2024年9月24日火曜日

20240923 1848年についての書籍内での記述集① 資料として

1848年シリーズ
『六月の戦闘についてもうこれ以上語ることはしない。最後の二日間の記憶は、最初の日々の記憶のなかにまざり込んでしまって、はっきりしなくなっている。反乱の最後の拠点であるフォーブール・サン‐タントワーヌが降伏したのは月曜になってであること、つまり闘いが始まってから四日目であったということは、人の知るところである。マンシュ県の義勇兵がパリに着くことができたのは、この四日目の朝になってからのことだった。彼らは急ぎに急いでやって来たのだが、それは鉄道のない地方を通っての八十里以上の道のりであった。総員一五〇〇人。私は彼らのなかに、地主、弁護士、医師、農業家、私の友人、私の隣人を認めて感激した。私の郷里のほとんどすべての旧貴族たちが、この機会に武器をとり、部隊に加わった。フランスのほとんど全土でこうしたことがおこった。自分の郷里の草深いところで、もうすすけてしまっているような田舎貴族から、立派な家系の優雅で役立たずの相続人までの、すべての連中がこの時に、自分たちはかつて戦う階級、支配する階級に属しているのだということを思い起こした。そしていたるところで彼らはパリへの出発の先頭に立ち、力強さの模範を示したのだった。それほどにこの旧い貴族の集団の活力は大きいのである。彼らはすでに無価値なものになってしまったとみえる時に、自分自身の足跡は保持しているのであり、永遠に死の影のなかに憩いを求める前に、そのただなかからいく度も立ち上げるのである。シャトーブリアンが息を引き取ったのは、まさに六月事件のさなかであった。この人は今日でも旧い世代の精神をたぶんもっともよく保存していた人であった。私は家族の関係と子供時代の思い出とによって、この人のことは身近に感じていた。長いこと前からシャトーブリアンは茫然として言葉が出ないというような状態におちいっていた。そのことは時に人をして、彼の知性は消えうせたと思わせたものであった。しかしこうした状態のなかで、二月革命が発生したという噂が彼の耳にはいり、彼はその経緯を知ろうと思ったのだった。人が彼に七月王政が打倒されたと告げると、「よくやった」と言って沈黙した。四ヵ月の、六月の砲声がまた彼の耳にまでとどくと、彼は再びあれは何の音かと尋ねた。パリで戦闘が起こっており、あれは大砲の音だと人が答えると、「そこに行きたい」と言いながら、無理をして起き上がろうとした、そして今度は永遠に沈黙してしまった。その翌日に彼は死んだのである。これが六月事件であった。必然的で痛ましい事件であった。それはフランスから革命の火を消し去りはしなかった。しかし少なくとも一時の間、二月革命に固有の仕事と言いうるものに終止符をうった。六月事件はパリの労働者の圧政から国民を自由にし、国民を国民自身のものとした。』
株式会社岩波書店刊 アレクシ・ド・トクヴィル著 喜安朗訳「フランス二月革命の日々:トクヴィル回想録」
pp.286‐287より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003400917
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003400913 

『ここ最近は、数日間遠出していたこともあり、ブログ記事の更新は進んでいませんでしたが、後になり記事材料となる経験を意識的に持つことも記事作成と同様に重要であり、またそれら経験を整理しつつ、さらにそれを自然に文章化出来るようになるまでには、ある程度の期間を要すると思われますので、多少気の長い話ではあるかもしれませんが、こうした突発的な休止期間も時には必要であって欲しいと考える次第です・・(苦笑)。他方で読書の方は進み、先日の遠出の際にも、かねてより読み進めている白水社刊 オーランドー・ファイジズ著「クリミア戦争」下巻を持参して、移動時や睡眠前に読み進め、残り数十頁となりました。また、その他にも書籍に関しては、立ち読みなどで興味深い著作をいくつか見つけましたが、現在メインで読み進めている前出の「クリミア戦争」下巻の読了後は、以前、購入したままで積読状態にあるアレクシ・ド・トクヴィルによる「旧体制と大革命」を読み進めたいと考えています。