pp.64-66より抜粋
ISBN-10 : 4061592238
ISBN-13 : 978-4061592230
私は日本に対するさまざまな起伏をもった体験のはてに、日本の彼方にヤポネシアという歴史空間の幻をみるようになったようである。しかし私にとってヤポネシアとは、日本人に特有な水平願望を意味するものではない。昨日も今日も、飲み食い、騒ぎ、そしてそれ以上にかくべつ野心をもたない人びとの渦まく日本列島社会そのものである。島尾敏雄の造ったヤポネシアという言葉に私がひかれるようになったその裏がわには、日本列島社会を「日本」と同じものと考えたくない心情がある。私にとって日本というイメージは手垢によごれすぎた。そのイメージを洗うものは、日本よりももっと古い歴史空間か、日本よりもっと生きのびる、つまり若い歴史空間のどちらかでしかない。日本よりも古くかつ新しい歴史空間、それが私にとってのヤポネシアだ。
「日本」は、単系列の時間につながる歴史空間であるけれども、ヤポネシアは、多系列の時間を総合的に所有する空間概念である。つまり、日本の外にあることとヤポネシアの内にあることとは、けっして矛盾しない。なぜなら、ヤポネシアは「日本」の中にあって「日本」を相対化するからだ。
私たちは、ナショナリズムを脱しインターナショナルな視点をもとうとすれば、単系列の時間につながる歴史空間であるところの「日本」を否定するしかなく、「日本」を肯定するとなれば、単系列の時間の中に組みこまれるほかない道を歩まされてきた。「日本」に埋められるか、「脱日本」のどちらかしかない二者択一の道をえらばされた。けれどもヤポネシアは、日本脱出も日本埋没をも拒否する第三の道として登場する。日本にあって、しかもインターナショナルな視点をとることが可能なのは、外国直輸入の思想を手段とすることによってではない。ナショナルなものの中に、ナショナリズムを破裂させる因子を発見することである。
それはどうして可能か。日本列島に対する認識を、同質均等の歴史空間である日本から、異質不均等の歴史空間であるヤポネシアへと転換させることによって、つまり「日本」をヤポネシア化することで、それは可能なのだ。
ヤポネシアの成立する理由のひとつとして、日本列島社会が、世界の国ぐにの中でも面積の割にはもっとも長い緯度のあいだに散在していることがあげられる。チリのように陸続きでなく、島嶼として存在することで、いっそう文化の同質均等化から免れているところに特徴がある。
ヤポネシアの概念が成立する理由の第二は、日本列島社会に古いものと新しいものとの混在が幾重層にもみられることだ。いちいち例証をあげることははぶくが、日本の近代に中世や古代が雑居している現象をみることは、けっしてめずらしいことではない。そしてこうした現象は、儒教やキリスト教でローラーをかけられた国では例外に属する事柄なのである。支配者の統一原理としての文化概念が極度に不寛容な形で貫徹されるということは、日本列島社会には存在しなかった。すなわち、支配者の統一原理がときには神道であり、仏教であり、儒教でありして、しかもそれらが他を全面否定することはなかった。
以上の理由からして、多系列で異質の歴史空間が日本列島社会では展開可能であるという事実が、ヤポネシアという概念を成立させる根拠なのだ。
ISBN-13 : 978-4061592230
私は日本に対するさまざまな起伏をもった体験のはてに、日本の彼方にヤポネシアという歴史空間の幻をみるようになったようである。しかし私にとってヤポネシアとは、日本人に特有な水平願望を意味するものではない。昨日も今日も、飲み食い、騒ぎ、そしてそれ以上にかくべつ野心をもたない人びとの渦まく日本列島社会そのものである。島尾敏雄の造ったヤポネシアという言葉に私がひかれるようになったその裏がわには、日本列島社会を「日本」と同じものと考えたくない心情がある。私にとって日本というイメージは手垢によごれすぎた。そのイメージを洗うものは、日本よりももっと古い歴史空間か、日本よりもっと生きのびる、つまり若い歴史空間のどちらかでしかない。日本よりも古くかつ新しい歴史空間、それが私にとってのヤポネシアだ。
「日本」は、単系列の時間につながる歴史空間であるけれども、ヤポネシアは、多系列の時間を総合的に所有する空間概念である。つまり、日本の外にあることとヤポネシアの内にあることとは、けっして矛盾しない。なぜなら、ヤポネシアは「日本」の中にあって「日本」を相対化するからだ。
私たちは、ナショナリズムを脱しインターナショナルな視点をもとうとすれば、単系列の時間につながる歴史空間であるところの「日本」を否定するしかなく、「日本」を肯定するとなれば、単系列の時間の中に組みこまれるほかない道を歩まされてきた。「日本」に埋められるか、「脱日本」のどちらかしかない二者択一の道をえらばされた。けれどもヤポネシアは、日本脱出も日本埋没をも拒否する第三の道として登場する。日本にあって、しかもインターナショナルな視点をとることが可能なのは、外国直輸入の思想を手段とすることによってではない。ナショナルなものの中に、ナショナリズムを破裂させる因子を発見することである。
それはどうして可能か。日本列島に対する認識を、同質均等の歴史空間である日本から、異質不均等の歴史空間であるヤポネシアへと転換させることによって、つまり「日本」をヤポネシア化することで、それは可能なのだ。
ヤポネシアの成立する理由のひとつとして、日本列島社会が、世界の国ぐにの中でも面積の割にはもっとも長い緯度のあいだに散在していることがあげられる。チリのように陸続きでなく、島嶼として存在することで、いっそう文化の同質均等化から免れているところに特徴がある。
ヤポネシアの概念が成立する理由の第二は、日本列島社会に古いものと新しいものとの混在が幾重層にもみられることだ。いちいち例証をあげることははぶくが、日本の近代に中世や古代が雑居している現象をみることは、けっしてめずらしいことではない。そしてこうした現象は、儒教やキリスト教でローラーをかけられた国では例外に属する事柄なのである。支配者の統一原理としての文化概念が極度に不寛容な形で貫徹されるということは、日本列島社会には存在しなかった。すなわち、支配者の統一原理がときには神道であり、仏教であり、儒教でありして、しかもそれらが他を全面否定することはなかった。
以上の理由からして、多系列で異質の歴史空間が日本列島社会では展開可能であるという事実が、ヤポネシアという概念を成立させる根拠なのだ。
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