2026年1月10日土曜日

20260110 興味関心が時間を掛けて文章化に至るまで

年末年始にかけて、ベートーヴェンの交響曲第九番、ならびにベネズエラでの事案を題材にブログ記事を作成しました。いずれも私の専門分野ではなく、その意味では門外漢による文章であると云えます。そのためか、普段の投稿記事に比べて、やや否定的な受け止め方も目についたように感じられました。しかし、実際、それが、どの程度であるのかは慎重に見なければならず、そこには私自身の受け取り方も含まれているのかもしれません…。

とはいえ、冒頭二つの題材は、決して思いつきで選んだものではありません。ベートーヴェンの第九については、以前からなぜか惹かれており、中学生の頃に初めて購入したクラシック音楽のCDもこの楽曲でした。その後も指揮者やオーケストラの異なる録音盤をいくつも聴き、また、本楽曲が印象的に多用されたスタンリー・キューブリック監督『時計仕掛けのオレンジ』も興味深く何度も視聴しました。さらに大学一年生の時には第九の合唱に参加する機会があり、身体を通じて、この楽曲に触れた経験もあります。そして、昨年12月28日に上野の東京文化会館で第九の演奏会に出席させて頂いた折、こうした記憶が改めて励起され、それが記事作成につながったのだと云えます。

また、新年1月3日のベネズエラでの事案についても、2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻から、背景や文脈を理解するために国際関係論や近現代史の書籍を継続的に読んできました。そして、その中にはベネズエラの状況に触れるものもあり、強い関心を抱き続けてきたとまでは云えないにせよ、多少の前提知識は蓄積されており、そこで、今回の事案に際して思うところもあり、ブログ記事題材として取り上げたのだと云えます。

それでも、専門外の分野を題材として文章を公表する行為は、我が国ではしばしば「越権」あるいは「付け焼き刃」と見なされ、白眼視されることもあります。しかし「専門ではない」ということと「何の知見の蓄積もない」ということは、必ずしもイコールではありません。専門性は、職業的訓練や研究成果などによって可視化されますが、知的関心の持続や思考の蓄積は、肩書や業績として表面化しない場合も多々あります。また、専門家でないからこそ、特定の学派や内部での言語世界に拘束され過ぎず、事象を一定の距離をもって捉え直せることもおおいにあり得ます。もちろん、その際には断定を避け、問いとして提示するような慎重さが必要であるとは考えますが...。

しかし、そうした慎重さとは、沈黙を選ぶ理由にもなりません。文章を作成するという行為は、おそらく、他者に結論を押しつけるためではなく、自らの中で持続してきた興味関心あるいは疑問を整理し、言語化する作業でもあると考えます。そして、さきの両記事も、そうした試みとして作成したものと云えます。無論、読んでくださった方々すべてに受け入れられることを期待しているわけではありません。ただ、これらの文章が単なる思いつきではなく、ある程度の時間をかけて培われた興味関心の延長線上にあることは、出来ましたら、ご理解頂ければと思います。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。




2026年1月5日月曜日

20260104 今回のベネズエラ情勢から想起された「バナナ共和国」について

今回一連のベネズエラ・ボリバル共和国(以下、ベネズエラ)をめぐる報道に接し、久しく意識することのなかった「バナナ共和国(banana republic)」という言葉を思い出しました。以前、 ユヴァル・ノア・ハラリ の著作でこの言葉を知り、その語感の面白さから調べたところ、それが単なる蔑称ではなく、特定の歴史的・政治的構造を的確に表現したものであることを知りました。また、この言葉を創案したのが、ジャーナリストでもあった短編の名手と称される米国の作家 オー・ヘンリー であったことにも、当時は少なからず驚かされました。

「バナナ共和国」とは、特定の一次産品の生産に国家経済が依存し、外国資本と結びついた買弁的支配層が国家の主要な意思決定を左右する体制を指します。こうした国家は形式上は独立国であっても、実質的な主権は国外勢力に握られていることが少なくありません。そしてこの言葉が、今年初頭のベネズエラをめぐる一連の報道を通じて、あらためて想起されたのです。

