A「昨今、仕事にてよく歯科医院に行くことがあるのですが、そうした中の不図した会話にて『・・この先生は私のブログを読んでいるのではあるまいか?』と思うことが時折あります・・。
おそらく、それらの大半あるいは全てが私の自意識過剰によるものであると思われるのですが、それでも時折は際立って『・・やはり読んで頂いているのではなかろうか?』と強く感じさせることがあるのです・・(苦笑)。
こうしたことは、あまり考え過ぎますと(自縄自縛的であり)精神衛生上良くないと思われますので、ここに書くだけ書いて、その後はあまり考えないようにしようと思いますが、あるいはこうした考え過ぎもまたブログ記事作成を継続することによって生じる(あまりありがたくない)余禄であるのかもしれません(笑)。
とはいえ、そうしたことは決してマイナス面(変に考え過ぎる)ばかりでもないようであり、他面においては、以前に読んだ著作を新たに読む際、かつてよりもその書かれている内容を(より)考えながら、あるいは以前と異なった読み方が出来るようになるのではないかとも思われるのです。
いやしかし、こうした感覚とは、ここに特筆するまでのことでもなく、多くの方々が日常において感じていることではないかと思われるのですが、それは対書籍であるならば、そうした機に応じ、多面的に興味深く読むことが出来る著作であることを発見・認識するに至るといったことになるのでしょうが、これが冒頭に書いたように対人間である場合は、必ずしもそうとは云えず、むしろ変に意識してしまい円滑なコミュニケーションを阻害することも少なからずあるのではないかとも思われます・・(苦笑)。
そして、こうしたことは、あるいは女性よりも多く男性に多く見受けられるのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
(年齢を重ねる毎に徐々に無口になっていく方とは、あるいはこうしたメカニズムが作用しているのかもしれません。
そして、それは一種の成熟と評しても良いのかもしれない。)
また、その意味において、やはり日常に用いる言語とは、口語・文語を問わず慎重を期して精確に選ばなければならないのではないかと思われるのです。
私見ではありますが、このことは、ブログ記事をも含む継続的な文章の作成を行う際に、最重視するべきことではないかと考えます。
現時点では上手く伝えることが出来ませんが、おそらくこのこと、こうした感覚が口語・文語を問わず相手に対し微妙に伝わってしまうのではないかと思われるのです・・。
さらにまた、これまた私見ではありますが、こうした感覚を認識することは、主体的な努力というよりも、おそらく自身が発見した何と云いますか『いみじくすぐれたるもの』に対する献身を通してしか認識、そしてそれに近づくことは出来ないのではないかと思われるのです。
さて、本日も一旦休んでから記事を作成したためか観念的な内容になってしまいましたが、これもあとになって読んでみて多少は思うところがあるのかもしれません・・(笑)。
そして、今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害の大規模自然災害により被災された地域の諸インフラの復旧およびその後の早期の復興を祈念しています。』
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