直近の投稿記事においても触れましたが、ここ最近は、ChatGPT を活用して文章を生成し、それらを組み合わせることでブログ記事を作成する機会が増えました。もちろん、この手法は、いまだ試行錯誤の段階ではありますが、当初に比べれば、操作や運用に慣れて、より円滑に作成できるようになってきたと云い得ます。
しかしながら、当ブログを振返ってみますと、その当初は、手書きにて下書きしたものをPC入力し、次いで書籍の引用記事や、対話形式の記事を作成するようになり、やがて、開始から約一年経た頃には、どうにか即興にて、ある程度の文量の独白形式のブログ記事を作成することが出来るようになりました。
当ブログ開始(2015年)以前の私は、ブログのような公表する文章を継続的に作成するような種類の人間ではありませんでした。せいぜい「Facebook」 や 「mixi 」上で短文を時々投稿するといった程度であり、公表する文章の継続的な作成の営みとは、ほど遠いところに居ました。その転機となったのは、遡りますが2013年、(どうにか)学位を取得して帰郷した直後のことでした。当時の私は「何か表現しなければ心身が蝕まれてしまう…」といった強迫観念を覚えるようになっていました。この感覚は日ごとに強まり、やがて「この衝動を昇華しなければならない…」と考えるようになり、そうした内面での徐々なる変化から、2013年9月の帰郷から二年近くを経た2015年6月に当ブログを始めた次第です。
開始当初は「とにかく書き続けなければならない」という切迫感に突き動かされており、現在、開始当初の頃の記事をあらためて読んでみますと、歯科理工学や近現代史、考古学、古代史、民俗学といった、自分がこれまで(ある程度)学んできたと云える分野を記事題材として、それなりに必死に作成していた痕跡が確認できます…(苦笑)。また、当初は公表する文章の作成に慣れていなかったため、文章作成自体が格闘に近いものであったことが思い出されます。そして、その後しばらくは、主に対話形式の記事を投稿していましたが、2016年3月以降から、独白形式を主体とする現在のスタイルへと移行しました。
当ブログでは、初期から地域文化に関する記事が目立ち、それは現在に至るまでの当ブログの特徴の一つとなっています。そして、その理由は、私自身がいくつかの地域文化に対して実感を持ち、且つ、情報の裏付けが出来ると考えているからです。
以前「読者を惹きつける文章は、書き手がその主題について実感を伴った理解を有していることが必要である」という主旨のブログ記事を投稿しており、さらに、ブログ記事の継続的な作成のためには、数回の記事投稿程度では語り尽せない知見の深みを主題について持っている必要があり、その意味において、特に、当ブログ開始初期に地域文化を多く扱ったことは、妥当な選択肢であったと云えます。また、ここで云う「実感を伴った理解」とは、単に知識を保持していることではなく、生活など実際の経験を通じて身体的・感覚的に根付いた、いわば「身体化された理解」を指します。そして、この点こそが、私が当ブログを継続するうえで重視してきたものであると云えます。
この「実感を伴った理解」の重要性を私がを痛感したのは、鹿児島在住の頃でした。当時、私は高等教育機関において実習科目の指導を担当させて頂き、学生さん達に実習の説明をする機会がありました。そうしたなか、2010年に師匠が退職され、さらに、翌年には准教授の先生も定年退職を迎えられたことにより、実習での私の役割負担が著しく増大した翌2012年は、これをさらに強く意識するようになりました。
座学の講義ではない実習とはいえ、正式な教育課程の一部を任されることは、そこまで軽い責務ではありません。また、実習を受ける学生さん達には総じて、説明者が実感を伴った理解を保持していると判断されると真剣に耳を傾ける一方、さきの理解が不十分であると判断されると関心を失うといった傾向があったと記憶しています。そしてまた、この傾向は、少なくとも鹿児島においては、男子学生よりも女子学生において顕著であったとも記憶しています。換言しますと、鹿児島では、説明者が話す内容の理解度や力量・熱量を直観的に見抜くような、ある種の判断力を持たれていると思われる女性がおり、そして、これは白洲正子の文章から受ける感覚(端的に元気さと率直さ)とも、相通じるものがあるように思われました。
ともあれ、そうした見解を得てから私は、当ブログでの記事文章作成に際しても、可能な限り「実感を伴った理解」がある主題を選ぶようにしています。そしてまた、これを重視し続けてきたことが、10年以上にわたり、どうにか当ブログを継続できた要因であると考えています。なぜならば、世に出る大抵の知識や情報は当初、流動的であり、それらを単に引用するだけでは時間の経過と共に陳腐化していってしまいます。しかし、そこに書き手自らの経験や実感を化合、重ね合わせることにより、その知識や情報が含まれた文章は、より長い生命を持ち得ることが出来るのではないかと考えるためです。また、この主題につきましては、さらに述べたい部分がありますが、それについてはまた近い将来に改めて述べたいと思います。
