2017年8月1日火曜日

20170801 『神ってる・神憑っている』の違いから思ったこと、どちらが適当であるのか?

A「本日の首都圏は午前中は雨が降ったり止んだりを繰り返し、午後を過ぎる頃になるとか、なり本格的に雨が降りはじめたように思います・・。

そして、今現在においてはその雨もあがり、また気温はこの季節のこの時間帯にしては涼しいように思われます。

さて、昨日投稿分の記事はいくつかの音声動画と関連付けたためか、その閲覧者数は増加し今現在の時点にて28となっています。

この昨日分の投稿記事を読んでおりますと、この『いみじくすぐれたるもの』というコトバが幾分不自然ともいえる感じにて用いられておりますが、このコトバとは、たしか本居宣長著『古事記伝』にて神・迦微・カミの意味について書かれているところのものであり、端的に我が国におけるカミとは、欧米・西アジアにおけるような超越的な唯一神といったものではなく、さきの『何かしらすぐれたもの』(いみじくすぐれたるもの)全てがカミと見做されていたような社会であり、それこそ山・海・川あるいは岩・木などにも存在するものであるとされていました・・(自然崇拝アニミズム)。

そして、その名残とは、現在においてもさまざまな神社の御祭神・ご由緒などを調べてみると分かるのではないかと思います。

また同時に、このように、我が国とは、かねてより神の数が多いことから、現在においてもカリスマと称される方々が量産され続け、また『神ってる』などというコトバが普通に使われるようになるのかもしれません・・(笑)。

そういえば、この『神ってる』というコトバを既存のコトバに直しますと『神憑っている』と概ね同じ意味になると思われるのですが、このコトバ(『神ってる』)とは、今後どの程度まで社会に定着し一般的に使われるようになるのでしょうか・・?

くわえて、この『神憑っている』というコトバからカミが(憑代に)憑依することにより、それが一般的な人間をはじめ事物とは異なった次元(カミに近いあるいはカミそのもの)の存在になるといった考えを物語っているのではないかとも思われます。
その点において、さきの『神ってる』とは、語義的にそうした『憑依』の観念が見出せないことから、微妙に『神憑っている』とは、示す内容・事情が異なるのかもしれません。

また、こうした言語の運用から、我が国全般において『カミが憑代に憑依する』といった古来からの観念を忘れつつあることを示しているのではないかとも思われます。

そうした場合、あるいは昨日投稿分の記事に書いたような『(継続的な文章の作成のためには)日常に用いる言語とは、口語・文語を問わず慎重を期して精確に選ばなければならない』に対して、あるいは多少の意味を付与することが出来るのではないかとも考えられます・・。

しかしその一方において、昨今これまた以前投稿のブログ記事に書いたようにアニメ、映画あるいはCMなどにおいて(安易に)過去の歴史へのタイムリープ・タイムスリップといった背景が盛り込まれることは、どうしても『道具が進化すれば(自動的に)精神も(自動的に)進化する』といったような、我が国の近代社会を特徴付けるような、あるいは具定例を挙げるならば夏目漱石著『三四郎』冒頭の広田先生との汽車内での会話のような経緯そしてそれに付随する解釈を想起してしまうのです・・(苦笑)。

とはいうものの、他方において、畢竟それもニーチェ著『ツァラトゥストラかく語りき』内の『永遠回帰』の思想、もしくはカミュ著『シューシュポスの神話』に記されている思想、あるいは和辻哲郎著『風土ー人間的考察』内のモンスーン地域における特徴的な精神風土の所産であると断じることも可能であるのかもしれませんが、しかしながら、如何なる論法によっても、そのようにして事態を認識・整理仕切ったと『思いたがる』ところこそが、見方によっては断捨離に象徴されるような『キレイ好き』といった性質に基づくものではあるのかもしれませんが、同時にそれが我が国の(普遍的な)弱点であるようにも考えられます・・(苦笑)。

とあもれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年から現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害によって被害を受けた各地域の諸インフラの復旧・回復およびその後の出来るだけ早期の復興を祈念しています。』






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