ISBN-13 : 978-4163646701
その日九時ごろ、私は家を出た。学生服の下にパンツでなく下帯をつけていた。これが当時の徴兵検査の正装である。検査場は杉並区下高井戸の小学校の雨天体操場、家から歩いて四十分ぐらいの距離である。その古い木造校舎は、戦後もしばらく残っていた。校門の近くの塀に白紙がはられ、筆太に矢印で検査場への道筋が示されている。殆どが学生服の三々五々が、手に書類をもってその方へ行く。雨天体操場ににはゴザが敷かれ、壁際がつい立てで仕切られ、その各区画を順々に通って検査をうける。周囲をつい立てで囲まれた中央のゴザの広場がいわば待合室で、そお正面が講義、終った者はその前に裸で並び、順々に呼び出されて壇の上から検査の結果が宣告されるらしい。
そんな光景を、あけ放たれた雨天体操場の入口を通して横目で見つつ、その入口の横に机を並べて書類の受付をしている兵事係らしい人びとの方へと私は向った。その前には十数人の学生服が、無言で群れていた。そのとき私は、机の向うの兵事係とは別に、こちら側の学生の中で、声高で威圧的な軍隊調で、つっけんどんに学生たちに指示を与えている、一人の男を認めた。在郷軍人らしい服装と、故意に誇張した軍隊的態度のため一瞬自分の目を疑ったが、それは、わが家を訪れる商店の御用聞きの一人、いまの言葉でいえばセールスマン兼配達人であった。
いつも愛想笑いを浮かべ、それが固着してしまって、一人で道を歩いている時もそういった顔付をしている彼。人あたりがよくて、ものやわらかで、肩をすぼめるようにしてもみ手をしながら話し、どんな時にも相手をそらさず、必ず下手に出て最終的には何かを売って行く彼。それでいて評判は上々、だれからも悪く言われなかった彼。その彼といま目の前にいる超軍隊的態度の男が同一人とはー。
あとで思い返すと、余りの意外さに驚いた私が、自分の目を信じかねて、しばらくの間ジイーッと彼を見つめていたらしい。別に悪意はなく、私はただ、ありうべからず奇怪な情景に、われ知らずあっけにとられて見ていただけなのだが、その視線を感じた彼は、それが私と知ると、何やら非常な屈辱を感じたらしく、「おい、そこのアーメン、ボサーッとつっ立っとらんで、手続きをせんかーッ」と怒鳴った。そして以後、検査が終わるまで終始一貫この男につきまとわれ何やかやと罵倒といやがらせの言葉を浴びせつづけられたが、これが軍隊語で「トッツク」という、一つの制裁的行為であることは、後に知った。
軍隊との初対面におけるこの驚きは、その後長く私の心に残った。そのためか大分まえ、ある教授に、ある状態で、ある役つきの位置におかれると一瞬にして態度が変るこの不思議さについて話したところ、これは少しも珍しくない日本人的現象だと同教授は言った。
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