考えてみますと、トクヴィルの生年はフランス革命の期間から数年経た1805年であり、そして没年は1859年であり、また、その生涯を通じた大きな興味の一つが「フランス革命」であったことから、トクヴィルは19世紀前半の思想家と見做されがちと云えますが、当記事前出、もう一つのトピックである「クリミア戦争」は1853~1856年の期間続き、また、その歴史的背景、基層には所謂「東方問題」として、数世紀にわたり懸念視され続けてきたものがあります。ともあれ、そこでトクヴィルとクリミア戦争との関わりについて考えてみますと、1848年の2月革命政権(第二共和制)時に官職に就いていたトクヴィルが、1851年のナポレオン三世によるクーデターによって辞職することとなり、それから2年後にクリミア戦争が勃発しましたが、この戦争についてトクヴィルがどのように考えていたのかは興味深いものがあり、トクヴィルのそれまでの履歴から考えてみますと、おそらくは、フランスにとっては犠牲が大きく、益の乏しい戦争であると考えていたのではないかと思われます。とはいえ、このクリミア戦争とは、主体となる国家や政体は変化しても、残念ながら今なお継続しており、そこから、まさに重層化したフォルト・ライン戦争の勃発地域、あるいは国際秩序が乱れた際に紛争・戦争といったカタチでの応力集中が生じ易い地域であるとも云えます。その視座からも、もしもあるとすれば、トクヴィルのクリミア戦争に対する見解は興味深く、そしてそれは、今後の世界情勢の展開を検討するうえで一つの参考になるのではないかと思われました。さらに、トクヴィルが興味を抱き続けた18世紀末の「フランス革命」即ち、大きな社会変化の様相や、その機序についての考察もまた、今後のさまざまな国や地域について考えるうえでの有効な参考になるのではないかと考えました。』

『しかし、このような中で1850年代末に入ると、反動の濃霧はようやくうすれ出し、19世紀前半以来の現状変革の諸運動は諸国において次第に復活して動きはじめるのである。その点で特に注目すべきものは、イタリアおよびドイツ地方における民族的統一運動の進展であった。前者はサルディニア王国の中心として、後者はプロイセン王国を中心として行われることになったが、しかも、両者はその過程において幾つかの民族解放戦争をひき起こしつつ、それらを通して進展することになった。そもそも、ウィーン会議以後19世紀前半期においては、バルカン半島を除くヨーロッパは久しきにわたって平和が保たれてきた。ヨーロッパにかくも長く平和が維持されたのは、1494年以来未だかつてなかったといわれている。それは一つには、ウィーン会議前後において将来の国際平和の永続が願望された既述の諸事情がその後維持したことに起因するといってよい。しかし、1848年にいたってプロイセンとデンマークがシュレスヴィッヒ=ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)問題で戦火を交え、またサルディニアがイタリアの民族的統一を意図してオーストリアに宣戦するに及んで、久しきにわたって保たれてきたヨーロッパのこの平和も遂に破れたのであった。そして、その後1854年から56年にかけてクリミア戦争(Crimean War)が行われたが、それはヨーロッパ史上ナポレオン戦争以後で最大の戦争であった。ところで、このクリミア戦争の惨害は久しきにわたって大戦争を経験しなかったヨーロッパの人心に深い印象を与えた。そして、この戦争に終止符をうつことになったパリ平和会議(1856年)は、このような人心を背景として、次のような言葉を含む議定書を採択したのであった、「各全権委員会は各自の政府の名において以下のごとき希望を表明することを躊躇しない。すなわち、重大な紛争に陥った国家は、武器をとるに先だち事情の許すかぎり友邦に斡旋を求めることが望ましい。各全権委員はこの会議に列していない諸国もまたこの議定書の精神に同意することを希望するものである」。しかし、その後の歴史の進行は、パリ会議の以上のような希望の表明も一片の空文にすぎないことを証拠だてるに終わった。すなわち、クリミア戦争の後、イタリアおよびドイツの民族的統一を目標とした民族解放戦争が次々に爆発することになった。』
ISBN-10 ‏ : ‎ 4006002297
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006002299