今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

しかしながら、当ブログを振返ってみますと、その当初は、手書きにて下書きしたものをPC入力し、次いで書籍の引用記事や、対話形式の記事を作成するようになり、やがて、開始から約一年経た頃には、どうにか即興にて、ある程度の文量の独白形式のブログ記事を作成することが出来るようになりました。
当ブログ開始(2015年)以前の私は、ブログのような公表する文章を継続的に作成するような種類の人間ではありませんでした。せいぜい「Facebook」 や 「mixi 」上で短文を時々投稿するといった程度であり、公表する文章の継続的な作成の営みとは、ほど遠いところに居ました。その転機となったのは、遡りますが2013年、(どうにか)学位を取得して帰郷した直後のことでした。当時の私は「何か表現しなければ心身が蝕まれてしまう…」といった強迫観念を覚えるようになっていました。この感覚は日ごとに強まり、やがて「この衝動を昇華しなければならない…」と考えるようになり、そうした内面での徐々なる変化から、2013年9月の帰郷から二年近くを経た2015年6月に当ブログを始めた次第です。
開始当初は「とにかく書き続けなければならない」という切迫感に突き動かされており、現在、開始当初の頃の記事をあらためて読んでみますと、歯科理工学や近現代史、考古学、古代史、民俗学といった、自分がこれまで(ある程度)学んできたと云える分野を記事題材として、それなりに必死に作成していた痕跡が確認できます…(苦笑)。また、当初は公表する文章の作成に慣れていなかったため、文章作成自体が格闘に近いものであったことが思い出されます。そして、その後しばらくは、主に対話形式の記事を投稿していましたが、2016年3月以降から、独白形式を主体とする現在のスタイルへと移行しました。
当ブログでは、初期から地域文化に関する記事が目立ち、それは現在に至るまでの当ブログの特徴の一つとなっています。そして、その理由は、私自身がいくつかの地域文化に対して実感を持ち、且つ、情報の裏付けが出来ると考えているからです。
以前「読者を惹きつける文章は、書き手がその主題について実感を伴った理解を有していることが必要である」という主旨のブログ記事を投稿しており、さらに、ブログ記事の継続的な作成のためには、数回の記事投稿程度では語り尽せない知見の深みを主題について持っている必要があり、その意味において、特に、当ブログ開始初期に地域文化を多く扱ったことは、妥当な選択肢であったと云えます。また、ここで云う「実感を伴った理解」とは、単に知識を保持していることではなく、生活など実際の経験を通じて身体的・感覚的に根付いた、いわば「身体化された理解」を指します。そして、この点こそが、私が当ブログを継続するうえで重視してきたものであると云えます。
この「実感を伴った理解」の重要性を私がを痛感したのは、鹿児島在住の頃でした。当時、私は高等教育機関において実習科目の指導を担当させて頂き、学生さん達に実習の説明をする機会がありました。そうしたなか、2010年に師匠が退職され、さらに、翌年には准教授の先生も定年退職を迎えられたことにより、実習での私の役割負担が著しく増大した翌2012年は、これをさらに強く意識するようになりました。
座学の講義ではない実習とはいえ、正式な教育課程の一部を任されることは、そこまで軽い責務ではありません。また、実習を受ける学生さん達には総じて、説明者が実感を伴った理解を保持していると判断されると真剣に耳を傾ける一方、さきの理解が不十分であると判断されると関心を失うといった傾向があったと記憶しています。そしてまた、この傾向は、少なくとも鹿児島においては、男子学生よりも女子学生において顕著であったとも記憶しています。換言しますと、鹿児島では、説明者が話す内容の理解度や力量・熱量を直観的に見抜くような、ある種の判断力を持たれていると思われる女性がおり、そして、これは白洲正子の文章から受ける感覚(端的に元気さと率直さ)とも、相通じるものがあるように思われました。
ともあれ、そうした見解を得てから私は、当ブログでの記事文章作成に際しても、可能な限り「実感を伴った理解」がある主題を選ぶようにしています。そしてまた、これを重視し続けてきたことが、10年以上にわたり、どうにか当ブログを継続できた要因であると考えています。なぜならば、世に出る大抵の知識や情報は当初、流動的であり、それらを単に引用するだけでは時間の経過と共に陳腐化していってしまいます。しかし、そこに書き手自らの経験や実感を化合、重ね合わせることにより、その知識や情報が含まれた文章は、より長い生命を持ち得ることが出来るのではないかと考えるためです。また、この主題につきましては、さらに述べたい部分がありますが、それについてはまた近い将来に改めて述べたいと思います。
今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
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