほどに、自らの未熟さや無知に気付いてしまうといった側面があります。さらに、ある程度継続しますと、ブログ記事の作成といった行為自体の意味を問い直したくなる時期も訪れます。やがて継続の理由も、技術向上や成果の可視化といった外的指標では測定され得ず、むしろ「文章の作成を通して思考が組み換えられ、世界の見え方がわずかに変わっていく」内的な効果に重点が移っていくのではないかと思われるのです。

近現代史や国際関係論や考古学、古代史あるいは民俗学といった分野に触れるたびに、それらは思考の層となり、徐々にこれまでとは異なった景色へと導いてくれます。そして、文章の作成とは、単に知識を扱う技術ではなく、世界を認知する方法そのものを再構築する営みであると云えるのかもしれません。その過程で、これまで所与・自明であった前提や価値観が次第に揺さぶられ、やがて自らの思考そのものが、いつの間にか変化していることに気付かされます…。

長期的に取り組むほど、継続は「上達のため」だけではなく「対象への理解を深めるため」に行われるようになります。文章化することは、対象の構造を理解するための方法であり、思考を透明化する媒体でもあると云えます。文章化することにより曖昧であった概念が言語としての輪郭を持ち、推敲を通じ、さらに明晰化されます。そして、こうした循環を何度も反復することで、意識の奥に沈んでいた思考が徐々に結晶化していくのではないかと考えます。

そして、この視座から「1万時間」を見直してみますと、それは単に熟達の到達点を示す数字ではなく、「ある程度の継続期間が思考をどのように変化させるか」を示す象徴とも見えてきます。長期にわたる継続的活動は、自覚され得る成長を直線的に保証するものではありませんが、同時にそれは、さまざまな質の時間を含み込みつつ、緩徐的に認知の構造を変化させます。それ故、成長を実感できない時期も、不意に新たな、そして明晰な視野が開ける瞬間も、同じ時間の連続線上に位置付けられるものと云えます。時間が精神に及ぼす作用とは、多くの場合、そのように複雑で非線形なものであると云えるでしょう。

ともあれ、そうしたことから、対象が変わらなくても、ある程度の期間をかけて向き合えば、その対象の見方や理解の仕方は変わっていきます。その意味で、文章の作成とは、その過程において認知の癖や偏りに気付き、それを調整する手掛かりが示され、内面での調和を取り戻す行為でもあるとも云えます。そして、その継続とは、こうした自己の再編成が緩やかに進行することであり、あるいはむしろ「1万時間」という区切りを越えてから、より本質的な変化が生じるのかもしれません…。

そうしますと、重要であるのは「1万時間」という数字そのものではなく、その継続した時間の中で何が変わり、何が見えるようになり、世界との関係がどのように変化したかということであると云えます。そこから、文章の作成とは、自らが世界に触れるための営みであり、そして、時間をかけて、その精度を研ぎ澄ませることが、世界に触れ、自らの考えを整える営みと云えるのではないかと思われます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。
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