『パスポートの国籍欄には「イギリス国民」と書かれている。ここで私は、「黄金の書」の冒頭にローマ皇帝にふさわしい美徳を授かった先祖や親戚の名前を挙げたマルクス・アウレリウス王にならい、私がローマ皇帝はおろか、ときどきを除いてイギリス紳士でさえない理由を説明したいと思う。母の父方は苗字をフォン・ランケといい、代々ザクセン地方の牧師で、家柄の旧い貴族ではない。貴族を示す「フォン」がつくようになったのは最初の現代史家だった大伯父、レオポルド・フォン・ランケからで、私はある程度彼のおかげを被っている。彼は、「私はキリスト教徒であるまえに歴史家である。要するに私の目的はものごとが実際どのようにして起こったかを発見することに尽きる」と述べて同時代の歴史家の顰蹙を買った。彼らを怒らせたのはそれだけではない。フランスの歴史家ミシュレを論じたさいに、「彼は真実が語れない文体で歴史を書いた」と言ったこともそれに油を注いだ。トーマス・カーライルが彼を「無味乾燥」だと非難したのは決して不名誉なことではなかった。不体裁なまでに大柄な私の体、我慢強さ、エネルギー、生真面目さ、それにふさふさした髪、などは祖父のハインリッヒ・フォン・ランケ譲りである。彼は若い時分には反抗的で、無神論者でさえあった。プロイセンの大学で医学生であった彼は、大逆罪に問われたカール・マルクスを支持して学生デモが行われた1848年には反政府活動に参加した。マルクス同様、彼らは国外退去を余儀なくされた。祖父はロンドンに逃れ、そこで医学の修行を終えた。1854年、彼はイギリス陸軍の連隊所属軍医としてクリミア戦争に従軍した。祖父に関するこうした知識は、子供のころにたまたま彼が言った言葉に端を発していれる。彼はそのとき、「大男が丈夫だとはかぎらないものだよ。セバストポールの塹壕では、小さな工兵が平気な顔をしているのに雲を衝くような体をしたイギリス軍の近衛師団兵がやられて死んでいく、こういうのを何十人も見たもんじゃ」と言った。しかし、堂々として押し出しのいい祖父は長生きした。彼はロンドンで祖母と結婚した。祖母はシュレスヴィヒ生まれのデンマーク人でグリニッジ天文台の天文学者だったティアルクスの娘で、信心深く、おどおどした小柄な女だった。彼女の父親が天文学を専攻するまえには、ティアルクス一族はデンマークの田舎の習慣に従って父親と息子が交互に別の職業に就いた。偶数の世代は板金職になり、奇数世代は牧師になったわけだが、これはあながち悪い習慣ではない。穏やかな私の性格は祖母から受け継いだものだ。彼女には十人の子供がいたが、一番上の母はロンドンで生まれている。祖父の無神論と急進主義は年を経るにつれ穏健なものになった。彼は結局ドイツに帰ってミュンヘンで有名な小児科医になったが、子供の患者に新鮮な牛乳を飲ませるべきだと主張したヨーロッパで最初の医師はおそらく彼である。通常の手段では新鮮な牛乳を病院に確保することはできない、とみた祖父は模範的な酪農場を自ら開いた。彼の不可知論はルターの敬虔な信奉者だった祖母を悲しませた。彼女は祖父のために祈ることを決してやめなかった。けれども、彼女の祈りはとりわけ子供たちの魂の救済に注がれた。祖父は考え方をまったく改めずにこの世を去ったのではなかった。』
株式会社岩波書店刊 ロバート・グレーヴス著 工藤 政司訳
「さらば古きものよ」上巻 pp.15-17より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003228618
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003228616

『ハンス・カストルプは不思議な、まったく新しい世界をのぞかせてくれるイタリア人の話を、注意ぶかく吟味しながら、奇異な感じを受けながらも影響をあたえられようとして、傾聴した。
セテムブリーニは彼の祖父のことを語った。
ミラノで弁護士をしていたが、なによりも熱烈な愛国者であって、政治的扇動家、雄弁家、雑誌寄稿家ともいうべき人物であった。
祖父も孫のロドヴィコと同じように反抗家であったが、しかし、孫よりも大きい大胆なスケールで反抗したのだった。
孫のロドヴィコは、彼がくやしそうにいったように、国際サナトリウム「ベルクホーフ」の生活をこきおろし、それに嘲笑的な批評をこころみ、うるわしい行動的な人間性の名によってここの生活に抗議をするだけで満足していなくてはならなかったが、祖父は諸国の政府をてこずらせ、そのころ分割された祖国イタリアを無気力な奴隷状態におさえつけていたオーストリアと神聖同盟にたいして陰謀をはかり、イタリア全土に広がっていた秘密結社の熱烈な党員であった。
―セテムブリーニがふいに声をひそめて、いまもそれを口にするのが危険ででもあるように説明してくれたのによると、炭焼党員(Carbonaro)であった。