今回、米軍が首都カラカスで実施した「真夜中のハンマー作戦(Midnight Hammer operation)」は、現職国家元首の身柄拘束を目的とする典型的な斬首作戦でした。長期間にわたる情報収集、通信・電力・情報網への事前侵入と遮断準備、さらには現地勢力への黙認工作などにより、ベネズエラ側に本格的な反撃の機会は与えられず、作戦は短時間で実行され、当初の目的は達成されました。

この成功は、2022年以来続く第二次露宇戦争におけるロシア軍の初動と対照的です。ロシア軍も当初、首都急襲による政権中枢の無力化、すなわち斬首作戦を志向しましたが、首脳の身柄拘束には至らず、ウクライナ軍の頑強な抵抗に直面して失敗し、戦争は長期化しました。

一方、今回のベネズエラでの米国による斬首作戦は成功したため、大規模な戦争は回避されました。その成否を分けたのは兵器の性能ではなく、作戦設計です。米国は目的を「政権転覆」ではなく「元首の身柄確保」に限定し、占領や統治を前提とせずに軍事行動を完結させました。さらに、その後の処理を国内の刑事司法手続に接続することで、軍事行動を「法執行」として再定義しました。

しかし同時に、この成功は国家主権という国際秩序の根幹を揺るがすものでもあります。他国の元首を軍事力によって拘束し、自国の司法制度に組み込む行為は、主権が事実上、力によって書き換えられたことを意味します。加えて、資源管理を含む暫定的な統治関与が示唆されたことで、ベネズエラは再び外国勢力の管理下に置かれる構図へと近づいたと云えるでしょう。

ここで「バナナ共和国」という言葉は、単なる歴史用語ではなく、現在の情勢を理解するための分析枠組みとして立ち上がってきます。独裁的元首の排除と秩序回復が掲げられる一方で、国家の富と意思決定が外国の管理下に置かれるのであれば、それは名称の如何を問わず、従属構造にほかなりません。

この事態を最も深刻に受け止めているのが、カリブ海地域の反米的国家、とりわけキューバです。長年ベネズエラ産石油に依存してきたキューバにとって、その供給源が米国の管理下に入ることは、経済問題にとどまらず体制存続に直結します。ベネズエラで起きたことが前例となれば、次は自国ではないかという警戒感が強まるのは自然な流れです。

他のカリブ海諸国や中南米左派政権もまた、表立った対抗を控えつつ、外交姿勢の再調整や域外大国との関係改善を通じ、間接的な牽制に動く可能性があります。中南米諸国は、かつてのモンロー主義を想起させる米国の行動を前に、静かな緊張状態に入りつつあると考えられます。

独裁体制の崩壊がベネズエラ国民に一定の希望をもたらす可能性は否定できません。しかし、その過程で国家主権が大きく損なわれたこともまた事実です。斬首作戦という戦術的成功の先に、いかなる戦略のもとで政治体制と秩序が再構築されるのか。この一連の報道を通じて「バナナ共和国」という言葉が想起されたのは、その問いが再び現実のものとなったからにほかなりません。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。


2026年1月3日土曜日

20260103 2026年初投稿記事:最近の読書から思ったこと

新年を迎え、すでに3日間が経過しましたが、当ブログの方は、昨年12月29日分の投稿から更新はしていません。しかしながら、この間の年末年始の期間を振返りますと、この期間に、新たに入手したものや積読状態であった書籍を比較的落ち着いて読み進めることが出来ました。とりわけ、12月24日に届いた東浩紀による「平和と愚かさ」は、500頁近い文量ではありますが、読み始めてみますと、著者の文体に乗せられるのか、比較的スムーズに読み進むことが出来、現在、300頁ほどまでに至りました。本著作は、戦争や国際政治などを正面から論じるというよりも、著者が訪問した世界各地の風景や施設から、それぞれの歴史や文化について論じ、そこから平和について論を立てる、いわば、紀行文的な体裁の思想文であり、平易とは云い得ませんが、比較的読み易い文章であると云えます。また、そのなかの「我々が政治について語りすぎていること自体が、かえって平和から遠ざかっているのではないか?」という問題提起は、我々に即断を促すものではなく、むしろ、それ以前にある、いわばメタな考えを、より地に足の着いたものへと導くことを企図したものであるように思われました。

