さて、これら記事にて述べた『思想・観念』の保持もしくは有無とは、異言しますと、その『思想・観念』が内面化されているか?もしくはインカーネーション(人間化)されているか?によって判断されるのではないかと思われます。
しかしそれは、たとえばある言語化された『思想・観念』を記憶し、暗唱することが出来れば、その『思想・観念』が内面化・人間化ということには必ずしもならず、単純にそれだけであれば、録音・再生機能を持つ機器によっても『思想・観念』を内面化・人間化することは可能であるということになります。
その相違とは、言語にて著された『思想・観念』の意味・内容を読み解き、そして解釈し、己のコトバにて、その意味・内容をある程度精確に再構成することが出来るか否かということになるのではないでしょうか?
これをまた異言しますと、文字・文章による『思想・観念』を解釈により分解し、その後再び自身のコトバによりその『思想・観念』の本質を損なうことなく再構築することが出来るかという分解と再構築のプロセスが可能か否かということになります。
そして、昨今のコンピューター技術・人工知能の進化発展に伴い、これに関しても随分怪しくなってきたのが現在ではないかと思われます・・。
そうしますと、そこで我々人間が持つ、各種機器にはない優れた特質とは、個々の『思想・観念』の解釈の仕方、個々により異なる精神の働きである想起の仕方ではないかと思われるのです。(ある種の選択が為されること。)
これが機械的に一様でないこと、さまざまな『思想・観念』の微妙な相違を記憶を参照することにより看取し、それを言語によって著し、評価・検討し、新たな何かを創造することが出来るのは、未だ我々人間のみでしか為し得ることではないかと思われます。(加上?)
しかしまた、そのように考えてみますと『では、その起点もしくは核となるものは一体何であるのか?』という考えに帰着するのですが、これもまた個々により異なる何らかの、あるいはいくつかの記憶の連合といったものではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
*精神という土壌(もしくはマトリックス)に突き刺さった記憶という中空のストロー状の杭が精神の奥深くまで達していれば、そこから抽出されるモノは、技巧の巧拙はあるにせよ、やはり何らかの情動・想起を惹起させることが出来るのではないかとも思われます・・。しかし逆に、情動・想起を惹起させるものが精神の内奥より生じたものであろうと考えることは、いささか危険なことであるようにも思われます・・(近代以降の我々は、いつもこうした一見分かりやすい・近道のようなものにより間違いを犯し、それは現在においてもまた同様であるようにも思われます・・おそらく、そうしたことは検算出来るものではないように思われます・・。
ともあれ、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
近年より現在に至るまでに、日本列島各地にて生じた、もしくは現在も継続している地震・大雨・水害・火山噴火といった大規模自然災害によって被害を被った、被っている諸地域の諸インフラの復旧そして復興を祈念します。
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