要するに、祖父のジュゼッペ・セテムブリーニは、孫の話から二人の聞き手が受けた印象によると、暗い熱情的な扇動家タイプ、首魁、謀反人らしかった。
従兄弟は礼儀として感心したふりをするようにしたが、警戒的な嫌悪、いや反撥の色を顔からぬぐいきれなかった。
もちろん事情が特異でもあった。
すなわち、従兄弟がきかされた話はむかしの話であって、ほとんど百年もまえの話、すでに歴史に属している話であったが、その歴史、古い歴史のなかから狂信的な自由の精神、暴政にたいする不屈な敵愾心の本質と現象とが、話の形式で、いままで二人が夢にも考えなかったほど身ぢかくせまってきたのであった。
さらに従兄弟は、祖父の扇動的、陰謀的な活動には、祖父が統一と独立とを祈願していた祖国イタリアへの強い愛情が結びついていたこともきかされた。
―いや、祖父の革命家的活動は、この尊敬すべき結合の産物であり発露であって、この扇動性と愛国心との結合は従兄弟のどちらにも奇異に感じられはしたが―二人は祖国愛を保守的な秩序と同一視していたから―、しかし二人は、当時の彼地の一般情勢からは叛逆は市民道徳を、健実な分別は公共団体に対する怠惰な無関心を意味したのだろう、と心のなかでみとめざるをえなかった。
祖父セテムブリーニは、イタリアの愛国者であったのみではなく、自由を渇望するあらゆる民族と国と志を一つにする人物であった。トゥーリンで計画された襲撃、クーデターの企てが失敗したとき、それに言動のどちらからも加担していた祖父は、メッテルニッヒ公の追手から身をもってのがれ、それから亡命の何年間を利用して、スペインでは憲法の制定に、ギリシャではギリシャ民族の自由獲得のためにたたかい、血を流した。
このギリシャでロドヴィコの父親が生まれたのであった。
―そのために父親はあのように偉大な人文主義者、古典古代の愛好者になったのであろう。
なお、父親はドイツ系の婦人の腹から生まれたのであって、祖父はその娘とスイスで結婚し、それからの波瀾に富む生活にいつもつれ歩いていたのであった。
祖父はのちに、十年の亡命生活のあと、ふたたび故国の土をふむことができ、ミラノで弁護士として活動したが、しかし自由の獲得、統一された共和国の建設のために筆と舌、詩と散文とによって国民を鼓舞し、熱情的、独裁者的な名文をもって革命的プログラムを起草し、解放された民族が人類の幸福の確立のために団結することを、流麗な文章で予言をすることを決してやめようとはしなかった。
孫のロドヴィコの話のなかで、ハンス・カストルプ青年にとくに印象をあたえた事項が一つあった。
それは祖父ジュゼッペが一生いつも黒い喪服姿で同国人のまえにあらわれたということであった。
祖父は常から自分をイタリアのために、悲惨と隷属に呻吟する祖国のために、喪に服する者であるといっていた。
ハンス・カストルプはそれをきいて、それまでにも数回くらべてみたように、彼自身の祖父のことを考えずにいられなかった。
ハンス・カストルプの祖父も、孫が知ってからは、いつも黒い服を着ていたが、しかし、それはイタリアの祖父とは全然ちがった意味からであった。ハンス・ローレンツ・カストルプのひととなり、過去の一時代にぞくしているひととなりが、死によって真実のぴったりした姿(スペインふうの皿形の頸かざりをした姿)へおごそかに戻るまでのあいだ、この世に順応するために、自分がこの世にぞくしていないことをほのめかしながらかりに着ていた古風な服装を、ハンス・カストルプは思いうかべた。
この二人の祖父はほんとうに驚くほどちがっている祖父であった!ハンス・カストルプはそれを考えながら、眼をこらし、用心ぶかく頭をふったが、これはジュゼッペ・セテムブリーニに感心する身ぶりともとれたし、怪訝に感じて賛同しかねる身ぶりともとれた。それに彼は、彼と異質的なものを排撃することをつつしみ、単にくらべたり、分類したりするだけにとどめた。
彼は、ハンス・ローレンツ老人のほっそりした顔が、広間で、とどまりながらしかも動いているあの伝来の器、洗礼盤のうす金色の内面をのぞきこんでいた瞑想的な顔つきを思いうかべ、うつろで敬虔な音の「おお」、私たちが爪だちしながらうやうやしくゆれるように足をすすめる聖所を連想させる「おお」という前綴を発音するためにまるめている唇を思いうかべた。
そしてまたハンス・カストルプは、ジュゼッペ・セテムブリーニが三色旗を小わきにして反りのある軍刀を片手、黒い眼を誓うように空へむけながら、自由の戦士のむれの先頭に立ち、専制政治の方陣へ突入するのを見た。