また、もう一つの読み進めている著作である伊藤之雄著、中公新書の「元老」は、現在の我が国の状況と、どこか通底するものがあるのではないかと思いつつ読み進めています。当著作は、明治維新から昭和初期にかけての我が国の政治を題材としていますが、そこで改めて意識させられるのは、戦前の我が国における元老という存在が、制度として明文化されていなかったにもかかわらず、実質的には政治の均衡を支える重要な役割を果たしていたと云う点です。元老は、大日本帝国憲法に規定された制度ではなく、特に法的な権限を持つ存在でもありませんでした。それでも首相奏薦を通じて、政党政治と天皇制、さらには軍部とのあいだに介在する、非公式な調停装置として機能していた側面があったことは否定出来ません。

繰り返し、元老は、戦前の大日本帝国憲法に規定された公的制度ではなく、その権能や資格、待遇が明文化された存在でもありませんでした。にもかかわらず、天皇の輔弼という立場から、内閣総理大臣の奏薦をはじめとする国家の重要事項に参画し、事実上、政権形成に大きな影響力を持っており、実際、天皇は元老が奏上した首相候補を拒否した例はなく、大命降下は実質的に元老の判断に基づいていたと理解されています。

とはいえ、元老は常に一体として行動していたわけではなく、その政治的な働き掛けは、元老各個人の判断と人脈に依存する側面が強かったことも指摘されています。つまり、元老は内閣の安定を支えようとする一方で、場合によっては倒閣に動いた例もあり、元老の影響力は必ずしも一方向的なものではありませんでした。にもかかわらず、軍、政党、官僚、そして天皇制とのあいだに介在し、直接的な衝突を和らげる「非公式な調停装置」として機能していました。

最後の元老であった 西園寺公望 は、昭和15(1940)年に亡くなっていますが、その時まで元老や元老制度が十分な影響力を保持していたわけではありません。既に1930年代後半には、元老の政治的影響力は著しく低下していました。それでもなお、最後の元老、西園寺の死により、明治維新以来からの政治的慣行が名実ともに終焉したことが、太平洋戦争開戦に至る遠因の一つであったとする指摘もあります。

軍部大臣現役武官制や統帥権干犯問題、昭和恐慌からの政党政治への不信、国際情勢の緊張化など、戦前の我が国が軍国化への傾斜を強めるには、複数の要因が重なっています。しかし、それらの過程のなかで、軍や政治の暴走を非公式にではあれ、抑制し得る機能を持つ存在が失われてしまったことは、結果として、その後の軍国化への歯止めを弱めたと云えるでしょう。

また、戦前の国民が「元老ではなく軍部を信頼した」と単純に判断することにも注意が必要です。当時、元老とは国民にとって可視的な存在ではなく、また、可視的な存在による政党政治の方は汚職、不祥事や分裂などで国民からの信頼を失っていました。その結果、消去法の様に、軍が秩序や強さを体現する存在として国民に認識され、支持を集めるといった構図が形成されたのであり、それはいわば、国民が積極的に軍部を選択したというよりも、他に信頼できる政治の担い手を見つけることが出来なかったというのが、実態に近いと思われます。

そして、こうした構図とは、決して過去にのみ当てはまるものではありません。現代の我が国社会においても、ネット環境の向上、SNSの普及などにより、情報の流通速度は飛躍的に高まりましたが、その一方で、既存メディアや政治への不信は、むしろ強まりつつあるように見受けられます。そして、その背景の一部には、面倒な調整や専門的知見に基づく判断よりも、分かり易く、強い断定調の言葉の方が支持を集め易いといった時代を通じて共通する我が国の事情や構造といったものがあるのではないかとも思われるのです。

もちろん、現代の我が国には、文民統制や憲法秩序、民主的官僚制といった、1945年の敗戦による民主化以降に培った制度的基盤があり、戦前の社会と同じに考えることは出来ません。しかし一方で、混乱する政治を調停して、一極への力の集中を抑制する装置が弱体化、衰滅すると、我が国の社会(民意)は「分かり易い勢力」の方へと傾斜する傾向があったと云うことは、我が国近現代史が示す一つの教訓と受け止めて良いのではないかと考えます。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。