2019年5月19日日曜日

20190519 中央公論新社刊 中公クラシックス 小泉 信三著 『共産主義批判の常識』 pp.96-98より抜粋

『残るところは唯物史観に対する批評である。

人間はたしかに自分で自分の歴史を作るが、それを謂わば真空の内に創造するのではなくて、明日は、必ず昨日の終点である今日の歴史的現実から出発して、その上に築かれる。その与えられた現実そのものは、純然たる自然的条件以外のものは、それ自身人間の作り出したもので、天空から突如として落下したものではない。この意味において自分が作り出したものによって拘束せられ、またそれによって促進もされる。そういう意味において、当然歴史的経過は自由でなく、また偶然でない、といえる。そうしてその「与えられたるもの」の中、生産交通の方法技術、更に広く経済的事情、一般は、極めて重要な地位を占むべきものであるから、このことを強調したものと解すれば唯物史観は史学上争い難き貴重の理論を含んでいる。

ただ、歴史的経過は自由でないということは、ただ一つの行路のみが必至的であり、それ以外は一切不可能だという意味に解すべきではない。もしの歴史的因果の系列が絶対的に変更し難いものとして、将来に向って既に決定しているという意味において、必然的であるならば、一切の人間の努力、従って社会的運動は全く無意識であり、よし歴史は人間の心意を通じて経過するとしても、それがかかる絶対的の意味において必然的であるならば、それは宛も「朝日よ、昇れ」、「四季よ、循れ」といって努力するにも等しいことになるであろう。

マルクス及びマルクス主義者は、革命理論家たるとともに革命実践家たるものである。実践は、厳格な意味の必然とは両立しない。実践は、常に価値ある目的のためにする行為であり、そうしてもしもその行為がなければその目的は達成せられぬという可能性の容認がなければ、全然無意識に帰するものであろう。

そうして見れば、謂わゆる共産主義必然論には、多くの誇張または希望的観測が含まれていると謂わねばならぬ。資本主義社会の発展は、境遇の相同じき被傭者階級を膨大せしむること、生産を大経営に集中せきむること等によって、社会主義の実現を促し、もしくは可能ならしめると見らるべき事情を造るという点において、社会主義に対する或る可能性(possibility)を示すということは慥かに言える。進んで、ひとり可能であるのみならず、或る蓋然性を示すともいうことが出来よう。ここに社会運動の理由がある。


しかしこれが言い得る極限であって、それ以上進んで、共産主義は必然であるということは、政略的揚言か希望的観測に陥るものであって、経験科学の領域内にないてこれを承認せしむべき根拠はない。たしかにマルクスもいう通り、人間は勝手気儘に歴史を作るのではなく、与えられたる材料をもってこれを作るに相違ないけれども、かくして作られる歴史としては、幾多の可能の途が開かれている。その幾多の途の実現公算は同一ではない。その或るものは他のものに比べてより多くの蓋然性を持つ、とまではいうことが出来る。経験科学の領域内において吾々の言い得るところはここに止まり、それ以上に出ることは出来ぬ。』

小泉 信三著『共産主義批判の常識』 (中公クラシックス) pp.96-98より抜粋引用 ISBN-10: 4121601769
ISBN-13: 978-4121601766

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