どちらの祖父にもそれぞれ美しいりっぱなところがあった、とハンス・カストルプは、個人的な、もしくは、なかば個人的な理由から、えこひいきを感じそうだったので、いっそう公平であろうとして考えた。
セテムブリーニの祖父は政治上の権利を獲得するためにたたかったのであったが、ハンス・カストルプの祖父、もしくは先祖たちは、もとからすべての権利をにぎっていたのを、賎民たちが四百年のあいだ暴力と弁舌によってうばいとってしまったのであった、とハンス・カストルプは考えがちだったからであった。
・・・そして、二人は、北方の祖父と南方の祖父とは、いつも黒服を着ていたのであるが、どちらの祖父も彼と堕落した同時代のあいだにはっきりと距離をおくための黒服であった。
しかし、一人の祖父は彼の本性の故郷である過去と死のために敬虔な気持から黒服をつけていたのであったし、それに反して、他の祖父は反抗から、およそ敬虔とは正反対の進歩のために黒服をつけていたのであった。
ほんとうにこの二人は、二つの正反対の世界、もしくは方位ともいえる、とハンス・カストルプは考え、セテムブリーニの話に耳を傾けながらいわば二つの世界と方位のあいだに立って、二つをかわるがわる吟味しながらながめていたが、まえにもいつか同じような気持を経験したことがあるように思った。』
株式会社岩波書店刊 トーマス・マン著 関泰祐望月市恵 訳『魔の山』上巻pp.264-268より抜粋
ISBN-10: 4003243366
ISBN-13: 978-4003243367

『ロシアの相対的な力は一八一五年から数十年間、国際的には平和がつづき、産業革命が進行するにつれて衰えていく運命にあった。だが、このことが明らかになるのはクリミア戦争『一八五四~五六年)が勃発してからである。一八一四年、ヨーロッパは西に進出してくるロシア軍に畏怖の念をおぼえ、パリの民衆は抜け目なく「アレクサンドル皇帝、ばんざい」と叫んで、コサック旅団を先に立てて入城してきたツァーリを迎えた。和平協定そのものは、徹底的に保守的な立場から今後の国境や政治体制を決めようというもので、八〇万の軍隊を擁するロシアも支持にまわっていた。ロシア軍はどの国の軍隊よりも強大で、海上で英国海軍が圧倒的な力をふるっていたのと同じく、陸地では行く手を阻むものがなかった。オーストリアもプロイセンもこの東の巨人の影をつねに感じ、王室同士で手を結びあっているときでも、ロシアの力に対する恐れが消えなかったのである。ヨーロッパの憲兵としてのロシアの役割は、救世主のようにあらわれたアレクサンドル一世から専制的なニコライ一世(在位一八二五~五五年)に代わったあとも、強まりこそすれ減ずるものではなかった。
ニコライ一世の姿勢は、一八四八年から四九年の革命の嵐によってさらに強硬になる。パーマストンが述べているように、このころはロシアとイギリスだけが「毅然として立つ」ゆるぎない大国だったのである。ハプスブルグ政権が必死の思いでハンガリーの反乱を鎮圧する助力を乞うたときには、ロシアは三個軍を派遣してこれに応えている。だが、逆にプロイセンのウィルヘルム四世が国内の改革派につきあげにられて動揺し、ドイツ連邦の変更を提案したときには、ロシアは断固たる圧力を加えて、ついてにベルリン政府に国内では反動的な姿勢を強化させ、オルミュッツでは譲歩を余儀なくさせた。「変化を求める勢力」は、ポーランドやハンガリーの民族主義者も、欲求不満をつのらせたブルジョア自由主義者も、マルクス主義者もこぞって、ヨーロッパの進歩の前に立ちはだかる最大の障害はツァーリの帝国だと考えていた。しかし、経済と技術の水準では、ロシアは一八一五年から八〇年までのあいだにみる影もなくなっていく。少なくとも他の大国にくらべて、その衰えは明らかだった。もちろん、だからといって経済がまったく発展しなかったわけではない。ニコライ一世のころでさえ、官僚の多くが市場経済やあらゆる近代化に敵意を燃やしていたが、経済は成長していた。人口は急速に増え(一八一六年には五一〇〇万人だったものが、六〇年には七六〇〇万人、八〇年には一億人)、とくに都市部での増加がいちじるしかった。鉄の生産も増大し、繊維産業も数倍の成長をとげた。一八〇四年から六〇年までに、工場や企業の数は二四〇〇から一万五〇〇〇に増えたといわれている。さらに蒸気エンジンや近代的な機械が西側から輸入された。一八三〇年代からは鉄道網の建設も始まる。歴史家がこの時期のロシアには「産業革命」があったのかなかったのかと議論していること自体、ロシアの発展を裏書きするものであろう。