株式会社草思社刊 ジャレド・ダイアモンド 著 倉骨 彰 訳
「銃・病原菌・鉄」上巻pp.122-124より抜粋
ISBN-10: 9784794218780
ISBN-13: 978-4794218780
アメリカ大陸の原住民とヨーロッパ人との接触については、西暦九八六年から一五〇〇年頃までのあいだに古代スカンジナビア人がグリーンランドに少数住みついているが、とくに目に見える影響は残していない。むしろ、旧世界とアメリカ大陸に住む人びととの接触は、西暦一四九二年にクリストファー・コロンブスがアメリカ先住民が大勢住むカリブ海諸島を「発見」したときに、突然はじまったといえる。
ヨーロッパ人とアメリカ先住民との関係におけるもっとも劇的な瞬間は、一五三二年十一月十六日にスペインの征服者ピサロとインカ皇帝アタワルパがペルー北方の高地カハマルカで出会ったときである。アタワルパは、アメリカ大陸で最大かつもっとも進歩した国家の絶対君主であった。対するピサロは、ヨーロッパ最強の君主国であった神聖ローマ帝国カール五世の世界を代表していた(皇帝カール五世は、スペイン王カルロス一世としても知られている)。そのときピサロは、一六八人のならず者部隊を率いていたが、土地には不案内であり、地域住民のこともまったくわかっていなかった。いちばん近いスペイン人居留地(パナマ)から南方一〇〇〇マイル(約一六〇〇キロ)のところにいて、タイミングよく援軍を求めることもできない状況であった。一方、アタワルパは何百万の臣民を抱える帝国の中心にいて、他のインディアン(インディオ)相手につい最近勝利したばかりの八万の兵士によって護られていた。それにもかかわらず、ピサロは、アタワルパと目をあわせたほんの数分後に彼を捕らえていた。そして、その後の八カ月間、アタワルパを人質に身代金交渉をおこない、彼の解放を餌に世界最高額の身代金をせしめている。しかもピサロは、縦二二フィート、横一七フィート、高さ八フィートの部屋を満たすほどの黄金をインディオたちに運ばせたあと、約束を反故にしてアタワルパを処刑してしまった。
ヨーロッパ人によるインカ帝国の征服を決定づけたのは、ピサロが皇帝アタワルパを捕らえたことである。スペイン側は、アタワルパを捕らえられなかったとしても、圧倒的に優れた武器によっていずれは勝利していただろう。しかし、彼らがアタワルパを捕虜にしたことで、征服はよりすみやかに、より容易になった。アタワルパはインカの人びとから太陽神と崇められ、臣民たちのあいだで絶大な権威を誇っていた。アタワルパの臣民たちは彼が捕虜となってしまったあとも、彼の命ずるところに従っている。これによって時間稼ぎができたおかげで、ピサロはアタワルパの死までの数カ月間、誰にも邪魔されることなく、兵士を派遣してインカ帝国各地を調査することができたし、パナマから援軍を呼ぶことができた。アタワルパが処刑されたあとで起こった戦闘でスペイン側が圧倒的な強さを見せたのはこのためである。
アタワルパが捕まった瞬間は、有史時代における最大の結末を決定的にした瞬間である。その意味において、われわれはアタワルパの捕獲に対して重大な関心を寄せている。しかし、移住者と原住民のあいだで同じような衝突が起こった場合、その成り行きを決定的にする要因はピサロがアタワルパを捕まえることのできた要因と本質的に同じである。われわれは、アタワルパが捕まった出来事を通じて人類史をより広い視野で見ることができる。その意味において、ピサロによるアタワルパの捕獲には、より普遍的な重要性がある。
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