だが、肝腎なのは、それ以外のヨーロッパ諸国の発展のスピードの方が大きく、ロシアは取り残されてしまったことだった。人口がはるかに多かったから、十九世紀初めの国民総生産はロシアが最大だった。ところが、二世代あとには、第9表(265頁)に示されているように、国民総生産の総額でも追い越されてしまっている。しかし、この数字を国民総生産一人当たりの額に換算してみると、さらにはなはだしい差があらわれる。これらの数字が示しているのは、この期間のロシアの国民総生産の増大が圧倒的に人口の増加によるものであって、この人口増加が出生率の上昇のせいか、トルキスタンなど新たに征服した領土のおかげかはともかく、(とくに工業の)生産性の向上とはあまり関係がなかったということである。ロシアの一人当たり所得と一人当たり国民総生産はつねに西ヨーロッパに劣っていた。だが、いまやその差がいっそう開き、(たとえば)一八三〇年には一人当たり所得がイギリスの半分だったのが六〇年後には四分の一になっている。同じく、ロシアの鉄の生産は十九世紀初めに倍増したが、イギリスは三〇倍に増えており、比較にもならなかった。数十年のうちに、ロシアはヨーロッパ最大の鉄生産、輸出国から転落して、西側からの輸入に依存する度合がますます高まっていく。鉄道や蒸気船の発達による運輸通信手段の改善も、相対的な視点でみる必要がある。一八五〇年当時、ロシアには五〇〇マイルあまりの鉄道が敷かれていたが、アメリカでは八五〇〇マイルにおよんでいた。さらに蒸気船による貿易も大きな河川やバルト海、黒海の沿岸でさかんになったが、積み荷の多くは増えつづける国民を養うための穀物と製品輸入の代金としてイギリスに送られる小麦だった。またあらたな進歩がみられても。そのほとんど(とくに輸出業務)が外国の商人や企業家に握られていて、ロシアは先進国経済に一次産品の原材料を供給する国という性格を強くしていく。さらに詳細に検討すれば、新しい「工場」や「工業関係の事業」のほとんどは労働者数一六人以下で、機械化もろくに進んでゐないことがわかる。資本の不足と低い消費需要、そして専制君主の横暴と国の疑い深い姿勢、これらがあいまってロシアの工業の「離陸」はヨーロッパのどの国よりも困難だったのである。だが、しばらくのあいだは、経済の暗い見通しもロシア軍のいちじるしい弱体化にはつながらなかった。それどころか、一八一五年以降、大国がみせたアンシャン・レジーム擁護の姿勢がいちばんはっきりとあらわれたのが、軍隊の構成、武器、戦術面だった。フランス革命の余波が残っていたから、各国政府は政治的にも社会的にも軍事力に頼る傾向が強く、軍部の改革には乗り気でなかった。将軍たちも、大きな戦争によって力を試されることがなくなって階級や服従を重視し、慎重になった。この傾向を助長したのがニコライ一世の閲兵好き、大行進好きである。こんな状況であるから、徴兵によって維持される大規模なロシア軍は、外部から見るぶんにはいかにも力強い戦力にみえた。兵站や将校の教育水準といった問題は外部からはわかりにくかった。しかもロシア軍は活動的で、たびたびの軍事行動に勝利をおさめて、カフカスやトルキスタンに領土を広げていた。この動きをインドにいるイギリスが警戒しはじめたため、十九世紀のロシアとイギリスの関係は、十八世紀のそれとくらべてかなり緊張したものになる。』
ISBN-10 ‏ : ‎ 4794203233
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794203236

『一八五四年から、一八五六年のあいだに、オーストリアとロシアの関係を友人から敵に、それもどう見ても永遠の敵に変えたのは、クリミア戦争であった。西側諸国対ロシアのこの戦争で、初めてバルカン半島のトルコの継承が問題となり、この危険をはらんだ地域は、その後、半世紀以上にわたってヨーロッパの政治を不穏におとしいれ、ついには第一次世界大戦の発火点となった。プロイセンとオーストリアは、クリミア戦争でともに中立を保った。とはいえ両国の中立は非常に異なる色合いをもち、プロイセンはいわばロシア側に、オーストリアは西側諸国の側に立った。オーストリアはドナウ諸国(今日の南および東ルーマニア)の獲得とバルカン半島からのロシアの追放のためのクリミア戦争を利用しようとした。そのわずかな五年前、ハンガリー戦争で負けかけていたオーストリアをロシアが助けてくれたにもかかわらず。「オーストリアはその恩知らずによって世間を驚かせるだろう。」シュヴァルツェンベルクはすでに早い時期にそう言っていたが、これは特徴を言いあてた名言である。オーストリアとロシアは、いまやバルカンにおいて致命的なライバルとなった。そしてプロイセンは、もはや彼らの同盟の中の第三者ではありえなかった。その同盟はもはや存在しなかった。今後プロイセンは、好むと好まざるとにかかわらず、両者間での選択を余儀なくされた。終わったのは「三羽の黒鷲」同盟だけではなかった。一八一五年にメッテルニッヒが設立し、プロイセンが進んでその中に憩ったきわめて巧妙なヨーロッパ体制が、革命と革命のもたらした結果とによって崩壊した。フランスはもはや関与していなかった。フランスではいま、ふたたびナポレオンという人物が支配していた。この「三代目」ナポレオンは、初代が抱いた帝国という野心こそもたなかったが、ヨーロッパ政治の中心をウィーンからパリに移すという野心を抱いていた。彼の手段はナショナリズムとの同盟であった。まず初めはイタリア・ナショナリズムとの同盟、そこでは彼は成功した。次はポーランド・ナショナリズムとの同盟、そこでは何の結果も出なかった。最後は、なんとドイツ・ナショナリズムとの同盟である。ここにいたってはナポレオン三世は自らの破滅を招いた。彼はいつものように、ヨーロッパに不穏・戦争・鬨の声をもたらした。革命後のヨーロッパは、もはや一八一五年から一八四八年までのような平和な国家共同体ではなかった。それぞれの国がいまはまた自立していた。良くも悪くも、プロイセンも例外ではなかった。』
pp.218‐219より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4887214278
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4887214279

『ちょうど1848年という、驚異の年を迎えていた。学生はひとりのこらず、教皇座に就いたマスタイ・フェレッティ枢機卿に熱狂していた。彼は二年前に教皇ピウス九世となり政治犯に恩赦を与えていた。この年初め、ミラノで最初の反オーストリア暴動が発生し、帝国政府の国庫を苦しめるためにミラノ市民は禁煙を始めた。(薫り高い葉巻の煙を挑発的に吹きかけてくる兵士と警察官の前で断固として抵抗していたミラノの学生は、私たちトリノの学生の目に英雄のように映った)。その同じ月に両シチリア王国で革命騒動が勃発し、フェルディナンド二世は憲法を約束した。しかし二月にパリで民衆蜂起によってルイ・フィリップが退位して(ふたたび、そして決定的に)共和国が宣言されー政治犯に対する死刑と奴隷制が廃止され、普通選挙が制定されたー三月には教皇は憲法だけでなく出版の自由も保証し。ゲットーのユダヤ人を多くの屈辱的な規則と奴隷状態から自由にした。そして同じ時期にトスカーナ大公も憲法を保証し、国王カルロ・アルベルトはサルディーニヤ王国に憲法を公布した。そしてウィーン、ボヘミア、ハンガリーで革命運動が起こり、ミラノの五日間蜂起によってオーストリア人は追い出され、解放されたミラノをピエモンテに併合するためにピエモンテ軍が戦いはじめた。共産主義者の宣言が出されたという噂さえ学生仲間のあいだで流れた。そのことには学生だけでなく工員や貧困層も熱狂し、最後の国王のはわらわたで最後の司祭を絞首刑にすることになると誰もが信じていた。すべてがよい知らせであったわけではない。カルロ・アルベルトは敗戦を重ねていて、ミラノの住民、そして一般的に愛国者全員から裏切り者とみなされた。ピウス九世は大臣が殺害されたことに怯えて、両シチリア王の領地であるガエタに避難した。身を隠して攻撃する教皇が当初思われたほど自由主義者ではないことが判明し、認められた憲法の多くは取りさげられた。しかしそのあいだに、ローマにはガリバルディとマッツィーニに率いられた愛国者が到着していて、翌年初めにローマ共和国が宣言された。父は三月には家にはまったく姿を見せなくなり、乳母のテレーザは、きっとミラノ蜂起に加わったのでしょうと言っていた。しかし十二月頃、家に出入りするイエズス会士のひとりが、ローマ共和国の防衛に駆けつけたマッツィーニ派に父が参加していたという知らせを受け取った。祖父は気落ちして、驚異の年が恐怖の年に変わるような恐ろしい予言を私に浴びせかけた。たしかにその頃、ピエモンテ政府はイエズス会の財産を没収して組織を攻撃し、その周囲を徹底的に破壊するためのサン・カルロ会やマリア・サンティッシマ会、レデンプトール会といったイエズス会を支持する修道会まで弾圧するようになった。「これは反キリストの到来だ」と祖父は嘆き、当然、あらゆる出来事をユダヤ人の陰謀だとみなして、モルデカイの陰惨な予言が実現するのを見ていた。』
ISBN-10 ‏ : ‎ 4488010512
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4488010515

『イギリス産産革命とフランス革命がおこった十八世紀後半から第一次世界大戦が勃発した一九一四年までを、しばしば「長期の十九世紀」と呼ぶ。この時代は、いわば「ヨーロッパの時代」であり、近代社会の特徴が最もよく現れた時代であった。その特徴とは、特に西ヨーロッパを中心に、工業化と、民主化を伴いながらの国民国家形成が進んだということであり、グローバルに見れば、世界全体がヨーロッパで生み出された体制の中に包摂されていったということであった。たとえば新しい技術学伸について言えば、一八〇七年汽走船(蒸気船)が発明され、一八一七年には汽走船による大西洋横断が成功した。当初外輪船であったが三〇年代後半にはスクリュー船が登場している。一八三〇年には鉄道がイギリスで最初の営業運転を開始した。こうした運輸手段の発達などは、交通革命と呼ばれる状況をもたらした。ナポレオン戦争後、ヨーロッパではウィーン体制と呼ばれる復古体制が支配したが、フランスでは一八三〇年に七月革命がおこって、復古ブルボン朝は倒れ、ルイ=フィリップが「フランス国民の王」となった。この七月革命の影響で、ベルギーが独立する一方、イギリスでは二月革命がおこって王政が倒れ第二共和制となった。二月革命は、ヨーロッパ各地に波及してウィーン体制を終わらせる一八四八年革命と総称される大きな歴史的事件へと発展した。一八四八年革命の時には、「諸国民の春」と呼ばれる国民主権運動や国家を持たない中東欧の新たな運動も生起した。他方、十九世紀半ばにかけてのグローバルな状況を東アジアについて見ると、一八二〇年代には中国・インド・イギリスを結ぶアヘン・茶・イギリス綿製品のアジア三角貿易が成立し、これはやがてアヘン戦争(一八四〇~四二年)を引き起こした。欧米のアジア進出は、清朝と同様に鎖国体制に会った日本にも及んだ。ペリーが四隻の艦隊(うち二隻は汽走軍艦)で浦賀に来航したのはまさにクリミア戦争勃発の年、一八五三年である。一八五四年初めにはロシアのプチャーチンとの交渉が、長崎で行われている。クリミア戦争が勃発したのは、「長期の十九世紀」のちょうど中ごろ、右のような大きな歴史のうねりが世界を覆いつつあった時代であった。したがって、この戦争は「古い騎士道精神に則って戦われた最後の戦争」(本書二二頁)であった一方、最新の工業技術が、とりわけ英仏側において、動員された近代的な戦争であった。たとえば、英仏軍が使用したミニエ銃は、ロシア軍のマスケット銃よりもはるかに長い射程距離を持っていた(第7章)。ロシアはいまだ国内にすら十分な鉄道網を持っておらず(首都ペテルブルグとモスクワの間に鉄道が開通したのは一八五一年)、そのことがロシアの軍事的補給を困難にしていたことはわが国の概説書などにおいても指摘されてきたことであるが、本書では、イギリスが一八五五年に入って突貫工事でバラクラヴァ港とイギリス軍陣地近くの積み降ろし基地を結ぶ延長一〇キロの鉄道を完成させ、セヴァストポリ要塞攻撃のための物資補給体制を整えたことが描かれている。これは世界の世界史上初の戦場鉄道であった(第10章)。新技術の採用と並んで、イギリスやフランスにおいては、国民形成の進展とジャーナリズムの発展によって(戦闘の現場に戦争報道記者と戦争写真家が登場したのは初めてであった)、ファイジズがいたるところで強調しているように、国民世論が戦争遂行にとって決定的な役割を果たすことになった。このこともまた歴史上初めてのことであった。』
pp.314‐315より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094896
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094891

今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!
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ISBN978-4-263-46420-5

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